2019.08.06
戦後日本の合わせ鏡としてのヒロシマ
広島への原爆投下は戦後日本の歴史そのものであるし、また、その逆も真といえる。原爆投下をいかに記憶するかをめぐっては、つねに再考され、そして修正されてきた。原爆投下をめぐる歴史の記憶は、変遷する時代の影響を受けながら変容しつつも、広範な社会的合意をみることはなかった。
原爆投下の歴史的記憶は、過去のイメージが現在と交わり、不安と希望をともに生んだ。これは、日本が近隣諸国との関係のみならず、戦前の指導者や戦犯の責任など、自らの歴史について曖昧な態度を取り続けてきた理由でもあった。そうした意味で、日本の戦後は終わっていない。日本を「普通のパワー」にすることを目指す現政権下で、依然として、平和主義者から国家主義者の間で論争の種ともなり続けている。
ヒロシマは、世界でもつねに言及され続ける事象であった。もっとも、唯一の被爆国という日本独自の経験は、海外からの評価や視点を受け付けなかった。これによって、自らの過去と和解できず、うちに閉じ籠る日本という、過去の幻影が未だに生き続ける理由ともなっている。
ヒロシマの記憶のされ方について、歴史家やアーティストらはさまざまな取り組みをしてきたが、それらは70年が経ったいまも、つねに政治化され、政治的に利用されたままだ。だから、それがたんなる惨事だったのか、人類に対する罪だったのか、かつてないほどの残酷さを伴った戦争の到達点、はたまたその副次的被害だったのか、評価が定まらないままでいる。つまり、ヒロシマは多様で、曖昧で、ときには分断をはらみ、そして、未来や過去を省察せざるを得ない日本の合わせ鏡でもある。
1952年まで続いたGHQ占領史観に拠って立つ歴史解釈か、ときの世論に迎合し、戦中の日本の戦争犯罪を過小評価しようとする保守派による解釈か。日本の戦後期は、このふたつの解釈の間で揺れ動いてきた。これはそのまま、日本は自らの歴史について分裂症に陥っているとの印象を与える。ヒロシマの破壊に焦点を当てるのではなく、その歴史的意味を探る作業は、いずれの立場にあっても、勝者と加害者の立場を、敗者と被害者の立場へと読み替えるためのアリバイとしてしか作用していない。だから、左、右の何れの修正主義的な解釈も、イデオロギーではなく、対立する双方の立場の言説や立場を強化する作用しか持っていないのだ。具体的にみていこう。
戦後平和主義の起点としてのヒロシマ
ヒロシマについては、歴史家や芸術家の手によって、終戦直後から複眼的な解釈がなされてきた。それはまた、敗戦国たる戦後日本の平和主義の基盤を提供してきたといわれる。ならば、日本国憲法と日本国民の心に刻まれたとされる平和主義は、本当にヒロシマに由来しているのかどうかを問わなければならないだろう。
もっとも、戦後日本の平和主義がヒロシマによるものならば、平和主義そのものは原爆投下なくして生まれなかったということになる。それは戦後の多くの事象を無視しているという意味で誇張が過ぎるし、間違ってもいる。それでも、原爆が終戦直後の平和主義に影響を与えたことは事実だ。それは、核戦争や人類消滅に対する危機感を醸成したからである。そうして意味では、戦後日本の平和主義は、忘却を許さないヒロシマに多くを負っている。
もっとも、このことはまた、日本の平和主義が国際的次元とナショナルな次元の両方を必然的に併せ持っていることを示している。ここでいうナショナルな次元とは、国の戦争責任のみならず、軍部の責任も問うものも含まれるため、ナショナリズムを意味しない。
作家カミュは誰しもが被害者であることを主張する戦後期に、「私たちは死刑執行人か死刑囚の何れかを選ぶことを求められる時代に生きている。選択は難しい。なぜなら私は、死刑囚をみたことはあっても、執行人を目にしたことがないからだ」と自らのノートに書き綴った。ヒロシマに依存する日本の平和主義は、このカミュの考えに似ていなくもない。その顰にしたがえば、この平和主義のナショナルな次元は「死刑執行人か死刑囚か」という二分法を拒むものだ。
