2017.02.02
どんな住まいがエコなのか ――「都市の環境倫理」再論
「都市は郊外よりもずっとエコなのだ」
2014年1月に上梓した『都市の環境倫理――持続可能性、都市における自然、アメニティ』について、いち早くレビューを掲載してくださったのが本誌(シノドス)だった。そのときのレビューのタイトルは「都市は地球環境にとってよくない地域なのか?」であり、結びは「都市は郊外よりもずっとエコなのだ」という言葉であった。この論点が主に取り上げられたということは、これが類書(よくある環境本)とは異なる拙著の特徴と考えられたということだろう(以下、本稿での「エコ」とは「地球環境に対する負荷が小さい/小さくなる」ことを意味する)。
「都市は郊外よりもずっとエコ」な理由の一つは、集住による環境負荷の軽減にある。集住の環境上の利点については意外に多くの人が主張していることであり、拙著ではふれられなかった論点も出されている。本稿では、さまざまな論者の意見や調査を紹介し、住宅形式によって環境負荷が異なることを示す。それをふまえて、どのような住宅政策がエコな社会を実現するために有効なのかを考えてみたい。
都市の利点は公共交通の利用と集住にある ――アンドリュー・ライト
環境倫理学者アンドリュー・ライトは、「都市の環境倫理」(Urban Environmental Ethics)を明示的に唱えた最初の人物である。彼は論文のなかで、都市での「公共交通の利用」と「集住」が地球環境に対する負荷を軽減するという主張を行っている。都市で暮らすことは、地球環境に対して悪い影響をもたらすように見えるが、そうではなく、公共交通の利用と集住によってエネルギー効率のよい暮らしをしている点で評価すべきことなのである。問題なのはむしろ、クルマ社会化、郊外化、スプロール化である。そこでは、集まって住み、公共交通が利用できる都市の生活よりも、分散して住み、自動車が必須となる郊外の生活のほうが地球環境に悪影響を及ぼすことが示唆されている(ライトの議論については拙著『都市の環境倫理』第四章を参照)。
ただし、ライトは住宅の形式についてはほとんど語っていない。分散型よりも集住型のほうがよいと言うだけで、集合住宅のなかの住宅形式(高層建築と低層建築)の違いについては特に言及がないのである。しかし、高層建築と低層建築のどちらが「エコ」なのかは、都市計画を行う上で重要な情報となるだろう。
都市での集住には高層建築物が必要である ――エドワード・グレイザー
2012年に翻訳が出た、都市経済学者グレイザーの『都市は人類最高の発明である』は、“地球の持続可能性のためには都市への集住が必要であり、そのためには建物の高層化が必要である”という主張を貫徹させた本である。彼は自身が経験した郊外生活がいかに環境負荷の高いものであったかを述懐する。それに対して自動車による環境負荷を減らし、電気使用量の削減にもつながるものとして、都市への集住を勧め、そのために高層建築物の建設を強く推奨する。彼によれば「よい環境保護は、建物を最も環境負荷の少ないところに建てる、ということだ。これはつまり、都市部の低層建築をつぶして高層ビルに建て替えるのをもっと容認すべきで、排出を減らす都市成長に反対するような活動家をつけあがらせるな、ということだ。政府は、没個性的な郊外建て売り住宅を買うのに補助金を出したりせず、小さめの都市アパートに住むよう奨励すべきだ」(『都市は人類最高の発明である』20頁)。
他にもグレイザーは、高層建築を推進する利点として、供給を増やせば価格が下がることから富裕層以外への都市居住の機会を提供できることや、緑地や文化的記念物のある土地を開発せずに済むことなどを挙げている。このようにグレイザーは、都市の中で高層建築に囲まれて住むことがエコな暮らしなのだ、という論旨で一貫させている。これに対しては、高層建築を批判する人たちから疑問の声があがるかもしれない。そこで、より客観的な指標を用いて、住宅形式ごとの環境負荷の比較を行った人の論考を見てみたい。
集合住宅はエコロジカル・フットプリントが小さい ――L・A・ウォーカー
L・A・ウォーカーは、「エコロジカル・フットプリント」(以下EF)という指標を使って、住宅形式ごとの環境負荷を測定している。EFとは、環境負荷の大きさを、人間が自らの生活のために踏みつけにしている土地の面積という形で示した指標である。この言葉の考案者たちによれば、EFは「ある集団が行うさまざまな消費活動と廃棄物の排出という行為のために必要とされる土地(水域)面積を合計したもの」である(ワケナゲル&リース『エコロジカル・フットプリント』94頁)。EFの特徴は、消費されるエネルギーや物質を土地面積に換算して比較できる点にある。
