2011.05.03
世界でもっとも危険な原発、アルメニア原発
福島第一原子力発電所での事故を受け、世界で、自国の原子力発電所の再チェックと対策強化を進めるとともに、原発計画を見直したり、凍結したりする動きが強まっている。特に、4月26日には、旧ソ連のチェルノブイリ(現在は、ウクライナに位置)原発事故から25周年を迎え、欧州、旧ソ連各地で追悼行事が行われたことも、原発廃止論をさらに勢いづかせた感がある。
しかし「やめたくてもやめられない」事情を抱える国も少なくない。
やめられない「持たざる国」
財政難の旧ソ連諸国は、原発をやめたくてもやめられない懐事情がある。原発は、やはり、コストが抑えられるだけでなく、国際的要因を受けることもなく(ウクライナ・ロシアのガス紛争に象徴されるように、旧ソ連では政治問題にエネルギーカードが切られることが少なくない)、きわめて安定的な電力源となっているからである。
チェルノブイリを抱えるウクライナのアザロフ首相も、金持ちの国だけが原発閉鎖の可能性を議論できると述べている。同国では、4つの原子力発電所があり、15基が稼働中で、国内の電力需要の約半分を支えている。さらに、2030年までに11基が増設される模様だ。ウクライナでは、比較的安価に安定した電力を得られる原発のメリットは危険性を上回ると考えられており、もっとも現実的な方策とみなされている。
それは資源を有さず、国境の約80%を、敵対しているトルコとアゼルバイジャンに囲まれて、陸の孤島となっているアルメニアも同じである。
他方、ロシアは「多くの国では原発抜きでのエネルギー政策は考えられない」という立場にもとづき、中小国への原発プラントの輸出を推進する考えを示している。3月15日にロシアがベラルーシに原発建設の協力を約束したことはその一例だ(ただし、ロシアはトルコやイランをはじめとした地域大国への原発計画の支援も熱心に進めている)。
しかし、そのようななか、アルメニアの原発への危機感が世界で強まっている。
アルメニアの原発と地震
アルメニアで原発といえば、首都エレバンから西方約30キロメートルのメツァモール村にある、メツァモール原子力発電所をさす。同発電所は、ソ連型軽水炉(VVER-440)2基からなり、出力はそれぞれ40.8万キロワットで、1号機は1977年から、2号機は1980年から操業を開始した。
アルメニアはそもそも地震が起こりやすい土地柄であったため、同発電所は通常のソ連型PWR(VVER-440/V-230)に耐震補強を行ったV-270型とされ、震度階6以上の地震で緊急防護装置が作動して自動的に停止する設計となっており、震度8までの地震には耐久できるように建設されていた(なお、ソ連政府は、震度9以上の地震が想定される場所での原子力発電所の建設を禁じていた)。
このようにかなり大きな地震にも耐久できるよう建設されたアルメニア原発であったが、大きな地震に直面すると、想定外のことが発生してしまった。1988年12月7日にアルメニアの第二の都市レニナカン(現、ギュムリ)市から東方50キロメートルの地点で、マグニチュード6.9(震源の深さは3キロメートル)の地震(スピタク大地震)が発生したのである。
首都エレバン市では大きな被害はなかったが、人口29万人のレニナカン市は町の75%が、人口16万人のキロバカン市では町のほぼ半分が、そして人口7万人のスピタク市では町全体が壊滅的被害を受けた。こうして、25,000人を超す犠牲者が出て、50万人が家を失った。
この地震の際、震源地から75キロメートルのメツァモール原発では、5.5の揺れを観測したが、上述のように、震度6以上で自動停止するように設計されていたため、地震が起きても原発は正常に運転していた。つまり、地震による被害はなかったと思われる。しかし、じつはその地震の際に、メツァモール原発からスタッフが逃げてしまい、原子炉加熱の危機も生じていたのである。
ソ連原発計画への地震の影響とメツァモール原発の閉鎖
また、この地震はソ連の原発政策に大きな影響をもたらした。同年12月23日に、ソ連のルコーニン原子力発電相(当時)は、敷地が不適切であることを理由に、6か所の原子力発電所の建設計画を放棄することを発表したのだ。
その決定によって、アゼルバイジャン、グルジア、南ロシアのクラスノダールにおける計画が白紙とされ、設計上の安全問題を理由に白ロシア(現在のベラルーシ)のミンスクとウクライナのオデッサで建設中だった熱供給用原子力発電所計画が途中放棄されることになり、アルメニアのメツァモール原発で予定されていた2基の追加建設計画も取り消された。
