2018.04.09

「お任せ」の政治から脱却するために――革新自治体という経験から学べること

『革新自治体』著者、岡田一郎氏インタビュー

政治 #「新しいリベラル」を構想するために

55年体制下の「革新」と「保守」

――本日は革新自治体についてお伺いしたいのですが、「革新」といっても意味がわからない読者も多いかと思います。そこで最初に、そもそも革新とは何だったのか、ご説明いただけますでしょうか。

かつて55年体制の時代がありました。自由民主党(自民党)が成立し、日本社会党(社会党)が再統一した1955年から、自民党が初めて下野した1993年までですね。そこでは、現在の資本主義体制に変革を加え、社会主義的な体制を目指す政党が「革新」政党と呼ばれました。対して、現在の体制を維持することを目的とした自民党は、保守政党と呼ばれました。

――社会党と共産党とが革新と呼ばれた、という理解でよいでしょうか?

いえ、社会党や日本共産党(共産党)だけでなく、公明党や民社党も革新政党に分類される場合もあります。それは、公明党が人間性社会主義、民社党が民主社会主義、今日で言うところの社会民主主義ですね、これを理念として掲げていたためです。しかし、1970年代後半ごろから公明党や民社党が自民党に接近すると、両党を中道政党(保守政党と革新政党の中間という意味)に分類し、社会党や共産党と区別する考え方も出てきます。

ちなみに、革新という言葉は戦前においては、国家社会主義的な体制を目指す人々や運動を指す言葉でした。たとえば、国家社会主義的な体制を目指す官僚を革新官僚と呼んでいました。また、終戦直後は、革新政党という言葉は使われませんでした。社会党が参加した片山哲・芦田均両内閣は中道連立内閣などと呼ばれています。

――「革新」と対立していた「保守」である自民党は、どのような特徴をもつものだったのでしょうか?

もともと自民党は日本国憲法を改正し、自衛軍備の保持や明治憲法的な体制への復古を目指した政党でした。そのため、自民党は結党時から改憲を綱領に掲げています。

しかし、1960年に日米安全保障条約の改定に対する大規模な反対運動(安保闘争)が起こり、岸信介内閣が総辞職に追い込まれると、自民党は改憲を事実上棚上げします。綱領から改憲を外すことはなかったものの、改憲を具体的に目指すことはなくなり、憲法の枠内での自衛隊の増強に専念し、憲法秩序を一応尊重するようになります。

そうなると、保守の意味合いは明治憲法的な体制を目指す復古的な色彩が薄れ、現在の資本主義的な体制を維持するといった意味合いのものに変化していきます。現に自民党には改憲派だけでなく護憲派も存在していました。

一方、社会党は自民党に対抗して護憲を主張します。とくに、社会党が左右両派に分裂していた時代(1951~55年)に、非武装中立を主張した左派が大きく伸びた影響から、憲法9条の護持にとりわけ強い思い入れを持つようになっていきます。

革新自治体とは何だったのか?

――革新自治体には定義のようなものはあるのでしょうか?

革新自治体という言葉には、「首長が革新政党に支持された自治体」という意味しかありません。この言葉の定義は非常に曖昧で、私が中公新書の1冊として刊行した『革新自治体』では、「自民党の支援を受けず、社会党・共産党の両方又はいずれか一方の支援を受けた首長を擁する自治体」と定義しましたが、この定義も決定的なものではありません。

定義は論者によって異なり、首長が自民党の支援を受けていても革新政党の支持も受けていれば革新自治体とする方もいますし、逆に共産党の支持を受けていない首長を革新首長から外す方もいます。

――では、具体的な政策から見ればいかがでしょうか? 革新自治体とはどのような政治を目指したのでしょうか?

