2016.12.16
サムライと国際協力
助けたい、助けられない
国際協力の世界はドラマに満ちている。2016年7月1日夜(現地時間)、バングラデシュで7人の侍が命を落とした。ドラマといっても悲劇。テロリストグループに襲われた。ひょっとしたら、犠牲になったのは自分であったかもしれない。国際協力経験のある日本人の中には、そう思った人もいるに違いない。
国際協力の悲劇をテーマとしたノンフィクション映画もある。例えば、ルワンダのジェノサイドを描いた「ホテル・ルワンダ」。命を救うはずの国連職員がルワンダ人を見捨て、自分たちだけが生き残ろうとした。国連職員とて、本当はルワンダ人を救いたかったに違いない。しかし、自らの生命を危険にさらしてまで、という選択肢は組織のトップから拒否された。一方、120万人のツチ族や穏健派のフツ族が虐殺される中、ホテルに1,200人の難民を引き取り、生き延びたフツ族のホテルマンもいた。ポール・ルセサバギナである。救われる側の人物が知恵を活かして、同胞を救ったストーリーである。
矛盾である。途上国の人々を助ける仕事をしているのに、ある一部の現地人に逆に殺されてしまう。困っている人を助けたいのに、救いたいのに、組織の論理によって、つぶされてしまう。小さなコミュニティではあたりまえの助け合い。それがあたりまえでなくなる。助ける者と助けられる者、どうしたらお互いに分かり合い、あたりまえの行為をあたりまえにできるようになるのか?
七人の侍
助ける者と助けられる者、両者の間の人間模様が巧みに描かれている映画がある。黒沢明の「七人の侍」である。国際協力ではない。しかし、強い者と弱い者が「協力」して危機を克服する、という点では共通点がある。舞台は戦国時代。現在の多くの途上国よりも日本がもっともっと貧しかった時代。ただですら貧しい百姓たちが野武士に襲われ困窮している。そして生き残りをかけて、七人の侍に助けを求めた。国際協力との違いは、侍もまた腹を空かしており貧しかったということ。それでも侍としての誇りをもち、野武士の一団40騎と戦い、最後には勝利を収めた。生き残った侍は3人だけであった。
黒沢明による予告編のための解説がある。
「ある山間の小さな村に、侍の墓が四つ並んだ。野心と功名に憑かれた狂氣の時代に、全く名利をかえりみず哀れな百姓達の為めに戦かった七人の侍の話。
彼等は無名のまま風の様に去った。しかし彼等のやさしい心と勇ましい行為は、今猶美しく語り傳えられている。
彼等こそ侍だ!」
そうして侍たちは勝ったはずなのに、主人公の勘兵衛はこういう。
「いや……勝ったのは……あの百姓たちだ……俺たちではない」
百姓を救ったのは、七人の侍か、百姓自身か。国際協力のあるべき姿の一面をここに垣間見ることができる。両者には共通の目的意識があった。百姓は「野武士から村を守る」というニーズを強く意識していた。ニーズを満たすため、自分たちが主体となって、自分たちに欠けている「武力」を外部に求めた。侍も野武士を共通の敵とみなし、両者は協力できた。
国際協力の現場では必ずしもそうではない。支援する側と受ける側が、共通の目的意識をもっているわけではない。統計データを見て、支援する側がニーズ設定をする。予算を付ける。あたかもそのニーズが対象国や対象地域の内部からでてきたように見せながら、事業が進んでいく。うまくいけば、支援の担い手となったサムライたちは勝ち誇り、昇進への道を邁進する。ところが、その成功はサムライがいたからこその成功である。残された百姓は、いずれまた、似たような問題に苦しむ。映画のように、百姓が勝利するとは限らない。勝つとしてもつかのまの勝利。持続可能な勝利ではない。
百姓という者は?
「7人の侍」の中で最終的に勝ったという百姓とは何者か?
