2019.04.22
ケムニッツ、あるいはドイツ社会の和解のレジリエンスと「憂慮する」市民たち
1.はじめに
2018年8月末から9月はじめにかけての2週間、ドイツ社会はこの話題に揺れた。東部ザクセン州の都市ケムニッツでおこったある殺人事件をきっかけに、極右勢力が大規模なデモをおこない、街中で外国人を狩りたてて暴行したり、警察や反対する左派勢力と激しく衝突したりしたのだ。
日本でも、この事件は大手マスコミ各社が取りあげた。しかし、それらの報道は事件の概要を断片的に伝えるのみであり、この事件がドイツ社会にあたえた衝撃についても、またこの事件を近年のドイツ社会の動きに対してどのように位置づけるかについても、説明が不足している。
このニュースを聞いて、多くの人は「またか」とやり過ごしてしまったに違いない。「極右が台頭している。ヨーロッパはどこでもそうだ」と首を振った人もいるだろう。「メルケル首相が難民を受け入れたから、国民のあいだに反発が強まっているんだよ」と、訳知り顔に言った人もいるかも知れない。いったい、ケムニッツの事件は何を語っているのか。そこには何かこれまでにないものがあったのだろうか。この事件から、ドイツの、ヨーロッパの現状や今後について、われわれがどんなメッセージを受け取れば良いのだろうか。
2.ケムニッツ市記念祭での殺人事件
8月26日、ケムニッツ市では恒例の記念祭がおこなわれていた。これは毎年3日間にわたって市の中心部でおこなわれるお祭りで、24回目を数える今回はケムニッツ市の創建875周年にあたっていたこともあり、大観覧車に6つのライヴステージ、200軒の出店が軒を並べ、人出は25から26万人と予想されるなど、ひときわ盛り上がっていた。
この日、祭の最終日となるはずの日曜日のまだ夜明け前3時過ぎに、事件は起きた。2つのグループが市内中心部でトラブルとなり、ひとりの男性が殺害され、2名が重傷を負った。犯人2名は現場から逃走した。
ちなみにドイツのマスコミは、殺された男性のことを当初は「ひとりの男性」としか報じていなかった。数日経ってから、それが「ドイツ人」であったこと、正確に言えばドイツ国籍を取得したキューバ人の男性であったことが報じられた。そしてさらにしばらく経ってから、彼がダニエル・Hという名前であったこと、35歳であったこと、キューバ人の父とドイツ人の母とのあいだに生まれ、ケムニッツで育ったこと、妻と一人の子があり、ハウスクリーニングの会社で働いていて人付き合いもよく、近所や同僚の評判の良い人物であったこと、などが報道されたのである。
それに対し、犯人は比較的早い段階から外国人であるとされた。翌日の午後には警察はイラク人ヨーシフ・Aとシリア人アラー・Sに対して逮捕状を請求した。主犯とされたヨーシフ容疑者は23歳で、2015年10月に他の大勢と同じくバルカン半島経由で難民としてドイツへとやってきた。彼の難民申請は3年近い調査のあと、事件3日後の8月29日に最終的に却下された。
報道は、ヨーシフの出国理由が、政治的な迫害などではなく、恋愛関係のもつれであったこと、彼が提示した身分証明書が偽造だったこと、さらにドイツ入国後もくりかえし傷害事件をおこして逮捕され、酔っ払って自暴自棄になった末に物損事故まで起こしていたこと、などを報じた。最後の住居はケムニッツ近郊の村に建てられた難民シェアハウスであったが、そこには滅多に帰宅しなかったという。
アラー容疑者のほうはシリア北部の出身のクルド系の22歳の青年であり、ケムニッツでは床屋の見習いをしていた。事件後、ヨーシフはその場で、アラーは翌日、警察に逮捕された。
3.事件をめぐる数々の謎
この事件には、いろいろ不可解なことがあった。まず、26日の早朝にインターネットポータルサイトのtag24.deが事件の第一報を報じたが、その直後から、ダニエル・Hは外国人に暴行されそうになっていたドイツ人女性を助けようとしてナイフで刺されたのだ、といううわさがインターネットを駆け巡った。警察が正式に否定してからも、うわさはとまらなかった。
さらに不思議なのは、事件3日後の29日、容疑者の逮捕状の画像がインターネットに出回ったことである。これはもちろん違法行為である。公開したのがおもに極右系のサイトやフェイスブックであったため、その関係者の関与が疑われ、極右政党「ドイツのための選択肢」に属するブレーメン州の市議会議員(ブレーメンは都市州のため市議会=州議会である)で、休職中の連邦警察官でもある人物が警察の家宅捜査を受けたが、彼は自分がリーク元であることを否認した。
結局ケムニッツ市を管轄するザクセン州のある法務官僚が情報提供者とわかり、停職処分を受けた。しかし、彼の政治傾向や動機など、背景が何であったのかはあきらかにされていない。
