2025.01.07
核兵器問題をめぐる日本の立場:唯一の「被爆国」であるアメリカの「同盟国」の実相
はじめに
2023年5月、G7広島サミットが開催された。そこで挙げられた成果の1つとして、核軍縮に焦点を当てた初めてのG7首脳文書である「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」が発出されたことは記憶に新しい。この文書において、G7は、核抑止が西側諸国の防衛において少なからぬ役割を果たしていることを認め、規範にのみ基づいた性急な核軍縮を追求しないということを示し[注1]、核兵器をめぐる問題は、核抑止か核軍縮かという二者択一の問題ではないという認識を明らかにしたのであった。
核抑止依存と核軍縮の推進という2つのベクトルは共存可能だという考えは、従来から日本外務省が示してきたものでもある。外務省は、「日本が核軍縮を追求することと、当面アメリカの核抑止に依存しつつ国の安全保障の確保という最重要の責務を果たしていくことはなんら矛盾するものではない」との見解を示している[注2]。「核兵器のない世界」の実現に至る道のりにおいても、核兵器が使用されることは避けなければならないため、核抑止力を含むアメリカの拡大抑止は不可欠だというのがその根拠だ。
しかしながら、核兵器の存在を前提とし、それに依存する形での安全保障の確保と、究極的に核廃絶を目指す核軍縮外交を同時に追求することは論理的に難しい。ゆえに、日本の核兵器問題に対する姿勢は、核抑止依存と核軍縮外交のジレンマであり、矛盾していると評されることも多い[注3]。事実、核抑止の役割を肯定した「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」対して、被爆者や市民団体からは「落胆の声」が相次いで示された[注4]。
では、核兵器問題において、日本がこのように矛盾するようにみえる立場を取っていることをどのように理解すればいいだろうか。本稿では、日本が核兵器問題に対して有する2つの立場――反核および核軍縮推進を指向する「被爆国」としての立場と、アメリカの日本に対する拡大抑止の信頼性向上を目指し、自国の安全保障を優先する「同盟国」としての立場に着目しながら、核兵器問題における日本の政策の二面性について整理してみたい。具体的には、この2つの異なった側面が意識され出した1950年代と、核兵器をめぐる抑止と軍縮のジレンマが実体として表出してきた1960年代後半から70年代に焦点を当てる。
その際、本稿では外務省、なかでも主として軍縮室(課)の見方や立場、考え方に着目し、分析を進める。冷戦期の外務省においては、軍縮と安全保障は別個に扱われており、米ソ軍備管理交渉の主管は軍縮室(課)だったからである[注5][i]。安全保障課とのやり取りはあまりなかったという[注6]。
こうした分析を踏まえた上で、現在に至るまでの経緯を概観し、最後に歴史的な知見が今日の核兵器問題をめぐる日本外交にもたらすインプリケーションに迫る。
2つの立場を両立する困難さを認識した日本
まず、そもそもいつから日本政府は、核兵器問題をめぐって2つの相反する立場を意識するようになったのだろうか。それは、1950年代の核実験をめぐる問題に遡る。特に、1954年3月にアメリカがビキニ環礁で行った水爆実験によって日本漁船の乗組員が被曝した問題、いわゆる第五福竜丸事件がその発端であった。
当時の吉田茂政権は、一貫してアメリカの核実験を支持する方針を示していた。米英のソ連に対する軍事的優越が日本にとっても重要であり、核実験に対して抗議を行うことは、自由主義陣営の団結にも水を差すと考えていたからである[注7]。
これに対し、国内世論は全く異なる反応を示していた。広島・長崎の経験と相まって、反米感情や核兵器に対する拒否感情が渦巻き、それが「国民感情」として表出したのである。1955年に原水爆禁止日本協議会(原水協)が発足したのは、その象徴といえる[注8]。
ここに、日本の核兵器に対する2つの異なる立場の萌芽がみてとれる。その後も、核実験を巡って鳩山一郎政権、岸信介政権は、対米協調路線と国民感情の双方を考慮するだけでなく、さらには左派勢力との主導権争いという国内政治問題を勘案しながら、外交を展開してゆくのであった[注9]。
では、どのように核兵器に対する2つの背反する立場を均衡させればいいのか。外務省は、両者の両立に頭を悩ませていた。一方では、この頃までに外務省は、核兵器が世界の「安定」に果たす役割を認めるようになっていた。1957年に初めて刊行された『わが外交の近況』には、「一応の平和」や「不安定な平和」が核兵器等の近代兵器によって生み出されたという認識が示されている[注10][ii]。他方、核実験の制限を求める国内世論にも応えなければならない。そこで、外務省が考えたのが、核兵器の扱いを意図的に「実験」と「保有」とに分ける「分離論」を追求するという日本外交の方針であった。核兵器を保有することと実験を行うことを区別し、「早期に核実験の停止を実現させて国内世論の期待に応えつつ、保有の問題を不問」にすることで、「日本の安全保障への悪影響を最小限に抑えよう」と試みたのである[注11]。
以上を踏まえれば、1950年代後半には、外務省は核兵器問題をめぐって2つの相反する立場を意識しており、双方の要請に同時に応えることの難しさを認識していたといえよう。