ウォーカーの論文では、一戸建て住宅、タウンハウス(長屋)、エレベーターのないアパート(低層アパート)、高層アパートのEFが比較されている。その結果は、一戸建て住宅が最もEFが大きく(つまり最も環境負荷が大きく)、タウンハウスは一戸建ての78%、低層および高層アパートは一戸建ての60-64%であった。そこからウォーカーは、住宅のEFを減少させるには住宅の高密化を促進する政策が必要だと結論づけているが、これはライトとグレイザーの主張を裏付けるものといえよう(Lyle Andrew Walker, “The Influence of Dwelling Type and Residential Density on the Appropriated Carrying Capacity of Canadian Households”)。
このEF分析の結果は、とりわけグレイザーのような高層建築推進者にとって有利なもののように見える。戸建て住宅よりも高層建築のほうが環境負荷が低いことが明示されているからである。ただしウォーカーは、高密度イコール高層アパートではなく、「市民の受け入れやすさ」という点では「中密度」=低層アパートのほうがよいだろうとも言っている。
このウォーカー論文は、経済学者の和田喜彦氏にインタビューしたときに、ご紹介いただいたものである。インタビューのなかで、和田氏は集住の必要性を述べつつも、高層で高密度になると、高いところに人や物を持ち上げるエネルギーがかかることや、過度な集中が引き起こす問題があるとして、「中密度」くらいがちょうどいいと主張している。ここでの「中密度」とは、2~3階建ての低層集合住宅(タウンハウスもここに含まれる)を指している(和田氏へのインタビューは、吉永明弘編『都市の環境倫理 資料集』[非売品]に掲載されている)。
だがウォーカー論文で注目すべきはむしろ、集合住宅であれば高層でも低層でも環境負荷はそれほど変わらない、という点にあるのではないか。戸建て住宅よりも集合住宅のほうがエコであることは示されたが、高層建築と低層建築と間の優劣は環境負荷という観点だけでは決められないということだろう。ウォーカーや和田氏が「中密度」を支持するのは、環境負荷以外のさまざまな理由によるものと考えられる。
土地の高度利用=高層化ではない ――福川裕一
都市計画研究者の福川裕一氏は、高層化が土地の高度利用につながる唯一の道ではないという意見を表明している。福川氏は「土地の狭い日本、特に都心部では、高密度に土地を使う必要があり、そのためには高層化が必要」という話は、「いわれなき神話」であると喝破する。
「容積率二〇〇%(二〇〇戸/ヘクタール)程度までなら、三階建ての低層住宅群で十分な環境を保障した住宅地が可能なことで証明できる。さらに敷地外に悪影響を及ぼさず、かつ自らの環境を保とうとすれば、高層化しても、容積率の限度が二〇〇%程度である。高容積の超高層住宅が快適に見えるのは、多くの場合、それらが孤立して建っているからであり、早い者勝ちの論理によって周辺から環境を奪っているからである。都市全体としてみたとき、必ずしも効率的な土地利用とはならないのである」(福川裕一ほか『持続可能な都市』289-290頁)。
つまりこれは、高層建築は孤立して建てられることで、達成したい土地の高度利用が減殺されているという見解である。土地の高度利用は低層住宅群でもできるというのは、孤立した高層建築と低層住宅群が土地利用効率においては等価であるということを示してもいる。
「高密度・中密度は低密度よりもずっとエコなのだ」
結局のところ、高層か低層かは地球環境への影響や土地利用効率という観点からは甲乙つけがたいということだ。環境負荷が同程度であるなら、グレイザーのように高層化に固執するのではなく、高層が良いのか低層が良いのかは、都市デザインや、住みやすさ(アメニティ)の問題として、住民と専門家の協議のもとで、その都市の特徴、歴史、地形、気候、住民感情などをふまえて意思決定をすることが望ましいだろう。
以上から、ライトが議論していない都市の住宅形式(高層か低層か)については一応の結論が得られた。そしてこの過程であらためて確認されたのは、「高密度・中密度は低密度よりもずっとエコなのだ」ということである。ウォーカーによって示された「集合住宅」に対する「戸建て住宅」の環境負荷の大きさがそれを裏付けている。
日本の「エコ住宅」はエコではない ――石渡正佳
2013年5月に行われた講演のなかで、石渡正佳氏(産廃Gメンとして名を馳せた千葉県職員)は、建築家バックミンスター・フラーの理論に基づいて、現在の日本のエコ住宅を痛烈に批判した。その時の講演の要旨は、吉永明弘編『都市の環境倫理 資料集』[非売品]に掲載されている。以下では、その中から関連部分をさらに要約して引用する。