そして、既述のように、地震による直接の被害はなかったものと思われるのだが、旧ソ連の閣僚会議は「アルメニア原子力発電所の停止と対コーカサス諸共和国の電力供給の保証措置について」という決議を採択し、メツァモール原発の1号機を1989年2月25日に、同2号機を同年3月18日に運転停止にすることを決定した。それとともに、原子力に関連する省庁が、1989年末まで停止した原子炉の安全確保、建造物の耐震性を向上させる措置を取ることを義務づけた。
なお、メツァモール原発の運転停止は、地震が発生する前の1988年10月にはほぼ決定されていたという。というのも、1986年のチェルノブイリ原発事故以来、同原発に反対する運動が高まっており、後述のように、ナゴルノ・カラバフ問題でナショナリズムが高揚し、抗議行動を繰り返していたアルメニアの民衆が運転停止要求を行っていたからである。
また、ソ連としても、チェルノブイリ原発事故で諸外国にも多大な迷惑をかけたため、安全性が保てない原発計画については、放棄したり、安全性を高める必要性を強く感じていた。
メツァモール原発の立地は耐震という観点からはきわめて悪く、同原発の近くには5つの断層があり、とくにそのうち3つの断層との距離は、500メートル、16キロメートル、34メートルとかなり近い。また、同原発は、ソ連が1970年代に開発した、第一次格納容器をもたない第一世代型の加圧水型原子炉であり、同タイプの原子炉は5基現存するが、すべて、設計寿命を超えているか、終えようとしており、ヨーロッパの安全基準には適合していないことも、閉鎖を早めたとされている。
アルメニア地震とナゴルノ・カラバフ問題
若干脱線するが、後述するように、アルメニアが原発に固執しつづけなければいけない理由のひとつにもなるので、アルメニア地震とナゴルノ・カラバフ紛争の関係について簡単に触れておきたい。
本稿では詳述しないが、ナゴルノ・カラバフ紛争とは、ソ連時代末期に、アゼルバイジャンに属していたナゴルノ・カラバフ自治州(当時)で多数派を占めていたアルメニア系住民が、アルメニアとの統合運動をはじめたことに端を発する。最初は平和裏に運動が進められていたが、次第に双方のナショナリズムがヒートアップし、1988年2月のスムガイト事件を機に、両民族間の対立は武力紛争化した。
ソ連解体後は、アゼルバイジャン、アルメニアの戦争に発展したが、結局、1994年にロシアの仲介により停戦に至り、以後、アルメニア系住民が、ナゴルノ・カラバフとその周辺地域を含む領域、アゼルバイジャン領の20%近くを占拠しつづけている。停戦状態といっても、しばしば小競り合いが起きており、毎年、死傷者が多く出ている(ナゴルノ・カラバフ紛争の詳細は、拙著『旧ソ連地域と紛争: 石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会、2005年)などを参照されたい)。
そして、この地震は、ナゴルノ・カラバフ紛争をより先鋭化させることにつながった。
まず地震が発生すると、アルメニアでは、アゼルバイジャン人が地震兵器を使って、人工地震を起こしたのだという説がまことしやかに囁かれた。他方、アゼルバイジャンの過激なナショナリストが、アゼルバイジャンとアルメニアのあいだを運航していた列車(現在は廃止されている)に、「地震おめでとう」というような文言を書いたことが、アルメニア人を激昂させた。
だが、アゼルバイジャン人のなかにも多くの良心をもった者がおり、「地震とナゴルノ・カラバフ問題は別。困っているときは助け合おう」ということで、かなり多くのアゼルバイジャン人が献血に協力し、大量の輸血用血液がアルメニアに送られたのだが、アルメニア人が「アゼルバイジャン人(ムスリム)の血を体に入れるくらいなら、死んだ方がマシだ」と、拒否したため、善意のアゼルバイジャン人までもがアルメニア人に対し、激しい怒りを覚えることになった。
このような経緯により、ナゴルノ・カラバフ問題の武力紛争化と泥沼化が決定的になったともいえるのである。
寒い冬の経験
他方、原発を止められたアルメニアでは、人々が極寒の困窮した生活を強いられることとなった。
じつは、アルメニアは隣国トルコともきわめて緊張した関係をもっている。1915年のオスマントルコによるアルメニア人大虐殺問題に加え、トルコ人とアゼルバイジャン人は同じテュルク系民族であり、トルコがナゴルノ・カラバフ問題でアゼルバイジャンを支援しているということもある。