第3に不思議なのは、逮捕された容疑者のヨーシフが、嫌疑不十分で3週間後に釈放されたことである。彼は事件の現場にはいたが、ダニエル・Hへの暴行には加わっていなかったという。凶器とされるナイフ2本のうち、1本は見つかっておらず、もう1本からヨーシフの関与を示す証拠は採集されなかった。
ヨーシフの弁護士は逮捕そのものが不当であったという見方を示している。どうしてこのような誤認がなされたのかはあきらかではない。警察は、現場から逃走したイラク出身の難民で22歳になるファルハード・Aという人物が殺害に関与していたとし、9月4日以来公開捜査をおこなっているが、この人物はまだ捕まっていない。
第4に、まだ警察の公式発表がない段階で、「ニュー・ソサイエティ2004」というフーリガングループが、自分たちのフェイスブックでダニエル・Hの死に対する抗議デモを呼びかけたことである。そこには「俺たちの街、俺たちのルール」、「誰がこの街で発言権を持っているのか、みんなで一緒に示そう」と書かれてあった。
予告されたデモの開始時間は16時半、集合場所はケムニッツ市中心部の有名なカール・マルクスの巨大な胸像前。先に述べたように、この日は祭の最終日であったが、運営委員会は混乱を恐れて午前中で祭の行事の打ち切りを決めた。
第5の不思議は、この、わずか数時間前に予告されたばかりのにわか仕立てのデモが、とにもかくにも800人もの参加者を集めたことである。デモが事前許可を得ていなかったため、不意を突かれた警官隊は圧倒された。ビール瓶をぶら下げ、スローガンを怒鳴りながら市内を練り歩くフーリガンたちの映像がインターネットで拡散された。
このデモが引き金となった。翌27日の夜に右翼がデモを呼びかけた際には6000人が集まった。このときも弱体な警察はデモを制御することに失敗した。極右のネオナチたちは、右手をまっすぐ目の高さに伸ばすナチ式敬礼(ドイツでは違法である)をしたり、ジャーナリストたちにカメラを向けられると中指を突き上げたり、ズボンを下ろして尻を見せたりといった狼藉を働いた。
第6の不思議は、この当日(26日)の夜のデモの時に撮影したとされる映像についてである。携帯電話かスマートフォンのカメラで撮影されたとおぼしきその映像では、デモ参加者らしき複数の屈強な男たちが外国人のように見える2名の男性を追いかけ回し、「ゴキブリめ」、「歓迎しないぞ」とあざけり、後ろから足蹴にしようとするというものである。
この、「ケムニッツの人間狩り(Chemnitzer Hetzjagd)」として有名になった短い映像を、一体誰が撮影したのか。のちに、撮影者はある警備会社の従業員であると報じられたが、その会社は関与を否定している。ケムニッツ在住のある公務員の妻という説もある。
ともかく、アンジェラ・メルケル首相をはじめ多くの政治家やメディアが、一斉にこの「人間狩り」行為を批判した一方で、ザクセン州首相ミヒャエル・クレッチマーや連邦憲法擁護庁長官(当時)ハンス=ゲオルク・マーセンは、この映像の真贋に疑問を呈し、事態はそこまで深刻ではないという見方を唱えた。これに対し、現場にいたジャーナリストたちは「人間狩り」があったのは事実であり、それどころか実際には「ひとりのドイツ人の死に対し、ひとりの外国人の死を」というような移民の殺害を叫ぶ声まで上がっていたのだと報告している。
4.なぜケムニッツだったのか
なぜ、ひとつの殺人事件がこのように急速にニュースとなり、大きな騒動を引き起こすに至ったのだろうか。とくに驚くのは、ダニエル・Hの殺害に対する、極右勢力のあまりにも素早い反応ぶりである。筆者などは、実際はそうではなかったようであるが、事件そのものが彼らのデモンストレーションのために仕組まれたのではないかという疑問をもってしまったほどである。これはいったいどうして可能になったのだろうか。
これには2通りの説明が可能である。ひとつは、ケムニッツ市という都市の特殊な地域的事情に関わるもので、もうひとつは、ケムニッツの属するより広い地域、つまりドイツ東部とくにザクセン州という地域に関する構造的な説明である。
前者としては、ケムニッツでは以前からネオナチに代表される極右勢力が勢力を持っていたことが挙げられる。そのメンバーは1990年の東西ドイツの再統一の頃から150人から200人に達し、なかにはケムニッツを拠点にして全国に極右政治活動を展開していた「血と名誉(Blood & Honnor)」のような団体も存在した。
2000年から2006年にかけて各地で外国人連続殺害事件を起こしてドイツ全土を震撼させた狂信的な極右組織「ナチ地下運動(Nazionalsozialistischer Untergrund=NSU)が、結成の地イエナの次に根拠地としたのもケムニッツであった。これら極右グループの構成員は過激な者から穏健な者まで多岐にわたっているが、相互に連絡を保ち、左翼のグループと対立し、小競り合いや暴力事件を繰り返していたのだ。