「革新自治体がどのような政治を目指したのか」という質問は答えにくい質問です。革新自治体といっても千差万別であり、統一した理念や政策があったわけではありません。私が思うに、社会党も共産党も関心は国政にあり、地方政治に対する関心は薄く、革新自治体の政策は個々の革新首長に任されていたように思われます。

また、革新首長の政策も時代によって異なります。高度経済成長のひずみが深刻化するまでは、革新首長も保守首長も経済発展という目標に変わりはなかったと思われます。ただし、支持基盤の問題から革新首長は農協や労組にも目を配った政策を指向せざるを得なかったという事情はあるでしょう。

――革新自治体というと、環境や福祉に力を入れたというイメージがあります。

はい。おっしゃるように、1960年代後半から公害問題などが深刻化すると、革新首長は公害対策や福祉の充実などに力を入れるようになります。これはそれまで自民党が軽視してきた分野に力を入れることによって、保守首長との違いを出すという狙いがあったと思われます。

しかし、保守首長も環境や福祉に力を入れるようになると、革新自治体独自の政策として誇れるものはなくなっていきます。ちょうど高度経済成長が終わり、税収が伸び悩んでいた時期であり、新たな政策を打ち出そうにも実現するだけの財源がなかったという事情があったということだと思います。そうしたなかで特筆されるべき革新自治体の政策としては、情報公開制度の拡大があげられます。

高度経済成長と公明党の躍進

――60年代から70年代にかけて、全国に革新自治体が生まれた理由は何だったのでしょうか?

そのことを考えるためには、まず、高度経済成長が日本社会にどのような影響を与えたのかを考える必要があるでしょう。

高度経済成長以前、農民・商工業者・労働者といった人々は同業者同士で固まって生活し、それぞれ独自の共同体を形成していました。自民党も社会党もこの共同体を支持基盤にしていた政党です。

同じ炭坑や工場に勤務する労働者たちが集住する労働者共同体は、社会党の支持基盤。農民・商工業者の共同体は自民党の支持基盤でした。ただ、社会党の政治家のなかには、農民や商工業者の票を自民党の政治家と取り合う者もいました。

――人口が流動化する前だったので、職業や生活に根差した支持基盤と政党との結びつきが強固だったわけですね。

そうです。ところが、高度経済成長の進展によって、農村から多くの人々が都市に移住し、従来の農民共同体は急速に縮小します。一方で、都市には従来の共同体に属さない新しい住民が大挙してやって来ます。

さらに労働者たちも郊外の団地に引っ越したり、一戸建ての家を買ったりして、同じ職場の人間が集住して暮らすという形態が失われていきます。こうした社会の変化に自民党も社会党の対応できませんでした。代わって、従来の共同体に属さない新しい住民の支持を集めたのが公明党と共産党でした。

1960年代の都市部の地方議会では自民党や社会党の議席が減り、公明党や共産党の議席が増え、多党化の傾向が出現します。多党化の傾向は地方の首長選挙にも大きな影響を及ぼします。

――そうなると公明党が、保守と革新、どちらにつくかが問題となりますね。

そう。共産党が自民党を支持することはまずありませんから、動向が注目されたのは公明党の意向でした。公明党が自民党を支持するか、革新政党を支持するかで首長選挙の行方が決まることになります。

公明党は当初、自民党の候補を支持することが多かったのですが、1970年代に入ると革新政党を支持することが多くなります。その背景にあったのが言論出版妨害事件です。

――言論出版妨害事件とは?

1969年に藤原弘達明治大学教授が、公明党の支持基盤である創価学会を批判する本を出版しようとしました。これに対して、公明党や創価学会が藤原氏に圧力をかけたり、自民党の田中角栄幹事長に働きかけたりして、藤原氏の著書出版を妨害しようとした事件です。

公明党の台頭を警戒していた他の野党は、一斉に公明党・創価学会批判に乗り出します。そうしたなかで、公明党は他の野党と歩調を合わせることによって、批判を乗り越えようとします。

こうして当時、都市部の首長選挙でキャスティングヴォートを握っていた公明党が革新政党側についたことで、革新首長が誕生しやすくなっていたのです。さらに都市部に移り住んだ新住民は病院や学校といった社会資本の不足や公害の被害に苦しんでいる者が多く、とくに支持政党がない者でも、産業の発展を優先させる自民党に代わる政治を求める傾向が強かったという事情も、革新自治体誕生に貢献したと思います。

美濃部都政と財政問題

――革新自治体といえば美濃部都政がシンボルとなっていますが、美濃部都政にはどのような特徴があったのでしょうか?