すなわち、日本の平和主義は軍事費を抑制しつつ、新たな国家としての戦後日本のイメージを刷新する一方、アメリカとの同盟関係を構築したいという、ときの政権の政治的思惑によるものであった。これは厭戦気分にあった世論に添うものでもあった。いま改正の対象となっている憲法第9条は、分かりやすい象徴だ。
戦後日本外交は、国際社会における日本の地位回復と、戦前・戦中の行いに対する罪の意識に規定されてきた、と指摘する日本研究者がいるが、これは、日本の平和主義が国際環境に依存するものであったということでもある。だから、日本を取り巻く国際関係が変化すれば、日本外交の指針もまた変わり得る。北東アジアの安全保障や外交戦略といった、日本が直接的に関わる環境においては、こうした変化は一層顕著なものになるだろう。
戦争直後にあってヒロシマが有した世界史的な意味は、とくに1960年代から、人類に対する罪という普遍主義的な価値観をまとうようになった世界に向けて、日本の知識人の手によって強調された。この時代は、アメリカはもちろん、西ヨーロッパやアジア諸国への留学経験者が増えていった時期にあたる。他国文化との遭遇は芸術世界にも大きな影響を与え、ベトナム戦争など、世界各地での出来事に触発された反戦平和主義といったコスモポリタニズムの影響を受け、日本の知識人の発信力につながった。日本の平和主義は、この時代の普遍主義とコスモポリタニズムに影響を受け、ここから原爆投下という経験の普遍的な意味合いが提唱されたのである。
ナショナリズムの発露としてのヒロシマ
こうした平和主義に対置されるのは、戦前的価値への復帰を唱え、アメリカの押し付け憲法を批判したウルトラナショナリズムの運動だった。この運動はときとして、経済成長の追求が自国の文化的特徴を消失させてしまうことになるという危機感とも呼応した。こうした点で戦後日本のナショナリズムは、日本固有の文化が脅威に晒されていることに危機感を覚える運動から多くの着想を得ており、戦前と通じるものがある。
現在、こうしたウルトラナショナリズムは追い風を受けている。アジアにおける中国の覇権が日本の衰退に拍車をかけているとの恐怖心は、安倍首相も共有するところだろう。外部からの脅威に晒されるとき、それまでの自然なナショナリズムが覚醒させられて、とくに若年層に支持されることでナショナリズムが息を吹き返すというのは、過去にもみられた現象だった。
年長者と比べ、若い世代の戦争についての記憶はより薄く、これが世代のナショナリズムに対する態度の違いとなっても表れる。日本専門家のフィリップ・ペルティエは、「このとき見られるのは(略)制度が作り上げるナショナリズムではなく、表層的な思想や情動や行動からなる『文化ナショナリズム』と呼べるもの」だという(Philippe Pelletier, Japon : crise d’une autre modernité, Paris, Belin, 2003, p. 184)。
こうしたナショナリストにとってヒロシマが意味するのは、アメリカの技術的優位性でしかない。なぜなら、日本の敗戦は戦前日本のイデオロギーや軍事政権の敗北ではなく、街を瞬間的に消滅させ、国民と指導者を殉教に追いやった核兵器によってもたらされたものだからだ。だから、このナショナリズムからは、日本の技術的優位性の確立と、そして日本の外交と安全保障の方向転換が唱えられ、さらに日本軍による虐殺の歴史の矮小化ないし歴史修正主義的な見方が唱えられることになる。世論の広範な支持があるとはいえないまでも、ポピュリズムと性質の悪い反中国感情(中国でも同じような反日感情がある)によって、ナショナリズムはふたたび呼び覚まされるようになる。
もっとも、日本のナショナリズムは、被害者意識を過度に涵養する傾向も持っているという意味では、戦後平和主義と立場を共有している。これは、戦争犯罪者を免罪する意図から、当時の政治指導者は社会の支持を受けていたことを強調するためだ。ここから、原爆の生存者がいかに国の支援を享受してきたかも強調された。たとえば、広島市・長崎市原爆災害誌編集委員会『広島・長崎 原子爆弾の記録』は、その象徴的な事例だ。この本は1980年に出版されてからというもの瞬く間に各国語に翻訳されたが、表紙を飾っているのは長崎の瓦礫で佇む子どもだ。
