2016.11.04

保守主義を再定義する――起源から辿る「保守」の真髄

宇野重規×荻上チキ

政治 #荻上チキ Session-22

安倍政権は保守?トランプ氏も?「保守」と自認する政治家があふれ、その意味が拡散する中、そもそも「保守主義」とは、いかなる思想なのか。「右派」や「復古主義」、「新自由主義」などとの違いは何なのか。また、対する「革新」や「リベラル」との関係はどうなっているのか。著書『保守主義とは何か  反フランス革命から現代日本まで』(中公新書)が話題の政治学者で東京大学教授の宇野重規氏を迎え、あらためて「保守」について考える。2016年8月30日放送TBSラジオ荻上チキ・Session-22「安倍政権は保守?トランプ氏も?『保守主義』ってなんだろう?」より抄録(構成/大谷佳名)

■荻上チキ Session-22とは
TBSラジオほか各局で平日22時〜生放送の番組。さまざまな形でのリスナーの皆さんとコラボレーションしながら、ポジティブな提案につなげる「ポジ出し」の精神を大事に、テーマやニュースに合わせて「探究モード」、「バトルモード」、「わいわいモード」などなど柔軟に形式を変化させながら、番組を作って行きます。あなたもぜひこのセッションに参加してください。番組ホームページはこちら→ http://www.tbsradio.jp/ss954/

敵を見失った「保守」

荻上 今日のゲストは、政治思想史がご専門の東京大学社会科学研究所教授の宇野重規さんです。よろしくお願いします。

宇野 よろしくお願いいたします。

荻上 宇野さんは今年6月に『保守主義とは何か』という本を出版されました。このタイミングで保守主義について書かれた理由は、どういったことだったのでしょうか。

宇野 最近、みなさん「保守」という言葉を乱用しすぎではないかという気がします。特に気になるのは、「外国人は出ていけ」などと言う排外主義のことを保守だと考える人もいることです。そういう人たちが保守を語ってほしくないと私は思います。

また、ジェンダーの問題に関しても、「男女平等は日本の古き伝統とは異なる」と主張するような人たちが、保守を名乗る場合もあります。こうした思想が保守とは到底思えません。

しかし、ここまで言葉が混乱しているなら保守主義そのものがなくなればいいのかというと、私はそうは思いません。保守というのは学ぶべきことも多い、価値のある思想だと思っています。だからこそ、もう少しきちんと使いたいと思ったのです。

保守主義の歴史を振り返ると、最初はフランス革命を批判する勢力として生まれ、のちに社会主義に反発し、さらには大きな政府、いわゆるリベラリズムに対抗してきました。つまり、ある方向に突っ走ってしまう人たちに対して、「ちょっと待て」と歯止めをかける役割があったのです。

しかし、今は革命を起こそうという勢力が目の前にあるわけでもなく、保守は敵を見失い、自分たちの定義もよく分からなくなってしまったのではないかと思います。そして、保守そのものが無限にインフレを起こしてしまっている。これになんとかストップをかけたいというのが、私の今回の狙いでした。

荻上 保守主義には、自らの立場を定義づけて慎重に歩みを進めてきた歴史があるのですね。

宇野 守るべきものは守る。しかし、変えるべきものは変えていく。それが保守の本来の真髄です。現実を無視して抽象的な理念を振りかざし、ゼロから社会を作り変えようとする人たちがいる中で、そうではなくて、これまで構築されてきたものを活かしつつ、時代に合わせて改良していくべきではないか。過去に対する深い洞察と現実主義、こうした側面が今の保守を主張する人たちには欠けているんじゃないかと思います。

荻上 日本の論壇で保守というと、たとえば毎日新聞や朝日新聞を読むのではなく読売新聞や産経新聞を読む、雑誌なら岩波書店の『世界』などではなく、産経新聞社から出ている『正論』などを読むというように、ある意味、棲み分け場所が固まっている印象があります。

宇野 戦後のある時期までは、朝日新聞や岩波書店を代表される進歩派知識人と言われた人たちが大きな影響力を持ちました。彼らは、欧米社会をお手本にして非常に理想化されたモデルを掲げ、日本の現実をバッサリと切っていったとしばしば言われます。結果、それに反発する勢力も生まれました。

