2010.11.19
「学術政策」のあり方を問い直す契機に
「廃止か大幅な削減」ありきの再仕分け
「再仕分け」から一夜が明けた。昨年行政刷新会議が主導して実施された「事業仕分け」のうち、十分にその議論を反映されていないとするものが対象となった。高等教育や学術研究に関わるさまざまな予算について、昨年に引きつづき非常に厳しい評価を受けることとなった。
前稿で、筆者は「新しい学術研究のあり方を生むかもしれない、という期待を感じさせた昨年の仕分けに比して、明るさを感じることができない」と書いたが、やはりその通りの議論だったといえるだろう。
今回も仕分けの様子がインターネット中継され(その事自体は隔世の感があるが)、筆者も前回取り上げたグローバルCOE(GCOE)などに関する議論などを中心に中継をみていたが、仕分け側は「廃止か大幅な削減」ありきなのではないか、と疑わせる様子で、文部科学省に対し稚拙な論理をもって挑発を繰り返していた。
例はいくつかあるが、そのひとつが大学ランキングを用いた討論である。
仕分け側はTimes社(Times higher education:THE)の集計による大学ランキングを持ち出し、日本として最高の26位に入った東京大(昨年22位)も、昨年まで維持したアジアトップの座を21位の香港大(同24位)に譲ったことなどをあげ、現在の施策が有用性に欠けると訴えていた。
だがこのランキングは大学の教員数や学生数など、さまざまな要件を総合的に判断するものであって、博士課程の学生やポストドクター以上の研究者を対象とするGCOEプログラムがランキングに与える要素は限定的だ。
そのため、文科省側は論文の被引用数などを中心とする研究の質を対象にしたトムソン・ロイター社の研究ランキングを引用し、拠点化された研究機関を抱える大学は質の維持・あるいは向上を果たしていることを示し、仕分け側の論点に巻き込まれないよう注意を払っていた。筆者には文科省側の方が理性的に思われた。
ほんの数年で研究・教育の成果は出せない
指摘しておくならば仕分け人側が引用したTHEのランキングでは、日本の地位低下の理由についても分析を行っており、その要因のひとつとして「高等教育に対する財政削減」をあげていたことは、じつに皮肉な話である。
そもそも、プログラムを走らせはじめてほんの数年で、研究・教育の成果は出せない、ということを仕分け側がまったく理解していないことに、この仕分けの悲喜劇がある。
仮に新規にiPS細胞を用いて研究を開始しようとすれば、iPS細胞の樹立という基本的な段階にさえ数カ月単位の日数が消費される。いくら研究が日進月歩、スピード勝負の世界とはいえ、生命科学の研究を行って論文を出すまでには、少なくとも2年程度は見積もらなければならない。
そうした観点からは、博士課程に入りたての学生に、現在のような「論文重視型」の採用基準をもつ学術振興会研究員制度はそぐわないことが理解されるだろう。それと同時に、GCOEという予算は基盤整備のためのスタートアップ資金であり、ある程度の期間を経なくては評価が出せない、ということも理解されるはずなのだ。
結局、取りまとめにあたった民主党・枝野幸男議員は、GCOEを「仕分け違反」と認定し、前回の決定である2009年度比1/3程度の予算削減の遵守のため、2010年度予算から1割以上の予算削減を求めるものと判定した。
もちろん仕分け側に予断があったわけではないだろうが、仕分け人たちの討論中の舌鋒の鋭さと文科省側の(比較的)冷静な答弁を比較するに、仕分け側としては不本意ながらも他に落とし所がなかった、というところかもしれない。
制度設計レベルでの見直しに着手すべき時期
今回の議論全体をみても、お金をどう削るかのみが焦点と化し、国の姿のあり方をどうするべきかという哲学は感じることができず、実りは乏しかったのではないだろうか。もちろん、仕分け側の指摘のとおり、ゾンビのように立ち上がった予算はいくつもあったし、天下りの隠れ蓑としか思えないものもいくつもあった。
そして、仕分け人たちが指摘したように、現在の競争的資金などの予算配分は非常に使いづらくなっているのは事実である。今回取り上げられていたGCOE予算は大学院生の教育のためであるし、国際化拠点整備事業(グローバル30)などは国際化を目的としたお金にしか使えない。
その結果、研究者は自らが必要とする研究費を満たすために、いくつもの研究費に応募しなければならなくなっている上に、研究費使用の適正化の名のもとに研究費申請の書類仕事が増えつづけている。仕分け人がさもGCOEのために事務仕事が増えるかのように指摘していたのは、錯誤もはなはだしい。
