2016.09.29
人道危機では国際社会は動かない――「地図にない国」クルディスタンの外交戦略
イラク北部の町エルビルには、欧州やアラブ湾岸諸国、トルコなどから国際線の直行便が就航している。空港に降り立って、小ぶりな建物を進んでいくとすぐに出入国管理の窓口がある。手の指紋を登録すると、職員がパスポートに入国スタンプを押してくれる。日本人ならばビザも不要で、この入国スタンプだけで15日間滞在できる。
ただ、これは、イラク政府の入国スタンプではない。よく見ると、スタンプには「イラク共和国-クルディスタン地域」と記されている。エルビルを主都とするクルド人の自治政府(クルディスタン地域政府)が発行した入国許可というわけだ。
なので、このスタンプだけではイラクの首都バグダッドには行けない。イラク政府は日本人の入国にあたっては、渡航前にビザの取得を義務づけていて、ビザ免除はあくまで自治政府の政策だからだ。だが、自治区の中、すなわちクルディスタンに留まる限り、この「入国」スタンプだけで何ら問題は生じない。
ちなみに、エルビルの空港にはバグダッドからも飛行機が来る。小さなターミナルには国内線と国際線の区別などなく、全員が出入国管理を通る。「国内旅行」をしているイラク人はというと、パスポートこそ持っていないが、IDカードを窓口で差し出して、やはり滞在許可を得なくてはならない。クルディスタンは、イラクの自治区とはいえ事実上、別の国のように機能している。
自治区には、独自の政府があり、議会があり、裁判所があり、警察がいて、軍隊ももっている。公的機関にはイラク国旗もちらほら見かけるが、町にはためく旗の数は、黄色の太陽が鮮やかなクルディスタンの旗の方が遥かに多い。自治区にいると、ここはイラクというより、クルディスタンなのだと実感させられる。
自治政府の独自外交
イラクの一部である以上、国家の主権に関する事柄、例えば国防、外交、金融、通信などは、自治政府ではなくイラク政府が管轄することになっている。だが、出入国管理の一件でも明らかなように、こうした主権にかかわる事であっても、自治政府はできるだけイラク政府の関与を廃して、独自路線を貫こうとしている。その一つの例が自治政府の積極的な外交だ。
自治政府は、欧米を中心に14カ所(13カ国+EU)に外交事務所を置いている。外交特権こそ持っていないが、機能としては通常の国の大使館と同じで、駐在国政府とクルディスタンとの関係構築がその主眼となる。クルディスタンの利益のためのロビー活動にも余念がない。
また、バグダードに大使館を持つ国の多くも、エルビルに領事館や大使館分館を開設している。今ではその数は28カ国に上り(名誉総領事のケースは除く)、欧米諸国が中心だが、最近はアラブ諸国やアジアの国も増えた。日本の領事館もまもなく開設される。これらの領事館の業務は、在留自国民の領事業務もさることながら、実際には、自治政府にとっての外交上のカウンターパートとしての役割が大きい。
というのも、例えばクルディスタンに進出する自国企業のビジネス支援を行うにも、最近では武装過激派組織「イスラーム国」に対する北部戦線の軍事協力や、避難民への人道支援を行うにも、そのカウンターパートは、イラク政府よりもむしろ、自治政府になるからだ。
そして、こうした外交官の存在を、自治政府は非常に重視する。エルビルに駐在する総領事を大使級の扱いでもてなし、要望があれば自治政府の大統領との面談もセットして、「二国間」関係の深化を熱心に訴えかける。彼らにとって、こうした外交官は、クルディスタンという国際地図上では「見えない存在」である自分たちを、世界に伝える貴重な存在なのだ。
クルド人の苦難
クルディスタンが現在のように、諸外国政府と公に外交関係を構築するようになったのは、ここ10年ほどのことに過ぎない。それまでのクルディスタンは長い間、国際社会から文字通り見えない存在だった。
イラクの歴史は、クルドにとっては自治を求める戦いの歴史だったと言っていい。1960年代頃から本格化したクルドの反政府武装活動は、イラク政府が弱体化した時に、あるいは外部から軍事支援が得られた時に、ペシュメルガと呼ばれるクルド兵がイラク軍にゲリラ攻撃をしかけ、イラク政府との和平交渉で自治に向けた妥協を引き出す、そして、その交渉が決裂してはまた衝突する、という繰り返しだった。
イラク政府も、北部の一部を自治区にするというアイデア自体は1970年代から受け入れていた。だが、クルドが求める自治とは、まさに今手にしているような、事実上の国家に近いものだ。それをイラク政府が受け入れることは、当然なかった。
1968年から政権を率いていたサッダーム・フセインが次第に独裁色を強める過程で、反乱分子のクルドに対しても容赦ない弾圧が繰り広げられた。
1970年代末までに、イラク政府によって中南部のアラブ人の町へ強制移住させられたクルド人は、少なくとも25万人に上る。立ち退き後、政権は国境付近の村には立ち入りを禁じ、天然資源が豊かな町にはアラブ人を入植させた。1980年代後半、イラク軍はクルディスタンの数千の村を無差別に爆撃して壊滅させ、数万人の市民が殺害された。1988年には、イラン国境に近い村でヘリコプタから毒ガスが散布され、わずかな時間に子どもも含め数千人の命が消えた。