とはいえ、この時期の日本政府にとって、アメリカの「核の傘」に依存するというのは、あくまでも「黙示」政策に過ぎなかった[注12]。1960年代末以降、日本の「核の傘」への依存が「明示」政策となると、日本の核兵器に対する2つの相反する立場をめぐる問題が、より明らかな形で表出してくることとなる。
日本政府による「核四政策」の表明と米ソ戦略兵器制限交渉(SALT)の開始
1960年代末、日本の外交当局者は、核抑止と核軍縮の問題をより一層真剣に考える必要性に迫られた。1968年1月、佐藤栄作首相が初めてアメリカの核抑止力に依存するということを明示的に宣言したものの、その翌年、アメリカとソ連が戦略兵器制限交渉(Strategic Arms Limitation Talks: SALT[注13])を開始したためである。
1968年1月、佐藤首相は、前年12月に示した非核三原則(核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず)を踏まえたうえで、「核四政策」を表明した。それは、日本の核政策として①非核三原則を遵守する、②実行可能なところから核軍縮に注力する、③国際的な核の脅威に対しては、アメリカの核抑止力に依存する、④核エネルギーの平和利用に取り組むというものであった[注14]。日本政府によるアメリカの核抑止力依存という方針が、ここで初めて明確に宣言されたのである。「黙示」政策が「明示」政策に変わった瞬間であった。
この時期に政策が転換した背景には、中国の核兵器開発と核不拡散条約(Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons: NPT[注15])をめぐる交渉進展があった。これらの変化が、日本政府によるアメリカの核抑止依存の「明示化」に与えた影響については、黒崎輝が以下のように指摘している。
「日本の隣国である中国が核保有国への道を邁進する一方で、核保有国のさらなる増加を防止するための国際条約作りが進行した結果、日本政府は核兵器を持たない日本の安全をいかに確保するかという課題に直面し、それに対する明確な政策方針を表明する必要に迫られていたのである[注16]」。
しかしながら、その翌年、早速日本の外交当局者は核抑止と核軍縮のジレンマに直面することとなってしまう。NPT締約国に対して、誠実に核軍縮交渉を行う義務を規定したNPT第6条に則る形で、アメリカとソ連という核超大国がSALTを開始したからである。これは、核兵器問題にジレンマを抱える日本政府を悩ませるものであった。
一方では、「被爆国」として核軍縮を願う立場から見れば、SALTは核兵器に制限をかけるものであり、何しろ戦後初めての米ソ核超大国間による二国間核軍備管理交渉という点で歓迎できるものであった。他方、「同盟国」としての立場からすると、SALTは日本に対するアメリカの拡大抑止の信頼性に悪影響を及ぼす可能性があった。SALTが、アメリカの核兵器にも制限をかけるものだったからである。特に、佐藤がアメリカの核抑止力に依存するということを公言した翌年というタイミングであったことを考えれば、SALTは外交当局にとっては大きな懸念材料であり、心理的インパクトは大きかったに違いない。
このようにして、日本の外交当局者は「被爆国」と「同盟国」という2つの立場に基づく背反する要請をいかに同時に満たすかという難問に直面しながら、SALTへの対応を迫られることとなった。では、こうしたジレンマに直面する状況において、外務省はどのような主張を行ったのだろうか。次にこの点を確認していこう。
「被爆国」と「同盟国」という2つの立場の狭間で
SALTは、1972年5月にSALT I[注17]、1979年6月にSALT II[注18]という形で結実したが、外務省の同問題に対する態度は、「被爆国」と「同盟国」という2つの立場の間で揺れ動き、その主張や態度は必ずしも一貫していなかった。以下、その主張の変化を具体的にみていきたい。
(1)SALT I期[注19]
まずSALT I期である。米ソ交渉の開始(1969年11月に交渉は始まる)に先立つ1969年7月28日、外務省国際連合局軍縮室は、「日本としての基本態度」という文書を作成し、SALT Iに対する日本の立場をアメリカに伝えた。ここでみられたのは、「被爆国」としての立場よりも、アメリカの核抑止の信頼性を確保しようとする「同盟国」としての立場を強調する姿であった。
軍縮室は冒頭で、日本国民は核の災禍が再び繰り返されないことを強く望んでおり、核戦力の増強を制限しようとする同交渉が、米ソ両国の間で速やかに合意されることを希望するという「被爆国」としての立場を表明した[注20]。
ただし、その次に紡がれた言葉は、「しかしながら」であった[注21]。このことからもわかるように、そこから軍縮室は、「同盟国」としての立場を明確に示した。彼らは、日本の安全保障にとって重要な要素であるアメリカの核抑止力をSALTによって弱められてはならないとの考えを明らかにしたのであった。さらにはその際、対ソ連だけでなく、対中国という観点からも抑止力を十分に保持するようにとの要請も打ち出した[注22]。軍縮室は、自国に提供されているアメリカの核抑止力にマイナスの影響が出ることを特に危惧していたのである。こうした態度や主張は、以降も度々確認されることになる。
