ガラパゴス化した憲法論議を超えて

政党政治をめぐる迷走      

 

今回の衆議院選挙では、民進党が分裂し、希望の党の公認を受ける者と、立憲民主党に加わる者とに分かれた。政局の機微を度外視して底流に流れる原因を探れば、2015年安保法制の際の野党勢力の対応にさかのぼる。

 

現実主義的な中道路線を掲げて結党していたはずの民主党が、一部勢力の安倍首相への批判の高まりに便乗する誘惑を断ち切れず、目先のポピュリズムに傾倒した。集団的自衛権を容認する改憲を模索していた民主党の有力政治家(そこには枝野幸男・現立憲民主党代表を含む)が、ごっそりと「集団的自衛権は違憲だ、安保法制は廃止せよ」と叫び始めた。衆議院憲法審査会で長谷部恭男・元東大法学部教授が安保法制は違憲だと発言し、ほとんどの憲法学者が同じように考えているといったアンケート結果が話題になると、そこに便乗して安倍内閣を攻撃しようとした。しかし刹那的な高揚に身を任せた結果、政権担当能力のある政党として一貫性のある外交政策を打ち出すことが困難になってしまった。

 

今、希望の党の公認を受けた民進党議員と、立憲民主党の立ち上げに関わった民進党議員のどちらが筋を通しているかを問うのは、あまり意味がない。それは、2017年衆議院選挙に臨むにあたってどちらが有利か、という戦術的な判断の違いにすぎない。総括すれば、民進党は近視眼的だったために、分裂した。あるいはややレトリカルな言い方をすれば、民進党議員は、憲法学者に騙された、ということだ。

 

公務員試験や司法試験の予備校では、「迷ったら芦部説をとれ」と教えている。今後もその状況は変わらないだろう。しかし、「迷ったら芦部説をとれ」というだけで、政治家という職業が務まるほど、世間は甘くない。憲法学者のこれまでの社会的地位の存続を賭けて、東大法学部出身の憲法学系の人々が、政治運動を盛り上げた。しかしだからと言って、それは国会議員が追従すべき政策論ではなかった。

 

確かに長谷部教授の師である芦部信喜の基本書『憲法』は、100万部を売っているベストセラーだ。そこに「集団的自衛権は違憲だ」と書いてある。総理大臣などが勝手に変えるな、と言いたい気持ちも、わからないではない。憲法学者にとっては深刻な事態だろう。しかし、政治家にとっては、特にはそうではなかったはずだ。憲法解釈は、政治家であっては、政策論にまで目配りした上で、一貫性を持てるようによく考えてから行うべきだった。

 

そもそも学者の中でも様々な意見はあった。憲法学者だけが学者ではないし、憲法学者の間でも「芦部説」だけが全てではない。長谷部教授の議論ですら、「内閣法制局が何十年か前にそう言ったのなら、安倍首相あたりがそれを変えるのは許さない」といった程度のことでしかなかったのだ。政治家であっても、責任ある立場にある国会議員であれば、少なくとももう少しよく勉強してから態度を決定するべきであった。「憲法学者へのアンケート結果が内閣支持率を低くするのに役立つかもしれないぞ」、といったことだけを行動原理にするのでは、やがて行き詰るのは必至だったと言えよう。

 

内閣法制局が安保法制は合憲だという判断に舵を切り、数年が経過している。残っているのは、憲法学者のプライドだ。そこに、数百名の国会議員を擁する一つの政党の命運が委ねられ、そしてその政党は消滅させられた。不幸である。民進党が消滅したことが不幸なのではない。洞察力や判断力が強く求められる政治家たちが、それを持ち合せていなかったということが、不幸である。

 

 

立憲主義とは何か

 

民進党が崩壊し、立憲民主党という新しい政党が生まれた。自分たちが立憲主義を守り、アベ首相は立憲主義を破壊しているのだという。もちろんそうした糾弾が可能になるかどうかは、立憲主義という言葉の定義次第だ。最初から立憲主義とは、憲法9条に一切手を付けさせない立場だ、と定義するのであれば、もちろん立憲民主党は正しい。権力者=アベ首相を批判し、その行動を制限することが立憲主義だと定義するのであれば、もちろんアベ首相に立憲主義者になるチャンスはない。こう考えれば、とにかくいつもアベ首相を批判する政党だけが、立憲主義政党である。

 

立憲民主党は「リベラル派」勢力の結集によって生まれたというが、それはもちろん言葉の本来の意味での「Liberal」とは関係がない。「改憲反対」「安保法制廃止」と叫んだからといって、「自由主義」的であったり、多様な価値観に寛容であったりするという意味での本来の「Liberal」とは関係がないだろう。日本の「リベラル派」とは、「Liberal」という概念の国際的な意味や、辞書に記載されている意味とは関係がない。

 