たとえば戦後の進歩派知識人の代表的存在である丸山眞男に対して、文芸評論家の福田恆存、ちなみに彼自身は保守主義ではなく「(態度としての)保守」と名乗っていますが、彼のような人が対抗していきました。こうした経緯は、当時は一定の意味もあったと私は思っています。

しかし、今はどうでしょうか。進歩派知識人なんてどこにもいませんし、それどころか保守を名乗る人たちばかりが世に溢れています。今の朝日や毎日はあくまで叩くための象徴として使われているだけです。リベラル側に揺らぎが見えている中で、それをあたかも巨大な存在であるかのように語り、みんなで叩いている。今の保守を名乗る人々がやっていることは、やや自己宣伝に近いのではないかという気がします。

荻上 十年ほど前に、自民党は安倍総理を中心として過激な性教育、ジェンダーフリーを批判するプロジェクトを作りました。当時の保守論壇でよく言われていたのは、男女平等を目指す運動というのは、実は過激なマルクス主義の隠れ蓑で、本当は共産主義を目指しているんだ。つまり、自分たちの敵はいなくなったのではなく、むしろ社会に根付いている手強い存在なのだから気を緩めるな、と言って同じ保守系の人たちに向けて発破をかけていたようなところがありました。

そう考えると、「保守」と名乗るということは、それによってコミュニティに参加し、お互いに対話するための手段として使われているように思います。一方で、何を批判して何を保守するのかというと、実はいずれもブレている。なぜならリベラルそのものがブレているから、というわけですね。

宇野 重要なのは、そもそも保守とは「こういう社会を作りたい」という理念に基づくものではなく、批判をすること自体が基本的な発想なんです。しかし、今は批判すべき相手が見当たらず、陰謀史観のようにありもしない敵を作り上げ、過去のイメージのまま語り続けている。一種の観念遊戯じゃないかと思います。

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宇野氏

エドマンド・バークの思想

荻上 最近も国会で「保守主義」の定義が話題になったことがあります。2015年2月19日の衆議院予算委員会での当時の民主党・岸本周平議員と安倍総理とのやり取りを聞いてみましょう。

岸本議員 「安倍総理はご自分のことは『保守政治家』の一人と考えておられます。そこで保守とは何か、保守政治とは何かというご議論をさせていただきたいです。まず、定義をしなければいけません。保守とかリベラルとか、日本の場合それぞれ様々な定義があるものですから、なかなか議論が進みません。最も古い保守政治家であるイギリスのエドマンド・バークは、このように定義しています。保守とは何か。一言でいうと、人間が不完全であるということを認めるかどうか。人間の理性、知性には限界があるということを認める立場が保守政治、と。その定義において、安倍総理はご自身が保守政治家であるとお考えなのかどうか、伺いたく存じます。」

安倍総理 「保守がイズムであるかどうかについては、様々な議論があります。エドマンド・バークは『フランス革命の省察』を書きました。フランス革命というのは、まさに知性万能主義です。自分たちが正義をつくる。それから恐怖政治が始まったわけであります。その有り様を見て、(バークは)翻って英国のあり方を見たときに、自分たちの漸進主義的な考え方、現在の仕組みは、どういう過去の積み上げの中で生まれてきたのか、考えたわけです。それは、これまでのものを何一つ変えてはいけないということではありません。常に何かを変えていくときに、理性的なアプローチではなく、積み上がってきたものの重みをしっかりと感じることが大切なんだと思います。今を生きる人たちだけではなく、過去から現在、そして未来への視座を持っていくということだと思います。一方で、大切なものを守るときには、勇気をもって変えていく。何を守っていくのかということも常に考えていかなくてはいけないと思っています。」

今、名前が挙がってきたエドマンド・バークは保守主義の元祖と言われる人物ですが、そもそも保守主義というのはどこから生まれてきたのか、この辺りを教えてください。

宇野 保守主義というとエドマンド・バークの著作『フランス革命の省察』がしばしば取り上げられるのですが、正直言ってみなさん本当に彼の思想を理解しているのかなと疑問に思うことがあります。今回、本を書くにあたって改めて伝記なども読んでみたのですが、彼自身、本当に面白い人なんです。

