2017.10.19
ガラパゴス化した憲法論議を超えて
政党政治をめぐる迷走
今回の衆議院選挙では、民進党が分裂し、希望の党の公認を受ける者と、立憲民主党に加わる者とに分かれた。政局の機微を度外視して底流に流れる原因を探れば、2015年安保法制の際の野党勢力の対応にさかのぼる。
現実主義的な中道路線を掲げて結党していたはずの民主党が、一部勢力の安倍首相への批判の高まりに便乗する誘惑を断ち切れず、目先のポピュリズムに傾倒した。集団的自衛権を容認する改憲を模索していた民主党の有力政治家(そこには枝野幸男・現立憲民主党代表を含む)が、ごっそりと「集団的自衛権は違憲だ、安保法制は廃止せよ」と叫び始めた。衆議院憲法審査会で長谷部恭男・元東大法学部教授が安保法制は違憲だと発言し、ほとんどの憲法学者が同じように考えているといったアンケート結果が話題になると、そこに便乗して安倍内閣を攻撃しようとした。しかし刹那的な高揚に身を任せた結果、政権担当能力のある政党として一貫性のある外交政策を打ち出すことが困難になってしまった。
今、希望の党の公認を受けた民進党議員と、立憲民主党の立ち上げに関わった民進党議員のどちらが筋を通しているかを問うのは、あまり意味がない。それは、2017年衆議院選挙に臨むにあたってどちらが有利か、という戦術的な判断の違いにすぎない。総括すれば、民進党は近視眼的だったために、分裂した。あるいはややレトリカルな言い方をすれば、民進党議員は、憲法学者に騙された、ということだ。
公務員試験や司法試験の予備校では、「迷ったら芦部説をとれ」と教えている。今後もその状況は変わらないだろう。しかし、「迷ったら芦部説をとれ」というだけで、政治家という職業が務まるほど、世間は甘くない。憲法学者のこれまでの社会的地位の存続を賭けて、東大法学部出身の憲法学系の人々が、政治運動を盛り上げた。しかしだからと言って、それは国会議員が追従すべき政策論ではなかった。
確かに長谷部教授の師である芦部信喜の基本書『憲法』は、100万部を売っているベストセラーだ。そこに「集団的自衛権は違憲だ」と書いてある。総理大臣などが勝手に変えるな、と言いたい気持ちも、わからないではない。憲法学者にとっては深刻な事態だろう。しかし、政治家にとっては、特にはそうではなかったはずだ。憲法解釈は、政治家であっては、政策論にまで目配りした上で、一貫性を持てるようによく考えてから行うべきだった。
そもそも学者の中でも様々な意見はあった。憲法学者だけが学者ではないし、憲法学者の間でも「芦部説」だけが全てではない。長谷部教授の議論ですら、「内閣法制局が何十年か前にそう言ったのなら、安倍首相あたりがそれを変えるのは許さない」といった程度のことでしかなかったのだ。政治家であっても、責任ある立場にある国会議員であれば、少なくとももう少しよく勉強してから態度を決定するべきであった。「憲法学者へのアンケート結果が内閣支持率を低くするのに役立つかもしれないぞ」、といったことだけを行動原理にするのでは、やがて行き詰るのは必至だったと言えよう。
内閣法制局が安保法制は合憲だという判断に舵を切り、数年が経過している。残っているのは、憲法学者のプライドだ。そこに、数百名の国会議員を擁する一つの政党の命運が委ねられ、そしてその政党は消滅させられた。不幸である。民進党が消滅したことが不幸なのではない。洞察力や判断力が強く求められる政治家たちが、それを持ち合せていなかったということが、不幸である。
立憲主義とは何か
民進党が崩壊し、立憲民主党という新しい政党が生まれた。自分たちが立憲主義を守り、アベ首相は立憲主義を破壊しているのだという。もちろんそうした糾弾が可能になるかどうかは、立憲主義という言葉の定義次第だ。最初から立憲主義とは、憲法9条に一切手を付けさせない立場だ、と定義するのであれば、もちろん立憲民主党は正しい。権力者=アベ首相を批判し、その行動を制限することが立憲主義だと定義するのであれば、もちろんアベ首相に立憲主義者になるチャンスはない。こう考えれば、とにかくいつもアベ首相を批判する政党だけが、立憲主義政党である。
立憲民主党は「リベラル派」勢力の結集によって生まれたというが、それはもちろん言葉の本来の意味での「Liberal」とは関係がない。「改憲反対」「安保法制廃止」と叫んだからといって、「自由主義」的であったり、多様な価値観に寛容であったりするという意味での本来の「Liberal」とは関係がないだろう。日本の「リベラル派」とは、「Liberal」という概念の国際的な意味や、辞書に記載されている意味とは関係がない。
