2010.06.28
「最小不幸社会」って、どんな理想なの?
来たる7月11日の参院選で、民主党に投票するべきなのかどうか。悩ましい問題である。考えるための基点は、一つしかない。菅直人首相の掲げる「最小不幸社会」というビジョンに、賛同するかどうかだ。
「北欧型新自由主義」への転換の起爆剤
菅首相は、去る6月8日の就任会見のなかで、年来温めてきた自身の政治ビジョンを熱く語った。経済、財政、社会保障を立て直して、「最小不幸社会」を目指す――。
参院選のための「マニフェスト」や「新成長戦略」(6月3日発表)をみると、そのための注目すべき政策提言は、ふたつあるだろう。一つは、最低賃金を平均1,000円にまで引き上げるという提案。もう一つは、年金制度を一元化して、月額7万円の最低保障年金を創設するという提案だ。
いずれも、抜本的な制度変革を必要としているから、ただちに実現するわけではない。けれども長期的にみれば、このふたつのアイディアは、新しい社会を切り拓くための起爆剤となるかもしれない。「北欧型新自由主義」と私が名づけた、新しい制度への転換である。
「最低賃金引き上げ」と福祉国家の新しいモデル
「最低賃金の引き上げ」政策から考えてみよう。鳩山政権下で問題になったのは、非正規雇用者の意見を、政治的に吸いあげるパイプ=中間組織がない、ということであった。正規雇用者の利害ばかりが政治に反映されると、非正規雇用者は取り残されてしまう。そうした分断を防ぐためには、正規雇用者と非正規雇用者の双方にとって、望ましい政策が必要となってくる。
「最低賃金の引き上げ」は、そのための有効な手段になるだろう。「連合(日本労働組合総連合会)」の古賀会長は、民主党が今回、最低賃金の数値目標を掲げた点を高く評価しているが、最低賃金の引き上げは、非正規雇用者にとっても、望ましい。勤め先が変わっても、生活水準がひどく悪化するような事態を避けられるからである。
雇用が不安定でも、安心して家庭生活を営むことができる。そんな社会を実現するためには、最低賃金が引き上げられねばならない。雇用の流動性と市場経済の効率性を受け入れるかわりに、労働者の生活をしっかりと保障する。これはすなわち、現在の北欧諸国を中心に模索されている、福祉国家の新しいモデルであろう。
自民党は「自己責任」原則、民主党は「最小不幸」原則
民主党のもうひとつのアイディアは、これまで年金を積み立てる余裕のなかった人たちにも、月額7万円の年金を保障するというものだ。従来、年金の積み立ては、個人の「自己責任」にまかされてきた。けれども民主党は、この考え方を根本的に転換して、人びとの不幸を最小化すべく、年金を普遍的に支給するという。この民主党の考え方に、はたして賛成できるかどうか。
ちなみに自民党は、現行の年金制度を維持したうえで、いくつかの改善案を提起している。たとえば、1961年以降の未納分をさかのぼって納められるようにするとか、あるいは、10年以上加入すれば年金を支給できるようにする、といったアイディアである。端的にいえば、自民党は「自己責任」原則、民主党は「最小不幸」原則の立場に立っている。
こうして参院選の問題は、つまるところ、菅首相のいう「最小不幸社会」をどう受け止めるかにかかっている。最低賃金の引き上げと、最低保障年金の導入。両政策に賛成ならば、「民主党」に一票、となるだろう。
「幸福の最大化」に向けて
ただ、最小不幸社会が実現しても、非正規雇用者の割合は増えるかもしれない。目標はあくまでも、「不幸の最小化」であって、「幸福の最大化」ではない。
となれば、正規雇用者の創出(幸福の創出)は、相対的に重要ではなくなる。しかも企業は、法人税を減額され、自由市場経済のもとで、これまで以上に徹底した利潤追求が可能になる。社会はいわば、最低限の福祉に支えられた、新自由主義の方向に向かうかもしれない。
すると、どうであろう。正規雇用者のなかでも、「自分は格差社会のなかで不幸なほうだ」と感じている人は、どうなるだろうか。残念ながら、最小不幸社会は、相対的に不幸な人びとに手を差し伸べるのではない。「あなたよりももっと不幸な人がいるのですよ、政治はそのためにあるのです」というわけなのだから。
さめた眼で現実を直視すれば、不幸を最小化するという政治目標は、正しいかもしれない。けれども「最小不幸社会」は、勤勉な労働者を鼓舞しない。人びとに、政治参加を求めるわけでもない。それを補う政治は、いったいどこにあるのか。それが問われるべきではないだろうか。
推薦図書
「最小不幸社会」の制度案は、思想的には、部分的なベーシック・インカム(基本所得)の導入、とみなすことができる。非正規雇用者や高齢者といった社会的弱者を、基本所得の保障によって救済する。この考え方を突きつめると、どんな思想が拓けるだろうか。本書は、最近にわかに盛り上がりをみせてきた基本所得論を、根源的に検討する。ベーシック・インカムの理想とは、最低限の生活を保障するだけのリバタリアン(自由放任主義)の世界なのか。それとも、福祉国家の共同性を拡充するやさしい世界なのか。立岩氏は、この制度案に対する人々の揺れる思いや感情の惑いを、繊細な感受性で捉えている。これ対して斎藤氏は、リバタリアンの見地に立って、新自由主義との結合可能性を否定しない。日本における論争をまとめた第三部(斎藤筆)は、今後の議論の基礎となるだろう。
プロフィール
橋本努
1967年生まれ。横浜国立大学経済学部卒、東京大学総合文化研究科博士課程修了(学術博士)。現在、北海道大学経済学研究科教授。この間、ニューヨーク大学客員研究員。専攻は経済思想、社会哲学。著作に『自由の論法』(創文社)、『社会科学の人間学』(勁草書房)、『帝国の条件』(弘文堂)、『自由に生きるとはどういうことか』(ちくま新書)、『経済倫理=あなたは、なに主義?』(講談社メチエ)、『自由の社会学』(NTT出版)、『ロスト近代』(弘文堂)、『学問の技法』(ちくま新書)、編著に『現代の経済思想』(勁草書房)、『日本マックス・ウェーバー論争』、『オーストリア学派の経済学』(日本評論社)、共著に『ナショナリズムとグローバリズム』(新曜社)、など。