侍の中には一人変わり者がいた。おそらくは百姓でありながら、力が強いことから後に侍として認められ、七人の一人となった菊千代である。百姓の内部事情に通じていた。
「百姓ぐらい悪びれた生き物はねえんだぜ」
「米も麦も何もないと言う。しかし、何もかもある。床板の下に、納屋の隅に、瓶に入った米、塩、豆、酒、何でも出て来る。山の中には隠し田があり、戦があれば落武者狩り……。」
「百姓ってのはな……けちんぼで、ずるくて、泣虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだあ」
「でもな……そんなけち臭いけだものつくったのは誰だ?……お前たちだぜ!侍だってンだよッ!」
そんななずるい一面を持ちながらも、百姓は生き残りのために、侍を雇った。自ら竹やりをもって、戦いのためにも立ち向かった。学校教育は受けてなくとも、金もなくとも、与えられた場で生き残る知恵はもっていた。侍を雇うことに成功した。そして最後に勝者となった。そこを侮ってはいけない。百姓がもつ潜在力を我々の価値判断だけで決めつけてはいけない。
つくりあげられた依存
国際協力における先進国と途上国との関係は、侍と百姓との関係に似ている。途上国の中でも、年間の一人当たり総所得が約1,000ドル以下の低所得国は、とりわけ先進国に依存している。エイズ対策、マラリア対策、結核対策……。
今から20年も前の1996年、ネパールで当時国際協力事業団(現・国際協力機構:JICA)の公衆衛生専門家として勤めだした頃のこと。「開発とは何か?」という議論がその頃専門家の間で花盛りであった。支援を受けている人々の声も聴いてみたいと思い、村々にでかけては、「開発とは何か?」と尋ねた。
意外な答えが返ってきた。
「日本の援助機関がきて病院や道路を作ってくれること、国連やNGOがやってきてトイレを作ってくれること、水供給施設を作ってくれること……」
一言でいえば、「開発とはギフトである!」
そんな答えが戻ってきた。七人の侍にでてくる百姓のようである。
「持てる者」が「持たざる者」に金品を寄付する喜捨、あるいはその類似行為が文化として根付いており、助けてもらうことに慣れている、という背景はあるかもしれない。しかしながら、これほどまでに依存してしまってよいものなのか? ネパール人をそんなふうにしてしまったのは誰なのか? 援助機関からやってきた未熟なサムライではなかったか? ネパール人を助けたいという思いは持っていたかもしれない。けれども、10年も20年もそのやり方を間違えてきたのではないか?
「そんなけち臭いネパール人つくったのは誰だ?……お前たちだぜ!先進国からの侍だってンだよッ!」
貧しいネパール人の中にも、そう憤る者がいるに違いない。【次ページにつづき】
ギフトの行方
開発をギフトと見立てた例がある(写真)。首都カトマンドゥから車で2時間。車道が途切れたあたりから、1,000m~3,000mの山を8時間歩いて、村にたどり着く。そこにあるのが、このような建物。先進国のNGOが作ったトイレである。しかしトイレとしては使われていない。とうもろこしの葉っぱの保管庫となっている。薪の倉庫にされたものもある。写真にはないけれども、夜中に鶏を守るための隠れ家として使われることもある。火を起こすための乾燥した葉っぱや薪。数少ない現金収入源としての鶏。
トイレの中身はとうもろこしの乾いた葉っぱ
支援する者と受ける者との認識ギャップ。七人の侍と百姓との間にあった共通の目的意識がここにはない。農業を生業としてそこに住んでいるネパール人。彼らにとって大事なのは、火を起こすこと。水を沸かして安全な飲み物にすること。収入源を守ること。トイレは二の次。便も尿も自然の中に溶け込ませればよい。トイレが大事だなどと思っていない。
ところが、外部から来た人間にとっては、トイレがない、ということが衛生環境の不備と映る。そして頭で考える。それがなければ下痢が流行するかもしれない。予防可能な死亡の原因にもなるかもしれない。トイレ建設は無駄ではない。
しかし、建物を建てただけで、トイレをトイレとして使ってくれるわけではない。支援する側としてはネパール人を助けたつもりであろう。しかし、その思いは伝わっていない。あたりまえのことをしているはず。なのに、現地では、あたりまえと思われてない。トイレをいったん手にしたネパール人は、賢く、賢く立ち回る。トイレを薪の倉庫として、鶏の避難所として有効活用する。この現実はトイレだけに限ったことではない。
