2015.04.18
「地域エゴ」の何が悪いのか?――NIMBYから考える環境倫理
私の研究分野は「環境倫理学」である。「環境倫理学」という名前からは、環境主義者の高邁な理想を聞かされるという印象を持たれるかもしれない。あるいは自然と人間に関する難解な論理を構築しているというイメージがあるかもしれない。確かに、環境倫理学には「人間中心主義は克服できるか」とか「自然にはいかなる価値があるのか」といった問いに対する込み入った議論がある。議論をきちんと追っていけば、現実の環境問題に関わる話だということが分かるのだが、ちょっと聞いただけでは、どこか浮世離れしているという印象を受けるかもしれない。
近年では、環境倫理学の議論も、より地に足の着いたものに変わりつつある。もちろん、それまでの議論が無意味だったというわけではない。総論的な議論も重要だし、今も行われている。ただそれに加えて、具体的な環境紛争の事例をふまえた議論が多く見られるようになったというのが、近年の環境倫理学の特徴である。
私自身は、地球の人口の半数以上が都市に住む時代に、身近な環境とは都市環境なのだから、都市環境をテーマにした環境倫理学を展開する必要があると考え、2014年の1月に『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』(勁草書房)という本を上梓した。そこでは身近な環境に対する愛着が環境保全の鍵になると主張し、そこから他の地域や地球環境にも目を開いていくという道筋を描いた。
後にその点に対して、「はたしてそううまくいくだろうか。自分の住んでいる環境に対する関心にとどまり、他の環境に目が向かなくなるのではないか」という質問を受けたことがある。確かにそうかもしれない。まちづくりに熱心な人が地球環境には無関心ということはありうる。自分の地域の環境には関心があるが、他の地域の環境には無関心ということは、もっとありうるだろう。そこから、地域への愛着は乗り越えられる必要があり、より一般的な立場から環境保全を論じることが結局は重要なのだ、という意見が出されるかもしれない。
環境保全の動機づけ
より一般的な立場から環境保全を論じることは、確かに大切だろう。しかし、逆にそのことによって、地域への愛着や関心が軽視されることに対しては、あらためて疑問を呈したい。というのも、人々を環境保全へと動機づけるものは、具体的な地域環境に対する経験にあると思われるからだ。
サイエンスライターのデイヴィド・タカーチは、保全生物学者たちにインタビューをする中で、彼らが保全生物学を専攻したきっかけについて聞いている。その中に、子どもの頃の遊び場でもあった身近な自然が不当に破壊されたことへの憤りによって環境保全に動機づけられたという趣旨の発言がある。例えばリード・ノスはこう述べている。
「私が住んでいたのは、オハイオ州デイトン近郊の、開発が比較的急速に進んでいた地域でした。自分の目の前で、お気に入りの遊び場が破壊されていく。それは、遊び場がなくなってしまうという個人的なできごとではありましたが、目の前で生き物たちが殺されていくことは、いつも恐怖と悲しみで私を打ちのめしました」(タカーチ『生物多様性という名前の革命』(日経BP社)より)。
このように、「お気に入りの遊び場が破壊されていく」のを間近で見たという経験が、環境保全の研究を行う動機の一つになったとされているのである。もちろん、このような経験がないと環境保全活動ができないというわけではない。しかし、「自分の好きな場所を破壊されたくない」という気持ちが、環境保全の大きな動機づけとなることは確かだろう。
この場合の場所や環境は、いわゆる「自然」に限定されるべきではない。環境とは、自然と人工物を含んだ「身のまわり」を意味する言葉であり、典型的には生活環境のことを指す。「自分の住んでいる環境を守りたい」という気持ちも、環境活動への動機づけになるといえる。
「NIMBYのどこが悪いのか?」
しかし、このことを強調したからといって、「自分の地域の環境には関心があるが、他の地域や地球全体の環境には無関心」であることに伴う問題は解決しない。逆に、自分の地域の環境を守ることを声高に叫ぶことは、場合によっては「地域エゴ」と呼ばれて非難の憂き目にあうだろう。
例えば、自分たちの環境を守るために、廃棄物処理施設や葬儀場を自分の住む地域には建設させない(が、施設自体はどこかには必要だと考えている)というのが典型的な「地域エゴ」のイメージである。そのとき、地域住民は、他者の権利が犠牲になる可能性を省みずに、自分(たち)の権利、趣味、主義などを独善的に主張しているとして糾弾されることになる。