そのため、アルメニアは国境の約80%が閉鎖されている状態なのである。アルメニアはエネルギー産出国の隣国アゼルバイジャンからエネルギーを輸入することもできない。アルメニアは自国に化石燃料をもたないが、紛争によって、アルメニアは化石燃料をまったく輸入できない状況となった。
自国に資源をもたず、利用できる国境もかぎられているアルメニアにとって、原発がないなかでの電力確保はきわめて困難な問題だった。6年半にもわたり、アルメニア人は極度の電力不足の状況を耐え抜いた。
他方で、民族意識とプライドが高いアルメニア人は、弱音を吐くことを嫌った。アルメニア人は、電気のない不自由な生活を強いられることになり、とくに厳しい冬の寒さの思い出が、アルメニア人の原発保持論の強い礎となっているのである。
メツァモール原発の運行再開
そして、1991年末に旧ソ連から独立し、主権国家となったアルメニアは、ソ連の政策の縛りから解放され、地震でメツァモール原発の方針を決めていくことになる。既述のように、エネルギー不足が深刻化したことから、アルメニアは、同発電所の運転再開と、場合によっては、新規発電所を建設するための西側諸国の資金および技術支援を要請した。
そして、当時の欧州共同体(EC)の対独立国家共同体対技術支援プログラム(TACIS)の一環として、フランスのフラマトム社が1992年末に運転再開の可能性調査を行い、その結果を受けて、アルメニア政府は1993年4月、正式にメツァモール原発2号機の運転再開の方針を決定し、米・ベクテル社、仏・フラマトム社、露・エネルゴアトム社などから技術支援を得て、1995年11月に運転を再開したのだった。
とはいえ、チェルノブイリ原発事故により多大な被害を受けた欧州諸国は、決して快く原発再開を認めたわけではなかった。アルメニア国内や欧米の環境団体などからから激しい反対を呼び起こしただけでなく、欧米諸国もつねに閉鎖を要求してきた。95年の再開については閉鎖を前提とした時限的措置ということで強行されたのである。
そして、欧州連合(EU)とアルメニアは1999年末に、2004年までにメツァモール原発を閉鎖するという条件で、EUが資金援助を行うということで合意をしていた。そして国際原子力機関(IAEA)も、10年以上前から同原発の安全性向上に向けて活動をつづけてきた。
しかし、2004年までに同原発が閉鎖されるには至らず、EUが派遣した特使は、同原発を「EU全体にとって危険な存在」と判断し、EUは原発閉鎖に2億ユーロ(約240億円)の資金援助を申し出た。
だが、アルメニア側は、第一に代替の電力源なしにメツァモール原発2号機の閉鎖はできない、第二に同機は運転再開以来、IAEAの勧告に従って、耐震性や冷却機能の強化などの安全対策が1400点ほど講じられて(なお、この安全策の強化のために、アルメニアは約1億3千万ドルを米国、EU、ロシアなどから支援されており、ここ2年以内にさらなる安全強化のために2千500万ドルが使われる予定である)、安全性が確立されている、という理由を主張してEU側の資金援助を断り、代替電源が利用可能になるまでメツァモール原発2号機を運転するという決定をしている。
また、このころから米国政府も同原発の老朽化と危険性を指摘し、新規原発計画を進めるために調査に着手しだした。いくらアルメニアが同原発の安全性を飛躍的に改善させたといっても、メツァモール原発は、チェルノブイリ原発と「格納容器」を保持しないという共通点があり、そのことを諸外国は危惧しているのである。
そして、2007年4月に、アルメニア政府は今後の原子力開発計画を発表し、操業停止中のメツァモール原発1号機の運転再開は行わないが、同原発2号機の運転を継続し、新規原子力発電所の建設を2012~2013年までに最終的に決定するとしていた。
こうして、メツァモール原発2号機は、2007年には25億5,000万kWhを発電し、総発電電力量に占める原子力発電のシェアは43%となった。アルメニアのエネルギー政策において、きわめて重要な位置を占めるようになっている。老朽化した原子炉一基に国家のエネルギーの半分近くを依存する国はほかに例がないという。
アルメニアは現在、新世代の大規模なロシア型軽水炉「VVER 1000」を50億ドル(約4200億円)かけて着工する計画を進めており(2009年にロシアとアルメニアのあいだでジョイントベンチャーが設立され、50億ドルを見越した同プロジェクトの「技術財政協力」について2010年8月に両国政府が合意した。なお、2010年11月に、米国政府が同国企業の同プロジェクトへの参加についての関心を表明している)、2017年までに国際基準を満たしたかたちで新原発を完成させるとしている(ただし、数年間遅れると述べている者もいると言う)。VVER 1000は格納容器を備えているが、建設予定地が地震多発地帯であるため、福島第一原発事故を受け、反対論が強まっているようだ。