バークはイギリスの政治家と言われますが、もともとはアイルランドの出身です。イギリスの中ではマイノリティーの立場だったんですね。自分の国さえ良ければいいのではなくて、いろいろな国の人々を受け入れて一つの国ができている、それがイギリスの良き伝統だという意識が、彼の中に根付いていたのです。

また、彼は経歴を見ても面白いんですね。しばしば保守政治家というと、現在の政権に近い人々、体制派というイメージがあります。しかしながら、彼はほとんどの期間が野党なんです。しかも、彼はのちに自由党になる政党に所属しており、保守党ではありませんでした。

彼の主張をみていくと、興味深いことに、アメリカに独立運動が起きたときには独立派に賛成しています。さらに、当時の国王が非常に専制的になったときには、国王に対して激しい批判を繰り広げました。彼にしてみると、国王が独裁化を強めていくことは、国王は議会の中でこそ機能する(King-in-Parliament)というイギリスの伝統を脅かすものだったのです。

荻上 日本では保守というと、当然ながら天皇を尊重する考え方と一対一対応しているイメージがあるのですが、必ずしもそうではないのですね。

宇野 もちろんバークは国王そのものを否定したわけではありません。そもそも単純に「反君主」「親君主」という話ではないのです。しかるべき役割を逸脱して、自由を尊重する良き伝統を崩そうものなら、たとえそれが国王であっても対抗する、それこそが愛国なのだというのがバークの立場でした。

また、こんなエピソードもあります。当時イギリスはインドを植民地化していく最中だったのですが、その時の東インド会社において、非常に腐敗が進んでいました。それに対してバークは「このままでは植民地の人々が苦しむばかりだ」と、植民地側に立った主張をしたのです。若い時の彼は自由の闘士でした。この人が保守思想の元祖であるということは、実に面白いなと思います。

だからフランス革命が起きたときに、周りは思ったんです。アメリカ独立すら認めたバークだから、きっとフランス革命に賛同して革命側を支援する本を書いてくれるんじゃないか、と。そして、執筆依頼の手紙を書きました。それに対しての返事が、この『フランス革命の省察』という本になったわけです。

これは実に思いがけない内容だったので、周りの人たちは非常に驚きました。この本の中でバークが言ったのは、人民が立ち上がって自らの権利を主張することは悪いことではない。ただし、彼らは途中から行きすぎたのだ。フランスだって絶対王政の中でも少しずつ自分たちの自由の伝統を育ててきただろう。そうしたものを全て白紙にして、新しい国家を一から作り直そうというのは許せない、と彼は主張したのです。

彼は言います。保守主義というのは単に過去に戻ろうとか、伝統主義、復古主義という思想とは異なる。何が自分たちにとって大切なのかを見極め、それを守るためにこそ、必要があれば社会のあり方、政治の仕組みを変えていくのが保守主義だというのです。

そのために、彼は政党というものを非常に重視しましたし、民主主義を決して否定していません。しばしば保守主義は民主主義を否定する思想だと言われますが、彼は、人々の声を活かしながら社会を自覚的に変えていくことを重要だと考えていたのです。

荻上 今ある社会制度や文化・風習というのは、おそらくこれまで様々なストレステストに耐えてきたからこそ残っているわけで、それをいきなりゼロから変えるとなると、これまで保ってきたアイデンティティを含め、いろいろなものが崩れてしまう可能性もあるわけですよね。

宇野 まさにバークが主張したのは、一見、不合理に見えるような伝統や慣習でも、過去からやってきたものにはそれなりに理屈があるということです。それが理解できないからといって、すべて壊してしまうべきではない。やはり保守主義を貫く思想としては、人間が不完全だという前提があるのです。人間の理性や知性ですべてを把握することはできない、ということです。

荻上 ところで、いわゆる愛国主義と保守主義の違いとはどういったものなのでしょうか。

宇野 何をもって愛国主義というのかにも依ります。もし排外主義のような意味が愛国主義に含まれるならば、保守主義と愛国主義ははっきりと区別するべきです。ただ、先ほど申し上げた通り、保守主義には歴史的に形成された自分の国の仕組みや制度に対して、命をかけてでも守るに値するものなんだ、という前提があります。その限りにおいては、保守主義と愛国主義に接点はあると思います。