このようなガラパゴス的な「リベラル」の立場について、立憲民主党の枝野幸男代表は、自分は「リベラル」であり、「保守」であるという言い方で、説明している。枝野代表が自らの立場を「リベラル保守」と描写するのは、立憲民主党が、冷戦体制下で達成された高度経済成長時代の一億総中流社会の復活を、理想の政治とするからだという。

 

どちらかというと「リベラル」でも「保守」でもなく、「復古」「守旧」的とすら言える枝野代表の立場を、「リベラル保守」という謎の造語によって表現しようとするのは、まだマシかもしれない。それが「立憲主義」だ、と主張するよりも、まだマシかもしれない。「立憲主義」とは、数百年にわたって世界的規模で広がっている概念なので、「俺が俺のやりたいように俺の意味で俺の言葉を使って何が悪い」、という態度でこの概念を振りかざすと、控えめに言って、混乱が助長されることが懸念されるからだ。

 

こうした用語のガラパゴス化は「立憲主義」に限ったことではない。集団的自衛権が議論の対象になったときも、「国際政治学者や国際法学者ではなく、憲法学者に集団的自衛権の話を仕切らせろ」という態度が流通していた。国際政治学者たちが世界規模での認識を意識し議論する反面、憲法学者は国内でのみ通じる議論をしてきた。憲法学者が議論の中核を担った結果として、日本の若者が、憲法学者の見解が世界の真理だと勘違いしながら、島国でガラパゴス的に育たなければならないとすれば、彼らは国際的に活躍するために著しいハンデを背負うことになる。

 

「立憲主義」とは、「権力を制限すること」とか、「アベ政治を許さない」とかということではない。「憲法9条に手を付けるな」という「護憲主義」のことでもない。本来の「立憲主義」の意味は、「constitutionalism」の精神にある。「Constitution」という概念に「主義」を意味する「ism」を付けるのは、「国の構成原理」を信じる、という価値規範を言い表すためだ。人権や国際協調主義という憲法の理念を信じて行動していく立場が、立憲主義だ。

 

「法の支配」が「立憲主義」の根幹を形成するが、「法の支配」は「人の支配」を超えなければ意味がない。超えるべき「人」には、「アベ首相」も含まれるのだろうが、「主権者」も含まれる。主権の原理を克服しない「法の支配」など意味はない。「主権者である国民が政府=アベ首相を制限するのが立憲主義だ」、というのは、単なる国民主権論を超えるものではなく、「法の支配」を否定するものであり、全く「立憲主義」的なものではない。

 

とにかく権力を制限することを善とし、権力を制限しようとしなければ立憲主義的ではないなどと考えるのは、全く立憲主義的ではない発想だ。それは「主権者・国民」の「永久革命」なるものをどこまでも追求しようとする「国民主権論」の抽象的一般命題化にすぎない(注)。「国民主権論」それ自体は、決して「立憲主義」の中核的原理ではない。日本国憲法典では、憲法制定の権威が主権者としての国民から流れ出ていること、天皇が国民統合の象徴であるのは主権者である日本国民の総意であること以上には、何も国民主権について書かれていない。

 

(注)ちなみに「永久革命」とは、国民主権原理を重視した政治学者・丸山眞男が、国民が真の主権者らしくなるための努力を永遠に行っていくことを命じた際に好んで用いた概念である。戦後日本の思想では、憲法学者の最大の同盟者は丸山眞男の学派であった。

 

そもそも「国の構成原理」は、主権者をも拘束しなければならない。規範が主権者に優越して初めて、立憲主義が成り立つのだ。主権者国民はただ永遠に権力者を制限することだけを考え続けていればいい、といった考え方は、全く立憲主義的なものではない。(拙著『ほんとうの憲法』では、そもそも日本国憲法に「三大原理」なるものが存在して「国民主権」も「原理」である、と断定する言説自体が、憲法学者の後付けの解釈論でしかないことを指摘した。私自身は、憲法には「国民の厳粛な信託」が「人類普遍の原理」と謳われている「一大原理」の仕組みが基本である、と考えている。)

 

ポツダム宣言受諾時に「国民」が「主権」を握る「革命」を起こしたという「八月革命説」の「物語」で、「押しつけ憲法論」に対抗するというイデオロギー的なアピールも総動員し、日本国憲法典を「国民」の「主権」の原理から徹底的に読み解こうとしたのが、70年余にわたる日本の憲法学の壮大な一大プロジェクトであった。しかも主権者・国民は、憲法学者の指導に従って、永遠に権力者を制限する行動に動員される。

 

その戦後日本特有の憲法学によって、日本国憲法の英米法に根差した伝統を語る事は忌避され、日本国憲法が国際法との調和を大前提にしていることも無視された。主権者・国民を指導する憲法学者の至高性を大前提にして憲法典を解釈しなければならないことが、数十年にわたる政治運動の中で、原則化された。

 

日本では、数十年の歳月をかけて、この政治運動の妥当性を信じるのでなければ、公務員試験も、司法試験も、通らない社会が作られた。もっとも、だからといって、それで現実の政策が進められることが保証されるわけではない。【次ページにつづく】

 

 

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