さらに、ケムニッツ市には過激なサッカーファンであるフーリガンのグループが存在していた。その代表的なひとつ「フーナラ(HooNaRa)」というグループは、その名前が“フーリガン・ナチ・レイシスト”の短縮形であることからも明らかなように、ネオナチに強く傾斜していた。
この集団は2007年に解散させられ、メンバーは憲法擁護庁の監視下におかれ、グループとしてはスタジアムへの出入りが禁じられているが、それでもその勢力は「ナチ・ボーイズ(NS –Boys)」、「カオスなケムニッツ(Kaotic Chemnitz)」といったいくつもの集団にわかれてなお健在で、大きな影響力を持っている。
2018年の8月のデモに参加者を動員したのは、これらの極右政治グループやフーリガンたちであった。ドイツの地方都市は、どこでもサッカーの地元チームがあり、熱狂的な支持を集めている。試合のたびに市内や近郊から大勢のサポーターがバスや鉄道でスタジアムに駆けつける。なるほど、フーリガンたちであれば、あれほどの短時間に大量の人間を任意の場所に集めることも可能であっただろう。
5.なぜドイツ東部なのか、なぜザクセン州なのか
こうした極右勢力の勢力の存在と、それがフーリガングループとつながっていたことは、ミクロな視点からケムニッツの事件がなぜ起きたのかを説明してくれるが、では、なぜケムニッツを含むドイツ東部、ザクセン州にはこうした勢力が強いのだろうか。1990年までは東ドイツだったこの地域であるが、そもそも旧東独時代からネオナチが存在し、人種主義的な理由による外国人への敵意が広がっていたことが、最近ではわかってきている。
1970年代、労働力不足に直面した旧東独政府が、キューバやベトナムといった友好国から契約労働者の受け入れを始めると、その傾向は一気に強まっていった。外国人労働者は仕事ぶりが怠慢であるとか、整理整頓や清潔の習慣が異なっていて「気持ち悪い」とされた。こうした労働者は政府の方針として専用の宿舎で暮らしており、日常生活において近隣住民との接点がほとんどなかったことも、彼らへの反感や敵意を増幅した。
さらに、東独内部の政治状況や経済状態への不満が、そこに加わった。東独時代、外国人に対する暴力事件は決して珍しいものではなく、約20年のあいだに犯罪件数にして合計8600件、集団による暴力事件も220件、宿舎への襲撃事件ですら40件もあったという。しかし、国際親善を標榜していた旧東ドイツ政府は、こうした事実をひた隠しにしていたのである。
1990年のドイツ再統一後、冷戦終結にともない、旧ユーゴスラヴィアに代表される東欧からの外国人が、大挙してドイツにやってくるようになった。これが東ドイツが直面した外国人の第二の波である。
これをきっかけに、旧東独地域では外国人にたいする暴力事件がくり返されるようになった。外国人に対する暴力事件自体は、1992年に外国人アジール申請者の宿舎が放火されて3名が亡くなったメルンをはじめ、ゾーリンゲン、ケルンなど西ドイツに属する地域でも発生しているが、それと並んで中心となったのが旧東独地域である。
1991年にポーランド国境に近い工業都市ホイヤースヴェルダ(Hoyerswerda)で住民による同市居住の難民や外国人労働者に対する暴力事件があり、1992年8月にはロストック=リヒテンハーゲンでベトナム人労働者の宿舎が放火され、4日間にわたって警官隊とネオナチが激しい衝突を繰り広げた。この年にはブランデンブルク州のドルゲンブロットでも難民申請者の受け入れセンターが放火され全焼する事件があった。このときは、捜査の結果、極右勢力のメンバーであった犯人が住民有志から2000西ドイツマルクの金を渡され放火するよう依頼されていたことが発覚した。
そして、2015年夏に始まったヨーロッパ難民危機は、ドイツ東部地域を襲った第三の外国人の波だった。ザクセン州のハイデナウでは難民収容施設の設置に反対する住民と警察の衝突が同年8月21日から3日間にわたって繰り広げられた。2016年2月、同じくザクセン州のクラウスニッツでは、難民を乗せたバスを住民を含む過激グループが数時間にわたって取り囲み、罵声を浴びせた。
その二日後、ザクセン州バウツェンでは、難民の宿舎に割り当てられる予定だった建物が放火され、全焼した。そして今回のケムニッツ、ここもザクセン州である。ケムニッツは難民危機以後のドイツで続発した一連の外国人を対象としたヘイト犯罪としては今のところ最後のものであり、規模にしては最大のものである。
繰り返される外国人への嫌がらせや暴力事件のなかで、ザクセン州が舞台になることが多かった。このことの理由を、ザクセンの住民が過去の歴史のなかで体験し共有してきた独特の被害者意識・感情に求める見方もある。ドレスデンの政治学者ハンス・フォアレンダーによれば、その記憶は第二次世界大戦末期にさかのぼる。1945年2月13から14日にかけての夜、ザクセン州の首都ドレスデンは連合軍の集中爆撃を受け、一夜にして壊滅した。ドイツの敗戦が誰の目にも明らかな時期に、軍事目標がほとんど存在せず、大勢の避難民が集まっていた街に、民間人を標的にした残酷な攻撃が加えられたのである。