ここで「地域エゴ」と呼ばれるものは、欧米ではNIMBYと呼ばれており、近年では日本でもその名を耳にするようになった。NIMBYとはNot in my backyardの頭文字をとったもので、迷惑施設などを作る場合に「自分の裏庭だけはやめてくれ(他の人の裏庭に作ってくれ)」と言うことがNIMBYの主張とされる。関連する言葉として、NIABY(Not in any backyard)があるが、こちらは当該施設が「どの人の裏庭にも要らない」という首尾一貫した主張とされる。
これまでの環境倫理学では、地域エゴやNIMBYについて、明示的に検討されることは少なかった。そんな中、アメリカの環境倫理学の雑誌Ethics, Place and Environment(vol.13,Issue3)の中でNIMBY特集が組まれた。Feldman & Turner の意見論文「NIMBYのどこが悪いのか」(Why Not NIMBY?)と、それに対する6人の論者によるコメントが掲載されている(その後、それらのコメントに対して、Feldman & Turnerは、その後継雑誌Ethics, Policy and Environment(vol.17,Issue1)にリプライを掲載している)。
NIMBYに対する三つの倫理的批判
Feldman & Turner の問題意識は、NIMBYを叫ぶ人々に対して倫理的な非難を向けることは妥当なのか、という点にある。基本的には、NIMBYを叫ぶ地域住民は自分が住んでいる環境を守ることを主張しているわけだが、そのような人たちを倫理的に非難してよいのだろうか。
Feldman & Turnerの答は、「NIMBYは倫理的に悪いとはいえない」というものだ。彼らによれば、NIMBYには(1)罪深き自分勝手である、(2)公共善に無関心である(全ての人のNIMBYの要求が尊重されたら、公共の利益になる施設はどこにも建設できなくなる)、(3)環境不正義の源泉となる(少数の豊かな人々のみが、自らのNIMBYの要求を通すことができ、そのしわよせが貧しい人々のいる地域に来ることになる)、という倫理的な批判があるが、それらはすべて反論できるという。
NIMBYは罪深き自分勝手ではない
Feldman & Turnerによれは、NIMBYとは住民の選好の表明であり、特に地理学的な偏好性(或る場所を他の場所よりも気にかけること)が示されており、それは必ずしも自己利益を伴っていないという。また、そこに自己利益が伴われていても、そのために悪徳な人になるわけではないという。彼らの論理を簡単な例で示してみよう。
寄付をすることは良いことであり、誰か他の人が寄付をすることは望ましいと思っているが、自分自身は寄付をせずに素敵なテレビを買った、という人はよくいるが、その人は悪人として非難されはしないだろう。同様に、彼らによればNIMBYのなかに自己利益が含まれていたとしても、それによって非難される理由はないのである。
NIMBYと公共善を対立的にとらえるべきではない
第二に、彼らによれば、NIMBYの要求を尊重することが、必然的に公共善の実現を妨げるわけではないという。また、たとえNIMBYの要求に従うことによって、他の人々が何かしらの犠牲を払うことになるとしても、NIMBYの要求は尊重されるべきであるとする。それは、たとえコミュニティがテロ攻撃にさらされることがあっても、市民的自由を侵害しないほうがよいのと同じことであると彼らは言う。さらに彼らによれば、地域住民の選好の表明としてのNIMBYを、政策立案者は良い政策をつくるための重要な情報として尊重しなければならないとする。そしてNIMBYという形で自分たちの選好を表明することは「市民の義務」であるとさえ述べている。
NIMBYは環境不正義の状況を固定化するわけではない
第三に、彼らは、NIMBYの要求に従うことが、実際に環境不正義(環境をめぐる不公平や差別)の状況を固定化するかどうかは偶然的な問題だと答えている。豊かな人々のNIMBYによって貧しい人々に負担が押し付けられることが想定されているが、逆に貧しい人々がNIMBYを叫ぶ場合もあるからである。
ただしこのテーマについての彼らの説明には甘いところがある。この点については、コメンテータの意見(本当は「住民参加」や「環境正義」を求めている住民たちにNIMBYのレッテルを貼るのは誤りだ)のほうに説得力がある。
NIMBY以外の要素のほうが問題だ
このように、Feldman & TurnerはNIMBYに対する三つの批判に反論し、NIMBYの要求に一定の意義を認めている。これを読むと、地域開発に対する抗議運動=「地域エゴ」「NIMBY」=悪徳と見なして、歯牙にもかけないという態度のほうが、倫理的に問題があるのではないかと思えてくる。
