若者の社会運動とサブカルチャー――運動と日常を行き来する若者たちの葛藤

2011年以降、全国的に盛り上がりを見せた若者による社会運動。彼らの語りから運動の特質を浮き彫りにした、富永京子氏による新刊『社会運動と若者――日常と出来事を往還する政治』(ナカニシヤ出版)。この出版を記念して、社会学者・鈴木謙介氏(関西学院大学准教授)と阿部真大氏(甲南大学准教授)とのトークショーが開催された。若者の社会運動とその文化は現代社会において何を示唆しているのか。2017年6月19日、ジュンク堂書店大阪本店にて行われたイベント「若者の社会運動とサブカルチャー」より抄録。(構成/増田穂・大谷佳名)

 

 

2000年代以降、社会運動はどう変わったのか

 

鈴木 本日は『社会運動と若者:日常と出来事を往還する政治』(ナカニシヤ出版)の出版記念トークイベントとして、著者で立命館大学准教授の富永京子さん、甲南大学准教授の阿部真大さんと私、鈴木謙介で座談を進めて参ります。便宜的に私の方で司会を務めたいと思います。よろしくお願いします。

 

富永阿部 よろしくお願いします。

 

鈴木 富永さんは、大学ではどのような授業を担当されているのですか。

 

富永 国際社会学の教員をしています。移民問題や国際結婚、多文化共生などについて、1、2回生を中心に教えています。その中では当然、NGOなどによる市民活動についても言及しますが、例えば環境NGOによる政策提言活動の話をすれば「環境保護って重要だよね」、異文化理解を促す教育・交流促進活動の話になれば「他文化への配慮って重要だよね」という反応が返ってくる。ところが日本国内の社会運動の話になると、どこか敬遠してしまう、本当に意味があるのか、といった反応になる。今の学生達は社会運動に従事している人に対して近寄りがたいイメージを持っています。その温度差が気になって、今回の本を執筆しました。

 

鈴木 富永さんの前著『社会運動のサブカルチャー化―G8サミット抗議行動の経験分析』(せりか書房)は博士論文をもとに書かれたもので、2008年の洞爺湖サミットでの抗議活動を取り上げ、そこに参加された方々とのやり取りから社会運動のあり方を考察されていますね。今回、二冊目となる『社会運動と若者』ではどのような事象を扱っているのですか。

 

富永 3.11以降の脱原発運動や安保法制、特定秘密保護法への反対運動などを検証しています。「SEALDs(シールズ)」(以下、「シールズ」)をはじめとする若者の団体が多く参加したことが特徴です。しかし、彼らに対して同世代の運動をしていない子たちはあまり良い目で見ているとは言い難い状況もあった。そこがまず気になって、この研究を始めました。

 

同時に、こうした近年の運動を見ていて、社会運動がメジャーになっているなと感じました。今まで限られた人たちが小規模に続けていた運動が、10万人近く集まるマジョリティの運動になり、メディアでも大きく取り上げられた。社会の中で大きく注目を集めるようになったことが純粋に不思議だったのです。

 

鈴木 富永さんのご専門は社会学ですが、そもそも社会学の中で社会運動はどのように取り上げられてきたのでしょうか。

 

富永 日本では、社会運動論はもともと効果的な運動運営のための理論として受容されてきた側面が強いです。具体的には参加者の動員方法、人の配置、政府や企業の動向に沿った活動のタイミングなど、目的を達成するための方法論です。この理論において、運動の参加者は基本的に組織の目標に賛同していて、同じようなアイデンティティやモティベーションを持っていることが自明視されています。労働組合であれば、皆が一様に賃上げや労働時間の短縮化に賛成するという前提がある。国策に対する運動であれば政府や関連機関を相手どった働きかけになる。本来、社会運動とは大きな権力に対する対抗勢力として存在するもので、その担い手は一様に皆同じなんだという前提があり、その中で「連帯」や「団結」を重視した組織作りが求められてきました。

 

しかしこの組織論自体が、徐々に社会の動きに当てはまらなくなっていきました。人びとの生き方が多様化し、それが顕在化するにつれて、例えば労働組合運動の中でも女性職員と男性職員では要求するものが違っていたりする。さらに雇用の形態によっても、例えば非正規と正規でまた優先する要素が変わってきます。そうなると、組織をベースにし、統一されたカウンターカルチャーに基づいて運動を作ろうという感覚自体が時代と合わなくなってきます。そうした流れに対応する組織が求められてきているのかな、と思います。

 

鈴木 運動において、いかにして人を集めるかという考え方が限界を迎えつつある。そんな中で社会運動を見るベクトルが、「権力に対してどう向かっていくのか」という見方から、「社会運動の中身をどう見ていくのか」という見方に変わってきた、ともおっしゃっていましたね。

 

