2014.09.12
なにものかへの別れのあいさつ――鳥公園「空白の色はなにいろか?」劇評
常々思うが、演劇というのは、そんなに、面白いものではない。映画に比べて高い(東京だと2千円ぐらいから)のに、クオリティの保証はない。特に、私がよく見る小劇場演劇ときたら、そこらへんの人が、「やりたい」と思ったらすぐにでもできる。思いつくことを何でも目の前でやって見せる、それを数千円払って見るわけで、こんな危険な話はない。実際、中には脚本から役者から、ずいぶんひどいのも、あるのである。
それじゃ、なんで小劇場演劇なんか見ているのかと言えば、正直に言えば、最初は、青春の匂いみたいなものに惹きつけられたのだ。家が貧乏で、大学時代は生活費稼ぎのバイト三昧。20代のころは新聞記者の仕事で忙しく働き、親の借金も返した。そんな私が30代半ばにもなって、ちょいと時間が出来たとき、心の隙間に演劇が入ってきた。ありていに言えば、若い連中が集まってやりたい放題やっているのが、うらやましかったわけだ。そのころは自分でも劇団に関わったりしていた。遅い青春。何て恥ずかしい話。
それから10年ほどが過ぎ、四捨五入すれば50歳。さすがに青春でもない。それで改めて、なんでまだ、小劇場演劇を見ているのかと言えば、たまに、それこそほんのたまに、面白いこともあるからだ。それも、映画などのマスのものにはないような、生々しい形で。役者は今そこにいて、時間と場所を共有している。観客は数十人、多くて二百人。その目の前で、何かが生まれていく。数人の役者の身体を通して、時代の先っぽが垣間見える。ごくまれに、そんな瞬間がある。
アートスペースへと変貌した造船所跡地
今回紹介する公演も、そんな生々しい「時間と場所」を感じさせた公演の一つだ。演劇ユニット「鳥公園」は作・演出の西尾佳織を主宰とする団体。ふだんは首都圏を拠点としているが、8月のお盆休みのころ、クリエイティブセンター大阪というところで、「空白の色はなにいろか?」という公演をした。
ここは、明治の終わりから昭和54年まで、70年近く稼働した造船所の跡地を、イベントなどに転用しているところだ。要するに、かっこいい廃墟。大阪市南部・住之江区の工業地帯にある広大な敷地には、かつて船を浮かべた深い切れ込みのドックが2つ、木津川の流れで大阪湾につながる。建物がぽつぽつと間を空けて並ぶ。今回の公演の主な会場となった正門すぐの大きな建物(総合事務所棟)は、事務所、倉庫、作業場などを兼ねていたものらしい。
分厚く大きな鋼鉄の正門を通り、折からの雨でできた小さな水たまりに渡された、木の板の上を歩いて建物に入る。むき出しのコンクリートの階段を2階に上がると、がらんとしたスペースを、外壁一面の薄汚れたガラス窓が囲っている。夏の日も暮れた7時半ごろ。今はひっそりと静まり返っているが、耳を澄ませば、かつて船造りに従事した男たちの声が聞こえてきそうである。
総合事務所棟の入口近くで待っていると、開演と同時に、ブラックチェンバーというスペースに案内される。小さな小学校の講堂ほどもあり、ロの字型に2階部分を残して、真ん中は大きな吹き抜けになっている。その2階部分に案内されて見下ろす1階の床には、大きな積み木のようなものがごろごろと置かれており、そこに女性が1人(西山真来)、ほうきを手に床をはいている。
やがて2階部分の向かい側から男性(浅井浩介)が老人の演技で腰をやや曲げて現れ、話し始める。「ふみちゃんへ。こんにちは。元気にしていますか。おじいちゃんは今年86歳になります」と孫への手紙を口述している。と、やおら1階の女性に「お母さん!」と話しかけ、自分の年齢を確認しはじめる。だが、女性(つまり男性の妻である)が一生懸命説明しようとすると、そのうちに自分で納得し、「わしはお母さんの用事は済んだから、あとは勝手にやってくれな」と引っ込んでしまう。どうやら少しぼけているらしい。自分勝手なのはもともとの性格か。
「空白の色はなにいろか?」は「回遊型公演」で、観客は俳優らの導くまま、総合事務所棟の各所に赴き、パフォーマンスを見ては、また次の場所に移動する。広くて変化に富んだ会場。ここに滞在して制作したものだけに、ダイナミックな空間の魅力を最大限に引き出している。ある場所では、パフォーマンスの後で俳優が正面のシャッターを開けると、手前から巨大な鉄骨が2本、平行に、ドックの水面の上に伸びているのが見えた。まるで双子の首長竜の背骨のよう。
「空虚な中心」に惹かれる二人のアーティスト