自分たちは戦争の無実の被害者であるという意識は、旧東独時代にドレスデン市民のあいだで固められた。さらに、1990年の再統一後は西ドイツ人が大挙してやってきて、旧東社会のなかの主要ポジションを独占し、主導権を握った。自分たちは大戦中は理由なくして被害者となり、統一後は二流市民として扱われた。こうした犠牲者意識と劣等感が、2015年以降の難民危機をきっかけに噴出してきたというのである(『シュピーゲル』2018年9月1日号による)。
6.「憂慮する」市民たち
ケムニッツをはじめとする外国人に対する暴力事件は、けっして一部の過激な極右の人間やならず者たちによって引き起こされたのではない。その背後に外国人に敵意を持ち、暴力に参加はしないまでも、それを容認する大勢の市民たちがいる。すでに上述のロストックの事件の際も、外国人労働者の宿舎が燃え上がると喝采を送った住民がいたし、なかには自宅にあった予備のガソリンを火炎瓶を作るためにネオナチたちに提供した者もいた。
この事件を描いた映画に、アフガニスタン系ドイツ人のブルハン・クルバニ(Burhan Qurbani)監督の「われわれは若い。われわれは強い。(Wir sind jung. Wir sind stark.)」(2014年)がある。そのクライマックス・シーンは強烈である。燃える外国人宿舎を取りまいた群衆から、いっせいに「われわれこそが国民だ!(Wir sind das Volk)」の叫びが上がる。このスローガンこそ、そもそも1989年に旧東独の社会主義政権を打倒した民主化運動が掲げたものだった。
当時、人びとは共産党の独裁に反対し、自らの手に民主主義を取り戻そうと行動を起こした。その同じスローガンが、たった数年のあいだに、なんと立場と意味を変えてしまったことか。ここはわれわれドイツ人の国なのだ、外国人は出ていけ、という意味で使われている。このスローガンこそ、今や8月26日のケムニッツをはじめ、一連の事件でも叫ばれているのである。
ドイツに暮らす外国人が増えすぎており、その存在がドイツ人にとっての脅威になりつつあるという意見は、ドイツ社会のなかで少数ではない。それはもはや一定程度の支持を集めていると言わざるを得ない。このことを最初に知らしめたのは、ティロ・ザラツィンという政治的経済人が2010年に発表した『自壊するドイツ(Deutschland schafft sich ab)』という著作であった。
その内容は、外国人とくにイスラム教徒に対する人種的な差別意識と、ドイツの経済的文化的優越に対する危機感とを、妙に高踏的な文体で混ぜ合わせたもので、発表されるや大きな物議を醸した。以前なら間違いなく著者は政治的社会的に抹殺されたであろう内容であったが、ザラツィン本人はドイツ連銀理事の職こそ失ったものの、その主張は一方的な拒絶や排除にはあわなかったのである。
さらに、こうした意見が決して少数ではなく、大衆的基盤を獲得しつつあることを明らかにしたのは、「西洋のイスラム化に反対する愛国的欧州人」という組織の広がりであった。頭文字を取って「ペギーダ」と自称するこのグループは、ネオナチに近い勢力によって2014年にドレスデンで創設され、2015年には難民危機を背景に一時は毎週1万人を越す支持者が集会に参加するほどの勢いになった。彼らは政府の難民政策を批判し、外国人から郷土を守れと主張した。
相前後してドイツの各地でもペギーダと同様の組織がつくられた。その後2017年ごろになるとペギーダ運動の勢いはピークを過ぎ、結局ドレスデンをのぞけばさほど大きな勢力にはならなかったが、このような名称と主張を掲げる団体がドイツで堂々と活動し、しかも一定程度の支持を集めたのは、これが初めてであった。ドイツで容易ならざる事態が進行中であることがこれで明白になった。
ザラツィンほど理論武装しているわけではなく、またペギーダほど行動的ではないにしろ、難民であれ労働者であれ外国人に対して警戒的な人びとは一定程度いる。彼らは自らを「憂慮するbesorgt」市民たちと呼んでいる。
この言葉は、2018年の夏頃、ケムニッツの事件とちょうど相前後して盛んに取りあげられるようになった。その主張は、「われわれは外国人に反対しているわけではない、しかし・・・」というフォーマットに集約される。自分たちは人種主義者ではない、しかし今のところドイツには外国人が増えすぎている。このままではうまくいかない。ドイツで暮らすからには最低限われわれのやり方・流儀には従ってもらわねばならない、というわけである。