援助から協力へ
勘違いの援助は、世界のあちこちで起こっていたし、今でも続いている。たとえば、2015年4月25日のネパール大震災。被災者に生理用品を配るのが「流行」の援助だった。重要な援助である。ところが、職員も限られた時間にノルマを果たさねばならない。ある者は明らかに閉経したはずの老婆に生理用品を配っていた。ある者はわけがわからず、男性にも配っていたという。
とはいうものの、過去数十年間、「援助」への反省はされてきた。「国際援助」という言葉も使われなくなってきている。貧しい国が一方的に支援を受けているわけではない。依存体質はあるものの、何らかの世界貢献を望んでいる。最近では「国際協力」という言葉がより一般的に使われるようになってきた。
先進国と途上国による国際協力の効果は絶大である。「ミレニアム開発目標報告2015」によれば、1990年から2015年の間に、2億人以上が飢餓から解放された。5歳未満児死亡率は1000人当たり90人から43人となり、妊産婦の死亡率も45%減少した。途上国の多くは、母子保健対策のため、保健予算を増やし、無料の保健サービス制度を実施した。
エイズを引き起こすHIVへの新感染は2000年から2013年の間で約40%低下し、感染者数はこの期間、約350万人から210万人へと減少した。エイズ対策において、例えばウガンダでは大統領夫人が大掛かりなエイズ対策キャンペーンを実施し、感染拡大の阻止に貢献した。2000年から2015年の間にマラリア死亡を免れた人は620万人。結核対策も奏功し、2000年から2013年の間に約3700万人の命が救われた。いずれにおいても各国保健省はそのために専門家のみならず、コミュニティ・ボランティアを動員し草の根レベルでの保健活動を強化した。
今後はこれらの疾病対策を超えて、精神疾患、生活習慣病対策、障がい者対策等が必要になってくる。これまでとの大きな違いは、短期間で問題が解決しないこと。いずれも慢性的な問題ばかり。途上国の人々のより強いリーダーシップとオーナーシップが求められる。疾病パターンの変化が、援助ではなく協力を余儀ないものとさせている。ところが対策のための予算の多くは国際機関が握っている。専門家も先進国に偏っている。このようなパワーバランスの中で、先進国は途上国との協力関係を推進する上で、まず何に気づくべきか?
1人の日本人専門家の声に耳を傾けてみたい。
助けられてわかる協力の意味
まだ「援助」と言う言葉が一般的だった時代、個人的な経験から「協力」への必要性を説いた日本人がいた。愛媛県宇和島出身の岩村昇医師である。40年以上も前のこと、当時、鳥取大学医学部の准教授だった岩村医師はネパールで結核などの病気予防を目的とする公衆衛生の仕事をしていた。
ある日のこと、山の中で細菌性赤痢に罹患。特効薬の抗生剤はない。自分以外に医師はいない。もうだめかと思っていると、村長が、「うちの村には、それくらいの病気なら治すお爺さんがおる」という。かつがれて、村の呪術師の家へ。西洋医学の常識から言って、呪術医に祈ってもらったくらいで、赤痢は治らない。ところが呪術医による医療行為は祈祷だけではない。薬草も処方する。緑色の汁を流し込まれ、そのまま深い眠りに。ぐっすり眠って、翌朝、目が覚めると、下痢は止まり、腹痛もなくなり、熱も下がっていた。村の人たちは大喜びである。
岩村昇はそこではっと気づく。医師として、先進国の人間として、ネパール人を長い間助けてきたつもりでいた。貧しく、学校教育も受けてない弱者であるネパール人。彼らが自分を助けてくれるなどと考えたこともなかった。しかし、今こうして助けられ、元気になった。村人はみな笑顔で喜んでくれている。自分の家族が生き返ったかのように喜んでくれている。
自分は強い、ネパール人は弱い、弱者には強者を助けられないという思い込みがあった。弱いと思える人にでも、他人を助けたいという気持ちがある。そのことが初めてわかった。強い者から弱い者への援助ではない。お互いに助け合い「みんなで生きる」ことの価値を学んだ。ここで得たものは、病からの回復だけではなかった。一方的な援助をしていた自分の過ちへの大きな気づきでもあった。
弱者による潜在力の発揮によってわかる協力の意味
一方、途上国は先進国との協力関係を推進する上で、何に気づくべきか?
