2013.12.16
「声」は誰のものか――FGM(女性性器損傷)をめぐる言説
以前SYNODOSで、FGM(女性性器切除)とは何か、紹介する機会をいただきました。
FGMとは何か、なぜ問題なのか、ということを話すときに、キーワードとして「FGMをめぐる言説」があります。1990年代以降FGMをめぐる議論が活発化しますが、そのきっかけとなったのは、アフリカ系アメリカ人作家のアリス・ウォーカーによる「喜びの秘密(Possessing the Secret of Joy)」(1992年)でした。欧米諸国を中心に、この小説におけるFGMの表現およびFGMをめぐる議論について学際的な議論が発生しています。
しかしなぜFGMはここまで語られるのか? 私には、FGMそのものが単純に女性への暴力と言い切れない、実施地域・国での社会的・文化的・宗教的な背景への理解なしには、問題を理解することは難しいと感じられます。
国際社会におけるFGMの地位
そもそもFGMが国際社会で問題とされたのは、リプロダクティブ・ヘルスの概念が提唱されるようになった1970年代以降になります。また、同時期は1979年の女性への差別撤廃条約が制定され、女性への暴力という課題が認知されるようにもなりました。1960年代後半のウーマンリブ運動が広まり、フェミニズムという言葉が広く認知される中で、FGMもこれらの女性への暴力を巡る文脈の中で、議論されるようになります。
さらに、1990年代初頭、冷戦が終結し、思想や政治経済体制に阻まれ、これまで全世界的に議論されなかった環境や健康、人口など普遍的な課題について、国際会議などを通じ語り、国境や言語を超えて、世界中で取り組むことが可能になりました。
1992年に国連女性差別撤廃委員会(CEDAW)が発表した一般勧告第19号によれば、女性に対する暴力について、「女性であることを理由として女性に対して向けられる暴力、あるいは、女性に対して過度に影響を及ぼす行為を含む。それには、身体的、精神的、又は性的危害もしくは苦痛を加える行為、かかる行為の威嚇、強制、および、その他の自由の剥奪を含む」と定義しています(*1)。
(*1)CEDAW, General Recommendation No. 19 (11th session, 1992): Violence against women.
さらに翌年に国連総会で採択された「女性に対する暴力撤廃宣言(以下暴力撤廃宣言)」(*2)は、これまで国際法上保護の対象とされてこなかった家庭などで日常的に行われ、日常的であるがゆえに可視化されてこなかった暴力の問題も対象とした点で、非常に大きな意味を持ちました。
(*2)UN General Assembly, A/RES/48/104: Declaration on the Elimination of Violence against Women, 20 Dec. 1993.
しかし国際会議で取り上げられ、条約で女性への暴力の問題が取り上げられることがそのままあらゆる国や地域で女性への暴力が人権侵害として認識され、撤廃が求められるようになったことを意味しないことには注意する必要がります。女性差別撤廃条約では第28条第2項で留保を認めていますが、とくにイスラーム圏の国々では、シャリーア(イスラーム法)と憲法に反しない女性差別撤廃条約の部分のみ承認するモーリタニアや、女性差別撤廃条約がシャリーアと抵触する場合、条約を遵守する義務を負わないサウジアラビアやバーレーンのように、イスラーム法との抵触を理由とした留保がつけられています。
こうした留保は、女性差別撤廃条約で定められたとしても、留保の厚い壁によって、最終的に女性への暴力が容認される可能性を示しています。そしてまさに、こうした容認されてきたからこそ、1990年代以降、この女性への暴力の問題が繰り返し議論されるようになったともいえるでしょう。
反植民地運動におけるFGM
FGMが続いた理由はいくつかありますが、その是非を巡る議論の発端に反植民地運動とFGMが密接にかかわったという側面は見逃せません。ケニアでは、1920年代に割礼の是非を巡る論争が起きますが、この論争自体は割礼に反対する植民地政府と宣教師と、それを批判し伝統を維持しようとするキクユ族の男女の対立でした。実際、ケニア独立後大統領となったケニヤッタは彼の著書の中で、成人として認められるためにFGMは必要不可欠であると述べています。
独立時におけるFGMは、欧米諸国による統治への反発と独立への意識という側面に注意する必要があります。植民地政府による統治の時代、FGMは「遅れた慣習」として植民地政府によって法律を通じて禁止され、宣教師たちによってその慣習が制約されてきました。自分たちのアイデンティティとして、FGMが彼ら自身によって「発見」されたのは、植民地からの独立を求めるプロセスにおいてです。