富永 はい。みんな年齢や所属が同じに見えるような運動でも、キャリアやライフコースはそれぞれ違っています。その中で「運動の内部」をいかに共有するかが運動であるという形で、社会運動論の視角も展開されていきます。ですから、例えば一緒にレクリエーションや勉強会をしたり、お茶の時間や余暇といった居場所を共有したり、「自分がなぜ社会運動に参加したのか」などの体験を話し合ったり。経験もそれぞれですから、居場所や勉強会の方式に対する理想やこだわりも分化されていきます。そこで私は、社会運動も、ひとつの組織的な「カウンターカルチャー」によるものから、理想やこだわりに基づく「サブカルチャー」へと分化するんじゃないかという話をしています。

 

鈴木 なるほど。さて、今日のもう一人のお相手は社会学者の阿部真大さんです。阿部さんは僕と同じ1976年生まれですが、我々が20代のころの社会運動のあり方は現在とは違った様相でしたね。

 

阿部 2000年代前半は「当事者の声をいかに届けるか」というテーマが論壇の一つの流れを作っていました。当時、僕の大学の指導教官であった上野千鶴子氏と障害者運動の第一人者である中西正司氏が『当事者主権』という本を出し、「当事者の声を聴け」という流れが強くなった時期だった。近年でも、『「フクシマ」論』という本を書いた社会学者の開沼博氏は、この当事者主権を愚直に実践していると思います。要するに「福島のことは福島の人にしか分からない」、だから結果的に社会運動に対して彼はすごく批判的な立場を取っています。

 

一方、僕が最初に上野氏の「フェミニズムで当事者主権」というのを聞いて、「なんか怪しいな」と思ったのは、もし女性の中で「専業主婦になりたい」と言う人が大半だった場合に運動は成り立つのか、ということです。同じように、もし福島の人に話を聞いて「自分たちの生活のために原発は必要だ」と言われたら、それでは反原発の運動は成り立たないですね。ですから、当事者だけじゃ運動が息詰まるんだということは明らかです。

 

そんな中で僕としては、富永さんは当事者主義に対するカウンターとして論壇の中で注目を集めたという印象なのですが、富永さん自身はどう思っていらっしゃるのですか。

 

富永 当事者主権という点に関しては、私はそもそも意識して研究していない立場です。というのも、私は一冊目の本で反グローバリズム運動について書きましたが、グローバルな社会問題は実は当事者がいるようでいない。大まかには先進国が発展途上国を搾取しているという構図がありますが、簡単にそうとは言い切れない部分もある。例えばスターバックスはグローバル企業で、ローカルな価値観を奪っていく加害者ではあるけれども、一方でCSR活動も相当熱心にやっていたりする。つまり、誰がグローバリズムの被害者で誰が加害者なのか、簡単にわからないわけです。そういう意味で言うと、そもそも当事者主権というもののリアリティがわかない立場なのだと言えるかもしれません。

 

 

「当事者でなければいけない」という意識

 

鈴木 さて、ここからは本の内容に入っていきたいと思いますが、近年、若者も参加する運動が盛り上がりを見せていますね。富永さんはどのようにご覧になっていましたか。

 

富永 まず、安保法制反対が一つ大きな動きになりました。脱原発運動以降、いわゆる“普通の人”が気軽に参加できる運動がヒットしてきた。具体的には、ヒップホップ・カルチャーを取り入れたスタイルであったり、プラカードも共通のデザインのものがネットで無料で配布されていたり。そして中心にいるのは、恐そうでもなければ、運動に慣れてそうでもない、“普通”の男の子・女の子たちだったりする。彼らは自己紹介をする際に大学名と名前を言って、いかに自分の生活に安保法案が関係あるのかということを説きます。それも、日常に即したような表現で語る。そうしたスタイルが広く支持を集めたんですね。

 

阿部 この本の中での彼らへのインタビューを読んでいて強く感じたのは、「自分が当事者なのだと言わなければいけない」という強迫感があるのかなと。もちろん、広い意味で言えば共謀罪も安保法制も日本に住む全員が当事者だけれど、狭い意味での当事者かと言うとそうではない。僕なんかは、「俺は全然当事者じゃないけど、むかつくからやってんだよ」という動機でもいいんじゃないかと思うのですが、なんとなく「当事者」という言葉を使わなくちゃいけない、という意識が彼らの中にはあるのでしょうか。

 

富永 その通りだと思っています。私の印象ですが、今、社会運動をしている若者は非常に当事者意識も高く、その上、読書量も多いですし、熱心に勉強します。ただ、「当事者意識」と「勉強熱心さ」、本来なら運動するにあたってこの2つはなくてもいいわけです。例えば途上国の支援運動にしても、「南アフリカなんて一生行くことはないだろうし、よく知らないけど募金しよう」でもいいはずです。しかし、多くの学生さんはこの2つを手放すことをしない。

 