このようなガラパゴス的な「リベラル」の立場について、立憲民主党の枝野幸男代表は、自分は「リベラル」であり、「保守」であるという言い方で、説明している。枝野代表が自らの立場を「リベラル保守」と描写するのは、立憲民主党が、冷戦体制下で達成された高度経済成長時代の一億総中流社会の復活を、理想の政治とするからだという。
どちらかというと「リベラル」でも「保守」でもなく、「復古」「守旧」的とすら言える枝野代表の立場を、「リベラル保守」という謎の造語によって表現しようとするのは、まだマシかもしれない。それが「立憲主義」だ、と主張するよりも、まだマシかもしれない。「立憲主義」とは、数百年にわたって世界的規模で広がっている概念なので、「俺が俺のやりたいように俺の意味で俺の言葉を使って何が悪い」、という態度でこの概念を振りかざすと、控えめに言って、混乱が助長されることが懸念されるからだ。
こうした用語のガラパゴス化は「立憲主義」に限ったことではない。集団的自衛権が議論の対象になったときも、「国際政治学者や国際法学者ではなく、憲法学者に集団的自衛権の話を仕切らせろ」という態度が流通していた。国際政治学者たちが世界規模での認識を意識し議論する反面、憲法学者は国内でのみ通じる議論をしてきた。憲法学者が議論の中核を担った結果として、日本の若者が、憲法学者の見解が世界の真理だと勘違いしながら、島国でガラパゴス的に育たなければならないとすれば、彼らは国際的に活躍するために著しいハンデを背負うことになる。
「立憲主義」とは、「権力を制限すること」とか、「アベ政治を許さない」とかということではない。「憲法9条に手を付けるな」という「護憲主義」のことでもない。本来の「立憲主義」の意味は、「constitutionalism」の精神にある。「Constitution」という概念に「主義」を意味する「ism」を付けるのは、「国の構成原理」を信じる、という価値規範を言い表すためだ。人権や国際協調主義という憲法の理念を信じて行動していく立場が、立憲主義だ。
「法の支配」が「立憲主義」の根幹を形成するが、「法の支配」は「人の支配」を超えなければ意味がない。超えるべき「人」には、「アベ首相」も含まれるのだろうが、「主権者」も含まれる。主権の原理を克服しない「法の支配」など意味はない。「主権者である国民が政府=アベ首相を制限するのが立憲主義だ」、というのは、単なる国民主権論を超えるものではなく、「法の支配」を否定するものであり、全く「立憲主義」的なものではない。
とにかく権力を制限することを善とし、権力を制限しようとしなければ立憲主義的ではないなどと考えるのは、全く立憲主義的ではない発想だ。それは「主権者・国民」の「永久革命」なるものをどこまでも追求しようとする「国民主権論」の抽象的一般命題化にすぎない(注)。「国民主権論」それ自体は、決して「立憲主義」の中核的原理ではない。日本国憲法典では、憲法制定の権威が主権者としての国民から流れ出ていること、天皇が国民統合の象徴であるのは主権者である日本国民の総意であること以上には、何も国民主権について書かれていない。
(注)ちなみに「永久革命」とは、国民主権原理を重視した政治学者・丸山眞男が、国民が真の主権者らしくなるための努力を永遠に行っていくことを命じた際に好んで用いた概念である。戦後日本の思想では、憲法学者の最大の同盟者は丸山眞男の学派であった。
そもそも「国の構成原理」は、主権者をも拘束しなければならない。規範が主権者に優越して初めて、立憲主義が成り立つのだ。主権者国民はただ永遠に権力者を制限することだけを考え続けていればいい、といった考え方は、全く立憲主義的なものではない。(拙著『ほんとうの憲法』では、そもそも日本国憲法に「三大原理」なるものが存在して「国民主権」も「原理」である、と断定する言説自体が、憲法学者の後付けの解釈論でしかないことを指摘した。私自身は、憲法には「国民の厳粛な信託」が「人類普遍の原理」と謳われている「一大原理」の仕組みが基本である、と考えている。)
ポツダム宣言受諾時に「国民」が「主権」を握る「革命」を起こしたという「八月革命説」の「物語」で、「押しつけ憲法論」に対抗するというイデオロギー的なアピールも総動員し、日本国憲法典を「国民」の「主権」の原理から徹底的に読み解こうとしたのが、70年余にわたる日本の憲法学の壮大な一大プロジェクトであった。しかも主権者・国民は、憲法学者の指導に従って、永遠に権力者を制限する行動に動員される。
その戦後日本特有の憲法学によって、日本国憲法の英米法に根差した伝統を語る事は忌避され、日本国憲法が国際法との調和を大前提にしていることも無視された。主権者・国民を指導する憲法学者の至高性を大前提にして憲法典を解釈しなければならないことが、数十年にわたる政治運動の中で、原則化された。