荻上 自分の国が持つ重要な価値を守るために尽力することが愛国なのであれば、たとえば現政権がそれを脅かそうものなら、批判をするのも愛国のあり方だったりもするわけですよね。「外国人を排除しろ」と言っているような人が愛国主義者を名乗っている場合もありますが、国を愛するという定義がものすごく狭くなってしまっていると感じます。その結果、「愛国主義って怖い主張なんだ」というイメージが作られてしまった、ということもありますよね。

アメリカの保守主義とは

荻上 バークはフランス革命を批判したということですが、その後の保守主義の流れについて、もう少し詳しく教えていただけますか。

宇野 20世紀に社会主義に対抗した保守勢力として有名なのは、オーストリア出身の経済学者であるフリードリヒ・ハイエクです。彼は福祉国家そのものを否定しているわけではありませんが、どんな個人であれ、どんな党であれ、社会のすべての情報を集めて、合理的に隅々までコントロールするのは無理だ、と批判しました。そもそも、現場の情報をもつ個人の意思を無視して人々の経済活動を決めるという非常に恣意的であり、それを合理的だと称するのは傲慢だと考えたのです。

彼は市場原理主義者のように言われますが、市場がすべて正しいと言っているわけではありません。市場というのは、当事者が買いたいもの、売りたいもの、それぞれの経済的条件、地理的な条件など、個別の事情に基づいた情報を、価格というメカニズムを通じて集約している。人々の知識や情報を活かした仕組みであるという点で、評価しているのです。恣意的に上から決定するより、市場のメカニズムを活用する方がましだと言っているに過ぎません。

ハイエクはその後アメリカに移り、新たな敵として見たのがいわゆる「大きな政府」でした。20世紀に発展したリベラリズムは19世紀の古典的な自由主義とは違い、かなり独特の意味があります。フランクリン・ローズベルト大統領のニューディール政策が始まり、政府が社会政策・財政政策などに積極的に手を出すようになっていく。このため20世紀半ばのアメリカは、知識人や官僚が非常に権威を持った時代でした。一部の専門家が我がもの顔で社会を動かしていくことに対して、ハイエクは反発したのです。

荻上 彼はしばしば新自由主義の代表者とか、再分配に冷淡な人というイメージを持たれがちですが、そう単純でもないんですよね。彼の議論は、シンプルな方法で再分配を行おうというものでしたし、一定の労働規制なども健全な経済競争のために求めている。但し、国家があまりに経済政策に計画的に関与しすぎると、腐敗が生まれたり失敗する可能性もあるので、そこには慎重であろうとしたわけですね。

宇野 為政者が恣意的にコントロールするのではなく、全ての人に当てはまる一般的なルールを作って政治は行われるべきだ、とハイエクは言いたかったのだと思います。

荻上 アメリカの場合、再分配を重視するリベラリズムと小さな政府を志向する保守主義という構図が、民主党と共和党という形で割とはっきりと別れている面がありますよね。

宇野 ただ、アメリカの保守は少しややこしいところがあります。小さな政府という発想は確かに一部あるのですが、それ以外にもキリスト教原理主義だとか、ワシントン、ニューヨークなどの専門家への反発という側面もあるんですよね。そもそも、ローカル・コミュニティの中で市民一人一人が自分の力で立っている、これがアメリカ人の最も正しいあり方じゃないか、というのが保守の現像としてあると思います。

荻上 以前、全米ライフル協会の主張で「一人の市民が自分を守る権利として、自由の象徴として銃を持つのだ。この銃を手放したらアメリカが根本から崩れるんだ」というものがありました。「何を大げさな」と思うのですが、自分で自分を守る、それこそがアメリカの出発点なんだと彼らは言っているんですね。

宇野 そうです。これはライフル協会の陰謀じゃないのかと思うわけですが、一面において否定しきれないのは、自分のことは自分で決める、政府やニューヨークを牛耳っているエリートたちに勝手に決められたくない。この感覚がアメリカの保守の底流にあり、反エリート主義、小さな政府主義に結びついているということです。

しかし、トランプの主張を見ていると、こうした思想が非常にねじれた形で繋がっているなと感じます。彼は確かにリベラル派のエリートに反発しています。ただ、彼自身は大金持ちなので、そもそも矛盾しているわけですが。

リベラルのエリートたちが言っていることはただの綺麗事で、現実にはみんなを救ってくれないじゃないか。そういう失望感は、今アメリカで格差がどんどん拡大する中で、多くの人が持っていると思います。その種の反発をトランプは上手くすくい取っている。