1971年に入ると、外務省はより一層「同盟国」としての立場から、アメリカの核抑止の信頼性に対する懸念を強めていく。米中和解がその理由であった。米中接近の発表を受けた日本政府は、アメリカの意図を読めずにおり、アメリカの外交政策に由来する「不安」や「不信」が日本国内に生じていた[注23]。こうした状況が、日本政府や外交当局者にアメリカの「核の傘」の信頼性が低下するのではないかという考えをもたらしたのである[注24]。それまで中国の核に対する懸念を繰り返し主張していたことを鑑みると[注25]、こうした態度は理解できよう。ここでも強調されたのは、アメリカの日本に対する拡大抑止の信頼性向上を目指し、自国の安全保障を優先する「同盟国」としての立場にほかならなかったのである。
1972年に入ると、外務省の高官は、日本が重大な関心を抱いている戦略バランスに関する情報を体系的に受け取っていないことへの懸念を表明し始めた。同年1月25日に、加藤吉弥外務省大臣官房調査部企画課長が最初にこの懸念を表明したが、つづいて村田良平在ワシントン日本国大使館参事官や大河原良雄在ワシントン日本国大使館特命全権公使も同様の点に言及したのである[注26]。特に戦略問題に強い関心を有していた村田は、SALTⅠにおいて、それぞれの要望をアメリカに出したNATO諸国と比較して、日本政府の主張のなさに問題を感じていたのであった[注27]。
同年6月14日から16日にかけて行われた第15回日米政策企画協議において、日本側はSALT締結に関し、「米ソ関係を安定化させる効果をもたらすが、その反面他の核保有国の核攻撃に対してもともに首都及びミサイル発射地のみしか防衛しえなくなり、中国の核に対するvulnerability[脆弱性――筆者付記]を増大せしめる結果となっている」と指摘し、「ABM制限協定は米国自らの防衛を困難にし、同盟国の米国に対する信頼性を減少せしめるのではないか[注28]」との危惧を表明するほどに主張を強めていた。
こうした外務省のSALTに対する積極化を契機として、戦略問題を取り扱う新たな日米協議が設置される運びとなる。アメリカも、日本の安全を真剣に考え、欧州の同盟国と同様の扱いをしているという姿勢を日本に示し、日本がアメリカに対して有する不信感を払拭する必要性を認識し出していた[注29]。アメリカ側にこのような変化をもたらすほどに、外務省は「同盟国」としての立場から主張を強めていたのである。
(2)SALT II期[注30]
SALT I締結後の1972年7月、牛場信彦駐米大使とU・アレクシス・ジョンソン(U. Alexis Johnson)国務次官の間で、戦略バランスやSALTが及ぼす影響等、戦略問題を扱う定期的な非公式協議――戦略問題に関する日米協議を設置することが合意された。その合意では、SALT等の案件を一方的ブリーフィングではなく、日米間の協議の形に改めていく方針が定められていた[注31]。こうして、SALT I協定締結後、SALT IIにまつわる問題を協議する素地が日米の間に整ったのであった。
SALT IIが始まる11月に入り、在ワシントン日本国大使館がSALT IIに対する基本的な考え、態度をアメリカに示した。11月10日に開催された戦略問題に関する日米協議を皮切りに、①日本は今後も米国の核抑止力に依存し続けることから、十分効果的な抑止体制の維持を望む、②核超大国とは異なった見地からの考慮を望む、③戦略核戦力以外の戦力にまで影響が出ないことを望むという3つの要望を外務省は繰り返し表明していくことになる[注32]。
SALT IIが始まる時期、日本側からアメリカ側に伝えられた各問題についての方針においては、上記3点に続いて核実験全面禁止等の問題が取り上げられてはいるものの、「被爆国」としての立場が前面に示されることはなかった。さらに、軍縮室も「わが国の安全保障から見て、米国の核抑止力の信頼性がSALTによって損なわれることがあってはならない(……日米協議が必要)」と、同様の主張を外務省内で行っていたのである[注33]。
しかし、こうした主張には、当時の日米外交当局者の個人的な考え方が色濃く反映されていたと思われる。実際、上述の戦略問題に関する日米協議新設に尽力した牛場、村田、ジョンソンが異動になると、日本の安全保障上の懸念は払拭されていないにもかかわらず、SALT IIが戦略問題に関する日米協議のテーマに挙がることはなくなってしまったのである。
一方、1970年代中葉、日本国内では核をめぐって新たな問題が浮上していた。NPT批准の是非である。NPT批准は、日本にとって核兵器保有の選択肢を自ら閉ざすものだった。
しかし、日本政府はNPT批准に積極的な姿勢を見せた。そのきっかけの1つとなったのは、1974年5月のインドによる核実験であった。同実験を受けて、核不拡散に関する取り組みを国際社会が強めていくなかで、日本がNPTを批准しないままでいることは、日本の意図に対するある種の猜疑心を生むことに繋がる恐れがあり、外務省はこれを危惧していたのである[注34]。
さらに、1974年10月のジーン・ラロック(Gene LaRocque)退役米海軍少将による核の持ち込みに関する証言――いわゆるラロック証言が、こうした外務省の危惧に拍車をかけた。彼は、アメリカ連邦議会合同原子力委員会軍事利用小委員会おいて、「核兵器を運搬する能力のある、あらゆる艦船は、核兵器を搭載しており、それらの艦船が日本や他の外国に入港するときに、核兵器を降ろすことはない」と証言したのである[注35]。これは、日本政府が基本方針としていた非核三原則の「持ち込ませず」に抵触するものであった。よって、日本国内でも核兵器をめぐる問題が政治問題化し、その対応に迫られ、「被爆国」としての立場からの主張が強まっていたのである。