そして、1991年の民衆蜂起が失敗し、サッダームの精鋭部隊がクルディスタンに到着した時、再び毒ガスが撒かれるのではとの恐怖に駆られたクルディスタンの人々は一斉に逃げ出した。しかし、数十万人の難民は国境を閉ざしたトルコとの間の冬山で、行く当てもなく、食べるものもなく、立ち往生することになる。わずか4日間で1500人が死んだという。
そんな時、クルドが必要としたのは武器よりもむしろ国際社会の支援だった。ゲリラは所詮ゲリラであって、軍事力では戦車や航空機を持つ正規軍に勝つことはできないからだ。だからこそ、人道的な悲劇を世界に伝えてくれるジャーナリストを積極的に受け入れた。
1991年の国連安保理決議に、「イラクの民間人、とりわけクルドの人々の苦境」(第688号)と、初めてクルドの名が明記された。この小さな成果は、混乱の中クルディスタンに足を運んで精力的に取材し、世界に報じたジャーナリストの働きなくしては不可能だっただろう。
そして、ワシントンでは、クルドのリーダーが必死に米国政府の支援を得ようと試みていた。なんと言っても、湾岸戦争後、蜂起してサッダームを倒すようにイラクの民衆に呼びかけたのは、父ブッシュ大統領本人だったのだから。
だが、米国はイラク市民がサッダームを倒せば歓迎しただろうが、そこに米軍が関与することは考えていなかった。今ではイラク政府や自治政府の要職に就いているクルド政党の幹部も、当時は単なるイラクの反政府ゲリラの一員でしかない。苦労して国務省幹部との面談を取り付けたものの、何の回答も得られなかったという。
人道危機では国際社会は動かない
こうした経験を経て彼らが学んだことは、国際社会、とりわけ西側主要国とのパイプを築く重要性であり、そして、国際社会は人道危機では動かないという現実だった。大勢のクルド人が虐殺されても、それはイラクという国の辺境で起こった小さな出来事であり、イラクの内政問題に過ぎない。
1991年秋、結果的にイラク軍がイラク北部から撤退したことで、クルディスタンは初めて事実上の自治区となった。そして、2003年のイラク戦争でフセイン政権を倒すにあたって、さらに、その後の新生イラク国家の形成にあたって、クルドはこうした過去の教訓をできる限り生かしていくことになる。
子ブッシュ大統領が始めたイラク戦争を、クルドは諸手を挙げて歓迎し、ペシュメルガが米軍と足並みを揃えて進軍した。この時、トルコが米軍に国内基地使用を認めず、北部戦線に影響がでていたこととも、相対的に米国にとってのペシュメルガの価値を押し上げた。戦後は、クルドも新憲法の起草に積極的にかかわることで、自治区の地位を確固たるものにした。そして、地方分権を定めた憲法を最大限有利に解釈して、クルディスタンという「国造り」に邁進する。
国外への外交事務所の設置や領事館の誘致を通じて諸外国政府とのパイプを強化しているのは前述の通りだ。自治政府が2015年に米国で使ったロビー活動の費用は150万ドルに上る。これはイラク政府の96万ドルを大きく超える。
そして、外国企業の権利を重視した投資法や石油法の制定などを通じて、外資誘致にも熱心に動いてきた。日本を含む先進国の国民にビザを免除しているのも、このために他ならない。
外資の誘致は、もちろん、産業育成や資源開発の経験に乏しいクルディスタンへの経済的効果を狙ってのことだが、それだけではない。仮に、再びイラク政府が自治を剥奪しようとした時、再びイラク軍との間で緊張が高まった時、クルディスタンに経済権益を持つ国は、クルドの肩を持って仲裁に乗り出してくれる可能性が高い、という政治的な計算が背後にある。
国際社会は、人道危機よりも自国の経済権益の方にずっと敏感に反応するという現実を、彼らは過去から学んだのだ。
いつか国際地図に「クルディスタン」を
イラクでは現在、「イスラーム国」との戦闘が続いている。
2年前、「イスラーム国」の猛攻で自治区は一時パニックに陥った。今ではモスル周辺を除いてクルディスタンの領土の大部分は奪還済みだが、約1000kmの前線を挟んで「イスラーム国」と対峙するペシュメルガの戦死者は、すでに1500名を超え、負傷者も9000名近い。
しかしながら、クルドは、この対「イスラーム国」戦もまた、独立に向けた布石に転じようとしている。テロとの戦いを大義名分にしたクルドのアピールの結果、これまでは一貫してイラク軍に限定されていた国際的な対イラク軍事支援が、今ではペシュメルガにも提供されるようになっている。ペシュメルガが公の形で国際社会から軍事訓練や武器の提供を受けるようになったのは、初めてのことだ。
モスルの奪還が達成された後も、果たして国際社会からペシュメルガへの軍事支援が続くかどうかはわからない。独立にはイランやトルコなど周辺国が反対しているし、石油に依存する経済や、不安定な連立政権など、自治政府自身の課題も多い。
だが、イラクのクルディスタンがこの四半世紀に得たものは大きい。とりわけこの10年は、「見えない存在」だった自分たちを広く世界に知らしめるという意味で、大きな成果を上げた。そして、いつか国際地図に「クルディスタン」という新たな国を載せることを、彼らはこれから先も諦めないだろう。
プロフィール
吉岡明子
大阪府池田市生まれ。ガルフ・リサーチ・センター客員研究員などを経て、2013年から日本エネルギー経済研究所中東研究センター主任研究員。共著に『現代イラクを知るための60章』(明石書店)、『「イスラーム国」の脅威とイラク』(岩波書店)など。プロフィール写真の背景はクルディスタンのリゾート地の一つ、ドゥカン湖。