2024.12.15

ベンヤミン・ファン・ロイ、アダム・ファイン『人を動かすルールをつくる――行動法学の冒険』

吉良貴之 法哲学

社会

あなたはある薬を飲んだとする。その薬は世界をありのままに見せてくれる。そうするとあなたは、身の回りのあらゆるものに法律が書き込まれていることに気づく。特に車を運転する人であれば、交通ルールはもちろんのこと、自身の運転する車の中の部品のあり方まで事細かに法的なルールが存在する。ハンドルを見れば、そこから手を離してはならないといったことがびっしりと書かれている。法律ルールが何もかも文字で可視化されるのは、怪談のような恐ろしい事態だ(何も書かれていない部分はどうなってしまうのだろうか?)。

本書は、このような印象的なシーンから始まる。実際、私たちの生活は隅々まで法律ルールで満たされている。しかし、そこでひるがえって考えてみるに、私たちはそれをすべて守っているだろうか。そんなことはない。薬を飲まなかったならば気づかなかったであろう膨大な法律ルールは、積極的に守るというよりもただ、知らないということで消極的な順守の外観が作られているだけだ。

ふたたび自動車の話をすると、自動車を運転するほとんどの人は信号を守るし、駐車違反もしないだろう。それに対し、速度制限はあまり厳密には守られていない。歩行者として道を歩くとき、まったく車が来ないような道で信号をどれだけ守るだろうか。こうしたことを考えるだけでも、法律の守られ方には程度があることがわかる。この違いは、どういった理由によって生じているのか。

法律コードと行動コード 

本書は、どうすれば守られる法律を作れるかという「行動法学」を探求する。ただ法律を作ったからといって人々がそれを守るとは限らない。では、重い罰則を作ればよく守られるようになるかというと、そうとも限らない。法律とその遵守を結びつけるメカニズムを著者たちは「行動コード」と呼ぶ。この行動コードには一般的に、経済的インセンティブ、道徳や社会規範、法執行機関の公正さへの信頼といったものがある。また具体的には、行動の類型や、その人のパーソナリティ、置かれた社会的文脈など、さまざまなものがある。そうしたものの科学的探求によって、法律コードはより実効的になるようにデザインされなければならない。 

本書のメッセージは明快である。法律コードと行動コードの関係は複雑であって、ある法律を作ったからといって人の行動が狙い通りに変わるとは限らない。引用すると、「立法関係者は謙虚であるべきだ。特定の法的インセンティブがもたらす効果を予測するのは不可能で、絶対的に確信もできないという現実を受け入れなければならない(八八頁)」。だからこそ、立法作業は現実の人間の行動のあり方を科学的に探求しながらの試行錯誤となる。法と科学の協働がますます重要となる。

重罰化よりも確実化? 

本書は豊富な具体例で、人々が思い通りに動いてくれない様子を描き出している。刑罰による犯罪の抑止効果を考えてみよう。「政治家は罰を与えるのが大好きだ(一九頁)」といった、少々ドキッとする言い回しも出てくるが、実のところ重罰化は、ポピュリスト政治家が国民の支持を手っ取り早く得るための禁断の果実である。 

一九九〇年代のアメリカの各州や連邦レベルで制定された「三振法」は、三度目の犯罪について終身刑を課すものである。この法律は犯罪を抑止する効果をもつだろうか。二度目の罪を犯した者はもう後がないことから、より大胆な行動をとるようになるといった例もある。むしろ犯罪を促進してしまうかもしれないのだ。ただもちろん、そう単純に一般化することも勇み足ではある。「私たちの行動には多くの事柄が影響しており、そのなかから厳罰がもたらす影響だけを特定するのは非常に難しい(三五頁)」。 

本書では、厳罰化よりも、処罰の確実性のほうが犯罪抑止に効果的であるという研究が紹介される。刑罰の重さよりも、どれだけ確実に捕まるかを人々は重視するということだ。すでにパンク状態の刑務所施設に追加投資するよりも、警察官の存在感を高める投資のほうが有効だといったことが指摘される――とはいっても特にアメリカの場合、警察による所持品検査が白人以外の人々に偏ってなされるなどの人種的偏見があり、それが捜査機関の公正さを疑わせるというまた別の問題も無視できない。いずれにせよ、本書は重罰化のような「法律コード」だけでは足りず、現実の人々が行動するメカニズムを見ることなしには法律は機能しないことを強調する。

道徳的プライミング? 

