2013.10.01

憲法9条と安全保障 ―― 憲法改正によらない安保政策の根底的な改変を前に

青井未帆 憲法学

政治 #安全保障#憲法改正

はじめに

筆者に与えられたテーマは「憲法9条と安全保障」であり、「憲法9条とはどのような条文なのか、日本の安全保障にとってどのような意味をもつのか」をその内容として、執筆の依頼を受けた。

昨年(平成24年)春に自民党の「日本国憲法改正草案」(以下、自民党「改正草案」)が公にされ、同年12月の衆議院議員総選挙、そして本年7月の参議院議員通常選挙において改正に意欲を示している自民党が勝利したことで、憲法改正論議へ国民から一定の関心が寄せられる状況となっている。

しかし、憲法96条の手続きによる憲法改正という方途とは別に、時を同じくして静かに進行している安全保障政策の改変・転換は、さほど高い関心を呼んでいない。

確かに、私たちは日々の生活に忙しい。消費税増税など日々の生活に直結する問題と比べて、安保問題は生活に直結するような「リアルさ」がない、といえるのかもしれない。

しかしながら、個々具体的な安保政策の転換の結果として、実質的に憲法改正に匹敵するような安保政策体系の大変容が生ずるとしたら、それは重大な問題である。憲法9条を、憲法96条という「正攻法」によらずに、ショートカットして変更してしまうに等しく、法や国家への信頼や正統性が危機に瀕することになってしまってもおかしくない。また安保政策のありようは、私たちの「自由」(人権)にも影響を及ぼすものである。

そこで本稿では、現在進められている〈憲法改正によらない安保政策の転換〉の孕む問題を視野にいれながら、「憲法9条と安全保障」を考えてみようと思う。

憲法9条はどのような条文なのか

日本国憲法は、時に「平和憲法」という呼び方をされる。国民がパッと思い浮かべる憲法条項の筆頭が、9条ではないだろうか。まずは何が書いてあるのか、見てみよう。

第9条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

〈日本は戦争を放棄し、戦力をもたず、交戦権をもたない〉という。

極めて単純明快な規定のように見えることだろう。また憲法の前文第1文は、「……政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し……」としている。それに、憲法のどこにも軍隊の編成等についての規定がない。そして、98条2項は「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」としている。

そこで、政府解釈や学説・通説は、9条を次のように解釈してきた。

9条1項にいう「戦争」について、国際法上の用法から自衛戦争や制裁戦争は放棄されていないが、2項により一切の戦力の保持と交戦権が否認された結果、すべての戦争が放棄された、と。

大日本帝国憲法の下では存在していた陸軍・海軍といった軍隊に対して、日本国憲法は〈権限を配分しない〉ところが、憲法9条のポイントであることは、明らかだ。

〈戦力はもたない、戦前の軍隊のような軍隊は憲法の想定するところではない〉といった「軍の否定」の論理(なぜ自衛隊が合憲なのかについては後述する)自体は、解釈の対象ではなく大前提として、これまで閣議決定、諸制度の設営及び運用がなされてきたのである。この論理は、たとえていえば「礎石」であり、その上に自衛隊をはじめとして諸制度が積み重なって、全体の安保政策体系が形成されてきた。

どのように政府は自衛隊を合憲と説明してきたのか

前節で述べたように、政府解釈・学説共に、戦争は放棄され、日本は「戦力」を持ちえないと理解しているが、日本には世界でも有数の装備をもった自衛隊がある。この自衛隊の評価をめぐって、合憲とする政府解釈と違憲とする学説・通説が対立しており、学説の議論は政府解釈に大きな影響を与えてきたのだが、本小論ではこの点に立ち入らない。政府解釈で示されている合憲の「理由づけ」に注目することとしたい。

それは、日本国も独立国家である以上、国民の生命や財産を守る責務があり、「国家固有の権利として自衛権を有する」ため、「自衛隊のような自衛のために必要な最小限度の実力は、憲法の禁ずる戦力ではない」とするものである。他国の侵略に対して自国を防衛するという(個別的)自衛権は、国際法でも昔から認められてきた。このように政府解釈は「国家固有の権利として自衛権を有する」という、憲法9条の「外」にある論理を用いているのである。