こうした「憂慮する」多くのひとびとが、数の上では少数である極右勢力によるあからさまな外国人排斥の活動を下支えし、その温床となっているのである。
ドイツの女性ジャーナリストのカロリン・エムケは、ヘイト犯罪に関する著書『憎しみに抗って』(2016年、邦訳みすず書房、2018年)のなかで、2015年夏のクラウスニッツの事件について詳細に分析している。彼女によれば、難民を乗せたバスが同地の収容センターに到着したとき、その行く手を阻んで「われわれこそが国民だ」と叫び、罵声を浴びせたり唾を吐きかける真似をしたのは、およそ100人ほどの住民たちだった。
しかし、エムケによれば、その場には、第2のグループとして大勢の傍観者たちがいた。誰ひとり騒ぎを止めようとせず、その場を立ち去りもしない。傍観者がいることによって、バスのなかにいる人たちに対峙する群衆はその分、数が増えたことになった。彼らの存在は、暴徒たちをさらに勢いづかせることになったとエムケは主張する。「彼らはただそこに立って、わめく者たちを注視する場を形成している。その注視をこそ、わめく者たちは必要とするのだ。自身を『国民』だと主張するために」(同訳書51頁、一部改変)。
エムケによれば、「憂慮する」市民たちは、自分たちは人種差別や極右と一線を画しているように見せかけているが、その仮面の下にあるのは「異質なものへの敵意」である(同訳書38頁)。この考えは、経済的好況の影で格差が広がりつつあることへの不満と結びつき、難民受け入れを進めるメルケル政権に対する批判へと、さらに大手マスコミが事実を伝えていないというメディア批判へとつながっていく。
ドイツ東部には、このようなメンタリティがドイツの他の地域よりも強固に根を下ろしつつある。2017年7-8月の世論調査では、「連邦共和国は外国人によって危険な度合いにまで過剰に外国化(überfremdet)されつつある」という見方に賛成の意見が、ザクセン州では回答の56%にのぼった。62%が「当地で暮らしているイスラム教徒はわれわれの価値を受け入れていない」と考えており、38%が「イスラム教徒の移民を禁止すべきだ」という意見である。
7.極右政党とネオナチの結合
今回のケムニッツの事件では、ドイツで急速に支持を広めつつある極右政党「ドイツのための選択肢」(AfD)が大きな存在感を見せた。
AfDはギリシアの債務問題に端を発する欧州債務危機と、それに対するメルケル政権の対応への反対から2013年に結成された。その後、現政権への不満だけでなく難民流入による外国人増加への不安が高まると、それらの声を吸収して急成長し、2014年には州議会で初の議席を獲得し、2016年にはドイツ東部諸州の州議会選挙で25%に達する票を集め、2017年にはついに連邦議会に進出して第3党となった。
その主張はポピュリズム、ナショナリズム、新自由主義のまぜこぜになったものであるが、現状に不満や不安を持つ人びと、そして「憂慮する」市民たちの政治的な受け皿として、もはや無視できない存在である。
ケムニッツの事件6日後の2018年9月1日、AfDは、亡くなったダニエル・Dのための「葬送行進」と称するデモを企画した。参加者は黒服に白いバラを飾って弔意を表すこととされた。この「葬送行進」デモはいくらも進まぬうちに、極右団体「ケムニッツのために」の企画したもうひとつのデモと合流した。一応は議会制民主主義を尊重し、憲法と法の枠内にとどまることを明言する国政政党である「ドイツのための選択肢」が、明らかに既存の社会秩序に反対し、それに挑戦する極右団体と肩を並べて進む。ドイツ連邦共和国の歴史のなかでも空前の光景が出現したのである。
この、参加者数合計7000人を超えた「葬送行進」を企画したのは、ザクセンの隣のテューリンゲン州のAfD代表を務めるビェルン・ヘッケ(Björn Höcke)であった。彼は、AfDの次世代のリーダーとなるべき人材と目されている。
隊列がなかなか前に進まず参加者が苛立つと、ヘッケは自らマイクを握りドイツ国歌斉唱の音頭を取って人びとを鎮めながら進んでいった。デモ隊のなかにはペギーダのメンバーの姿も見られた。それもペギーダ創設者のルッツ・バハマン(Lutz Bachmann)、その右腕のジークフリート・デープリッツ(Siegfried Däbritz)といった幹部たちである。彼らは「われわれこそが国民だ」、「抵抗しよう」、「ドイツ人のためのドイツ」、「嘘つきメディア」、「メルケル辞めろ」といったいつものスローガンを叫びつつ行進した。
AfDもペギーダも、その内部に極右的な主張に対し反対ないし消極的なグループを抱えており、極右勢力とは微妙な関係を保ち、あからさまに連携することはこれまでにはなかったのである。しかし、その制約は今や取り払われつつある。
8.ドイツ社会の和解のレジリエンス