日本では、数十年の歳月をかけて、この政治運動の妥当性を信じるのでなければ、公務員試験も、司法試験も、通らない社会が作られた。もっとも、だからといって、それで現実の政策が進められることが保証されるわけではない。
集団的自衛権違憲論は団塊の世代のイデオロギーである
歴史的に見れば、集団的自衛権違憲論は団塊の世代が成人した頃に形成された。1960年代末よりも以前の日本に、集団的自衛権それ自体が違憲になるという観念はなかった。2015年の安保法制をめぐる喧噪の中で、たとえば阪田雅裕・元内閣法制局長官らが、1954年の下田武三(当時外務省条約局長)の発言を根拠にして、1950年代にも集団的自衛権違憲論が政府見解だったという主張を行った。しかしこれは詭弁である。
確かに下田は、1954年に、条約局内の議論として、日本国憲法下で集団的自衛権を行使できるかに疑いがあるという見方を紹介したことがある。しかし、そのとき下田は、はっきりと、その見解は「政府統一見解ではない」と述べていた。実際に、この下田の答弁には、質疑応答の相手方であった社会党議員である穂積七郎のほうが驚き、「集団的自衛権という観念は、もうすでに今までに日本の憲法下においても取入れられておるわけです。そうなると、・・・すでに憲法のわくを越えるものだというように考えますが」、と質問したくらいであった。下田の推論は、ドイツ国法学の影響下にあった東大法学部憲法学の伝統そのままの「国内的類推」を振りかざす観念論的なものであった。1960年代末までの時代に、政府が正式に集団的自衛権を違憲だと見なした経緯はない。
そもそも1951年に日米安全保障条約が締結されたとき、吉田茂の下で、日本側で交渉を担当した西村熊雄・条約局長は、条約締結の根拠になり得るのは国連憲章51条、つまり集団的自衛権しかない、と確信していた。そのため条約の前文に、「両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し」と、51条の集団的自衛権を参照する文章が明記されたのである。
ではなぜ、1972年に内閣法制局は集団的自衛権を違憲だとする文書を作成したのか。それは1960年代末からの政治情勢の結果だった。左右の対立が激化した1960年安保闘争後の日本では、池田勇人・佐藤栄作政権下の高度経済成長(軽武装アメリカ依存安全保障政策)が、国民融和のための既定路線として確立した。その後の1972年に首相に就任した田中角栄は、「国対政治」の権化のような存在で、当時は、談合政治が常態化していった時代であった。
そのような時代の風潮の結晶が、不可能と言われながら密約に密約を重ねて達成された「沖縄返還」である。返還前の沖縄では、連日、ベトナムに向けて米軍の爆撃機が飛び立っていた。沖縄の戦略的重要性を考えれば、返還は不可能だ、というのが、当時の多くの人々の共通見解だった。しかももし返還されてしまえば、安保条約の事前協議制にもとづいて、日本はベトナム戦争に沖縄基地を米軍が活用することに同意を示さなければならない。自国領土内の軍事基地を貸した上で使用方法にも同意すれば、国際法上の集団的自衛権の行使に該当する。つまり日本がベトナム戦争の当事者になる困った事態が生まれる。それを考えれば、むしろ返還してもらわない方がいい、という意見も根強かったのである。
佐藤栄作は、秘密裏に、事前協議制度の骨抜きを前提にした「基地の自由使用」の「密約」をアメリカのニクソン政権との間で交わし、沖縄返還を達成した。自民党が不人気になると日本の共産化という最悪の事態が起こるかもしれないという、冷戦体制特有のアメリカの見解を引き続き逆手にとり、日本政府のアメリカのベトナム戦争への支持を表明して歓心を得ながら、集団的自衛権は憲法が禁止しているので日本はそれを行使できない(現実には行使している状態が発生しているとしても)、などという言い訳を、堂々と展開することにしたのである。憲法9条を、現実を都合よく取り繕うための言い訳に利用することにして、日本の冷戦体制/高度経済成長時代の外交政策は固まった。
このような特定の時代環境の不自然な条件を前提にした外交政策は、環境が変われば、変質を迫られることは間違いない。冷戦終焉後、集団的自衛権違憲論が、くりかえし危機にさらされたのは、当然のことだった。不変の真理としての集団的自衛権違憲論が、気まぐれな見直しを求められたのではない。その場限りの言い逃れで作り出された集団的自衛権違憲論が、時代の流れとともに、耐久性の欠如を露呈したにすぎないのだ。