弱者のもつ潜在的な力に注目した人がいる。ブラジル東北部の貧しい地域出身の教育学者、パウロ・フレイレである。識字教育による社会変革を実施し、それが原因で軍事政権によって15年間も国外追放された。
パウロ・フレイレは、私たちの常識とは逆に、強者は弱者を助けられないと言っている。強者といってもフレイレの場合、モデルは大農場の農場主。弱者はそこで働く労働者。状況が異なれば中にはやさしい強者もいるであろう。問題ある強者のことをフレイレは「抑圧者」と言っている。一方抑圧される弱者は「被抑圧者」。1970年に「自由のための文化行動」と「非抑圧者の教育学」という二冊の本を刊行。「真の解放」とは何か? 誰が誰を解放するのか? 大きな問いの答えを追求した。1992年、「被抑圧者の自由学」を書いたフレイレは、当時主張したことを再度繰り返し訴えている。
「……抑圧者がどんなに旨いものを食べ、どんなによい格好をして、どんなに安眠を享受しようと、それは非人間化の状況を変えるものではない。自らを非人間化することなしに、他人を非人間化することはできない。人間化の使命とは、それほどに根源的なものなのだ……だから抑圧者は、だれをも解放しない。自分自身も解放されない。だから被抑圧者は、自らが必要とする正義のたたかいをとおして、自分を解放するとともに、抑圧者をも解放するのである。ほかでもなく、被抑圧者たりつづけることを自らに禁ずることによって」(パウロ・フレイレ、里見実訳:希望の教育学.太郎次郎社、p139-140)
助けられ、助ける
先進国のふるまいは時に「抑圧者」としてのふるまいとなる。途上国はあえて「被抑圧者」としてふるまうことがある。とはいうものの両者の対立はフレイレが描いたほどには厳しいものではない。しかしながら、先進国の中には、未だに統計数字だけを見て、被支援者のニーズを決めつけ、行動を起こす人たちがいる。金と権力があり、比較的短期の結果や成果を求める専門家が好むやり方である。
数字を変化させるための支援によって国は多少助けられるでもあろう。しかし、潤うのは一部の声ある者。声なき者がそれによって、常に助けられるとは限らない。国としての開発は進む。しかし、同時に国内格差がひろがる。貧しい者がより貧しくなる。そんな例はいくらでもある。目に見えやすい、数字重視の協力によって、「協力」は、無駄の多い「援助」に逆戻りする危険がある。
一度でも支援のために赴いた国に住み、自分が弱者と決め付けている人々から助けてもらったらどうだろう。そのような経験は、助けてくれた人のみならず、その人が住む国への見方すら変える力がある。援助思考が協力思考に変わることもある。頭で考えるだけでは十分ではない。自分ではそうとは意識していないかもしれない被抑圧者に助けてもらう。その経験を介して、抑圧者あるいは抑圧の構造に加担している者としての自分自身に気づき、反省する機会が与えられたなら、その人は幸せ者である。
人が人を助けるということは、国が国を助ける、ということと常に同等とは限らない。途上国で長い年月、国際協力の世界で生きてきた者にとっては、助けることよりも助けられることが多いものである。それが自然である。助けられ、助け、同じ視線で、人と人との付き合いができてこそ、その人の国際協力は、たとえ小さなものだとしても本当の国際協力となる。
最後に、七人の侍の主人公勘兵衛の言葉を、己への戒めの言葉として締めくくりたい。
「……いいかッ!戦とはそういうものだ。他人(ひと)を守ってこそ自分も守れる。おのれの事ばかり考える奴は、おのれをも滅ぼす奴だ……」
プロフィール
神馬征峰
1985年浜松医科大学医学部医学科卒業。1985年〜1987年飛騨高山赤十字病院研修医・内科医。1987年〜1994年国立公衆衛生院・労働衛生学部研究員。1991年〜1992年ハーバード大学公衆衛生大学院客員研究員。1994年〜1996年WHO緊急人道援助部・ガザ地区/ヨルダン川西岸地区事務所、WHOヘルスコーディネーター(事務所長)。1995年浜松医科大学医学博士。1996年〜2001年国際協力事業団ネパール事務所公衆衛生専門家。2002年〜2006年、東京大学大学院医学系研究科講師、2006年〜現在、同研究科教授。主な著書に、『「みんなの健康学」序説 公衆衛生を動かした先達からのメッセージ』(風間書房)、『国際協力 トイレ修行学』(共著、文芸社)など。