2016.09.06
平和構築のために――ボールディングの思想的含意とは
イラク戦争の教訓
「イラク戦争への参戦は端的に誤りであった」
最近イギリスで、13年前のイラク戦争(2003年)を検証した調査報告書、チルコット委員会の報告書が公表された。約260万語を費やした大部の報告資料で、『ハリーポッター』全七作の約2.4倍にもなるが、イギリスのイラク戦争参加を厳しく批判している。
フセイン政権を武装解除する手段を尽くすことなく、アメリカに追従してイギリスはイラクを侵攻してしまった。しかも、その決断は誤った情報に基づいていた。イギリスの情報機関は当時、「開戦すればイギリスへの脅威が増し、イラクの兵器や開発能力がテロリストに流出する恐れがある」と警告していたにもかかわらず、ブレア首相は参戦の決断をしたというのである。
なぜブレア政権は、開戦前に的確な判断を下すことができなかったのだろう。もとより判断を誤ったのはブレア首相だけではない。イギリスの下院もまた、イラク戦争の開戦当時は、412対149という圧倒的な差で、戦争を承認していた。
結果としてその後のイラクでは、10万人以上の市民が犠牲となり、独裁国家イラクは崩壊、「失敗国家」となった。イラク戦争はめぐりめぐって、イラクとレバントのイスラム国、ISが台頭する政治的土壌を生み出すことにもなった。
加えてシリアにおける内戦は、現在、ヨーロッパの各地で難民問題を引き起こしている。イギリスのEU離脱も、この移民問題に対する不満から生まれた国民的判断であっただろう。
いったいイギリスが、イラク戦争を戦う道義をもっていたのかといえば、きわめて怪しいのであるが、ではなぜ、イギリスは戦争を回避できなかったのか。イギリスは戦争を始める前に、なぜもっと慎重な政治的手続きを踏むことができなかったのか。この問題はひるがえって、日本の問題でもあるだろう。
今後、日本が憲法九条を改正したとしよう。そして国の存立が危ぶまれるような危機にさらされたとき、日本は戦争をすべきなのかどうか。戦争をするとして、その判断は、どのような意思決定プロセスを経るべきなのか。私たちはそのとき、イラク戦争の教訓を踏まえなければならないだろう。というのも2003年のイラク戦争開戦当時、日本もまたアメリカに追従して戦争を支持していたからである。はたしてその当時、日本がアメリカを支持したことは正しかったのかどうか。日本政府は、いまからでも遅くない。政府がどのような意思決定のプロセスでアメリカを支持したのかについて、独立した委員会を設けて検証すべきではないだろうか。
テロ戦の危険が高まっている
2003年のイラク戦争は、現代の戦争問題を考えるうえで、一つの転換点でもある。イラク戦争の結果として、現在、ISが台頭し、テロ戦争の危険が高まっているからである。去る7月1日、バングラディッシュではISを支持する若者たちが、外国人を標的としたテロ事件を引き起こした。首都ダッカのレストラン「ホーリー・アーティザン・ベーカリー」で、若いバングラディッシュの青年たちが、外国人を標的に20人を殺害した。そのなかにはイタリア人9名と日本人7名も含まれていた。
現実問題として、日本人はすでにISとの戦争に巻き込まれている。むろん、ISの犯行声明に基づくテロ事件は、いまのところ日本という国の存立を危機に陥れているわけではない。しかし相次ぐテロ事件に対して、私たちはどのように対処すべきなのか。最近の戦争問題は、テロリズムの脅威として現れている。
第二次世界大戦後(1945年)の歴史を振り返ってみると、私たちの世界はごく最近になって、テロリズムによる危険度を急激に増してきた。世界全体でみると、9.11テロ事件が起きた2001年のテロ事件死者数は7,738人であった。ところが2014年には、その五倍以上の43,512人が、テロ事件で命を落としている。
テロに対処するためのコストも、世界全体で増大している。9.11テロ事件が起きた2001年は、515億ドル。それ以降は、急激に減少したものの、2014年には再び、529億ドル(1ドル=100円で計算すると5兆2900億円)にまで上昇している。