他方、日本国内においては、実際にNPTが核軍縮促進に対して有用に働いているのか、核保有国と非核保有国を区別するための不平等条約ではないかという懸念も生じていた[注36]。事実、国会では、核軍縮に対する米ソの努力はこの程度のものでよいのか疑問に持たざるを得ず、これからNPT批准を考えている日本にとって、さらなる努力を「批准の条件」としてぶつけていくべきではないかという主張さえ出てきていたのである[注37]。
こうした状況へ対応するために、軍縮室はSALT交渉を活用した。当時の軍縮室長であった数原孝憲は、ジョンソンSALT首席代表(上記の国務次官と同一人物。国務次官ののちに、アメリカのSALT交渉首席代表に就任した)へ来日を要請し、共に「核軍縮がここまで進んでいます、SALT交渉が随分進んでいるのです、という説明をした」という[注38]。
このように、この時期は、NPT批准を行いたい日本政府と外交当局者が、国内を説得するためにSALTによる核軍縮の成果を強調した。それは、国内向けに「被爆国」としての立場を強調する形で展開された。要するに、NPT批准問題が、「同盟国」ではなく、「被爆国」の論理を前面に打ち出す動きを導いたのである。
1979年6月のSALT II協定締結前後になると、外務省は再び「同盟国」としての立場からアメリカに対し、核抑止の信頼性に対する懸念を表明し始めた。ソ連が交渉の間に配備を進めていたものの、SALT II協定の制限対象外となった中距離弾道ミサイルであるSS-20等の戦域核兵器の存在がその理由であった[注39]。この間、「被爆国」としての立場を強調することが多かった軍縮課(1978年4月より、「軍縮室」から「軍縮課」へと変更になっている)でさえも、アジア方面への配備が伝えられるSS-20等の戦域核兵器は、「看過し得ない存在」であると指摘している[注40]。また、軍縮課はSALT II妥結の意義についてまとめているものの、記載は安全保障の強化、核軍縮の推進の順番であった[注41]。
1979年11月に開催された第25回日米政策企画協議では、「SALT IIの締結に際し、日本政府としては公的に歓迎する旨の声明を発出したが、国内的には色々意見が分かれている」という率直な日本側の反応が、アメリカに示された。その上で、つづくSALT III(SALT II締結後、速やかにSALT IIIを開始することに米ソは同意していた)はSALT IIと比べて「地域的意味合いを持ってくるので、日本としても実際的利害関心が大きくなる」という考えを表し、SALTに対する日米の密接な連携の必要性を訴えたのであった[注42]。
このように、SALT II締結前後には、再び「同盟国」としての立場が前面に舞い戻ってきた。以上を踏まえると、核兵器問題に対する外務省の立場は、「同盟国」としての立場と「被爆国」としての立場の狭間を揺れ動いてきたことがわかるだろう。
そして、その揺れ動きの中で、外務省は自国の安全保障に直結するアメリカの拡大抑止の信頼性向上を最優先にしながらも、核軍備管理・軍縮を推し進めることが可能な領域からその必要性をアメリカに対して説き、自国もNPT批准を行うといった取り組みを見せてきた。核抑止が一歩進めば核軍備管理・軍縮は一歩後退し、その逆も同様であるように見える。この2つの取り組みを同時に推し進めることは矛盾しているように思われるものの、確かに少しずつではあるが、双方ともに前に進んできたことも事実である。自国の安全保障を確保しつつ、SALT IおよびIIの妥結を支持し、自らはNPTを批准した。こうした姿が、当該期の日本の「核政策」であったように思われる。
日本の立場をどのように理解すればいいのか
では、こうした日本の立場をどのように理解すればいいだろうか。「同盟国」日本にとって、アメリカの核抑止力の信頼性が低下することがあってはならず、その点に懸念が生じると、外務省はアメリカに主張をしてきた。その一方、「被爆国」日本は、核実験の制限を論じ、核軍縮を推進するようアメリカに希望を伝え、SALTをテコにNPTを批准するという姿を見せている。
つまるところ、外務省は、自国の安全保障に直結するアメリカの拡大抑止の信頼性向上を「同盟国」としての立場から最優先にしながらも、国際環境等を踏まえ、取り組み可能な領域から、「被爆国」の立場に基づいて核軍備管理・軍縮を推し進めてきたのである。
これらを踏まえると、少なくとも1960年代末から80年代に至るまでの日本の核兵器問題に対する姿勢は、時々に変化する国際安全保障環境を踏まえた安全保障政策として捉え、理解するのが良いように思われる。核抑止依存と核軍備管理・軍縮は、それぞれ別個に推し進められるものではないからである。その時々の国際環境、とりわけ自国を取り巻く安全保障環境を踏まえた上で、自国の安全保障を確保する手段が変わることは当然だ。その際には、優先順位と時間的な射程が問題となる。ゆえに、この関係は決して矛盾するものではない。