現在のドイツでは、「憂慮」に覆い隠されたかたちで他者に対する憎しみが横行しており、それは「権利を奪われ、社会から取り残され、政治的対応からも置き去りにされる人間の集団が生まれる前触れ」ではないのか、とカロリン・エムケは問うている(同訳書40頁)。
あるいはそうなのかもしれない。予断は許されない。しかし、状況はそこまで危機的ではないと思わせる要素もまた存在している。
それは、ドイツ社会には、和解のレジリエンスとも言うべきバランス回復の機能があるからだ。レジリエンスとは、元来は物質が外的な力を受けた際に元に戻ろうとする力を意味し、転じて心理学用語として個人の内面がストレスに抗して回復する能力として用いられていたが、最近では社会の危機的状況や災害からの機能回復や復興をさして使われるようになっている。
1990年代前半以来くり返されてきた外国人に対する暴力事件は、たしかにドイツ社会のなかに大きな傷を開けた。しかし、その傷口をただちに閉じ、苦痛を癒やし、社会の統合を再構築する動きが、随所で即座に自発的に出現するのだ。
それは、事件の起こった現場で犠牲者に哀悼の意を表したり、さまざまな場所で事件に抗議し反対の意を表明する集会やデモが開かれたり、さらにマスメディアによる検証番組や討論番組の放映、政治家や影響力のある人びとのきっぱりとした意見表明や演説・声明にいたるまで、さまざまなレベルでさまざまな形式でおこなわれる。最近では、ツィッターからフェイスブック、ブログ、ユーチューバーのエントリーといった多種多様なネット上の言説がこれに加わっている。
その内容は、犠牲者の追悼と暴力への反対、極右勢力や人種差別への反対、そして外国人との共生と連帯といったもので、1993年、ドイツ西部メルンの事件で外国人の犠牲者が出た際に、ドイツのあちこちの町でロウソクを持ったひとびとがデモをおこなったときから、この和解のレジリエンスは続いている。
2015年の難民危機のときには、到着する難民たちを人びとが物資や衣類を持ち寄ってあたたかく迎え、寄り添おうとする自発的な動きがドイツ各地で見られたが、このいわゆる「歓迎文化」も、レジリエンスのひとつのあらわれと言えるだろう。
この和解のレジリエンスは、今回のケムニッツの事件においても発動された。先に述べた2018年の9月1日の7千人を集めた「葬送行進」に対しては、左派が「扇動の代わりに心を(Herz statt Hetze)」と名付けた対抗デモを企画し、そこには1500人(一説には3500人)が参加したとされる。
さらに9月3日、ケムニッツ在住のロックバンド・クラフトクルプ(Klaftklub)の呼びかけで、人種主義、外国人敵視、そして暴力に反対する無料のコンサートが開催された。ファイネ・ザーネ・フィッシュフイレやマルテリア&カスパーといったロックやポップの人気バンドや歌手が出演したこのコンサートには6万5千人が集まった。コンサートの最後の曲はトーテ・ホーゼンが歌った“You’ll never walk alone”で、悲しみを乗り越えて先に進もうと呼びかけるこの歌を、聴衆は熱狂的に迎えた。
外国人を追いかけ回す人間狩りをおこなった者はたしかにいるが、それはほんの少数のならず者たちである。大多数の者は暴力に反対し、外国人との共生を望んでおり、そしてそれを行動によって示そうとしている。「われわれの方が多数である(Wir sind mehr)」というのが、このコンサートのスローガンであった。このスローガンはツィッターのハッシュタグとして拡散され、さらにケムニッツ市民は同名のフェイスブックで宿泊先のない市外からの参加者およそ2000人に自宅を提供したという。
この動きはケムニッツにとどまらなかった。9月5日にハンブルク市でおこなわれたデモ「右翼に反対するハンブルクの声」には、「ナチと人種主義者に対抗しよう」というモットーのもと1万人を超える人が集まった。同時に開催されたAfD、ペギーダ、フーリガンや極右団体による「メルケル辞めろ」デモの参加者は、警察発表によるとわずか178人だった。
数日後の9月9日には、首都ベルリンのオリンピック公園で、恒例のロックコンサートが7万人の参加者を集めて開かれた。アメリカのシカゴで毎年おこなわれる同種の催しにちなんでローラパルーザ(Lollapalooza)と呼ばれるこのコンサートは、本来非政治的な音楽フェスティヴァルであったが、このときばかりは違っていた。
「われわれの方が多数だ」というスローガンがここでも用いられた。ケムニッツのコンサートにも出場したアーティストが登場し、コンサートは期せずして極右と暴力に反対するイベントになったのである。そのひとり人気ラップ歌手のカスパーは舞台で叫んだ。「人種主義に反対するために、ファシズムに反対するために、差別に反対するために、みんなの中指を上に向けてくれ!」。
9.レジリエンスの動揺?