ケニアではFGMがケニア人のアイデンティティの証しと見なされ、少女たち自身が自ら選んでFGMを受けます。「私の体は私が決める」、その姿勢は、男性たちにも支持されます。さらに、欧米との差異を強調し、アフリカというその土地への誇りを示すものとして、独立後、多くの国で植民地政府が制定していたFGM禁止法が廃止されることとなりました。
アリス・ウォーカー「喜びの秘密」は何が問題だったのか
1990年代以降、女性に対する暴力について語られることが多くなってきた中、前述のウォーカーの「歓びの秘密」とその映像化された「戦士たちの刻印」におけるFGMの表現を巡り、社会学、政治学、文学などの分野を超え、多くのいわゆる有識者たちが参加し、分野や言語、地域を横断した多くの議論が生まれました。
ウォーカーによる「喜びの秘密」は、主人公タシが母国に戻り、自分に切除をした切除師を殺害するに至るのですが、なぜ殺害したのか、複数の登場人物の視線から語られる小説です。切除師を殺害した理由にFGMがあることが示されるのですが、初めて私がこの本を読んだとき、幼かった主人公が植民地化された故郷で、年老いた女たちが昔からの慣習で頬につけた瘢痕をみて「あたしもその印が欲しかった」と述べていた場面が印象的でした。
ウォーカーの作品について賛否両論多くの評価が聞かれますが、最大のポイントは、ウォーカーの作品におけるFGMをめぐる言説が、当事者性について無自覚なのではないかという点であり、「女の連帯」を語り、女性としてFGMの暴力性を語るが、そもそもすべての女性が国籍や言語はもちろん経済的社会的背景を超えて、連帯という言葉のもとに同様に語ることが可能なのか、という点でした。
FGM廃絶を巡る議論や廃絶運動が、当初欧米中心に展開された結果、欧米におけるこれらの運動や議論がFGMを女性への人権侵害としてとらえた眼差しそのものが、FGMを「野蛮で遅れた慣習」と、ステレオタイプ化させていることに無自覚であった。この点こそが、当のアフリカ女性からも批判されたのです。
ケニアの独立運動時にFGMが従来の生活に加えてナショナルアイデンティティの証明としての側面を付与されたように、FGMは単純な女性への暴力行為ではありません。実施地域の多様性や社会的・経済的条件を勘案せずに「女性に対する暴力」として単純に理解する欧米諸国の意識は、自文化中心主義的であることに無自覚であり、遅れた慣習を是正する、植民地主義的な関係性を再生産していたものとも言えます。
CNN効果:欧米の眼差しによる立法化の断念
さらにエジプトで生じたアメリカのケーブルテレビ「CNN」によるFGMの特集における表現方法は、エジプトで進みつつあったFGM禁止法の成立を無効にするという事態も引き起こします。
1993年にエジプトのカイロで開催された「人口と開発に関する国際会議(以下カイロ会議)」では、FGMを「有害な伝統的慣習(Harmful Traditional Practices)」のひとつと規定しています。また同年に国連人権高等弁務官によって発表されたファクトシート第23号では、伝統的な文化的慣習の中でもとくに女性に対して有害な行為の一例として、早期結婚や強制不妊、強制的な産児制限のほかにFGMを紹介しています。
国際社会でFGMが伝統的に有害な慣習と広く認知される中、FGM実施率が97%にも上るエジプトでは、カイロ会議に先駆け、人口省によってFGM禁止法を成立させる方針が発表されます。しかし、会議前にCNNが放映した番組で、同国人少女が床屋でFGMを受ける映像が放映されたことで、事態は一変します。
伝統的、文化的背景から性に関する話題がタブーであり、FGMについても多くが沈黙に覆われていたエジプトで、女性への暴力行為としてFGMが否定的に扱われた番組の内容は、エジプト人の怒りを買います。国内の反発を背景に、保健省による禁止法案の撤回と政府の医療機関でのFGMの実施を許可する、という事態を生み出しました。
番組の元来の意図とは反対の事態に発展したとも言えますが、これらの反動的な流れは、FGMという性的な要素の表象をめぐるアメリカのメディアの鈍感さに対する反発であり、拒絶でもありました。FGMが行われている「遅れた途上国」に向けられた欧米諸国の眼差しは、フェミニストたちの地域を超えた連携が果たして可能なのか、という疑問を当然ながら引き起こします。セネガルのNGO団体からは、欧米諸国を中心に展開されてきた、FGM廃絶議論の文化的権利の軽視やセンセーショナリズムへの批判が展開されました。
現地女性からの批判は、先進国を中心に展開された廃絶アプローチそのものが、植民地主義的、侵略主義的性質な異文化への排他性を持っているのではないか、という問いかけであり、FGMの背景にある人種や階級、植民地主義、グローバルな資本主義といった現象の複雑なつながりへの言及でもあります。