フラーの理論によると、住宅の環境性能は「資材の効率」と「空調の効率」にある。いかに少ない資材で家を建て、いかに少ないエネルギーで空調を稼働させるかにある。そのためには、居住空間あたりの表面積が小さい方がよいことになる。表面積が大きいと資材も必要だし、エアコンの能力も高くなければならない。そうすると、巨大な建築のほうが環境性能が良いことになる。体積が大きくなればなるほど、表面積の割合が小さくなっていくからである。そこから集合住宅のほうが環境性能が良いということが導かれる。
逆に、戸建て低層住宅は居住空間当たりの表面積が大きくなる。マンションなら、(角部屋以外の)各戸が外気に触れているのは1面だけであり、エアコンの設置は1台で済む。しかし戸建て住宅は5面が外気に触れており、表面積は5倍違うことなる。エアコンは5台必要かもしれない。さらに和風建築は窓が大きいのでエアコンの能力が高い必要がある。屋根に太陽光パネルを載せていても、日射効率は10%程度で10KWの能力を持っていても1KWしか発電しない。さらに低層住宅は密集するので、緑の少ない街ができあがる。自然の環境ができないため、風の来ない街になる。個々の住宅はエコを謳っているが、街としてみると最低の環境性能を持っている。これを部分最適化と全体最適化の矛盾という。
このように、石渡氏は、スマートシティを実現するには集合住宅を建てるべきなのに、現在の日本では戸建て住宅でそれを実現しようとしていることを批判し、そもそも日本の低層戸建て住宅はエコハウスどころか環境上は最低の建築物であると喝破している。
逆に、日本の伝統集落はエコだったと石渡氏は言う。大家族居住の大屋根建築は居住空間当たりの表面積が小さく、茅葺き屋根なので断熱効果が抜群に良いという。庇が大きいと遮光効果も高く、屋敷林に囲まれているので自然の冷気暖気の効果もある。これはフラーの理論によれば最も環境に良いつくりとされる。この議論からは、都市に集まって住むことだけがエコなのではなく、いわゆる「田舎暮らし」をした場合にも、伝統的な住まい方をきちんと継承できるのであればエコになる、ということが導かれるだろう。
心がけではなく政策の問題
最後に付け加えたいのは、「エコな社会を実現するために都市の集合住宅に住む」ことや、「田舎暮らしをするにあたって伝統的な大型家屋に大勢で住む」ことを、個々人の行動に求めているわけではない、ということである。日本の環境倫理学の創始者である加藤尚武が言ったように、環境倫理学は「個人の心がけ」の改善を目指すものではなく、「システム論の領域に属するもので、環境問題を解決するための法律や制度などすべての取り決めの基礎的前提を明らかにする」ものだからである(加藤尚武『二十一世紀のエチカ』131頁)。
この点から、ウォーカーが、住宅のEFを減少させるには住宅の高密化を促進する政策が必要だと結論づけたことは重要である。問題は住宅政策のあり方なのだ。グレイザーによる「都市部の低層建築をつぶして高層ビルに建て替えるのをもっと容認すべき」という意見には留保が必要だが、「政府は、没個性的な郊外建て売り住宅を買うのに補助金を出したりせず、小さめの都市アパートに住むよう奨励すべきだ」というのはエコな政策提言といえよう。地方でも、エコ住宅という名の戸建て住宅の建設を推進するよりも、古民家や空きアパートの再生・活用に補助金を出したほうが、エコな政策となるだろう。
おわりに
本稿では、拙著『都市の環境倫理』で強調した都市の環境上の利点(公共交通の利用と集住)のうち、集住についてさらに考察していった。集住といっても、そのスタイルについてはさまざまな選択肢がある。都市計画の際に、高層建築を中心にするか低層建築を中心にするかは、環境負荷や土地利用効率の面では等価なので、その都市のあり方についての熟議の上で決定されるべきだというのが一応の結論である。
拙著に比べ、本稿ではエコ住宅や郊外戸建て住宅の問題性を強調した。近年では、さまざまな理由で地方移住を希望する人が増えており、地方も受け入れ態勢を整えている。それは地方の自然環境や社会環境を維持または改善することにつながるかもしれない。しかし、郊外に「エコタウン」を造成し、小型の戸建て住宅で「田舎」を埋め尽くすならば、地球環境にとっては最悪の結果になる。それを推進する政策はエコな政策ではない。これが本稿のもう一つの結論である。
(*ウォーカー論文に関しては、翻訳者佐藤綾子氏の援助を受けた。また、石渡正佳氏と和田喜彦氏には、講演会とインタビュー等でお世話になった。厚く御礼申し上げる。)
プロフィール
吉永明弘
法政大学人間環境学部教授。専門は環境倫理学。著書『