ちなみに、米国における第二次世界大戦のコストを2011年の通貨価値で換算すると、4.1兆ドルといわれる。米ブラウン大学の「戦争コスト」プロジェクトによれば、今後数十年間にわたってアメリカが支払うことになるであろう戦争のコストは、4.4兆ドルになるという。おそらくそれは、主としてテロとの戦争になるだろう。4.4兆ドルという数字には、元軍人に対して支払う医療費や傷害補償も含まれているが、テロリズムとの戦争は、コストの面からみれば、第三次世界大戦の様相を呈してきた。しかもその戦争は、終わりの見えない長期戦になるだろう。
現在、テロリズムとの戦争は、主としてISと他の諸国とのあいだの戦いである。ISは、一日平均3万4,000バレルから4万バレルの原油を生産し、150万ドル(1億7,000万円)の収益をもたらしている(資産は20億ドル)。いったい、ISとの戦いは、どのように遂行されるべきなのか。テロ戦争との関係を含めて、私たちは「平和と経済の関係」をどのように構築すべきなのか。私たちは、憲法改正論議のためにも、どのようにすればテロを含めた戦争が生じない世界を構築できるのかについて、議論を深めていかねばならない。私たちは、平和な世界の社会的基礎について、議論を深めていかねばならない。
「平和」の根本問題
そこで考えてみたいのは、「平和」というものの本質についてである。テロ戦争は、終わりの見えない戦争である。しかしこの戦争を戦うためには、武器をもって戦うのではなく、終局的には平和構築へむけて、さまざまな努力を重ねるほかないだろう。
テロ戦争を防ぐために、私たちはどのような原因を取り除けばよいのか。確実なことはほとんど言えない。バングラティッシュの富裕層に生まれた若者たちが、外国人を標的にしたテロを引き起こす。そのようなテロの原因を取り除くことは難しい。
テロ戦争は、戦うことも防ぐことも、いずれも難しい。しかし私たちは、テロのない平和というものについて、すでに多くの国の人々とイメージを共有しているはずである。私たちは平和の理想を語り、その理想にむけて国際社会を築いていくことができるはずである。
では「平和な社会」とはどんな社会なのか。根本的に考えてみたい。
「平和」とは、第一義的には、「休止状態」、あるいは、ある種の「精神的境地」を意味する言葉である。しかしいずれの意味も、世俗社会を動態化させるための原理ではなく、その意味では、「タナトス(死の原理)」といえる。語源的にみると、平和な社会とは、ダイナミズムをもたない社会であり、近代社会の原理とは相いれないところがある。
けれども私たちは、平和な社会を目指すとしても、すべてが休止するような状態だとか、ある種の高度に精神的な境地をもとめるというのでは、社会を機能させることができない。平和な社会を築くといっても、そこには第三の要素として、「エロス=ビオス(多様性と繁栄の原理)」をもつ必要がある。「エロス=ビオス」の原理をもたなければ、私たちの文明社会は、維持できないようにみえる。
すると平和をめぐる根本問題とは、次のようになるだろう。すなわち「平和は、第一義的にはタナトスであるが、生を否定するその状態から、いかにして私たちはエロス=ビオス(多様性と繁栄の原理)を受けとり、戦争のない社会を築くための動因と知恵を導き出すことができるのだろうか」と。
言い換えれば、平和の根本問題とは、私たちがいかにして、タナトスからエロス=ビオスを引き出すことができるのか、となる。
これはある意味で、不条理である。タナトスはエロスと対立する原理であって、タナトスからエロスは生まれないように見えるからである。タナトスは死の原理、エロスは生の原理である。けれども「平和」と「戦争」の関係を、次のような仕方で理論化してみると、この根本問題に接近しやすくなるだろう。
まず、平和と戦争の関係と、「暴力」と「紛争」という二つの観点から理解してみたい。
ここで「暴力」とは、人の生死を操る力であり、死の恐怖に訴えて人々を服従させるように仕向ける強制力である。この「暴力」は、社会を形成する際に必要な作用になりうるという点では有益な側面をもっている。しかし暴力は、人々を抑圧し服従を強いる力でもある。これに対して「非暴力」とは、暴力から解放された自由の状態である。
またここで「紛争」とは、協調・共振とは反対の人間関係であり、一方が他方に対して不利益を生む場合もあるが、その作用は社会的に有意義な仕方で利用される場合もある。例えば、市場経済やスポーツにおける競争は、参加者のあいだの紛争形態の一つであるといえよう。こうした紛争は、一定のルール・制度のもとでの紛争である。一定のルールのもとで、参加者たちのあいだに切磋琢磨の関係を築くことができれば、参加者にも社会全体にも、利益をもたらすことができるだろう。紛争の一形態としての「競争」は、すぐれたルールのもとで運営すれば、敗者にとって不利益であるとしても、その不利益を超える全体利益が生じることがある。