誤解がないように強調したいのですが、FGM廃絶という究極の目標へ向けた取り組みはもちろん必然であり、議論の余地がないと私は考えます。と同時に、先進国の女性たちの眼差しは楽観的にすぎないか、ということを問いかけたいと思います。
単純に人権侵害としてFGMを捉える視点と文化相対主義からFGMを理解し、廃絶運動から距離を置く、二項対立の構図でFGM問題を語ることには注意すべきです。FGMの議論は実施国においては、ジェンダー間や世代間によって複雑な対立軸が存在します。先進国主導のFGM廃絶運動が、途上国の女性の救済であると同時に、介入という名の暴力であることも理解しなければならないのです。
「私たち(アフリカの女性たち)は姉妹であり、あなたたちは従妹なのです」とはマリで現地女性に言われた言葉です。女性たちの連帯という問いかけを巡る議論に触れるとき、私はいつもこの姉妹と従妹の微妙な、でも明確な違いを感じずにはいられません。
FGMが難民認定理由となる
2005年、私はスーダンの首都ハルツームで現地NGOの協力を得て、200人の女性へ聞き取り調査を行いました。質問項目はあなたのFGMの経験。家族構成から教育レベル、FGMを受けたか、自分の娘に受けさせたいか、複数の質問をしました。
この中でFGMが現在難民認定理由になり得るとしていることについて、どう思うか自由に回答してもらったところ、多くの女性から、先進国でFGMを理由に庇護申請を行う女性は、迫害ではなく貧困から逃れるためにFGMを利用しているに過ぎないと回答が寄せられました。「逃げたくはないわ。大人になったらこの国で、FGMをなくすために頑張りたいの」と語ったのは小学6年生の少女。彼女は祖母と母によってFGMを受けることが決められ、すでに施術が行われていました。
また、多くの人が、FGMが迫害行為として、先進国で認定理由になることを知りませんでした。この調査の結果は、非常に示唆的です。
1990年代以降FGMを女性への暴力ととらえ、その廃絶を目指す動きは、難民保護の現場では、FGMそのものを難民認定理由とすることをも可能にしています。
FGMを難民認定理由とした背景に一つには、アフリカからの移民の受け入れ国となった欧米諸国では、移民コミュニティの中のFGMの実施が問題となったことが挙げられます。グローバル化が進み、アフリカから多数の人が、旧宗主国へ移民として移動、生活を行うようになりました。その中で、非合法な手段で娘にFGMを実施。出血多量で少女が死亡したりするケースが多発します。
イギリスのNGO「FORWARD」は2002年にはイギリスで暮らす移民や難民のうち8万6000人がFGMを受けており、毎年英国だけでも3000件から4000件のFGMの事例が発生していると推定しています。また、別の調査では、スウェーデンでは1万2000人、フランスでは2万7000人、イタリアでは3万人、アメリカで16万8000人がFGMを受ける危険に晒されていると推定されています。
移民が定着し、第二世代になると、慣れない国での生活や阻害意識から母国への愛国心や母国での習慣への執着がみられるようになります。移民の受け入れ国において、医療機関による通報制度やFGMに関する行為を行ったものへの刑事罰の実施など立法による強化が進む中で、監視の目をかいくぐり、学校が夏休みになった娘を母国に連れ帰った母親が、母国でFGMを受けさせるという事態も多発しました。
西アフリカの旧植民地からの移民を多く受け入れ、移民や難民の社会への統合問題が深刻化していたフランスでは、1979年に医療倫理規定によって、医療行為として認められる場合を除いて、FGMの実施が禁止されます。その後スウェーデン、イギリス、オーストラリアなど移民を比較的大量に受け入れる国で、FGMが禁止され、罰則規定が設けられました。
こうした受け入れ国の中でFGMが違法行為として認識される過程の中で、FGMを迫害として認知し、受け入れる社会的素地が出来上がります。
FGMが難民認定理由となりうることを初めて認めたのは、1991年、フランスの事例でした。最終的に申請は棄却されましたが、意思に反してFGMを受ける恐れがある女性に対して、難民として認定し得ることが指摘されています。
初めてFGMを迫害事由として認め、難民認定申請を受け入れたのは、カナダです。1994年、ソマリア出身の女性が、10歳の娘ホダン(Hodan)が帰国したら、FGMを受ける恐れがあるとして難民認定申請を行いました。判決では、FGMは「虐待のような慣習(torturous custom)」と表現され、迫害の一形態であるとされています。
ホダンの事件以降、カナダではFGMに関連する判例が複数出されました。1995年のアナン判決(*3)では、国家組織の崩壊や政府が人権保護の機能を果たさない場合、当会社を保護するべきであること、また国内で別の場所に逃げることでFGMを受けずに済むのではないかという点も検討されています。多くの実施国では、女性の地位が低く、また家族の結びつきが強いために、女性が一人で生活することは非常に困難です。アナン判決では、この点を背景に、積極的に保護する必要性を示すものとなりました。