実際、80年代に本格化した米ソ中距離核戦力(Intermediate-range Nuclear Forces: INF)をめぐる問題に対して、日本政府や外交当局者は「同盟国」としての立場から主張を行い、1983年5月に開催されたウィリアムズバーグ・サミットにおいて発表された声明の文言に影響を与えている[注43]。彼らは、アメリカが西欧諸国の主張に引きずられ、ヨーロッパ方面に配備されたSS-20をアジアに移動させることを容認したり、ヨーロッパにおける削減だけに関する合意をソ連と結んだりする可能性を危惧していた。ゆえに、日本政府や外交当局者は、レーガン(Ronald W. Reagan)大統領が示していた中距離核戦力の全廃方針を支持し、「グローバルな視点」からの対応を要求しながら「安全の不可分」を説くことで、共同声明の中身に影響を及ぼしたのであった[注44]。ソ連が配備したSS-20がアジア配備されると、それは日本にとっての具体的な脅威となる。国際情勢が目まぐるしく変化してゆく中で、目先に脅威が存在する場合は、抑止の問題が優先的に扱われていた。安全保障政策として捉えれば当然である。
なお、米ソの交渉は実を結び、1987年にINF条約が調印され、INFは全廃されることとなった。
以降の流れも概観してみよう。
(1)冷戦終結後
冷戦終結後は、世界的な対立構造の緩和が訪れたこともあり、国際的な核軍縮・軍備管理の取り組みが進むこととなった。米ソ(ロ)は、1991年1月に第1次戦略兵器削減条約(Strategic Arms Reduction Treaty: START)、93年1月には第2次戦略兵器削減条約(START II)を締結し、戦略核兵器の運搬手段および核弾頭数を大幅に削減することに合意した。
同時期には、日本もソ連の核兵器を安全に処分するためのプロジェクトに対する資金提供や技術支援、核不拡散体制の強化、プルトニウム利用の透明性を確保する取り組みなどに関与し、核軍備管理・軍縮を促進していた[注45]。
他方、1993年から94年にかけて北朝鮮の核開発疑惑が強まった、いわゆる第1次朝鮮半島核危機に対する日本政府の反応は非常に鈍く、著しく脅威認識を欠いており、武力行使をも想定していたアメリカを驚愕させたことは広く知られている[注46]。当時の国内世論は、国際的な平和の到来を歓迎しており、「朝鮮半島有事の際の対米支援を議論できるような状況にはなかった」と、当時、外務省の北米局長であった佐藤行雄は回顧している[注47]。「被爆国」としての立場が表出していたと評価することができよう。
その後も核兵器に関する問題は、核不拡散や核テロという問題が論じられつつも、基本的な潮流は核軍縮が占めていた。2007年には、アメリカ政府の要職を務め、外交・安全保障政策決定に大きな影響を及ぼしていた、シュルツ(George P. Shultz)、ペリー(William J. Perry)キッシンジャー(Henry A. Kissinger)、ナン(Sam A. Nunn)、という4人の大物が、世界の核軍縮を進めるためにもアメリカが率先して大幅な核軍縮を行うように主張したことは話題となった[注48]。
(2)オバマ以降
2009年のオバマ(Barack H. Obama)政権成立以降、同大統領の積極的な取り組みも相まって、様々な成果が挙げられてゆく。2009年4月、彼はアメリカ大統領として初めて「核のない世界」を目指すことを述べた。いわゆる「プラハ演説」である。同年にはノーベル平和賞も受賞した。2011年には、ロシアとの間で新戦略兵器削減条約(新START)が締結され、両国ともに核弾頭の総数を1,550発以下にすることなどが定められた。また、2016年5月に行われたオバマの広島訪問は、核軍備管理・軍縮の歴史における象徴でもあった。
しかしながら、こうした機運は長く続かなかった。ロシアが、新START以上の削減を模索するオバマ政権の呼びかけに応じなかったことに加え、中国やインド、パキスタンや北朝鮮なども核の近代化に努めていたためである。
ロシアについては、クリミア併合(2014年)時、地上発射型巡航ミサイルの使用というINF条約に対する明確な違反行為を行ったことで、同条約の実効性や信頼性は一気に揺らぐことになった。アメリカとの緊張関係が高まりつつあった中国も、アメリカに対する接近阻止・領域拒否戦略(A2/ AD戦略)を確立するためにINFを重視していたこともあって[注49]、トランプ(Donald J. Trump)政権下のアメリカはINF条約の意義に懐疑的になっていた。その結果、2019年、ついに米ロ両国はINF条約から脱退、同条約は失効する事態となった。
北朝鮮もまた、これまでに6回の核実験を行い、さらには2022年以降、かつてない高頻度での弾道ミサイル等の発射実験を繰り返すことで、自国の軍事力強化を図っている。
核をめぐる世界は動いていた。「『核の忘却』の終わり」が唱えられた所以である[注50]。
このように、核兵器をめぐる国際安全保障環境が変容すると、日本の立場も変わってゆく。2009年2月には、アメリカの新たな戦略抑止の体系を検証・構想するために連邦議会が設置した賢人会議「戦略態勢委員会」による日本政府への意見聴取の際に、日本の外交当局者は自国の意見表明を詳細に行なった。そこで日本は、アメリカが運用配備している戦略核弾頭を一方的に削減することは、日本の安全保障に悪影響を及ぼす可能性があり、アメリカがロシアとの核削減交渉を行う際には、中国の核拡張と近代化を常に念頭に置くべきであるとの考えを、同委員会に示していた[注51]。