パフォーマンスは1か所につき5分ぐらい。直線的にストーリーを追うものではない。モチーフは、大まかに言って3つに分かれる。(1)孫「ふみちゃん」(武井翔子)の視点から、主に祖父についてのイメージやエピソードを提示するもの。(2)20世紀の彫刻家イサム・ノグチと画家フリーダ・カーロにまつわるもの。(3)生々しい調子で男女関係について語るもの。これら3つが順不同で行われ、お互いに照応しあって作品世界を構成している。
「ふみちゃん」の語りによれば祖父は九州出身、岡山で法律を学び、裁判官になったという。言ってみればエリートだが、年を取ってからは徘徊をするようになり、ついには行方不明になってしまう。その祖父は「ふみちゃん」の想像の中で、最近になってようやく、自由に歩くということが出来るようになってきた、と言う。祖父は、柿の木の声に耳を傾けたり、買い物のカートに大きなプラスチックのあひるを縛り付けて、押して歩いたりする。そして本当はパイロットになりたかった、女の人にもなってみたかった、などとかつての夢を語る。けっこうアバンギャルド。「ふみちゃん」の想像する祖父は、それまでの自分をほどいていくことで、自然へと回帰していったものとして描かれている。
会場の2か所には、それぞれ「イサム・ノグチ展」と「フリーダ・カーロ展」と称する簡単な展示があり、観客はそれらを見る時間を与えられる。「イサム・ノグチ展」ではイサムのプロフィールとともに、「エナジー・ヴォイド」という作品が紹介され、今回の公演を象徴するイメージとして示唆される。高さ3.6メートルもある巨大な黒い石の彫刻で、縦に長い台形をしている。内側はくりぬかれて、向こう側が見える。「ヴォイド」(void)というのは空白、空虚といった意味だ。
「エナジー・ヴォイド」は「エネルギーを持つ空虚」とでも訳そうか。写真を見ていると、真ん中の空間に向かって周りの黒い石の部分が折れ曲がり、奥に向かって吸い込まれていくような錯覚にとらわれる。真ん中が空虚になることによって、そこに強い磁場が発生している。もしくは、もともと一つの石の塊であったものが、ブラックホールのように、過剰なエネルギーを持った中心部が崩壊し、異次元へと消えていったかのよう。
「イサム・ノグチ展」の説明によれば、「中心の欠如は、イサムにとって重要なテーマだった」らしい。それはおそらく、日本人の父親とアメリカ人の母親の間に生まれ、父親に繰り返し拒絶されたイサムの成育歴と深いかかわりがある。空虚な中心は不在の父親であるとともに、内心に空虚を抱える自分の姿でもあるだろう。この「空虚さ」こそ今回の公演のキーワードの1つなのである。
「イサム・ノグチ展」を見た観客は、次に小さなカウンターのある部屋に案内される。そこには先ほど祖母を演じた西山真来がいて、カウンターの向こうに座り、自分の指をみみずに見立てて、みみずとの出会いと会話を語る。みみずはぬらぬらした体液を持ち、触るとピクピク動きながら大きくなっていく。うかつな私はその場では気づかなかったのだが、読者の方々にはおわかりのように、みみずとは男根のかなり露骨なメタファーである。
こうした生々しさは、当初、静謐な全体のトーンにはそぐわないように感じられ、小さな違和感を残すのだが、後半になると、徐々に前面にせり出してくる。
次に案内される「フリーダ・カーロ展」では、3枚の絵が展示されている。そのうちの1枚は、夫ディエゴ・リベラがフリーダの妹と関係を持ったことから着想された「ちょっとした刺し傷」で、傷だらけでベッドに横たわっている裸の女性と、それを見下ろす男性を描いたものである。解説は、女性関係の絶えなかったディエゴに苦しめられた一方で、フリーダもイサム・ノグチと浮名を流したことを記している。また、イサムとの文通は関係が終わった後も続き、後年寝たきりになったフリーダにイサムが日本の蝶の標本を送ったことが書かれている。
それからしばらく後、公演の中盤でのパフォーマンスで、西山と浅井がフリーダと蝶として会話をする。フリーダは夫ディエゴに執着する自分の気持ちを語る。ディエゴはまるで小さな子供のようで、常に物事の中心にいないと気が済まない。フリーダはそれに振り回され、傷ついていくのである。
男性社会への生々しい異議申し立て
こうして、作品の底流に男女の関係に対する問題意識が流れていることが、徐々に露わになっていくが、それが爆発するのが、公演終了近くに楽屋で行われる、3人の俳優による会話だ。
