2010.08.16
天災か、人災か ―― ロシア森林火災と政治
世界の至る所で異常気象が猛威をふるっている。大洪水が生じている地域もあれば、逆にひどい旱魃がつづいている地域もある。後者に苦しむロシアでは、記録的猛暑により深刻な森林火災がつづいている。
ロシアの旱魃と森林火災
ロシア非常事態省によると、今年の5月以降、ロシア中部・西部で19万ヘクタール以上の森林が消失した。死者は少なくとも52人に及び、重傷を負っているものも多く、約2000軒の家屋が焼失し、3万5000人以上が住居を奪われた(8月8日時点)。ベルゴロド、ヴォロネジ、イワノヴォ、リペツク、モスクワ、ニジェゴロド、リャザン、タンボフの各州とモルドヴィア共和国の状況はとくに深刻だという。
大統領は非常事態を宣言し、ロシア非常事態省は消火活動に協力するボランティアを募り、軍や航空隊も消火作業に従事しているが、まさに「焼け石に水」の状況であるようだ。1日に300件の火災を消火してはいるのだが、鎮火した件数を上回る森林火災が新たに発生する有様で、常時550か所程度の火災が起きている。そのため、被害は拡大の一途を辿っている。
火災の影響は首都・モスクワにも及び、市内は濃いスモッグに覆われ、視界もかなり悪くなっているという。7日には今年最悪の大気汚染を記録し、一酸化酸素濃度は最大許容値の6倍以上、その他の有害物質も通常の9~10倍以上に達した。
目の痛みや頭痛を訴える人びとも増えており、マスクや酸素ボンベは売り切れ状態で、ガスマスクを着用する市民すらでてきたという。8月上旬にモスクワに滞在していた筆者の知人も、モスクワの街中を歩いていると気分が悪くなり、とくに地下鉄ではよりひどくなったと訴えていた。
軍施設や核関連施設に広がる火災
こうしたなか、7月29日には、モスクワ州コロムナ市近くにある海軍の航空装備保存基地にまで火災が広がり、航空関連の13の格納庫や基地本部、車両などが焼失し、空母搭載型の戦闘機など約200機に被害が及んだ(翌30日に鎮火、負傷者はいなかった)。
当初、国防相は軍施設に火災が及んだことを隠そうとしたが、誤魔化しきれず、大統領の大きな怒りを買うこととなった。
先立つ7月3日には、ロシア中部ニジェゴロド州・サロフにある連邦原子力センターに飛び火する危険が高まったため、センター職員やボランティアも含めて約3000人が動員され、航空機や消防車なども集中的に投入されて、必死の消火活動が行われた。
のみならず、同地から核物質を緊急避難させる措置も取られた。森林火災が風により激しく広がり、猛烈な煙を生じたため、航空機の消火活動を困難にしたが、何とかセンターへの延焼は防止できた模様だ。
なお、サロフはソ連時代の1949年に、同国初の原水爆が開発された場所であり、かつては「アルザマス16」と呼ばれ、最高機密とされていた。現在も核兵器の信頼性を高める研究などがなされており、訪問には許可が必要な閉鎖都市である(人口約9万人)。
原子力関連施設への延焼の危機はさらにつづき、9日には、チェリャビンスク州・オジョルスクでも非常事態宣言がだされた。オジョルスクは、イルタヤ湖畔に1945年に造られた閉鎖都市で、1994年までは「チェリャビンスク-65(その前は、チェリャビンスク-40)」と呼ばれていた。
オジョルスクに隣接するマヤーク原子力プラントは、ソ連時代にはプルトニウム供給拠点として機能してきたが、1957年に放射能汚染事故を起こし、近隣地域は深刻な放射能汚染を受けた。
現在は原子力潜水艦、原子力砕氷船、および原子力発電所からだされる使用済み核燃料を年間400トン再処理し、プルトニウムや高濃縮ウラン、移動が困難な高レベル放射性廃棄物などの貯蔵施設などがあり、当局としては核関連施設への延焼を何としてでも抑えるべく必死だという。
国際的にも影響
国際的な影響も大きい。
ロシアの旱魃は農業に深刻な影響をもたらすと考えられており、ロシア農業省は今年の穀物生産見通しをすでに2度下方修正し、ついに8月5日、プーチン首相は15日から今年末まで、小麦を含む穀物の輸出を一時禁止する政令に署名した。