こうした状況に対応するため、2010年、日米の間に「日米拡大抑止協議(Extended Deterrence Dialogue:EDD)」が設置された。これは、「日米同盟の中核である拡大抑止の維持・強化のあり方を議論するための恒常的な場」として位置づけられ、今日(2024年10月現在)まで定期的に開催されている[注52]。アメリカから見れば、同協議はより具体的な安心の供与を行うことができる場として活用され、日本から見れば、アメリカの拡大抑止に対する信頼性を確認するとともに、自国の立場や考えを表明できる場として活用されているといえよう。
実際に、アメリカの核政策に対して発言を行う機会を確保した日本は、「同盟国」としての立場から、自国に対する抑止力の信憑性を高めるような働きかけを行なっている。例えば、2016年以降に浮上してきた、アメリカが「核の先制不使用(No First Use:NFU)」論を採用するか否かをめぐる議論に関しては、日本が強く反対し、それが採用されることはなかったと言われている[注53]。このことは、アメリカの核政策に日本が影響力を有するようになったことを示しており、「同盟国」としての日本の存在感が高まったことを表していよう。
結びにかえて:歴史から現在への示唆
以上の展開を鑑みれば、冷戦期だけでなく冷戦終結以降も、日本はその時々の国際安全保障環境を踏まえた上で、優先順位をつけながら、自国の「核政策」を展開しているといえるだろう。このように考えれば、本稿の冒頭で示した「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」や、外務省が示している核兵器に対する立場も理解できよう。今日においては、核抑止を優先せねばならない国際環境にあるということだ。核抑止と核軍縮・軍備管理を異なったタイムラインに位置づけるべきだという、核軍縮管理・軍縮・不拡散の専門家である西田充の指摘は重要である[注54]。歴史からの示唆と相通ずるところもある。
事実、2024年7月28日に、東京で日米安全保障協議委員会(いわゆる「2+2」)が開かれたのちに、拡大抑止に関する日米閣僚会合が初めて開催されたことは、今日、日本が置かれている国際環境の厳しさを示す象徴である[注55]。会合後に発出された共同発表において、日米両国は「北朝鮮による安定を損なう継続的な行動及び不法な核・弾道ミサイル計画の持続的な追求、中国による加速している、透明性を欠いた核戦力の拡大、そして北朝鮮との軍事協力の拡大及び不法な武器の移転を通じたものを含む、ロシアによる軍備管理体制及び国際的な不拡散体制の毀損といった、一層悪化する地域の安全保障環境についての評価を共有」している[注56]。
目の前に具体的な核の脅威が存在すれば、これらに対応する「同盟国」としての立場の優先順位が高くなるのは当然である。核軍備管理・軍縮を推進できる環境にはない。とはいえ、それらが中長期的には可能となるように、環境を醸成していく必要があるが、その過程で戦争が起こってはならないし、核兵器が使われてもならない。これが現在の日本政府のスタンスである。
当たり前であるが、国際環境は日々変化し、その変化は日本の核兵器問題に対する立場に影響を及ぼす。その結果として、核抑止あるいは核軍備管理・軍縮のいずれかが相対的に強まることとなるのである。従来のように、核抑止(「同盟国」としての論理)と核軍備管理・軍縮(「被爆国」としての論理)をそれぞれ別個に捉え、論じていては、こうした日本の立場を理解できない。時々に変化する国際安全保障環境を踏まえた安全保障政策としてワンパッケージで捉える必要がある。2つの立場を「現実」と「理想」という二項対立の図式に当てはめるのは適当ではない[注57]。
核兵器問題をめぐる日本の立場は、その時々の安全保障環境のもとで、背反するようにみえる2つの立場のいずれかが目立つシーソーゲームの繰り返しだ。しかし、そのシーソーは、日本にとっての優先順位と時間的な射程が考慮された上で、右に左に動いていきた。こうした形で、日本の核政策は着実に前に進んできたのである。核抑止と核軍備管理・軍縮とが、ともに進められていること自体が意味を持つ。これまでみてきた過去の日本の取り組みが、そのことを教えてくれているように思われる。
注1 外務省「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン(仮訳)」2023年5月19日<https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100506500.pdf>(2024年10月29日最終アクセス。以下、Webページは同様)。
注2 外務省軍縮不拡散・科学部編『日本の軍縮・不拡散外交(第7版)』(2016年3月)8頁<https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000145531.pdf>。
注3 上村直樹「対米同盟と非核・核軍縮政策のジレンマ:オーストラリア、ニュージーランド、日本の事例から」『国際政治』第163号(2011年1月);Anthony DiFilippo, Japan’s Nuclear Disarmament Policy and the U.S. Security Umbrella (NY: Palgrave Macmillan, 2006); Nobumasa Akiyama, “Disarmament and the non-proliferation policy of Japan,” Mary M. McCarthy ed., Routledge Handbook of Japanese Foreign Policy (NY: Routledge, 2018) など。