首都の知事ということもあり、美濃部知事はいやがうえでもつねに注目を集めました。美濃部知事は国に先駆けて厳しい基準の公害規制条例を制定したり、国より充実した福祉政策を実施したりしましたが、やがてこれが国の環境政策や福祉政策に取り入れられていくことになります。

ただ、美濃部氏本人には指導力はあまりなく、実際は小森武氏という人物が采配を振っていたと言われています。しかし、小森氏が存分に腕をふるうことができたのは、美濃部氏が都民から圧倒的に支持されていたからでした。とくに女性の人気は高く、都民との対話集会の会場にはまるでスターの出待ちをするかのように、美濃部氏の登場を待つ女性たちが殺到したと言われています。たしかに今残されている美濃部氏の写真を見ると、知的でダンディーな容姿をしていますね。

――環境と福祉。革新自治体のイメージにぴったりと当てはまります。その反面として、放漫財政というイメージもつきまとっています。

美濃部都政前期は高度経済成長期と重なっていました。法人税などの税収が毎年飛躍的に伸びていましたので、財源を気にせずに自由に新規政策をおこなえました。しかし、1973年のオイルショック後の不況で税収が伸び悩むと、美濃部都政は行き詰まりを見せます。

美濃部知事は支出を減らさず、自治省と対決して都独自の税源を増やすことで対処しようとしますが、これが自治省の怒りをかい、革新自治体バッシングへとつながるわけです。ここからおっしゃるような「放漫財政」というイメージがつくられました。

――実際のところはどうだったのでしょうか?

美濃部氏以外の革新首長は高度経済成長期も、東京都ほど税収に恵まれたわけではなかったので財政問題に敏感で、オイルショック後は支出を引き締め、財政再建に転じました。それにたいして、美濃部氏はそれまで財政問題に頭を悩ませたことがなかったゆえに、オイルショック後の対処を誤ったと言えます。

革新自治体ひいきの方々の多くは、自治省の革新自治体バッシングを批判するのですが、必ずしも革新自治体に敵対的でなかった自治省を(革新政党に担がれて首長選挙に立候補した自治省官僚も存在しました)不用意に敵にまわした美濃部氏の戦略ミスも批判されるべきでしょう。

改革する政治というポーズ

――ご著書で引用されている「自治体を「革新する」とは、住民自治の立場から、自治体の経営や政策について、旧来の慣習、慣例などを抜本的に改めるという意味だ。美濃部都政は…次第に、ただの「革新」都政になっていった」という文章がとても印象に残りました。

引用した言葉は『東京新聞』で長く都政を担当した、塚田博康氏の言葉です。この言葉の意味は、美濃部都政は当初は従来の都政を根底からひっくり返して改革する意思を持ち、実際に実行に移していたが、最終的には単なる革新政党の操り人形になってしまったという意味です。

――しばしば目にする光景ですね。

2016年の東京都知事選挙で、小池百合子氏が選出されたころを思い出していただきたいのですが、あの当時、都民は都政に漠然とした不満を持っていたものの、特定の政策をやってほしいから小池氏を都知事に選出したのではなかったですよね。

「小池氏なら何かやってくれそうだ」という期待から、小池氏に一票を投じた方が多かったと思います。同じように、人々が革新自治体に期待したのは、首長が「何かやってくれそうだ」という漠然としたものだったのではないでしょうか。

美濃部亮吉知事を初めとして有名な革新首長は時として、国の方針に逆らう政策をおこない、あえて国と対立する構図をつくることがありました。これはそうすることによって、国と渡り合うだけの実行力を首長が持っていることを有権者に見せ、支持を集めるという考えが背景にあったと思われます。