ここでさらに、「暴力」を構造的/物理的の観点から区別し、また「紛争」を生産的/消耗的の観点から区別してみよう。すると戦争とは「物理的暴力+消耗的紛争」であり、これに対して平和とは「非暴力+非紛争」として定義することができる。
(詳しい説明は省略するが、部分的には、以下の学会報告要旨で理論を展開している。
以上の概念分析によって、「非暴力/構造的暴力/物理的暴力」という区別と、「非紛争/生産的紛争/非生産的紛争」という区別の組み合わせから、九つの類型を析出することができる。この類型理論は、平和と戦争の関係をより細かく分析するためのツールを提供するだろう。概念分析についてはさらに詳述する必要があるが、いずれにせよこうした分析から、次のようなことが言える。
すなわち、戦争の対立概念は、たんなる平和ではない。対立概念は、戦争の要素たる「暴力」と「紛争」を含みもつ。戦争を抑止する平和な文明社会は、「暴力(覇権/主権、すなわち正当な支配権力)」、「紛争(競争的秩序)」、「エロス(多様性と繁栄)」の三つの要素によって支えられるものでなければならない。
「平和」な社会とは、純粋な意味での平和、すなわちタナトスを原理とするだけでは維持しえない。平和な社会は、暴力と紛争を必要としている。けれども根本問題は、この平和というタナトスの原理から、いかにして繁栄(エロス)の原理が生まれるのか、である。というのもこの純粋な平和への希求が、根本的な世界平和を構築する原動力になりうるからである。私の考えでは、平和な社会の展望は、この原動力についての哲学的な洞察にかかっているように思う。
ボールディングの応答
そこで注目したいのは、20世紀の経済思想家、ケネス・ボールディング(1910-1993)の平和思想である。ボールディングは、ここで定式化した「平和の根本問題」を、どのように受けとめていたのか。検討してみたい。
ボールディングの著書『紛争の一般理論』(1962)は、おそらく冷戦期に書かれた戦争経済学の最重要書であろう。戦争の行為理論を綜合し、自身の知見を加えている。このほかにもボールディングは、『愛と恐怖の経済――贈与の経済学序説』(1973)で、戦争と福祉の関係を贈与の観点から理論化し、また『紛争と平和の諸段階』(1978)では、絶対的平和主義の観点から、平和構築のための段階論を提起し、思想的に深いビジョンに到達している。
ボールディングは、非暴力と非紛争の両方の観点から平和を捉えている。彼は、キリスト教、とりわけクエーカー教の観点から、戦争不参加を訴えている。しかしボールディングは、たんなる非暴力主義者ではない。政治的には、軍事同盟から世界政府軍の設立を展望した(『紛争と平和の諸段階』)。他方では「非暴力」としての平和を、「愛としての贈与」の観点から捉え、福祉政策の理念を提供してもいる。(『愛と恐怖の経済学』)。
さまざまな知見を残した知の巨人であるが、ここではボールディングの具体的な政策案に注目してみよう。彼は例えば、以下のような提案をしている。それぞれの提案について、私の解釈を付してみよう。
(1) 諸国は、「恒久平和」を公式表明すべし。
この考え方は、ある意味で、でっち上げの政治であるといえる。ウソでもいいから、あるいは確約できなくてもいいから、諸国は恒久平和を表明する。すると政治は、その方向に動き出すと考えられる。外交政策の現場で、平和の理想が語られるようになり、平和にむけての努力が重ねられていく。ボールディングは具体的に、各国の政府内に平和省を設立して、教育機関、新聞、ラジオ、テレビ、出版などを通して大衆と政府を教育すべし、と提案した。あるいはまた、「国連イメージ伝達組織Organization for Image Transmission」を設立して、各国が恒久平和宣言をすることでイメージ・アップを伝達したり、世界平和への協調を調達したりすべし、と提案した。
(2) 戦争が生じた場合には、段階的な緊張緩和を試みるべし。
(3) 国家と軍隊を分離すべし。