日本のロシア小麦への依存度は高くないが、 ロシアは世界でも有数の小麦生産国であり、その小麦の禁輸は、小麦の国際価格の上昇をもたらし、ひいては小麦を使った食料品全般の値上げはまぬかれない。日本へも当然大きな影響があると予想されている。
また、8月7日以降、ロシアへの渡航自粛を勧告する国も増え、日本外務省もモスクワなどの在留邦人に外出を控えるよう勧告している。また、煙による視界不良のため、飛行機の発着にも大きな影響が出ており、遅延や欠航も相次いだ。
高まる国民の不満
森林火災による直接・間接の被害が拡大するなかで、国民の不満は増すばかりだ。
ロシアでは6月末から断続的に森林火災が起きていたが、消防活動の出遅れや消火設備の不備も次々明らかになり、適切な対応の欠如が被害を拡大させたとの批判がでている。
インターネット新聞である“GZT.RU”が8月2日に行った世論調査では、森林火災の被害の拡大の「責任は中央政府にある」とする回答が49%と圧倒的な多数を占めた。ネットでは多くの政府批判が繰り広げられている。
さらに、1986年5月にチェルノブイリ原子力発電所の事故が発生した際に、当局が情報を隠蔽したため被害が拡大したことになぞらえ、今回の一連の災害でも、当局が適切な情報を公開しなかったことが「チェルノブイリ型」の混乱を助長したという批判も多い(ただし、チェルノブイリ原発事故の際には、当局が当初、情報を隠蔽したことが後に問題となり、結果的にはグラースノスチ(情報公開)を促進させることになった)。
各地で抗議行動も発生し、地方当局が襲撃される事件も起きているが、それらが当局に弾圧されていることに対しても国民は冷ややかだ。世論調査によれば、国民の約86%が、当局が抗議者に耳を傾けるべきであると考える一方、当局が実際に対応すると考える国民は29%に過ぎない(www.levada.ru, June 28)。
当局の対応
実際に当局はどのような対策をとってきたのだろうか。
政府の対策に対し国民は不満を募らせているが、メドヴェージェフ大統領やプーチン首相は、森林火災はもちろんであるが、国民の不満の「火消し」に躍起になっているようだ。実効的政策というより、むしろ国民向けのパフォーマンス的な動きが目立つ。
メドヴェージェフ大統領は、2014年のオリンピック開催地でもあるリゾート都市のソチでの休暇を中断してモスクワに戻り、8月4日に安全保障会議を緊急招集した。
軍の施設に延焼が及んだことを重くみて、海軍後方支援部のセルゲイ・セルゲーエフ部長代理を解任、さらにニコライ・ククリョフ海軍航空隊司令官、セルゲイ・ラスカゾフ同代理、同航空隊のセルゲイ・マナコフ後方支援部司令官臨時代理を退役処分としたほか、ウラジーミル・ビソツキー海軍総司令官とアレクサンドル・タタリノフ海軍参謀長兼総司令官代理を任務遂行不十分として戒告処分にした。
火災が広がったのは、犯罪的な職務怠慢の証であり、これら基地の要人が、火災発生時に所在不明だったことをとくに重くみたという。
また、火災が起きた地区のこと知事や上級官僚に解任をちらつかせて、脅しの姿勢をみせたほか、実際に解任まで行ったケースも少なくない。
加えて、大統領は、7つの州に対して非常事態を宣言する大統領令に署名したことを発表、「この体制は内務省を調整役として基幹省庁が担う」とも述べた。
損害補償についても、災難に遭った人びとへの支援、および社会的インフラの回復に関する機動的対策を取る権限を、7月30日の時点で政府に与えたことを明らかにし、連邦予算から65億ルーブルを拠出、追加の用意もあることを強調した。大統領本人も、被災者のために私財1万2000ドル(約102万円)近くを寄付すると、ウェブサイト上で表明している。
住民と対話するプーチン首相
他方、プーチン首相は、連日、被災地を回り、住民に復興支援を約束する一方、対応が遅れた各地の知事らに辞任を迫っている。
また、首相は7月31日には、10月末までに被災者のための住宅建設を終えるよう各州知事に指示していたが、8月3日には、その建設が滞りなく行われるように、住宅建設現場に監視カメラを設置し、執務室がある連邦政府庁舎と自宅で首相自らが24時間監視をすることを約束した。なお、その監視映像は連邦政府の公式ウェブサイトでもみられるようにするという。