ケムニッツの事件に対して、ドイツ社会はこのような和解のレジリエンスを機能させることで、傷口を閉ざし、危機を乗り切ったかに見える。ドイツ社会の統合とコンセンサスはいま一度守られ維持されたのだろうか。レジリエンスは、万能のものとして機能しているのだろうか。
残念ながら、現実はそう簡単ではない。ケムニッツの事件とその顛末には、ドイツ社会のレジリエンスが動揺し変化しつつある兆候を見て取ることが可能である。これは、とくに事件に対する政治家の発言に見て取ることができる。暴力が振るわれたことに対しては、断固たる拒絶の意思を示すものの、外国人への連帯や共生社会への賛成を示す力強い言葉はそこにはほとんど聴かれず、むしろ難民を厄介者扱いし、非難するような発言が目立った。
野党自由民主党の副党首で連邦議会副議長のヴォルフガング・クビッキは、ケムニッツ事件直後の8月29日に、騒動の原因はメルケル首相が「われわれにはそれができる」と述べて難民を受け入れてきたからだと指摘して物議を醸したが、とくに批判はされなかった。
連立与党の姉妹党であるキリスト教社会同盟を率いるホルスト・ゼーホーファー内相は、かねてから難民問題をめぐってメルケル首相と対立していたが、9月6日に同党の議員たちに向かって、ケムニッツの市民が殺害事件に激昂したことは理解できるとし、AfDの勢力伸長をふまえて、難民こそ「すべての問題の母」だと述べた。この発言に対しては批判もあったが、賛成する論者もあった。
ゼーホーファーは、この発言の一方で、いくら激情に駆られたとしても、暴力を呼びかけたり行使したり、扇動することは言語道断であるとはっきり言いきっている。暴力の行使について煮え切らない態度を取ったり、はっきりと否定しない場合、ドイツ社会では激しく批判にさらされた。憲法擁護庁長官だったハンス=ゲオルク・マーセンがその好例である。
マーセンは、早い段階で8月26日にケムニッツで「人間狩り」があったかどうかは不明であると公に発言し、証拠となるビデオに対しても、その真贋について疑問を呈していた。極右団体の取り締まりの最高責任者が、このような極右に同情的とも取れる発言をしたことの反響は大きく、以前から極右勢力に対する捜査指揮のやり方の是非を問われたり、非公式にAfDと接触したりするなど、何かと問題を起こす人物だったこともあり、野党のみならず連立与党である社会民主党もマーセンを厳しく批判し、辞任を要求する事態となった。
第4次メルケル政権はキリスト教民主同盟・社会同盟と社会民主党との連立政権として難産のすえに2018年2月に発足したのであったが、それからわずか半年にしてこの「史上最小の大連立政権」は早くも危機に瀕したのである。両党は協議の結果、与党はマーセンを内務次官に異動させることで事を収めようとしたが、マーセンの手にする退職金の額と内務次官の俸給が報道され、この人事が実質的に栄転であることが暴露されると、ふたたび批判の声が大きくなった。次官ではなく内務省の特別相談役への就任が取り沙汰されるなど迷走の末、結局マーセンは2018年11月に休職させられた。
このように、レジリエンスにより今一度固め直されたドイツ社会の合意事項は、あくまで極右と暴力に反対するという内容にとどまり、外国人市民の増加や難民の流入についての賛成までも意味するものではない。これは暴力反対と移民歓迎がセットになっていた以前からの大きな変化である。
2016年の時点では、違っていた。当時、ザクセン州で相次いだ外国人への暴力事件について、ハイコー・マース内相(当時)は、「施設が焼けるのに歓声を上げたり、難民を死ぬほど怖がらせたりするのは最低の行為であり、きわめて不愉快だ」と強い言葉で非難したのであった。わずか1年間で政治家の発言に見られる落差は明らかであろう。外国人や難民に対する厳しい視線は、いまやドイツ社会の共通理解になりつつあるといえる。ここでは「憂慮する」市民たちの意見が通った形になっているのである。
10.おわりに――レジリエンスと「憂慮する」市民たちの今後
2018年の夏、ドイツ社会を震撼させたケムニッツの事件は、あとに一体何を残したのであろうか。
レジリエンスが見事に機能したにもかかわらず、極右による暴力事件は、その後もなくなっていない。当のケムニッツにおいてさえそうである。2018年9月14日には、ケムニッツで「自警団(Bürgerwehr)」を名乗る集団による外国人襲撃事件があり、1名が逮捕された。10月1日には外国人へのテロを計画していたとされる「革命ケムニッツ(Revolution Chemnitz)」を名乗る団体が摘発され、メンバー8名が一斉逮捕されている。それでも極右勢力の蠢動はやまず、難民の襲撃が計画されている形跡があると憲法擁護庁は警告している。
AfDの躍進は、ケムニッツ事件のあとも止まっていない。ヘッセン州そしてバイエルン州と続いた2018年秋の2つの州議会選挙において同党は大勝を博し、それまでの無議席から両議会それぞれで20前後の議席を獲得して第4党になった。
政治的には、事件はマーセンの人事問題へと陳腐化され、それを煙幕として幕引きされてしまった観がある。その陰で、難民危機から「憂慮する」市民たちの増加、そしてAfDの止まらぬ躍進、という展開をたどるなか、長期政権を率いるメルケル首相の求心力の低下は明らかである。
2018年10月末、メルケルは与党キリスト教民主同盟の次期党首選に出馬しないことをあきらかにした。党首と首相の職を分け、後者は2021年の任期満了まで続けるというのである。このときドイツのマスコミでは、メルケルはそうは言っても早晩首相辞任を余儀なくされるのではないかという観測が主流であった。
