2010.07.21
政治の手詰まり感と国民の「責任」
参院選のあとの日本社会は、奇妙な手詰まり感に覆われているようにみえる。 日本国民は参院選において、与党である民主党に対して不信感を示したものの、その結果として現在日本でみられるいくつかの問題、たとえば回復しつつあるもののなお不安定感のある景気や膨大な債務残高、あるいはやはり不安定にみえる日米関係などが解決するようにはみえない。
国家を企業と対比してみれば
この奇妙な手詰まり感を生み出しているのは何なのだろうか? この点を、株式会社という企業のしくみと国家のしくみを対比させながら、少し考えてみよう。
近代の民主主義国家の構造と株式会社の構造は、大体において似たかたちになっている。
国民は株式会社でいえば株主に相当し、政治家(国会議員)が取締役、官僚(国家公務員)が従業員ということになる。そして、株主=国民が会社=国家の経営に責任を持つ取締役=政治家を選任し、その取締役=政治家が従業員=官僚とともに実際の経営に当たるわけである。もし経営に不満があれば、株主=国民が新しい取締役=政治家を選任する。
日本の問題は国民の問題?
ここで大事なことは、株式会社は、法的には従業員や取締役ではなく、株主によって構成されているという点である。このために、株式会社に関する最終的な意思決定の権限と責任は株主に帰属する。
ゆえに、もし国民が日本国という株式会社の株主に相当するというのであれば、日本国は国民によって構成され、ゆえに最終的な意思決定の責任と権限も国民に帰属する、ということになる。
実際、このような考え方は、それほどわれわれ自身の常識からずれてはいないだろう。そうであれば、日本が今直面している問題は、最終的には政治家の問題でも官僚の問題でもなく、まさにわれわれ自身の問題ということになる。
政治家や官僚任せですんだ理由
しかし、景気や財政、あるいは外交といった問題は、やはり政治家や官僚の問題という感じがしてしまい、われわれ自身の問題という感じがしない。つまり、上のような理念のレベルと感覚のレベルで、ずれが生じてしまっている。
じつのところ、これには無理からぬ部分がある。まず、選挙においてひとりが行使できるのは1票だけであり、自分の投票行動が政治家の選任、さらには日本政治全体に影響を及ぼすとは思いにくい(これは株主総会でも同様なのだが)。
さらに、1955年以来の自民党の長期政権のなかで、政治家と官僚に任せておけばお互いに調整して政策をつくってくれ、(いろいろな問題はあったにせよ)それなりにうまくやってこられたということもある。
これらの結果として、上に述べたような日本全体にかかわるような問題は、自分の問題というよりも、政治家や官僚の問題であるという認識ができてしまったように思われる。
じつは、これは日本企業でも同様であって、日本経済の高度成長のなかでそれなりに高い業績をあげてきたために、株主は経営を経営者と従業員に任せておけばよいと考えてきたのである。
日本という会社の未来をつくるのは国民
ただし、日本企業のほうは、その後の景気停滞のなかで、株主の最終的な意思決定の権限と責任とが徐々に自覚されるようになってきた。2000年代に入ってみられるようになった株主の経営に対する積極的な関与は、そのひとつの表れといえるだろう。
しかし、日本という国家についてみれば、国民は2009年の総選挙で自民党を敗北させ、その意味で取締役=政治家を変えることができるという自分たちの権限を認識したものの、その裏側にある責任の方についてはまだ認識が変わっておらず、どこか「日本全体にかかわるような問題は自分の問題ではない」という感覚を残してしまっているようにみえる。
一方で、自民党の政治家と官僚とがお互いに調整しながら政策をつくるというやり方は機能しなくなっており、いまは民主党が国民の意思の下での新しい政策形成プロセスを模索している段階にある。
つまり、現実の国家の経営は株主=国民の関与を必要としている。にもかかわらず、国民は「自分の問題ではない」と思っているために、政策形成プロセスに自ら進んで関わろうとはしていない。
この結果として、政治家と官僚に任せておいてもなかなか問題が解決しない、という手詰まり感が生み出されることになる。
われわれが「自分の問題ではない」という感覚をもつこと自体は決しておかしなことではない。しかし、そろそろそのような感覚を捨てて、政策形成プロセスにより深く関わっていく時期ではないだろうか。
われわれは、最終的な意思決定を行う人びととして、日本という会社の未来をつくっていかなくてはいけないのだから。
推薦図書
ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を出発点にして、近代社会というものを構成する原理と、そこからみた日本社会のあり方を探求した研究書。上で述べた国家と株式会社の相似形や、日本社会における国家というものの位置づけについて述べている。決して読みやすい本とはいえないが、国家というものの成り立ちを考える上では非常に参考になる。同僚の本を挙げるのはアンフェアとのご意見もあるかもしれないが、その点を差し置いてもぜひご一読いただきたい本である。
プロフィール
清水剛
1974年生まれ。東京大学大学院経済学研究科修了、博士(経済学)。東京大学大学院総合文化研究科・教養学部准教授。専門は経営学、法と経済学。主な著書として、「合併行動と企業の寿命」(有斐閣、2001)、「講座・日本経営史 第6巻 グローバル化と日本型企業システムの変容」(共著、ミネルヴァ書房、2010)等。