プーチン首相は被災地で住民らと対話するだけでなく、インターネットの書き込みなどにも丁寧に応じている。
たとえば、ある住民が、地元の消防局にヘルメットと防火服しかないことを批判し、それでは不十分だから年金の支払いをやめて、その代わりに自分で消防車を買うとブログに書き込んだところ、首相は、その意見はもっともだとした上で、連邦予算をすでに割り当てたと迅速に返答した。
また、8月4日には、政府批判を報じた民放のラジオ局に、「必要な資金は各自治体の口座に送金した」と自らメールを送ったという。
「言論の自由」が抑圧されているロシアにあって、最高権力者であるプーチン首相が批判に真摯に対応することは、きわめて異例といってよい。だが、異例だからこそ、そのインパクトが強いことはいうまでもないだろう。
そして、10日には、プーチン首相はモスクワ南東のリャザン州で自ら消火活動にも参加した。首相は消火活動に用いられる水陸両用機「ベリエフ200型」(「Be200」)に第2パイロットとして搭乗し、オカ川で取水して、火災現場に上空から水を投下した。Be200は、1回の取水で12トンの水を取水できるが、プーチン首相は2度にわたって取水と投下を行い、約30分間で2か所の消火に成功した。
自ら森林火災と闘う姿を国民に焼き付けることで国民の怒りを「火消し」するためのパフォーマンスであることは間違いないが、首相は虎や熊と対峙したり、川などで水泳をしたり、オートバイのハーレー・ダビッドソンを乗り回したり…と肉体派としてのパフォーマンスを常套としており、自らのイメージアップにもつなげる一挙両得の目的があったと思われる。
このように、大統領や首相は、解任などで政権の責任の所在をうやむやにする一方、自らのプライベートな時間や資金まで差し出したり、被災者や国民との対話を重視したりと、災害への対応を細やかに行っており、明らかに世論の動向に神経質になっている。
プーチン首相のこのパフォーマンス性たっぷりの対応は、ロシア国民には肯定的に受け止められているようだ。プーチンは被災者と語り合ったり、投稿に対応したりすることで、国民と同じラインに立っていることをアピールし、また国民と一緒に地方の当局者や官僚に対して怒りを表明することで、国民はプーチンとの一体感を感じているというのだ。
つまり、その「政治手腕」により、プーチンは国民の不満をルシコフ・モスクワ市長やショイグ緊急事態相に振り向ける一方、自らをトップに置く「権力の垂直構造」と呼ばれるトップ・ダウン体制の維持にも成功しているのである(『独立新聞』http://www.ng.ru/editorial/2010-08-10/2_red.html)。
人災の側面
ただ、そのような「権力の垂直構造」こそが、今回の火災の被害を拡大したという見方も強くある。
たとえば、ニコライ・ペトロフ氏(カーネギー・モスクワ・センター)は、プーチン前大統領のもとで確立された「極度の中央集権が、対応の出遅れを招いた」と述べている。
中央集権体制の狙いは、広いロシアにおいて統一的な施政を実現することにあったが、今回の火災では、中央が各地の状況を速やかに把握できず、それゆえに指示が遅れてしまい、また地方のトップは自らに都合の悪い情報を中央に報告しない場合が多く、適切な対応ができなかったのである。
さらに、今回の森林火災はプーチン氏による「人災」であるという指摘が多くなされている。じつは、プーチンは大統領時代の2007年に、ソ連時代から存在していた森林局を閉鎖していた。その狙いは、森林開発の促進であったが、結果として、それまでの森林の監視や防火体制が緩和されてしまい、各地に派遣されていた森林監視者もおかれなくなってしまった。
専門家は、現在当局が進めている衛星や航空撮影による監視よりも、以前の各地に監視者を派遣するシステムのほうが数十、ないし数百分の一のコストで、計り知れないほど効果的であると主張している。
変わる政治?