しかし、この子どもの手にはおにぎりが握られている。すなわち、この表紙は記録画像というよりも、生存者への支援を意図的に強調するものでもあった。軍事同盟国となった旧敵アメリカの神経を逆撫でしないようにしつつ、国民的な一体性を強調するこうした姿勢は、歴史解釈の意図的な修正でもある。ヒロシマとナガサキへの原爆投下が繰り返し想起される戦後日本は、未来へと向かう平和主義と、過去へと向うナショナリズムと修正主義に引き裂かれていた。
平和主義とナショナリズムの起点となった原爆投下から70年以上が経ち、日本はこの歴史的経験をどのように消化すべきか、考えあぐねているようにみえる。被爆者数が減少する一方であることを考えても、ヒロシマの政治化に歯止めをかけるのは難しいだろう。しかし、政治家、学界、そして社会一般でヒロシマはどのように記憶されるべきかについて、意見は一致していない。それでも、ヒロシマをいかに記憶されるべきかは、戦後という時代がいかに記憶されるべきかという問いと表裏一体の関係にある。ヒロシマが世界でかつてないほど人類にとって普遍的な事象として祭り上げられる一方、それが日本国内では分断の源になっているという皮肉がある。
政治的な文脈と失われた機会
平和主義とナショナリストのいずれにも見られる、原爆投下の経験の再解釈は、戦後期がどのようなものであるべきかといった大きなヴィジョンが欠落していることや、歴史上の認識が間違っていることに由来するのではない。それは、歴史とはいつもときどきの文脈に依存しているから起こるのだ。哲学者ポール・リクールは、ハンナ・アーレント『人間の条件』の仏語版序文で、次のように書く。「歴史的な文脈と歴史家によって歴史が語られ、書かれる歴史の「作成」は、人間の活動の脆さの克服を目的とする政治的活動としての歴史的文脈、そして歴史家の役割についての総合的な把握なくしては理解できない」と(Paul Ricœur, « Préface », in Hannah Arendt, Condition de l’homme moderne, Paris, Calmann-Levy, 1983, p. 26)。つまり、人間こそが歴史を「作る」というのは言いすぎだとしても、歴史とは政治的な文脈に依存するのみならず、社会のときどきの期待や不安に応えることをも目的とするものなのだ。
事実、ヒロシマは党派を超えたかたちで政治家によって言及されている。安倍晋三率いる保守派議員が地方議会の支持を得て反対にまわって全会一致とならなかったものの、原爆投下50周年記念の一環として、国会は1995年に「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」を採択している。この決議は、戦後という時代に幕を引くための試みでもあった。
最近も2010年1月に、民主党の鳩山由紀夫首相による南京訪問という歴史的な出来事があったが、ここで首相は日本軍の残虐行為を公式謝罪するとともに(これは修正主義派と保守層の立場との明確な差異化でもあった)、胡錦濤国家主席の広島訪問を呼びかけた。人的被害の規模も違えば、中国が原爆投下の当事者でもないことを考えれば、南京と広島を等価に捉えることの不自然さは拭えない。しかしこのエピソードは、原爆投下が一般市民に対する戦争犯罪であり、人類に対する罪としてみなされるという、日本の原爆投下についての一般的な意識を表すものでもあった。その鳩山氏は2013年1月に再度南京を訪れ、今度は元首相として謝罪したが、日本の保守派から売国奴として非難された。
どのような歴史が記憶されるべきか
ヒロシマは、一億総玉砕を唱える軍事主義に惑わされていた社会を覚醒させ、戦後日本の憲法、安全保障、そして社会のあり方そのものを変える出来事だった。しかし、ヒロシマとナガサキへの原爆投下という特別な――そして唯一の――歴史的経験があってもなお、平和主義やナショナリズムによる決まりきった言説や行動が繰り返しみられることは、その変化が十分ではなかったことを示しているのだろう。ヒロシマとナガサキがつねに想起される一方、これは普遍主義と平和主義、対するナショナルで修正主義的な潮流を絶えず生み出してきた。こうした不毛な論争に終止符を打つためには、「原爆投下があったことに賛同か反対か」ではなく、「原爆投下からいかなる教訓を得るのか」という問いに対する答えであるべきなのだ。