小池知事が東京五輪予算や会場の見直しをおこなおうとしたり、築地市場から豊洲市場への移転に待ったをかけたりしたのも同じような狙いがあったのではないでしょうか。

――改革するというポーズによって支持を集める、というスタイルの先駆けだったともいえそうですね。

そうですね。ですから、美濃部知事が財政戦争で当時の自治省(現在の総務省)に完敗し、財政再建を求める自治省と賃上げを求める労組の板挟みになり、指導力が発揮できなくなると、美濃部知事の求心力は急速に低下していきます。

これも小池知事が国政への転身をにおわせながら結局踏み出せず、創設した希望の党も惨敗に終わったことで指導力に疑問符がつき、急速に求心力を低下させたことと似ていますね。

松下圭一と市民の政治参加

――引用には「住民自治」という言葉がありますが、この言葉からは革新自治体の理論的指導者といわれる松下圭一を連想します。

松下圭一氏は日本における大衆社会論の旗手であり、日本の政治学史に名を残す知の巨人です。その思想の全貌を私が把握しているとは到底言えません。革新自治体との関連について、私なりの解釈を述べたいと思います。

松下氏には、戦後の民主化や高度経済成長によって日本社会に大きな変化があったという理解があったと思われます。

松下氏によれば、かつての日本の民衆は権力者に理不尽な行いをされても黙って耐えるだけで反抗せず、権力者に取り入ることばかり考えている受動的な存在でした。ところが戦後の民主化と生活・教育水準の向上によって、自分で社会情勢を判断し、自分の意見を堂々と述べる人間に、日本人は生まれ変わったと考えました。松下氏はこれを日本社会が先進国化した証と考えました。

――いわゆる「市民」になるほど、日本人も成熟してきたということですね。

ところが、当時の革新政党の理論は後進国(20世紀初頭のロシア)を前提とする理論(講座派マルクス主義)と、中進国(20世紀初頭のドイツ)を前提とする理論(労農派マルクス主義)しかなく、先進国社会に対応した理論はないと松下氏は考えました。そこで、松下氏自身が社会党のイデオローグとなって、先進国革命理論を構築しようとします。ですが、松下氏は社会党内の権力闘争に敗れてしまいます。

そこで、革新首長に接近し、革新自治体において市民の政治参加を促し、市民自ら自治体行政に参加し、市民自ら行政の在り方を決めていく仕組みをつくり出そうとしました。しかし、松下氏が旗を振った市民参加は、一部の自治体で市民が首長に要望を伝えたり(横浜市など)、一部の有識者が市民代表として都市計画の立案に参加したりする(武蔵野市など)というかたちでしか実現しませんでした。

――お話を聞いていると、住民の間で政策への意識が高まったというよりも、改革を叫ぶ首長に喝采を送ったという感じですものね。

大多数の市民の意識は首長にすべてお任せして、選挙の後は政治の内容には無関心という段階から進歩しませんでした。松下氏は1970年代後半にそのような日本人の意識を、水戸黄門が訪れるまで悪代官の暴政に耐えるだけで自らは解決しようとしない江戸時代の庶民に例え、晩年になっても日本の政治は「《中進国》状況にとどまる」と評しました。

自身が想定した先進国段階(市民自ら政治に参加し、政治のあり方を自ら決定する)に日本社会は到達しなかったという絶望が、松下氏にはあったと思われます。

社会党はなぜ社会民主主義政党になれなかったのか?

――素朴な質問なのですが、自治体での革新の勢いは、なぜ国政まで及ばなかったのでしょうか? 革新政党が政権を奪えなかったのはなぜなのでしょうか?