ソ連時代の負の遺産の多さにより、旧ソ連地域には深刻な環境問題が山積しているが、ロシアはじめ、旧ソ連諸国は概して環境問題に適切な対応をとってこなかった。
今回の火災は地球温暖化の問題と切り離して考えることはできないが、そのような意識は現在の政権にはなかった。だが今後は、メドヴェージェフ政権が推し進める「近代化政策」の一貫に、環境対策を含めていく必要があるという議論も起きている。
11日現在、まだ火災終息の目途は立っていないが、まずは完全な消火活動が終わらないかぎり、ロシア国民の怒りは収まらないだろう。
そして、火災が終結した後には、ロシア当局は国民の不満を「火消し」しただけで安心せず、長期的な環境対策を政治の重要課題に位置づけていく必要があるだろう。
日本でも
なお、ロシアの森林火災は、日本にとっても対岸の火事ではない。ロシアが小麦の輸出を禁止したことによる、小麦の国際価格の上昇が日本の食品の値上げにつながるであろうことは勿論、天災にどのように対応していくのかという政治的問題を、日本も我が身の問題として考えるべきである。
たとえば、今年、宮崎県で口蹄疫問題が深刻化した際にも、初動対応のまずさが状況を悪化させたとして、政府や県への批判が相次いでいた。概して、天災が生じると、必ず後に対応についての反省がなされる。どの国においても、天災と人災は切っても切り離せないものなのである。
天災の発生については仕方がない部分が大きいが、事前の準備や事後の迅速な対応で、被害を最小限に抑えることは可能である。日本も出来うるかぎり「学習」をし、リスクマネジメントの向上に努めるべきであるのはいうまでもない。
推薦図書
本稿で取り上げた問題は、世界規模の環境問題、ロシアの環境政策、ロシアの政治問題と多くの論点が絡み合っており、一冊ですべてを理解できるような書籍は和書にはない。また、ロシアの環境問題については、少しずつ研究は進んでいるものの、書籍としてはいいものがまとまっていない。そこで、ここでは本稿で取り上げたようなロシアの現代政治の在り方や、国民の意識を理解する手掛かりとなる書籍を紹介したい。
本書は、6人の研究者による論文集であるが、ロシアの現代政治を、政党、一般市民の政治意識、非ロシア民族の意識、ジェンダー、市民社会などに焦点を当てて浮き彫りにした意欲作である。本書の目的は、ステレオタイプを排した客観的で総合的なロシア研究の確立であるが、本日提起した問題は、まさにロシアが抱える象徴的な「総合的な問題」であるといえる。現在起きている問題が、どのような政治の影響を受け、また、市民によってどのように受け取られ、どのように政治に影響を与えていくのか…ということを考えていく上で、多くの示唆を与えてくれるはずだ。
プロフィール
廣瀬陽子
1972年東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は国際政治、 コーカサスを中心とした旧ソ連地域研究。主な著作に『旧ソ連地域と紛争――石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス――国際関係の十字路』(集英社新書、2009年アジア太平洋賞 特別賞受賞)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)、『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)など多数。