日本の国際社会での地位や自国の防衛力がどの程度であるべきなのかという問いについても、ヒロシマとナガサキへの原爆投下という経験は合意と対立の源泉となってきた。日本の行き過ぎた行為が敗戦を招き、日本も被害国であったとする立場からは、日本は平和主義に専念し、断じて核保有国となってはならないという意見が出される。反対に、日本の戦争犯罪を矮小化しようとするナショナリズムの立場からは、日本は原爆を開発した強力な敵に負けたに過ぎないとする意見が出される。平和主義、ナショナリズムの立場ともに、日本が核の被害者であるとの意見では一致するものの、そこから引き出される教訓は正反対のものだ。
70年以上が経ってもなお、ヒロシマという経験ならびにその解釈や教訓は、日本にとって奇妙なパラドクスであり続けている。たしかに、原爆投下という悲惨な経験と、続くGHQの占領は、戦前日本の統治、憲政、社会との決別を可能にし、30年以上に亘る平和主義の礎を提供してきた。しかしヒロシマとナガサキの破壊があったゆえに、日本の戦争責任についての深い反省が回避され、歴史はいかに記憶されるべきという営みは後に回されることになった。
これは、不遜な比較をするならば――1945年8月に起きた二重の悲劇が人類史で唯一の経験であれば、どのような比較も不可能となる――、1945年春のベルリン絨毯爆撃という悲劇を経験し、戦後復興の責任を感じた若者たちが(実際、戦後ドイツはその足跡を辿った)、そのトラウマから、戦争の加害者・被害者問わず社会そのものが被害者であるとみなしたために、ナチス・ドイツの侵略のみならず、その罪を一定程度まで免じてしまったことと対照的だ。たとえば、ベルリンのブランデンブルク門にホロコーストの記念碑はあっても、指導者を含む第二次世界大戦中の戦死者を追悼するモニュメントはどこにも見当たらない。ヒトラーが最後の日々を過ごした防空壕の跡地は、建物に囲まれた駐車場と化し、そこに何があったのかを示す標章は何ひとつない。目につくものといえば、再生ゴミの収集所だけだ。
太平洋戦争下で起きたことの国民の記憶と、それについての歴史家の解釈をみれば、日本は自らの歴史について記憶と忘却を繰り返しているようにみえる。これは「決して忘れません」というヒロシマとナガサキの記念碑にある言葉と、靖国神社とその遊就館との対比にみてとることもできるだろう。ヒロシマは原爆投下が持った意味を追い求め、その歴史的意味を解釈しようとする歴史家たち、原子力を民生用・軍用問わず非難する者たち、敗戦につながった技術的遅れの象徴として引き合いに出したりする者たちの間で、歴史の修正、もっといってその道具化を促す「判事」たちの独占物になり果ててしまっている。
真の歴史の再生とは、歴史から学ぶと同時に、過去の過ちと、過去に経験した悲惨さを躊躇なく葬り去ることを意味する。日本にも、それがおそらく求められているのだろう。こうした観点からみても、ヒロシマは日本のみならず、世界にとっても、まだ教えるところがあるのだ。
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プロフィール
バルテレミー・クールモン
1974年生まれ。パリ第7大学で博士号を取得した後、韓国・翰林大学、カナダ・モントリオール大学などを経て、現在フランス・リール・カトリック大学専任講師、国際関係戦略研究所(IRIS)アジア太平洋部門主任。アジア専門誌『Asia Focus』編集長。著書に『広島の日本――被害と修復(Le Japon de Hiroshima. L’abîme et la résilience)』(2015年)、『平和な戦争――中国とアメリカの軋轢(Une guerre pacifique. La confrontation Pékin-Washington)』(2013年)、『日本の地政学――不安なパワー(Géopolitique du Japon. Une puissance inquiète)」(2013年)など多数。