以上の解釈の下で、戦後の安保政策とは、憲法の命ずる「軍の否定」という論理を軸において、防衛作用を行政作用の一つとして法律以下のレベルで処理しながら、自衛隊をはじめとする諸制度を設置運営する、というものだったのだ。

そこで、日本の安保政策は、日本国憲法の下で、「軍の否定」という論理一点で正統性が支えられているのだといえる。不安定で危なっかしいように聞こえるかもしれない。しかし、そうともいえない。法的安定性はかなり強いのである。

というのも、〈戦争や戦力は放棄したが、国家固有の権利として自国を守ることはできるはずだ〉という論理は一定の訴求力の強さを持っているのであるし、この「礎石」の上に、互いに整合性を図りながら解釈と政策を積み上げるという努力のなされてきた「戦後実践」は、相応の重さを持っているからだ。これらが、政府解釈の正統性を担保しているものと観察することができる。

コントロールの仕組みとしての9

以上は、〈権力のコントロールの仕組み〉と理解することができる。すなわち、「軍の否定」を制度の論理として、対外的な安全保障に関わる諸制度を構築することにより、国が統治の背景におく実力のコントロールをなすという、諸国の憲法にはない斬新な「試み」である、と。

対外的な安全保障を確保する実力組織のことを、伝統的に「軍隊」と呼んでいるが、集団での戦闘行為が有効に行われるためには、上官命令への服従など、集団内の紀律維持は必須である。そこで、警察組織とは比べ物にならないほどの規模の実力を有する上意下達の徹底した組織が、固有の「意思」を持つことは、政治にとって脅威である。

戦前のわが国が「軍部」をコントロールしえなかったことは、日本国憲法の運用における出発点に置かれるべきである。また、日本に限らず、歴史をひも解いてみれば、軍隊のコントロールがいかに難しいかを示す事例に溢れているし、それは今日においても変わらない。

そのような中で憲法9条は、実力組織のコントロール方法として、実に有効であったのではないか。たとえば、日本は戦後、日本の名において他国の人間を一人も殺めてきていない。自国民にも銃を向けていない。産軍複合体化を相対的に免れている。それに、軍事に関わる事柄が人権制約を正当化する「公益」となるのには、他の国よりも幾つも余計なハードルを越えなければならないのであった。

集団的自衛権と憲法9

コントロール方法として有効であるがゆえに、政治の裁量が狭められ、政治の世界でイライラ感が募っているのは周知の通りである。

なかでも集団的自衛権の行使容認問題は、日本の安全保障に関する喫緊の政治マターの一つとなっており、自民党「改正草案」の主たる目的の一つであるといってよい(*1)。

(*1)改正草案9条2項は、現行憲法が「平和憲法」と呼ばれる最大の理由である9条2項を削除したうえで、「前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない」としている。自民党による解説書(日本国憲法改正草案Q&A)は、本条文について、「この、『自衛権』には、国連憲章が認めている個別的自衛権や集団的自衛権が含まれていることは、言うまでもありません」と述べ、「自衛権の行使には、何らの制約もないように規定しました」とする。

これまで政府は、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」である集団的自衛権を行使することは、「憲法第9条のもとで許容される実力の行使の範囲を超えるものであり、許されない」と説明してきた(*2)。

(*2)なお平成25年版『防衛白書』でも、以上の説明は維持されているが、直後に「コラム」が設けられている(102頁)。そこでは、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保懇)報告書の概要につき、次のように記されていることに注目しておきたい。「個別的自衛権しか認めていないというこれまでの政府の解釈は、激変した国際情勢及びわが国の国際的に地位に照らせばもはや妥当しなくなってきており、むしろ、憲法第9条は、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障への参加を禁ずるものではないと解釈すべき旨を提言」

集団的自衛権の行使の問題は、けっしてよそ事ではない。事柄の性質に応じたまっとうな対応をすることを政府は求められるし、私たちにも求められる。

そこで具体的に、「集団的自衛権が行使できるようになると、私たちは我が事として、何を引き受けなくてはならないのか」という問題について、簡単に整理しておきたい。

そもそも集団的自衛権は、国連憲章(1945年)ではじめて認められた権利であり、その定義や法的性質について、国際法学者や各国の間でも見解の一致を見ているわけではいまだになく、さらに重要なことに、これまでの集団的自衛権行使の事例(ベトナム戦争・ニカラグア事件・アフガン侵攻等)は、いずれも、その正当性に疑念の示されるものばかりであった。