(*3)Annan v. Canada (Minister of Citizenship and Immigration ) (T.D.), [1995]3F.C.25; (6 Jul. 1995)
FGMが難民認定事由に当たるのだということを国際的に広く認知させたのは、1996年、当時19歳だったファウジーヤ・カシンジャ(Fauziya Kassindja)の難民認定を行ったアメリカの事件(*4)でしょう。
(*4)BIA, [File A73 476 695 – Elizabeth] Interim Decision #3278: In re Fauziya Kassinga, Applicant (13 Jun. 1996)
カシンジャは、父親の死後、一夫多妻制結婚とFGMを強制されたことをきっかけに、ガーナへ逃亡、ドイツを経由して1995年4月18日にアメリカに入国、難民認定申請を行いました。審査では、FGMを迫害事由とするか否か、FGMそのものをめぐる議論と、トーゴ国内で女性に対する暴力が一般的なのかどうか、そして暴力が一般的な場合、暴力の程度はどの程度なのかが問題とされました。移民帰化局では却下されましたが、決定を不服とするカシンジャにより上訴が行われ、争われた事件です。
移民上訴委員会(BIA)による審査では、本人が申し立てた事由が、迫害とするに認められる「十分なおそれがある」ものであるかどうか、トーゴでのFGMに関する客観的な状況が審査された他、原告側の弁護人はカシンジャがトーゴ国内でもFGMが実施されている割合が高いエスニック集団に所属していること、彼女自身まだFGMを受けておらず、帰国するとFGMを受けさせられる恐れが強いことを主張し、難民認定の必要性を主張しました。最終的にFGMが迫害事由に相当すること、本人を取り巻く状況を考慮し、難民として認定されるに至りました。
難民認定の持つ罠
私がFGMに関心を持ったのは、高校生の時、雑誌「ニューズウィーク」でFGM特集が掲載されていたことがきっかけです。記事では、最後にFGMを受けた少女が、自分の性器がどう「変化した」のか、カメラに背を向けて調べている姿を撮影した写真がありました。FGMについて考えるとき、いつもあの写真を思い出します。
修士時代に「何かできること」との思いから、UNHCR駐日事務所でインターンをさせていただく機会がありました。右も左もわからない、本当にダメなインターンではありましたが、インターンで活動する中でFGMが難民認定理由になることを知ったことから、博士論文でFGMの難民認定について取り上げ、指導教授に「死ぬほど考えろ」と言われながら考えてきました。
その一方、初めは単純に難民認定理由になるのだと思っていたFGMにはさまざまな側面があることが見えてきます。
カシンジャ判決は、FGMという行為について、体系的に扱い、検討した事例であることから、アメリカだけではなく各国の判例に大きく影響を与えました。カシンジャ判決は、女性自身がFGMを望んでいない、ということを明確にすることで、FGMが女性の意思に反して実施されているという主張を裏付け、FGMの強要が権利侵害に当たると認知させることに成功しました。この動きは、難民保護の現場において、FGMを迫害の構成要件として認識させ、迅速な問題解決を促すことになります。
また、カシンジャの事件を強力にバックアップしたNGOや研究者の存在も見逃せません。FGMが迫害なのだというメッセージキャンペーンは大きな影響を与えました。
他方、こうした動きは、「FGMであれば難民認定される」というやみくもな認定も数多くみられるようになりました。
ボマーとシューマンは、難民支援団体が、FGMという、いわば申請者個人の経験に積極的に関与し、問題を公にする現状について、「特定の社会的集団の構成員」という難民条約上の迫害の要件に該当させたことで、FGMそのものが、単独で難民認定理由として扱われるようになったと指摘しています。カシンジャ事件によって、従来であれば政治的意見を理由に難民認定を行うであろう事例でも、積極的にFGMを活用することで、結果的に難民認定を狙う事例が見られるようになったのです(*5)。カシンジャ自身も自伝で述べるように、FGMを明確に知っていた、というよりは、難民認定の過程で、支援団体の説明によりそれが「悪いこと」なのだと理解するようになったと述べています。
(*5)Bohmer, C., & Shuman, A., Rejecting Refugees: Political Asylum in the 21st Century (Routledge, 2007), pp.228-9.