安保闘争後の高度経済成長後の日本で育ち、1960年代末以降の日本の政策を恒久的なものとして錯覚しがちな団塊の世代は、日本社会の人口構成において、際立った突出を見せる世代だ。団塊世代の行動のパターンは、団塊世代向けのメディアや政党の存続を説明するのには、大きな意味を持つ要素である。
しかし団塊の世代の世界観が、永遠不変の真理だということではない。一年、二年では変わらない事も、10年、20年では、次第に変わっていかざるをえないのである。
憲法9条の持つ意味
拙著『ほんとうの憲法』では、国際法と調和するものとして存在している憲法のあり方を、憲法学者の介入的な解釈が施される前の「素直な」解釈によって見えてくる憲法の本来の姿として、描き出した。
国際法が憲法に優越するとか、英語は憲法の正文ではない、とか、そういったことは、全く関係がない。本来の日本国憲法は、国際法に調和するものとして存在している。第二次世界大戦の惨禍は、日本が国際法秩序を守らなかったことによって発生した、というのが憲法起草に関わった人々の共通理解であった。彼らにとって、日本を平和主義国家にするということは、日本を国際法を守る国にするということであった。9条の意図は、国際法を守らせることにある。国連憲章を批准していなかった被占領国であったため、本来は憲章を守っていれば不要であった9条を、あえて国内憲法に挿入したのだ。
そうした憲法の姿は、現在70年余の憲法学者たちの解釈論の積み重ねによって見えなくなってしまっている。そこで、解釈を確定させるために3項を挿入するということであれば、望ましいところがあると私は考えている。
本当は、9条が全面削除されても、国際法を遵守していれば、憲法が目的とすることを達成することができる。余計な衒学的議論を巻き起こさなくて済むのであれば、全面削除で良い。ただし、9条には憲法が達成しようとした目的を宣明した機能がある。国際協調主義を進めながら平和国家になるという目的を明らかにした「前文」の一部のようなものとして、国際法遵守の精神を謳ったのが9条である。
それを重視して、条項を残した上で、解釈を確定させる3項を挿入するのであれば、それはそれで納得できる。憲法解釈の方向性を確定させてようやく、本格的な政策論争を促進することができる。ちなみに私は拙著『ほんとうの憲法』の中で、「前二項の規定は、本条の目的にそった軍隊を含む組織の活動を禁止しない」、という文言を提案した。これは9条の機能が、日本が国際法を遵守する平和国家となることにある点を、明示したものだ。ちなみに現行の政府解釈においても、自衛隊は憲法上の「戦力」ではないが、国際法上の「軍隊」である。
いずれにせよ、希望だ、立憲だ、といった大げさな旗を掲げて、「私/俺だけが立憲主義だ」、といったことで争おうとする政治家が多すぎる。そんなものは政策論ではない。「自分たちだけが立憲主義者だ、アベ首相は立憲主義者ではない」、といったレベルのことをずっと熱弁していて、それで政治家としての自分の人生が浪費されているような徒労感は誰も感じないのだろうか。
そのような態度を団塊の世代にアピールしながら、政治家自身は、高揚感を感じているのかもしれない。しかし、実は、多くの有権者のほうは、むしろ徒労感だけを感じているといった事態が、発生していないだろうか。
団塊の世代のノスタルジアではなく、若者の未来を議論するための政策論争を期待したい。
プロフィール
篠田英朗
ロンドン大学(London School of Economics and Political Science)大学院修了(国際関係学Ph.D.)。広島大学平和科学研究センター准教授などをへて、現在、東京外国語大学総合国際学研究院教授。ケンブリッジ大学、コロンビア大学客員研究員を歴任。主要著書に、『ほんとうの憲法』(ちくま新書、2017年)、『集団的自衛権の思想史』(風行社、2016年=第18回読売・吉野作造賞)、『国際紛争を読み解く五つの視座──現代世界の「戦争の構造」』(講談社、2015年)、『平和構築入門──その思想と方法を問う』(ちくま新書、2013年)、『「国家主権」という思想──国際立憲主義への軌跡』(勁草書房、2012年=サントリー学芸賞)、『国際社会の秩序』(東京大学出版会、2007年)、『平和構築と法の支配──国際平和活動の理論的・機能的分析』(創文社、2003年=大佛次郎論壇賞[韓国語訳版2008年])、Re-examining Sovereignty: From Classical Theory to the Global Age(Macmillan, 2000[中国語訳版、商務印書館、2004年])など。