人の行動メカニズムを重視する本書の議論では、行動バイアスを利用する行動経済学の知見も多く参照される。たとえば税金の申告方法でいうと、いわゆる損失回避バイアスを考えるならば、追徴が発生しやすい仕組みだと過少申告のリスクをとる人が多くなってしまう。なので、逆に払い戻しが受けられやすい仕組みが推奨されるといったことだ。 

こうした行動バイアスとインセンティブの組み合わせについてはすでに多くの書物で紹介されており、またそういう話かと思われる読者もいるかもしれない。近年「行動経済学の死」などといわれるように、こうした知見が追試で再現できなかったり、信頼性に疑問符が突きつけられがちだ。本書もそこは慎重であり、行動科学の知見の法的活用は有望ではあるものの、いまだ発展途上であることが強調されている。 

本書の特色としては、人のインセンティブを単なる損得勘定として捉えるのではなく、より広く、道徳や社会規範などを含めて考えていることがあげられる。たとえば、あらかじめ受けた刺激によって後の行動に影響が与えられることを「プライミング効果」というが、本書では「道徳的プライミング」とでもいうべき例が紹介される。 

一例をあげると、数学のテストでよい点を取ると賞金が与えられるという実験で、受験者にサングラスをかけてもらうというものがある。あるグループには高級ブランドのサングラスを、別のグループには偽ブランドのサングラスであるとそれぞれ伝えた上でかけてもらい、点数を報告させると、偽ブランドのサングラスをかけたグループではもう片方のグループの倍以上の参加者が自分の点数を高く不正申告したということである。これは、偽ブランドのサングランスをかけるという不正行為によって、後でなされる不正申告への心理的ハードルが下がったことを意味している(実際にかけてもらったサングラスはどちらも同じものだったという)。 

この例からわかるのは、人の行動には単に損得勘定だけでなく、道徳的な文脈というべきものが大きな役割を果たしていることである。もちろん、こうした実験結果がどれだけ一般化できるものか、そして、この例のような小さな不正行為ではなく、より大きな公共的利益が関わる法政策へと応用できるかという問題はあり、さらなる検証へと開かれなければならない。しかし、仮にこうした「道徳的プライミング」がいえるとすれば、道徳的に悪い先行的文脈を取り除いたり、逆によい文脈を作り出したりといった役割が法にとって重要となるだろう。――そんなことをしてもいいのだろうか?

法による道徳デザイン?

本書が従来の「法と経済学」的アプローチによる行動法学から一線を画しているのは、法による道徳デザインといったことに躊躇なく踏み込んでいるところだ。法律コードを行動コードへと変換するにあたって、人々はそれが道徳的に受容できるかどうかを重視する。自分勝手な理屈によって自身の違法行為を道徳的にはたいしたことのないかのように自己正当化することもよくあることだ。それを防ぐため、違反したら道徳的な罪悪感がしっかりと生じるような法律が作られなければならないことになる。端的にいえば、道徳感情の規律も法の仕事となる。 

著者たちのこうした見方はあくまで、人が法を守るにあたっての道徳的インセンティブもまた探求の対象とすべきということであり、特定の道徳観を押し付けようとしているわけではない。しかし「道徳の最小限」であるはずの法が、逆に道徳のほうを変えようと足を踏み出すのは、少なくとも近代法の建前からすれば気味の悪い事態だ。本書はこうした懸念に対し、そのプロセスに着目することで応答する。たとえば、法執行機関(典型的には警察)が恣意的に行動したり、差別的な捜査を行っているならば、法に対する人々の信頼は大きく失われる。また、性別や人種、階層などによる社会的抑圧が広くある状況では、人々の法を守る能力そのものが蝕まれる。こうした状況では法はうまく機能しない。したがって法の状況は道徳的に問題化されなければならないのだ。 

本書は法に従う人々をただ対象化し、効率的な法のデザインを目指そうとするものではない。それよりも、人々がどのようにして法に従っているか、あるいは従えない状況に陥っているのかを、その人の個人的要因に還元することなく、法制度が現実に機能している、より広い文脈に置き直そうとする野心的な試みといえる。

プロフィール

吉良貴之法哲学

法哲学専攻。東京大学法学部卒業、東京大学大学院法学政治学研究科博士課程満期退学。現在、愛知大学法学部准教授。研究テーマは世代間正義論、法の時間論、法と科学技術、およびそれらの公法上の含意について。主な論文として「世代間正義論」(『国家学会雑誌』119巻5-6号、2006 年)、「将来を適切に切り分けること」(『現代思想』2019 年8月号)。翻訳にキャス・サンスティーン『入門・行動科学と公共政策』(勁草書房、2021年)、エイドリアン・ヴァーミュール『リスクの立憲主義』(勁草書房、2019年)、シーラ・ジャサノフ『法廷に立つ科学』(監訳、勁草書房、2015 年)など。

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