その理由としてはまず、若者という立場であるからこそ外部からのバッシングを受けやすい、それを懸念せざるを得ない可能性はあります。実際、「SEALDs」「シールズ」とGoogle検索するだけで「お前らは関係ないくせに」「何がわかるんだよ」というような批判が出てくる。そこに対するディフェンスとして、当事者であることを主張した上で論理的に説得する、というのが一点あるのかなと思います。また、彼らが社会に関与できる範囲が社会的な構造の上で限定されている側面もある。つまり、将来どのように安保法制と関わるかは分からないわけです。だから現時点において「安保法制がいかに自分の人生に関わるか」について論じるしかない。そして、とりあえず勉強を続けるしかない。そういった選択肢の限られ方が、「当事者性」と「勉強熱心さ」を選んだ側面もあるのだと思います。

 

鈴木 先ほど「ヒップホップ・カルチャーを取り入れた」という説明がありましたが、彼らの運動のスタイルは具体的にどのようなものなのでしょうか。

 

富永 前の世代のデモでは、参加者はフードやマスクをつけている人もいれば、ヘルメットを被っている人、コスプレしている人なんかもいて、メッセージも統一されていませんでした。「生きさせろ!」とか「モテたい」と書かれたプラカードを持っている人もいたり。もちろん、デモは解放空間なので参加者はどのような主張をしても構わない。実際に労働問題は原発やエネルギーの問題ともつながっていますし、人権やマイノリティの問題ともつながってくるので、何を主張しても自由です。

 

ただ、3.11以降の運動では多様なメッセージよりも、その問題に直結するようなメッセージが好まれる。なぜなら、「デモに参加する人は異常な人たちだ」と思われないようにする必要があるためです。原発と労働と人権は関係あるけれど、傍から見ている人がその関係をすぐに把握できるかというとそうではない。それと同様に、普通の格好をして、なるべくポジティブな、誰でも分かる、生活に即した言葉を使う必要があったからです。その中で、親しみやすいポップカルチャーを引用することが重要になってきた。

 

例えばプラカードのデザイン一つとってみても、ストリートブランドの「Supreme」のロゴをパロディしたものだったり、西野カナの歌詞からとった「戦争したくなくてふるえる」というキャッチフレーズなど、ちょっとおしゃれだったり近寄りやすい感じのものになっている。以前のロスジェネを代表する「素人の乱」などは、「まぬけ」「馬鹿」「貧乏」といった言葉を使って、軽く楽しく、どこか「低い」目線から社会運動を形作ろうとしました。それに対して現在の若者たちは、まじめだけど暗くなくて、おしゃれなプラカードを作って行う、あくまで「等身大」の運動という違いがあるでしょうか。

 

阿部 なるほど。前の世代の社会運動に対する一つのカウンターになっている、と。おそらく、彼らの親の世代は全共闘世代の失敗をよく覚えている「しらけ世代」なので、社会運動に没入していくことの危険さが刷り込まれている。だから、こうした冷めた感じの運動になるわけですね。

 

一方で、僕が彼らを見て最初に感じてしまったのは、「かつて2000年代に我々が批判していたものが蘇った」ということです。当時は既存のリベラルが、女性の問題やマイノリティの問題に特化しており、成人男性の労働問題が見落とされていた。そうした姿勢を批判して、赤木智弘さんや雨宮処凛さんが中心となってロスジェネ論壇が出来上がっていきました。その中に僕もいたんです。

 

まさしくトランプ現象と似ていて、「その問題の重要性は分かるけど、その前に足元の問題をなんとかしてくれよ」というものだった。社会の都合で使い捨てにされる若者世代が当事者として声を上げ、一つの流れを作っていった。なんとなくシールズなどの子たちを見ていると、またあの“お花畑リベラル”が戻ってきたか、と思ってしまったんです。ただ、この本を読んでからは、彼らがすごくディフェンシブに、そうならないように気を使いながら振舞っていることが分かりました。

 

富永 先ほど触れた彼らの当事者性も、そうした発想からきているのだと思います。安保法案に対して「遠く見える問題だけど、俺たちにも関係あるんだ」というスタンスをとっているのは、一つの戦略ではないでしょうか。

 

一方で、社会運動に携わる若者が国内の身近な社会問題にも取り組んでいないわけではなく、例えば「保育園落ちた日本死ね」がネット上で話題となった時に、スタンディングアピールなどをしていたこともありました。しかし、こうした問題は行政の対応も割と早いので、表出的な社会運動として連続的な大きな動きにはなりづらいんです。安保法案や共謀罪、特定秘密保護法などの「遠い問題」は継続的に取り上げ続けなくてはならない。そのために、“お花畑系”と叩かれる、身近でない問題を扱った活動だけがいわゆる「社会運動」として印象に残ってしまうという状況はあると思います。【次ページにつづく】

 

 

左から富永氏、阿部氏、鈴木氏

左から富永氏、阿部氏、鈴木氏


 

 

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