注4「核軍縮の広島ビジョン、被爆者『全く賛成できない』『悲しい』被爆地に落胆広がる」中国新聞デジタル、2023年5月20日<https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/308445>。
注5 「核不拡散体制の成立と安全保障政策の再定義」プロジェクト編『沼田貞昭オーラル・ヒストリー』(政策研究大学院大学、2022年)148、271-272頁。
注6 同上。
注7 樋口敏広「核実験問題と日米関係:『教育』過程の生成と崩壊を中心に」『国際政治』134号(2003年11月)103-105頁。
注8 黒崎輝「『非核』日本の核軍縮・不拡散外交:被爆国の虚像と実像」波多野澄雄編『日本の外交 第二巻 外交史戦後編』(岩波書店、2013年)248頁
注9 樋口「核実験問題と日米関係」105-112頁。
注10 外務省「わが外交の近況」1957年9月<https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1957/s32-contents.htm>。
注11 樋口「核実験問題と日米関係」112-113頁。
注12 黒崎「『非核』日本の核軍縮・不拡散外交:被爆国の虚像と実像」249頁;同『核兵器と日米関係:アメリカの核不拡散外交と日本の選択1960-1976』(有志舎、2006年)188-190頁。
注13 SALTとは、アメリカとソ連の間で行われた、両国の戦略核兵器を制限することを目的とした核軍備管理交渉である。同交渉は、1972年5月にSALT I、1979年6月にSALT IIとして結実した(後者は、批准されず)。
注14 第58回国会衆議院本会議第3号(1968年1月30日)国会会議録検索システム<https://kokkai.ndl.go.jp/>。
注15 NPTとは、核兵器の不拡散に関する条約である。核兵器国と非核兵器国を区分した上で、核不拡散・核軍縮・原子力の平和利用に関する規定が並んでおり、現在の核をめぐる国際秩序の基盤をなすものとして位置づけられる。
注16 黒崎『核兵器と日米関係』187頁。なお、こうした国際的な背景に加え、日米安全保障条約の期限問題や沖縄返還問題をめぐる日本の国内政治の文脈もあった。この点に関しては、同書の第5章に詳しい。
注17 SALT Iは、戦略攻撃兵器の制限に関する暫定協定、弾道弾迎撃ミサイル(Anti-Ballistic Missile: ABM)制限条約、付属議定書の3つから成るものであり、攻撃兵器と防御兵器の双方に一定の制限をかけたものである。
注18 SALT IIは、戦略核兵器の運搬手段(大陸間弾道ミサイルや潜水艦発射弾道ミサイル、重爆撃機、空対地弾道ミサイル)の数に米ソ同数の制限をかけ、さらに、その内訳規制として、個別誘導複数目標弾頭を搭載した大陸間弾道ミサイル等に制限をかけたものである。
注19 詳細は、石本凌也「米ソ核軍備管理交渉と日本:ニクソン政権期におけるSALT Iを中心に」『同志社法学』72巻5号(2020年11月)を参照のこと。
注20 外務省国際連合局軍縮室「日本としての基本態度」(1969年7月28日)外務省開示文書2018-00467。
注21 同上。
注22 同上。
注23 吉田真吾『日米同盟の制度化:発展と深化の歴史過程』(名古屋大学出版会、2012年)207頁。
注24 石本「米ソ核軍備管理交渉と日本」141-143頁。
注25 外務省国際連合局軍縮室「米ソ戦略制限交渉に関する日本側コメント」(1969年8月9日)外務省開示文書2018-00467;外務省国際連合局軍縮室「米ソ戦略兵器制限交渉に関する資料」(1969年8月9日)外務省開示文書2018-00467;外務省国際連合局軍縮室「米・ソ戦略兵器制限交渉の経緯の概要」(1971年10月20日)外務省開示文書2018-00468。
注26 Action Memorandum, Spiers, Green to Johnson, “Consultations with Japan on the Strategic Balance and Arms Control [Attachments Not Included],” June 3, 1972, Digital National Security Archive, The National Security Archive, Japan and the U.S.: Diplomatic, Security, and Economic Relations, 1960–1976, JU01549 (hereafter DNSA, JU01549).
注27 村田良平『村田良平回顧録 上巻:戦いに敗れし国に仕えて』(ミネルヴァ書房、2008年)225-227頁。
注28 調査部企画課「第15回日米政策企画協議報告(1972年6月14日〜16日於下田東急ホテル)」(1972年6月30日)戦後外交記録「日米政策企画協議」2012-2878、外務省外交史料館(以下、外史)。
注29 Action Memo, Spiers, Green to Johnson, “Consultation with Japan on the Strategic Balance and Arms Control [Attachments Not Included],” DNSA, JU01549.