しかし、彼はそれを違う方向に捻じ曲げてしまっています。メキシコとの国境に壁を作るというような、排外主義に結びつけたり、世界に対する孤立主義とセットになってしまっている。それは決してアメリカの保守の健全な部分、すなわち、自由でありたい、エリートに牛耳られたくないという願望とは異質な要素です。いろいろな反動要素を集めてパッケージにしているだけで、保守として一貫した筋があるわけでは決してない。

荻上 だから共和党内でも、トランプは本当に保守主義と言えるのか、代表としてふさわしいのか、という声が向けられているわけですね。

日本の保守主義とは

荻上 こんなメールもきています。

「最近の世界の動きをみていると、保守と自称したり、メディアに出演する人々の方が過激な政治的主張を行っているように思えます。日本での動きを例にとれば、『日本国憲法は改正ではなく即刻破棄し、大日本帝国憲法を復活して、その改正手続きに沿って改正すべき』などなど、こうした過激主義を保守と呼ぶことが妥当なのでしょうか。」

日本の場合の保守主義とは一体なんなのでしょうか。たとえば安倍総理は自ら保守主義と名乗っていますが。

宇野 私としては、バーク的な定義から考えると、安倍さんの保守主義には疑問を抱きます。特に、安倍さんが強調する戦後レジームの見直しに関してはそうです。今の自民党の憲法改革草案を見ても、現行憲法を部分的に直していくというよりは、憲法の正統性自体を疑っています。現行の政治体制はアメリカ占領軍に押し付けられたものなので、根本的に自主憲法を作り直すべきだと主張している。これは先ほど申し上げた保守主義の定義には当てはまりません。

荻上 僕は、安倍さんは、社会をある思想から設計し直せば問題が解決するという、理性をものすごく過大評価する設計主義者にうつります。たとえば、憲法改正を訴える人たちの中には、「いじめ問題も憲法のせいだし、犯罪が増えたのも憲法のせいだ」と、何でも憲法が悪い、GHQが悪い、マスコミが悪いと言って、それこそ自分たち好みに変えさえすれば世の中が良くなるんだ、という議論を展開したりしましたよね。それは実はバーク的な保守主義の思想とは異なっているということですよね。

宇野 そう思います。不思議なことに、かつての革命主義者たちが「我々の考えている革命のプランに従えば社会の問題がすべて解決する」と言っていたのと極めて似ていますよね。リベラルの声がどんどん小さくなっていく中で、敵を見失った保守主義がどんどん前のめりになっていき、結果としてひっくり返ってしまったのではないかと思います。

荻上 また、安倍さんはご著書「美しい国へ」の中で、昭和の下町を舞台にした映画「ALWAYS 三丁目の夕日」に触れつつ、あの頃のように地域の人々が助け合う社会が重要なんだと主張しました。これについては、あちこちからツッコミが入ったんですね。実際には当時は深刻な公害問題もあり、犯罪率も現在と比べて非常に高かった。地域の絆なんて言っているけど、それは美化されたものであって、それを守るとべきだと主張するのは保守主義の名を借りた過去の美化主義だったり、原理主義だったり、伝統主義だったりするということもありえるわけですね。

宇野 ちなみに、先ほど保守主義は復古主義とは違うと申し上げましたが、復古主義者と呼ばれる人たちが挙げる明治憲法ですら、ずっと変わらなかったわけではないのです。私はこの本の中で、伊藤博文の役割をあえて再評価しました。彼は明治憲法の起草者でありながら、たとえば当初は全く書いていなかった政党を導入するなど、時代の流れに合わせて少しずつそれを変えていこうとしたのです。

日本はどうしても明治維新と第二次世界大戦の敗戦ではっきりと政治体制が変わってしまった経緯があるため、漸進的に政治体制を変えていくのは難しいことだとは思います。しかし、彼らの精神に基づいて、戦後憲法をさらに発展させていくことが、本来の保守のあるべき道ではないかと思います。

保守対リベラル?