集団的自衛権という概念がこのように発展途上にあることには、国際社会の現状が大いに関係している。目下のところ世界大の政府はなく、国連はあっても集団安全保障は機能していない。つまり、自国への攻撃に対する自衛措置はともかく、戦争を含めて他国への軍事介入というものは、すべて「国益」次第という側面を持っている。

集団的自衛権の行使が容認されるということは、某国からアメリカに向かって飛んでゆくミサイルを撃ち落とすといったような「アンリアル」な話ではない。たとえば、9.11テロを受けて、アメリカは自衛権の行使としてアフガン攻撃をし、イギリス・フランス・カナダ・ドイツ等も、アメリカとの関係での「集団的自衛権の発動」として、攻撃に加わったことを想起されたい。アフガンでは多くの兵士が亡くなった。そして、それを圧倒的に上回る桁違いの数の民間人が――まったく戦闘に無縁の民間人を含めて――、命を落としたのであった(*3)。

(*3)アフガンやイラクでのわが国の活動は、集団的自衛権行使が容認されていないため、アフガンでは洋上補給にとどまり、イラクでもサマワでの人道復興支援にとどまったのであった(これら自体の憲法適合性は措く)。

日本の自衛隊が他の国の軍隊と同じように集団的自衛権を行使できるとすると、かりに正当性に疑問に呈される戦いであっても、日本の若者が日本の名の下で他国の人間の命を奪い、あるいは自分の命が奪われるといった事態も生ずる可能性が出てくる。

このことを、「平和憲法」を掲げて第二次世界大戦後の長い期間を曲がりなりにも送ってきた私たちは、正常な思考の範囲内において、受け止める覚悟があるか。そういうことが、集団的自衛権行使容認の議論をめぐって、私たちに問われている。

集団的自衛権行使容認と内閣法制局

前にも述べたように、これまで維持されてきた憲法上の論理による集団的自衛権行使への歯止めについて、政治の世界でイライラが募っている。まさか、そんなことまではするまいと思っていたが、内閣法制局長官人事にまで手が加えられた。2013年8月8日、集団的自衛権行使容認に積極的な外務省出身の小松一郎氏が内閣法制局長官に起用されたのである。

ここで、内閣法制局について説明しておくと、内閣法制局の主な仕事は、(1)行政府内部における憲法・法令解釈の見解を作成する、いわゆる意見事務と、(2)法律案、政令案及び条約案を審査する、いわゆる審査事務である。

政権が変わるたびに法解釈が変わるようでは、恣意的な政治であるとの疑惑も生まれかねず、政府の正統性も傷つく。内閣法制局は、日本の法秩序を強力に安定させる官庁として、長い歴史をもっているものである。

9条についていえば、国会論戦や質問主意書への答弁書、閣議決定等を通じて示された、政府の憲法解釈の分厚い堆積がある。前に述べた「礎石」の論理(軍隊は持てないが防衛のための実力組織は持つことができる)の上に、一つひとつ整合性をチェックしながら構築されてきた憲法解釈は、私たちが作り上げてきた「9条のかたちそのもの」という側面を有している。

だからこそ、先の参院選前までは、これまで歴代の内閣(内閣法制局)が行使しえないといってきた集団的自衛権を、憲法を改定することなく解釈変更によって行使可能にするような法案は、内閣法制局の審査を通らず、内閣提出法案によってはできない、というのが大方の見方であった。集団的自衛権は、自衛隊の存在を正当化する論理、つまり〈自国の防衛のため〉という理屈からは、出てきようがないはずだという理解が、相当の範囲で共有されていたもの、と考えられる。

そこで、現行憲法を改正しないで安保政策を大変革するとすれば、集団的自衛権を行使可能とすることも含むところの、自民党が成立を目指している「国家安全保障基本法」のような法律は、議員立法というかたちをとるだろうと考えられていたのである。しかし、参院選で大勝した翌日の記者会見で、安倍首相は「閣法が望ましい」と述べ、その言葉の直後に、上に述べたような内閣法制局長官人事がなされたのである。

このような今般の動きとの関係で、政府の憲法解釈の責任主体性を確認しておこう。国会答弁や閣議決定における責任は「内閣」にあるのであって、「内閣法制局」にあるのではない。内閣が憲法解釈権について、その責任を自ら引き受けることは、責任ある統治の前提をなしている。あたかも内閣法制局に責任を負わせるような無責任な発言を耳にすることがあるが、内閣法制局というのは内閣の附置機関なのである。