また、運営費交付金や私立大学経常費補助、といった大学という組織を動かすための事務経費などもどんどん削られており、大学の事務組織はその本来業務をこなすのも困難になっていることも忘れてはならない。
枝野議員は「大学生の就業力育成支援事業」の予算について、大学の本来の業務であるとして廃止と判定した。たしかに、運営費交付金のなかには同様の名目での資金が盛り込まれてはいるが、交付金が縮減されつづけるなかでハードルを上げるという判定は、大学生が不遇にある現在のような時代にあっては、やはり理解しがたいものがある。
こうした点をいちいち指摘していけば、まったくキリがない。当然、筆者は研究者としての論理があり、仕分け側の論理からみれば容認しがたい反対意見であることも理解している。
ただ、仕分け側は「科学技術が発展することが必要」と繰り返しており、そのレベルまで立ち返れば、意見が相違するとは筆者も考えていない。それなのに、こうした齟齬が生じてしまうというのは、いまや予算をいくら削るかといった問題の討議が必要なのではなく、望ましい科学行政・高等教育政策のために、制度設計レベルでの見直しに着手しなければならない状況が現出しているということではないのか。
研究レベルの低下をどう最小限に抑えるか
大学や研究機関当局に下ろす予算のかたちがどうあれば有機的で、死に金を産まないのか。民主党お得意の「ヒモ付き補助金」の廃止というのはひとつの手だ。細分化され、特定目的に特化した資金に可塑性を与えることで、大学に独自性を生むことができるし、可塑性をもったシンプルな研究費体系を構築してくれるのであれば、研究者たちはこぞって賛成するだろう。
また、現在の大学の評価基準である学部・大学院の定員の充足率は、本当に「大学の質」を証明するものであるかの検討も必要であるし、修士・博士の定員の見直しも当然必要となる。
そもそも、「博士余り」などといわれる世の中になることが予測できたにもかかわらず、なぜ大学院を重点化しながらもその教育プログラムの検討を怠り、学生数を増加させつづけることとなったのか。いまやその検討を行い、総括を行う時期に来ている。
そして、もっとも議論しなければならないのは、今後ゆるやかに下り坂を歩んでいくであろうこの国で、どのようにして研究レベルの低下を「最小限に抑えるか」という(いささか悲観的ではあるが)点であろう。
先に「大学ランキングの低下」の原因としてあげた「高等教育に対する財政削減」は、逆にいえば日本の大学の、公的資金に対する依存度の高さも示す結果である。
日本ではそれほどポピュラーではないが、アメリカなどではリサーチ・アドミニストレーター(RA)という職種が存在している。RAは端的には研究機関の「営業職」といえ、自分の所属する機関がもつ研究者や技術レベルをアピールし、民間企業からの研究請負や共同研究の提案にはじまり、公的な競争的資金の導入に際してのコンサルテーションにまで関わる。そして、RAの行動範囲は国内だけでなく、海外からの資金導入まで携わる広範なものとなっている。
11月10日の「元気な日本復活特別枠」公開ヒアリングで、文部科学省から若手人材の「内向き思考」と「伸び悩み」について悩む声が出ていたが、それは若手人材にかぎったものではなく、日本の大学自体がもつ宿痾でもある。
今後は民間資金の活用に対する、企業・大学双方の税制面などのインセンティブを高めること、海外からの予算導入を「国策」として進めることなどが必要となる。もちろん基礎研究や文学研究のように、必ずしも民間資金の導入が期待できない研究は厳然として存在しており、そうした分野へは国が積極的に手当を行うべきと考えるが、民間との役割分担を行うことで、我が国の学術研究は多少なりとも延命することができるはずだ。
前稿にも記したが、昨年の事業仕分けをきっかけとして、ゆっくりとではあるが我が国の研究者コミュニティにおいても、意識改革が起こりつつある。そして、この2年の仕分けの議論も社会の狂騒も、いつかは歴史となる。
長年たまった歪みを社会にさらけ出した事業仕分けが、たんなる政治ショーだったといわれないよう、我が国の学術政策を組みなおしていく契機にしなければならない。なんども繰り返すが、民主党や文科省には、未来からの視線が注がれていることを忘れないでもらいたい。
プロフィール
八代嘉美
1976 年生まれ。京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門特定准教授。東京女子医科大学医科学研究所、慶應義塾大学医学部を経て現職。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立をを試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。