荻上 こんな質問もきています。

「保守対リベラルという図式で語られることが多い気がしますが、字義通りに考えると、保守の対立理念は進歩や革新ではありませんか? 一方、リベラルの対立理念は権威である気がします。保守とリベラルが必ず対立するとは限らないと思います。」

宇野 保守とリベラルというのは、そもそも20世紀のアメリカでできた図式です。日本においてもそれが語られ始めたのはそんなに昔のことではありません。もともと1980年代ごろまでは保守対革新と言われていました。保守は時代ごとに対抗する相手は違いますが、あえて言えば進歩主義や急進主義と対抗するものが保守主義と言えるでしょう。リベラルはそれとは座標軸が違う、というのが本来の理解であると思います。

ただ、難しいのは、リベラリズムが非常に多様な思想であるということです。それこそ19世紀においては、小さな政府を志向し、個人主義こそがリベラリズムだったのが、20世紀にはむしろ大きな政府の力を借りて、個人の自由や福祉を実現しようというように、意味を転換してきました。

根本的には、リベラリズムとはある種の普遍主義と言えます。その核となっているのは、権威に対抗するという精神です。もともとは宗教革命の混乱の中で、多様な信仰を持つ人を等しく人間として尊重しようというところから生まれたのがリベラリズムでした。しかし、時代とともにその姿は変容していくので、下手に保守主義と組み合わせると混乱を増幅してしまう傾向はあると思います。

荻上 それぞれが別の次元の概念ではあるのですが、アメリカではリベラル対保守という図式が定着しています。一方で、日本の政治図式は理念的に整理しにくい現状があります。これをどう捉え直せばいいのでしょうか。

宇野 アメリカでは大きな政府がリベラルで、小さな政府が保守だと言いましたが、日本では逆になっていますよね。戦後一貫して保守政党だった自民党は、それこそバラマキの公共政策を含めて大きな政府指向であって、それに対して、かつて革新と言われた勢力の方は増税に反対して小さな政府を指向した。

さらにややこしいのは、戦後の体制選択という問題です。憲法問題と安全保障という論点がどうしても大きかったので、これを軸に保守と革新という対立図式ができました。そういう意味でいうと、過去からのさまざまな議論のずれが蓄積されてきたがゆえに、どうしても混乱してしまうところがあると思います。

それでも、私は保守とリベラルが全く無意味ではないと思っています。保守はどちらかというと理念を共有する仲間を大切にする思想であり、リベラルは自分とは違う発想の人間とでも共生をはかっていきます。このあたりは、対立軸として意味があると思っています。

もう一つ、特に安倍政権の場合は、地域重視の視点も対立軸としてあるかもしれません。東京を発展させて、トリクルダウンさせて地方に持っていく、あるいは地域を活性化させて日本社会全体を発展させていく。リベラルというよりは保守内部の対立、東京中心の保守主義と地方の保守主義の対立かもしれません。こうした有効な対立軸はあります。それをきちんと言葉で説明し、明確にしていく、これが政党の一番大切な役割だと思います。ただ、これだけ言葉が混乱してしまっているのは、やはり私たち政治思想学者の責任もあるなと思っています。

荻上 今まさに行われている議論を整理するためにも、保守主義やリベラルそのものを考えることが重要だということですね。

宇野 現代において、保守主義の意味がどんどん拡散していく中で、それぞれが自分なりに大切にしたいものを守る、それが保守主義だとすることも、決して悪いことではないと思います。そうなると、いずれ全員が保守主義者になり、保守内部の論争が繰り広げられることになるかもしれません。ただしその際には必ず、お互いに何を大切にしたいのか、ここは明確にして議論をするべきです。

荻上 イギリスやフランス、アメリカのように、建国の精神が明確に語られる国もあれば、日本のようにそれが明らかではない国もあります。「聖徳太子の『和をもって尊し』という精神こそが日本の伝統だ」というように、時たま、特に国民的に合意されたわけではないフレーズを持ってくるしかないくらい、国の理念というものがふわふわしてる現状です。そもそもこの国がどこに向かおうとしているのか、議論することを避けては通れないわけですね。

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プロフィール

宇野重規政治思想史

1967年東京都生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。現在は、東京大学社会科学研究所教授。主な著作に『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社選書メチエ)、『<私>時代のデモクラシー』(岩波新書)、『西洋政治思想史』(有斐閣アルマ)などがある。西洋政治思想史をベースに、現代の民主主義の多様な問題に取り組んでいる。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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