進められる「下からの改変」

現在、集団的自衛権行使容認について、秋にも出されるだろう「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保懇)の報告を受けて、閣議決定・首相答弁等による解釈変更をし、年末の防衛大綱に反映させ、来年の通常国会にも「国家安全保障基本法」を提出して制定するという線が有力のようである。

このように、法律による論理の転換が目指されている一方で、さらに外堀を埋めるような動きと解されうるのが、この秋に成立が目指されている「日本版NSC法(国家安全保障会議設置法)」や「特定秘密保護法」である。これらは、「国家安全保障基本法」という基本的な法のもとにある具体的な法という性質をもっており、つまり具体的な法の方から実現されつつあるのである。

もっというと、変化は部隊運用等の現場においてより一層顕著である。在日米軍再編の動きに連動して、自衛隊と米軍の統合が進み、とうとう陸海空全ての司令部がレベルで一体化が進められるにいたった(*4)。また、長らく懸案とされてきた陸上総隊の実現に向けて、議論が進んでいる。そして自衛隊の運用を、幹部自衛官からなる統合幕僚監部にて一元化する防衛省の組織改革案も明らかにされている。

(*4)最後に残っていた陸自について、本年3月26日に陸自中央即応集団司令部が在日米陸軍司令部のあるキャンプ座間に移転した。

繰り返しになるが、既成事実として日米同盟強化を前提とした〈新しい日本の安全保障のかたち〉が、法秩序でいえば下の方から先に出来上がりつつあるのである。

しかし、日本国憲法9条の条文解釈とその解釈の下での法制度形成によって、かなり確定性の高い憲法9条の意味内容が、政府により示されてきているのであった。その中核的な論理は、「自国防衛」であって「他国防衛」は引き出しようがない。以上のように具合に事が進めば、正規の手続きを踏まずに憲法改正をするに等しいのであって、「手続き軽視」も甚だしく、手続的な正義に反する。

事柄が国の防衛という極めて重大な事項である以上、実際に「弾」となり「楯」となる私たちに対して、私たちがどのような負担を負うのか、具体的に私たちの生活はどう変わるものなのか、といった点についてのきちっとした説明が必要である。新しい安保政策体系の正統性と安定性を獲得するためにも、為政者は「正攻法」で臨まねばならないはずだ。“予め定められた改正の手続が困難だからショートカットをする”などということは、許されないのである(*5)。

(*5)このような「手続き軽視」の最たるものとして、「憲法改正規定を先行して変えよう」という議論(憲法96条先行改正論)が、政治の世界でいっとき大いに広まったことを挙げることができる。今は下火になっているようにも見えるが、依然として選択肢の一つとして残っている。

この秋の臨時国会の動向や年末の防衛大綱策定、そしてここ数年の動きは、かかる観点から見た時に、決定的に重要な意味を持っている。そうであるからこそ、私たちはいま、日本国憲法9条の下に展開してきた安保政策の意味を改めて確認し、安全保障政策のありよう、ひいては「国のありよう」が変わることについて、しっかりと考える必要がある(*6)。

(*6)なお政府解釈について付言するに、筆者は政府解釈を9条解釈としてありうる解釈の一つと理解しているが、与してはいない。また、安保政策相互は高い程度で整合してはいると考えるが、完全に保たれているとは解していない。

※安保政策の改変による実質的な「改憲」という問題について、より詳しくは、青井未帆「静かな実質的『改憲』の動き――安保政策の根本的な変容が意味すること」世界2013年11月号(2013年・刊行予定)の参照を乞う。

(編集部註:本稿は2013年9月20日に脱稿されました。)

サムネイル「T-4」Toru Watanabe

http://www.flickr.com/photos/torugatoru/6318272130/

プロフィール

青井未帆憲法学

学習院大学法務研究科教授。専攻分野:憲法学。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了(法学)、同博士課程単位取得満期退学。信州大学経済学部准教授、成城大学法学部准教授を経て、2011年から現職。著書に『憲法を守るのは誰か』、共著書に『憲法学の現代的論点〔第2版〕』。編著書に『論点日本国憲法』など。

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