注30 詳細は、石本凌也「米ソ戦略兵器制限交渉をめぐる日本外交1972-1979年:『被爆国』である『同盟国』の受容と主張」『国際政治』209号(2023年3月)を参照のこと。
注31 Deptel 129473, Department of State to Tokyo, “Consultations with Japan on Strategic Issues,” July 18, 1972, 石井修、我部政明、宮里政玄監修『アメリカ合衆国対日政策文書集成 第XVIII期 日米外交防衛問題1972年・日本 政治・外交編』第10巻(柏書房、2006年)156-157頁;外務省アメリカ局北米第一課「戦略問題に関する日米協議(従来の協議の経緯)」(1973年11月28日)戦後外交記録「日米関係」2016-2174、外史。
注32 Memo, Christopher to Johnson, “Items to be Raised by the Japanese at the November 10 Meeting with Ambassador Johnson,” November 7, 1972, Box 32, Records of U. Alexis Johnson, 1932-1977 hereafter RUAJ), Record Group 59 (hereafter RG 59), National Archives II, College Park, Maryland (hereafter NARA II); Memo, Christopher to Johnson, “Items to be Raised by the Japanese at the November 10 Meeting with Ambassador Johnson,” November 9, 1972, Box 32, RUAJ, RG59, NARA II; アメリカ局北米第一課「戦略問題に関する日米協議(従来の協議の経緯)」;Memcon, “Japanese Views on SALT,” November 10, 1972, DNSA, JU01668; Memcon, “SALT TWO,” November 10, 1972, DNSA, JA00055; アメリカ局長“Outlines of SALT Negotiations,” 日付不明、外務省開示文書2019-00402。
注33 軍縮室「SALT(米ソ間の戦略兵器制限交渉)」(1973年3月2日)戦後外交記録「米ソ戦略兵器制限交渉(SALT2)」2015-2103、外史。
注34 黒崎『核兵器と日米関係』254頁。
注35 詳細は、波多野澄雄『歴史としての日米安保条約:機密外交記録が明かす「密約」の虚実』(岩波書店、2010年)第7章。
注36 武田悠「核不拡散条約(NPT)の形成と日本」「データベース日本外交史」(2019年5月)<https://sites.google.com/view/databasejdh/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC/%E6%A0%B8%E4%B8%8D%E6%8B%A1%E6%95%A3%E6%9D%A1%E7%B4%84npt%E3%81%AE%E5%BD%A2%E6%88%90%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC?authuser=0>
注37 第73回国会参議院外務委員会閉会後第3号(1974年10月18日)。
注38 「核不拡散体制の成立と安全保障政策の再定義」プロジェクト編『数原孝憲オーラル・ヒストリー』(政策研究大学院大学、2019年)78頁。
注39 外務大臣発在米国大使宛第2524号「SALT II」(1979年5月28日発)戦後外交記録「米ソ戦略兵器制限交渉(SALT2)」2014-5774、外史。
注40 軍縮課「SALT IIとソ連の戦域核兵器」(1979年6月25日)戦後外交記録「米ソ戦略兵器制限交渉(SALT2)」2014-5775、外史。
注41 軍縮課「SALT II妥結の意義について」(1979年5月9日)戦後外交記録「軍縮問題/軍備管理」2014-3313、外史。
注43 調査企画部企画課「第25回日米政策企画協議要録」日付不明、戦後外交記録「日米政策企画協議(第24〜28回)」2014-2860、外史。
注44 詳細は、瀬川高央『米ソ核軍縮交渉と日本外交:INF問題と西側の結束 1981-1987』(北海道大学出版会、2016年);吉田真吾「ウィリアムズバーグ・サミットへの道程:中曽根政権とINF交渉、1982-1983年」『近畿大学法学』第69巻第4号(2022年3月)。
注45 佐藤行雄『差し掛けられた傘:米国の核抑止力と日本の安全保障』(時事通信社、2017年)23-33頁。
注46 武田悠『日本の原子力外交:資源小国70年の苦闘』(中公叢書、2018年)203-218頁。
注46 船橋洋一『同盟漂流』(岩波書店、1997年)第13章。
注47 佐藤『差し掛けられた傘』92-93頁。
注48 George P. Shultz, William J. Perry, Henry A. Kissinger and Sam Nunn, “A World Free of Nuclear Weapons,” Wall Street Journal, January 4, 2007, <https://www.wsj.com/articles/SB116787515251566636>.
注49 戸崎洋史「ポストINF時代の軍備管理」森本敏、高橋杉雄編『新たなミサイル軍拡競争と日本の防衛:INF条約後の安全保障』(並木書房、2020年)109-114頁。
注50 秋山信将、高橋杉雄編『「核の忘却」の終わり:核兵器復権の時代』(勁草書房、2019年)。
注51 “Japan’s Perspective on the U.S.’s Extended Deterrence (Congressional Commission on U.S. Strategic Posture),” February 25, 2009, <https://www.slideshare.net/secret/tW5gU2EX4oti6U>.
注52 外務省「日米拡大抑止協議」(2024年6月15日)<https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/pressit_000001_00788.html>。
注53 太田昌克「『日米核同盟化』の進展とその含意」『国際政治』203号(2021年3月)152-153頁。
注54 西田充「核をめぐる抑止と軍縮をどう考えるか」『外交』vo. 78(Mar./ Apr. 2023)32-37頁。
注55 Ryoya Ishimoto, “Strengthening Japan-US Security Relations Over Extended Deterrence,” The Diplomat, August 21, 2024, <https://thediplomat.com/2024/08/strengthening-japan-us-security-relations-over-extended-deterrence/>.
注56 外務省「拡大抑止に関する日米閣僚会合共同発表」(2024年7月28日)<https://www.mofa.go.jp/mofaj/files/100704441.pdf>。
注57 佐藤史郎『核と被爆者の国際政治学:核兵器の非人道性と安全保障のはざまで』(明石書店、2022年)序章。
プロフィール
石本凌也
東京大学先端科学技術研究センター特任研究員。サントリー文化財団鳥井フェローなどを歴任し、同志社大学大学院法学研究科博士課程(後期課程)修了。博士(政治学)。専門は国際政治学(特にアメリカ外交史、国際安全保障論、日米関係史)。主要な業績に、「米ソ戦略兵器制限交渉をめぐる日本外交1972-1979年:『被爆国』である『同盟国』の受容と主張」『国際政治』第209号(2023年3月);「日本にとって『デタント』とは何だったのか:冷戦変容期における国際政治環境認識とその影響」『国際安全保障』第51巻第3号(2023年12月);“Henry Kissinger and Japan: Focusing on the Nixon-Ford Administration Years,” ROLES REPORT, No. 29 (Jan. 2024) など。