FGMを知った者としての責任
FGMをめぐる難民認定の事件では、その専門的な議論ゆえに、研究者やフェミニストたちの議論が中心的な役割を果たすことになります。その結果、当の申請者個人が議論から疎外され、本人が自分の体と心に影響を与えるFGMの問題と、その迫害をめぐる高度に専門的な議論の外に置かれた、ということは、ジェンダーに基づく迫害の議論を主導してきたフェミニズムの思想は、西欧諸国で発展、展開された議論であり、教育を受けず、知識を持たない非西欧諸国出身者にとって、その議論は実感を伴うものではなかったのだ、とも言い換えられるかもしれません。
私が博士論文を書く中で強く実感したのは、このFGMの議論の高度な専門化と、他方での当事者たちの乖離です。短期的な緊急避難を考えた場合、難民認定は非常に大きな意味を持ちます。しかし根本的な解決では決してありません。FGM廃絶の必要性を掲げる以上、判例による個別の受け入れではなく、国際的な支援体制や途上国の教育の充実と意識変革など、数世代にわたって実施率を下げ、根絶する取り組みが必要です。
2005年のスーダンでの聞き取りに協力した少女たちのFGM実施率は97%。女性170名中165名という割合での実施率でした。アンケートに協力してくれた女性の多くは、FGMが難民認定理由となることについてピンと来ていませんでした。アンケート対象者の中にはスーダンの唯一の女子大学の学生もいたり、父親の仕事の都合で海外生活がない女性もいましたが、それでも難民認定理由になる理由がわからないと答えています。
ハルツームのとある地区で聞き取りをした女性は、FGMを受ける前のワクワク感を語ってくれました。新しい洋服を買ってもらったり、お化粧ができることが楽しかった女性と、FGMを人権侵害だとする視点は、同じ内容を語りながら、その視線は決して同一のものではありません。
またFGM廃絶に取り組む現地NGOスタッフとの会話でも、グローバルな資本主義経済の展開の結果生じている貧困からの脱出が難民認定の背景にあることが繰り返し指摘されたことは印象的でした。
FGMを取り巻く貧困は先進国と途上国の間の経済格差の問題、さらに実施する国や地域の中での女性の貧困の問題があります。相対的に女性の地位が低く、女性の社会進出や有給の業務につくことは非常に難しい。また反面その結果として、結婚し、夫の庇護のもとにいないといけないという現実から、結婚の前提としてFGMを受けないと、と考える女性も多くいます。
FGMをめぐる議論でまず考えるべきは、言葉遊びになってはいけないということ、そして何よりも助けを必要とする女性に対して誰が救いの手を差し伸べるのか、ということです。短期的には難民認定という手法かもしれませんし、禁止法による罰則の強化でもあります。
しかし今なお1億2500万人がFGMの脅威にさらされているという事態は、根本的な取り組みの大切さを意味しています。彼女たち、そして彼女たちが暮らすコミュニティも(そのコミュニティで暮らす男性も)一致してFGMに取り組む姿勢が必要です。
博士論文の最終審査の時、教授に「君はこの課題を選んだのだから、これから常に問い続けるんだろうね」と言われました。「はい」とそのときは答えましたが、今回このエッセイを書きながら、改めてその言葉の重みを感じずにはいられません。
FGMをめぐる議論について詳細は拙書『FGM(女性性器損傷)とジェンダーに基づく迫害概念をめぐる諸課題―フェミニズム国際法の視点からの一考察[早稲田モノグラフ29]』(2010年11月、早稲田大学出版部)参照。
プロフィール
長島美紀
一般財団法人mudef事務局長。政治学博士。大学院在籍中に国連機関やNPOでインターン経験を行ったことをきっかけに、国際協力に関心を持つ。2004年から(特活)TICAD市民社会フォーラムに参加、事務局開設、運営を行う。2005年度より早稲田大学政治経済学部助手を務める傍ら、同団体の事務局長、理事としてキャンペーン事業を担当。2010年5月より現職。また、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンターではコーディネーターとして元マラソン選手・瀬古利彦氏のチャリティ企画「EKIDEN for PEACE」運営に携わる。