しかし、この予想は外れた。2018年12月のキリスト教民主同盟党首選は、主として二人の候補によって戦われた。ひとりはメルケルのかつてのライヴァルで、2009年に権力抗争に敗れて党執行部から下野し、雌伏の時を過ごしていたフリードリヒ・メルツである。もうひとりはザールラント州の首相をつとめて脚光を浴び、メルケル自身が党幹事長に抜擢したアンネグレット・クランプ=カーレンバウアー(Annegret Kramp-Karrenbauer、名前が長いのでAKKと呼ばれる)であった。
選挙結果は、はたしてメルケルの後継者であるAKKの勝利に終わった。キリスト教民主同盟は、メルケル路線の継続を明確に選択したのである。これにより早期退陣の目はなくなり、メルケル政権はとりあえずは土俵際で踏みとどまることができた観がある。しかし、これが嵐の前の静けさではないと、誰が言えるだろうか。
「憂慮する」ことが当たり前になりつつあるドイツ社会では、外国人に対する大小の暴力事件は、残念ながら今後も完全にはなくならないだろう。ケムニッツのような感情的な暴発もまた予期されるところである。
しかし、そうした事件のあと、今後も和解のレジリエンスが発動されることもまた確実である。多くの人が自発的に立ち上がり、街頭に出て、あるいはネット上で暴力にノーを叫ぶだろう。多くの抗議声明が出され、評論家は口角泡を飛ばして論じ、政治家は美辞麗句をちりばめた名調子で事件を非難し、今後の再発防止を誓うだろう。
しかし、もしかすると、和解のレジリエンスは、ひとびとの善意と真心を借りて、外国人への暴力事件がひとたびあったとしても、その衝撃を緩和し、社会を何事もなかったかのように修復してしまう魔法の道具、一種の通過儀礼にすぎなくなっていくのかも知れない。そうなれば、やがてはAfDや極右さえ、何食わぬ顔でレジリエンスに参加していくようになるかも知れない。
とはいえ、このようなドイツ社会のレジリエンスのあり方は、何かの事件が起こるたびに、お茶の間の賞味期限が過ぎるまではさんざんにマスコミが取りあげ、プライヴァシーを無視した取材をおこない、面白おかしく報道し、話題を独占しておいて、その後何の反省もなく完全に忘れ去られる社会より、どれほどいいか知れない。それはドイツ市民社会の本領発揮であり、精華である。
(2019年3月21日加筆)
2019年3月18日、ドレスデンのザクセン州立裁判所で、ケムニッツ殺人事件の容疑者の裁判が始まった。これをきっかけに、昨年夏の事件はもう一度ドイツ世論の注目を浴びることになった。
裁判の行方は不透明である。この裁判にはいろいろ不備な点があり、事件の真相を究明するにはほど遠いのではないかという懸念が表明されている。殺人と殺人未遂、そして傷害の共同正犯として起訴されたのは結局アラー・Sのみであり、もうひとりの容疑者で、その後の捜査で主犯とされるにいたったファルハード・Aは国外に逃亡し、国際手配にもかかわらず現時点で訴追を免れている。凶器のナイフは1本しか見つかっておらず、そこからアラーの指紋やDNAは検出されなかった。またアラーがナイフで被害者を刺すところを見たという目撃者証言も疑問視されている。
もうひとつ、公判にむけて明るみに出た事実もある。このアラーはクルド系シリア人で、仲間内では「イヴァン」(クルド語で美男子の意)と呼ばれるほどハンサムな青年であり、勤め先の理髪店での評判も良かったという。さらに、事件の発端は、ファルハードが被害者ダニエル・Hからコカインを買おうとして口論になったことにあるとわかった。ファルハードはマリファナの所持販売で逮捕歴があり、事件当時麻薬を服用していたという証言もある。ダニエルが日頃コカインを常用していたことは遺体解剖で確認されている。あの夏の夜、街が祭りに浮かれる中、彼らはそれぞれ友人と会ったり食事をしたりしたあと、おそらく偶然に現場に行きあわせた。ファルハードとダニエルが知り合いだったかどうかはわかっていない。
こうして、事件発生当初流布していたような、犯人=難民=悪、被害者=ドイツ国籍取得者=善といった図式は修正を余儀なくされている。ただ確実なのは、亡くなったダニエルも、容疑者のファルハードもアラーも、そして一時容疑者として逮捕されその後釈放されたヨーシフも、さらに事件に関与または目撃者として警察の取り調べを受けた100名を超えるひとびとの多くも、ドイツ社会ではもはや珍しくもない外国出身の人であったことである。このケムニッツの事件は、どちらかが善でどちらかが悪と言うことはなく、彼らドイツで言うところの「移民の背景を持つ」普通の人びとの、日常の、そして悲劇に終わったひとつの物語だったのである。
しかし、今回のドイツのメディアの関心が殺人事件に集中し、その後ドイツ国内にあれだけ大きな騒ぎを引きおこした極右の暴力の問題にはほとんど触れていないのは、一体どうしたことだろうか。
ケムニッツの極右勢力は今も健在である。昨夏の騒動で悪名を轟かせたケムニッツのフーリガングループ「フーナラ」の創設者でネオナチの大物とされる人物が先頃死去したが、ケムニッツの地元サッカークラブは追悼セレモニーを試合前に大々的に執り行い、また裁判開始と同じ3月18日におこなわれた埋葬式には千人を超える人が集まった。ケムニッツで燃え上がった火は、まだ消えていない。
プロフィール
辻英史
1971年京都府生まれ。東京大学大学院総合文化研究科修了。博士(学術)。専門は近現代ドイツ史。法政大学人間環境学部教授。2017-18年ミュンヘン大学客員教授。主な業績に、『社会国家を生きる』(共編著、法政大学出版局)、『歴史のなかの社会国家』(共編著、山川出版社)など。