全体として、Feldman & TurnerはNIMBYを住民の選好の表明として、ニュートラルに扱っている。それに対応するように、Feldman & Turnerの議論に対するコメントの中には、NIMBYが悪いというより、その主張に含まれている「偽善」の要素や、「フリーライダー」の要素が非難に値するのだという意見がある。その一方で、NIMBYという用語はあくまで軽蔑的なものであり、地域住民の要求にNIMBYというレッテルを張るのは不当だという意見もある。つまり、本当は「住民参加」や「環境正義」(環境をめぐる不公平や差別の是正)を求めている人たちの主張を、NIMBYという用語が覆い隠してしまう点が問題とされる。
これらのコメントは、NIMBYの評価の問題を超えて、地域環境問題における住民の主張をどう評価するかについて考える際に役立つだろう。例えば、住民を「偽善者」とか「フリーライダー」などと言ってみたところで、状況はあまり変わらないだろう。それに対して、「住民参加」や「環境正義」の論点をNIMBYが覆い隠してしまうという指摘には説得力がある。先にもふれたが、この点はFeldman & Turnerの論文の弱いところであり、後の彼のリプライもやや的外れなものとなっている。
NIMBYは環境保全の動機づけになる
この論文をめぐるやりとりは、日本の「地域エゴ」という言説を考える上でも示唆に富んでいる。ただ一つ難をいえば、この論文では、風力発電所が例に挙げられていることである。この例がふさわしいかどうかは疑問である。むしろ近所に清掃工場、廃棄物処理場、葬儀場などがつくられるという問題のほうが、どこでも起こりうる身近な問題として感じられるだろう。
その際に、第一に、NIMBYは住民の意志の表明であり義務であるという論点には大きな意味がある。地域の政策や計画を進めるにあたっては、その実現可能性が考慮されるべきである。その際に、地域住民が反対していたとすれば、政策や計画がうまく進まなくなるのは当然のことだろう。NIMBYという形でも、住民の意志が表明されれば、それを組み込んで政策を進められるはずである。その貴重な情報を無視するのは、政策を進める側からしても損失であろう。
第二に、例えば清掃工場の建設を進める側は、反対住民に対して、自分勝手だ、エゴだ、偽善だ、フリーライダーだ、と言い立てるよりも、これを機に廃棄物処理問題に関心をもってほしい、家庭からのゴミを減らすことも必要だということを認識してほしい、と訴えたほうが、全体として良い結果を生むように思える。地域住民は、大量のゴミを生み出す社会の問題の最前線に立たされており、そこはゴミ問題をより一般的に考えるための入口でもあるともいえる。
この点について、NIMBYに関する著作を出している二人の論者の意見が参考になる。
「ようやく矛盾が矛盾として意識され、当然あるべき葛藤が生まれるのは、実際に『迷惑』が我が身に降りかかってきたときである。そういう立場に置かれてみてはじめて、人は現実(リアリティー)の痛みに目覚めて思わず大声を上げる。ところが不幸なことに世間は、それを『ニンビイだ』と指さして言うのである。そのように考えれば、ニンビイこそ現実(リアリティー)の自己表現であることがわかる。そして皮肉なことに、現実(リアリティー)がそのようにして自己を表出した途端にそれは単なるニンビイではなくなり、かえってそれを包囲する側のニンビイを映し出す鏡になる」(清水修二『NIMBYシンドローム考――迷惑施設の政治と経済』より)。
「NIMBYという問いかけは、作られようとしている施設を単に拒否することではなく、そのまえに『なぜ環境を守らなければならないのか』を自ら問うことを通して、より『普遍的なもの』が存在するのではないかという議論を、作る側と受け入れる側との間に提起する根源的な問いなのではないだろうか」(土屋雄一郎『環境紛争と合意の社会学――NIMBYが問いかけるもの』より)
NIMBYはこのような問いの契機になりうる。もちろん大前提として、住民参加のしくみがきちんと機能することと、環境正義という考え方が共有されていることが重要である。ただこれらはすでに地域問題に関する論文ではしきりに言われていることなので、あらためて注意を喚起するにとどめる。本稿のねらいは、NIMBYを要求することが必ずしも非難に値するわけではないことを示し、むしろそのことが環境保全の動機づけにつながることを示す点にあったからである。
*本論の詳細版として、『公共研究』11巻1号(2015年3月、千葉大学)に収録された吉永明弘「「NIMBYのどこが悪いのか」をめぐる議論の応酬」を参照。
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プロフィール
吉永明弘
法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『