なお、ロシアから輸入された核燃料の代金が未払いとなっていたことから、2003年に燃料供給を条件に、アルメニア原発の財務管理やエネルギー関連のインフラの多くが、ロシアロシア統一電力システム(RAO UES)やその子会社などの支配下に入った(本件に関連し、「本日の一冊」中の拙稿も参照されたい)。
アルメニア原発への懸念
しかし、福島第一原発事故は、メツァモール原発に対する閉鎖論を強めることになった。英「インディペンデント・オン・サンデー」紙が、福島第一原発事故後に行った調査にもとづき、世界に442カ所ある原発のうち10カ所が、地震によって放射性物質をだす事故を起こす危険性が高いことを発表したが、メツァモール原発も含まれていたことも、周辺国の危機感を強めることになった。現在、同原発が世界でもっとも危険であるという論調もナショナル・ジオグラフィックはじめ、世界の複数メディアでみられた。
同原発から国境まで16キロメートルというトルコは、事故があった場合は、甚大な被害がトルコに及ぶとして、危機感をとくに強めている国のひとつである。
そして、隣国でもあり、アルメニアとナゴルノ・カラバフ問題を抱えるアゼルバイジャンはきわめて厳しい反応を示している。専門家はその危険性を強く指摘し、万一事故があった際のアゼルバイジャンに及ぶであろう被害についても警告している。そして、首脳陣、外務省、環境天然資源省、国会議員などが、国際会議や諸々の公の場で、アルメニアの原発はIAEAの基準でもっとも危険なもののひとつだとして、閉鎖の要求を繰り返している。
また、隣国グルジアや英国の専門家も通常時であればメツァモール原発の操業は問題ないが、東日本大震災規模の地震が起きた場合には、問題が生じる可能性が極めて高いとして危機感を表明している。また、グルジアで行われた意識調査では、86%の回答者がアルメニアの原発はグルジアにとって危険であると回答した。グルジアでは大統領に対し、同原発の安全性について、アルメニアの首脳陣と話し合うべきだとする声も上がっているという。このように、アルメニア原発には諸外国が危機感を強めている。
そして、アルメニアの専門家も、同原発の技術的な安全水準はかなり高いとはいえ、地震について考えると立地条件が最悪だと主張している。また、同原発の放射性物質漏えいに関しては、脆弱な面があるという指摘もある。
しかし、アルメニア政府は、日本とアルメニアの状況はまったく異なる上に(とくにアルメニア政府は、福島第一原発の事故の主要因は地震ではなく津波であると強調している感がある)、メツァモール原発の冷却システムは日本のものより優れていると主張している。同国のティグラン・サルキシャン首相も、福島の事故はアルメニアの原発計画を妨げないとして、新原発の建設計画も予定通り進めていくことを公言している。とはいえ、同氏は、アルメニア政府も、自国の専門家のみならず、国際的に専門家を招いて安全性を再査定し、安全基準向上のためにとりうる手段はすべて取るということも表明している。
また、アルメニアはこれまで再生可能エネルギー開発などにも取り組んできたが、すべて失敗しており、やはりメツァモール原発を存続させながら、新規の原発建設をより早く終わらせるというシナリオ以外はとりえない状況だ。より安全にアルメニアが原発の計画を進められるよう、欧米諸国の支援もますます求められていくことだろう。
推薦図書
本書は、資源大国ロシアの経済を、ロシアおよび旧ソ連諸国の石油・ガスの問題との関わりや関係する多くの分野から多面的に検討したものである。これらにより、旧ソ連の経済とエネルギー問題の関わりが浮き彫りにされることだろう。原子力発電とは直接関係のない話であるが、旧ソ連を取り巻くエネルギー問題のありようを理解するにはもってこいである。また、本書中の拙稿は、南コーカサス三国の石油・天然ガスの問題を取り扱っており、本稿の理解を助けるものとなると思う。
プロフィール
廣瀬陽子
1972年東京生まれ。慶應義塾大学総合政策学部教授。専門は国際政治、 コーカサスを中心とした旧ソ連地域研究。主な著作に『旧ソ連地域と紛争――石油・民族・テロをめぐる地政学』(慶應義塾大学出版会)、『コーカサス――国際関係の十字路』(集英社新書、2009年アジア太平洋賞 特別賞受賞)、『未承認国家と覇権なき世界』(NHKブックス)、『ロシアと中国 反米の戦略』(ちくま新書)など多数。