そこではまさに楽屋話ででもあるかのように、性の問題が観客に突き付けられる。浅井が西山に「今日はお前を抱こうと思って、寝ないで待っていたよ」といきなり話しかけ、この言葉を巡って西山と武井の女性2人が「わあ……。やだ」「耐えられない」「頼むから寝てくれよ」などとぶちまける。その会話の中で西山は浅井のことを「みみず」と呼び始める。実はこれ以前にも、西山演じる祖母が浅井演じる祖父について「みみずのくせに」と言う場面がある。楽屋での女優2人の会話は、祖父と祖母の関係を二重写しにしながら、女性がパートナーの男性に対してしばしば持つ生理的な嫌悪感を赤裸々に語っていく。
浅井はそれをさびしそうに背中を丸めて聞いているが、すると武井が浅井に近づいていき、「ヨシヨシ」と言いながら浅井の身体をさすり始める。実はこれはセックスを象徴している。この情景を見ながら西山は、「みみず」の内に広がる、西山にはどうにもできなかった大きな空虚を武井が引き継いでやろうとしている、と解説を加える。西山が去った後、武井と浅井は会話を続けるが、それは娼婦と客との会話である。性産業が、男性が内側に抱える空虚を受け取る役割を果たしていることが示唆されている。
武井は浅井に「男の人が顔にかけたいとか口に出したいとか言うのって何なのかな」と問い、「いつも、すごく自分が『土地』って気分になる」「どっかで色々一生懸命学習してきた男の子たちがワー!ってやって来て、井戸を掘る!とか、おれは耕す!とかそれぞれ色々やってんなーと思うわけ。で、男どもの領有したさに付き合って、私もその時は『土地』みたいな」と言う。ここでは性が土地の領有というメタファーを使って表現され、それを介して歴史や政治の問題へと接続されている。
「鳥公園」の作品には、主宰西尾の問題意識を反映し、男性の身勝手さへの異議申し立てが含まれている。それは今回のように生々しい形を取ることも多く、私はしばしば、いたたまれないものを感じる。そこには男性に対する復讐心も垣間見える。たとえば、西尾は「男は全員ばか」というセリフを時々使う(今回も使われていた)。それを聞くたびに私は腹を立ててきた。
男は有史以来これまで、何千何万何億回「女は全員ばか」という趣旨の発言をしてきたか分からない、さらには発言するだけでなく、様々な差別を設けることで、「女性は男性より劣っている」という認識を制度化すらしてきた、ので、西尾が何回「男は全員ばか」と言おうが、バランスなど全然取れない。それは分かっていても、やはり、このセリフを聞くたびに、男性である私は穏やかな気持ちではいられない。「ばかと言うやつがばかなんじゃないか」とか小学生みたいな反論も頭に浮かぶわけである。
しかし、西尾の過激さの中に、挑発を通じて、この男性社会をどうにかしたいという強い意思も、表現としての新しさも含まれている。だから、「鳥公園」を見ることは、男性の私にとって、とても腹が立つことであり、それも含めて、刺激的なことなのである。
さて、楽屋での一連の会話は、それまで祖父を巡るセピア色の思い出話集のようにも見えていたそれまでのパフォーマンスに、生温かく赤い血を通わせる。そこで示されるのは、一緒に暮らす人々の間にほとんど必然的に生じる権力の関係(政治)であり、性というもののいかんともしがたい収まりの悪さであり、形骸化していく愛であり、そこに広がる空虚なのである。権力が空虚を生む。そして、観客がそれまで見ていた祖父は、自らの内なる空虚に吸い込まれるように自己崩壊していった姿であったことが、明らかになる。そう、エリートとして社会の中核にあった祖父の崩壊=解放こそは、近代=男性社会の終わりを象徴する姿なのである。
公演の最後に、もう一度「ふみちゃん」に戻った武井が建物の4階に上がる。そこは広い、がらんとしたスペースだ。梁がむき出しになり、天井には長い蛍光灯が何列にも走っている。開けられた窓から見下ろすと、サーチライトに照らされた小さな建物の屋上から祖父が手を振っている。「ふみちゃん」は祖父を見ながら、「小さな空」(作詞・作曲 武満徹)を歌い始める。
祖父は屋上を降り、ドックの向こうへとゆっくりと歩いていく。かつて男たちが巨大な船を造り上げていた広大な敷地は、今はその役割を終えて、宵闇の中に沈んでいる。懐かしい歌声に送られて、背中を曲げた姿が、どんどん小さくなり、やがて闇に溶け込んで、見えなくなった。
プロフィール
水牛健太郎
1967年12月静岡県清水市(現静岡市)生まれ。高校卒業まで福井県で育つ。東京大学法学部卒業後、新聞社勤務、米国留学(経済学修士号取得)を経て、2005 年、村上春樹論が第48回群像新人文学賞評論部門優秀作となり、文芸評論家としてデビュー。演劇評論は2007年から。小劇場レビューマガジン ワンダーランド スタッフ。http://www.wonderlands.jp/ 2014年10月より慶應義塾大学文学部講師。