国家は、国を治めるための暴力装置として、警察権力をもつことができる。けれども外交手段としての軍隊については、これを国連やその他の超国家機関に権限を移譲していくことができる。理想的には国連が、すべての軍事力を独占して、平和維持部隊を組織することもできるかもしれない。そのような超国家機関の形成を念頭に、ボールディングは軍隊ないし自衛隊の活動を方向づけていくことが望ましいと考えた。困難な理想ではあるが、そのために各国はまず、集団安全保障の枠組みを構築し、その枠組みを拡大していくことができるだろう。
(4) 「敵のいない兵士」という理念によって軍隊教育をすべし。
兵士たちはこれまで、当然ながら、「敵」の存在を想定して軍事訓練を行ってきた。しかし戦争に勝つことの意味が、終局的には世界平和を築くことであるとすれば、敵というものはいっさい存在しないはずである。誰かを殺せば世界が平和になるというわけではない。だから兵士は、誰も敵とみなさず、誰も殺さないで平和を築くことが、理想の任務であることを理解しなければならない。このように捉えてみると、戦争における政治とは、「友-敵」の関係ではなく、先の概念分析でいえば、タナトス(死の原理)からエロス(生の原理)を生み出すことであると考えられるだろう。
(5) 暴力について、非暴力的に対応する研究をすべし。
先に挙げた2003年のイラク戦争の教訓は、非暴力的な対応に関する研究の意義を、私たちが理解していなかったことにある。その当時、フセイン政権を打倒するよりも、もっと平和的な対応の仕方があったはずである。これを検証しなければならない。
(6) 政府は、平和のために活動しているNGOを診断する報告を作成すべし。
タナトスからエロスを生み出す機関は、政府というよりも、政府から資金を得て自由に活動するNGOだといえる。いろいろなNGOが、知恵を絞って平和のための活動をするとしよう。するとその諸活動を、政府(あるいは市民)は評価して、予算を配分していくことができる。このような制度枠組みを整えれば、私たちはタナトスからエロスを引き出す原理について、もっと理解と実践知を蓄積していくことができるはずである。
以上のようなボールディングの諸提案とその解釈は、個々の戦争の背景をなしている具体的な要因を取り除くというよりも、平和な世界の構築にむけて、精神的・制度的な和解をもとめるという点に特徴がある。戦争の原因は、きわめて複雑であり、有意義な仕方で特定することが難しい。それゆえ私たちは、戦争の原因を取り除くよりも、平和な社会の構築にむけて、包括的な取り組みをする必要がある。その取り組みは、タナトス(無)からエロス=ビオス(繁栄の原理)を創造するような政治技術であるといえるだろう。
こうした発想から世界平和を構築するために、最も重要な点は、軍事力というものが将来的には国家を超えた機関に移譲されていくだろうという世界史的なビジョンをもって、高度な政治的判断を導くことである。
具体的に、日本の憲法九条を念頭に考えてみると、日本は軍事力をいっさいもたないと宣言するのでは不適切であり、むしろ軍事力は、さしあたって集団安全保障の枠組みにおいて、あるいは理想的には超国家的な機関を前提としたうえで、世界平和のために用いることができるようにすべきである。
むろん他方で、日本という国の存立が危機にさらされたとしても、ただちに軍事力を用いるべきではない。ボールディングがいうように、私たちは暴力に対して非暴力的に対応する方法についての研究を踏まえ、政治的意思決定の過程を入念に練り上げていかなければならない。この立法過程の改革なしに、憲法を改正することは危険であるだろう。
以上の内容を端的にまとめると、次のようになる。
私たちは、「平和の根本問題」というものに応えなければならない。根本問題とは、端的に言えば、純粋な平和としてのタナトスから、いかにしてエロスを導くことができるのか、である。この根本問題に応えるために、そしてまた平和な世界を築くために、ここではボールディングの思想がもつ含意を検討した。その含意とは、一つには、憲法の改正に際して、集団安全保障の枠組みでの軍事力行使を認めなければならないということである。しかしもう一つには、立法の手続きにおいて、戦争に対する非暴力的な対応を優先する仕組みを考えなければならない、ということである。この二つの方向性を制度的に練り上げることが、ボールディングの平和思想から引き出しうる実践的な含意であると思う。
プロフィール
橋本努
1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。