首長ポストは1つしかありませんから、首長選挙では革新政党や中道政党が1人の候補者に相乗りするのは容易でした。しかし、国会議員選挙では多くの選挙区で候補者の住み分けや選挙協力をしなければなりません。しかし、これは困難でした。

社会党右派には共産党へのアレルギーがあり、左派には民社党へのアレルギーがありました。さらに社会党は極端に党員が少なく、得票の多くは労組票と浮動票でしたから、党が他党候補者への投票を呼び掛けても十分な効果をあげることができませんでした。

これでは他党候補とのバーターはなかなか成立しません。その結果、各選挙区で革新政党や中道政党の候補が乱立して票を奪い合い、自民党の候補が漁夫の利を占めるという事態が続出したのです。

――あわせてお聞きしたいのですが、革新自治体の躍進から、福祉に対しては一定以上の支持があることが明らかだったと思うのですが、社会党が社会民主主義政党に脱皮できなかったのはなぜなのでしょうか?

社会党において社会民主主義というのは、長くイメージの悪い言葉でした。それはなぜかということを知るには、社会党の歴史を知る必要があります。

1945年に社会党が結党されたとき、社会党には右派・中間派・左派の三派が存在しました。右派は戦前に中国との戦争に賛成したものの、大政翼賛会の参加には反対し、戦時中は弾圧されました。中間派は、中国との戦争も大政翼賛会の参加も積極的に支持しました。左派は戦争に一貫して反対した政治家や、戦後、社会党に参加した政治家から構成されていましたが、結党当初は少数派でした。

中間派は戦争責任を問われ、GHQによって幹部の多くが公職から追放されたため、結党当初の社会党では右派が主導権を握りますが、汚職の疑いをかけられ、1949年の総選挙で大敗します。

1951年にサンフランシスコ講和条約の賛否をめぐって社会党は分裂し、社会党は左右両派に分かれます。公職追放を解かれた中間派の幹部は右派に参加しますが、もともと少数派だった左派が労組の支援を受けて大きく議席を伸ばし、1955年に再統一した際には左派が主導権を握ります。

――戦前、軍部に妥協した右派・中間派と、戦争に一貫して反対していた左派という対抗関係だったわけですね。

そうです。1960年、右派の一部が社会党を離党して民社党を結成します。社会民主主義は右派と中間派が主張し、民社党も社会民主主義と同義の民主社会主義を唱えましたので、社会民主主義には「戦前に軍部と協力して戦争や大政翼賛会に賛成した」「戦後は社会党を裏切って民社党を結成した」というイメージが社会党内に残ることになりました。

――なるほど、たんに資本主義体制と妥協した修正主義というだけでなく、社会民主主義にはそのようなダークなイメージがつきまとっていたんですか。

そうしたなかで、社会党が社会民主主義的な政党を目指すというのは困難でした。社会党内ではもっとも中道政党との連携に熱心で、一時は松下氏の後ろ盾となって新しい理念の構築に邁進した江田三郎氏ですら、死ぬまで「社会主義者」と自称したくらいです。

「社会主義者」江田三郎

――江田三郎とはどのような政治家だったのでしょうか?

江田氏は戦前において、すでに農民運動の指導者として有名な存在でした。戦後は社会党内で左派に属しますが、農地改革によって農民が土地を手に入れると、農民が次第に保守化して農民運動が衰退していくのを目の当たりにし、早い段階で社会党の現状に危機感を持ちました。

1950年代、江田氏は党組織改革の責任者となり、いい加減だった組織運営をある程度近代的なものにすることに成功します。さらに江田氏は従来の左派の理論(労農派マルクス主義)が時代遅れになっていると考え、イタリア共産党の構造改革論(資本主義の社会的構造を漸進的に改革していけば平和的に社会主義に到達するという考え方)を党の路線に取り入れようとします。

しかし、構造改革論は左派の反発を招き、さらにライバルであった佐々木更三氏との権力闘争にも敗北します。そこで、江田氏は1970年代に入ると中道政党との連携を提唱し、新党結成も視野に入れます。しかし、労組から十分な支持を得られず、さらに社会党を割ることを江田氏自身が決断できなかったこともあり、結局は1977年に1人で離党し、その直後に死去することになります。

――「江田ヴィジョン」では、「アメリカの平均した生活水準の高さ」「ソ連の徹底した生活保障」「イギリスの議会制民主主義」「日本国憲法の平和主義」を打ち出しましたよね。これが共有されれば、社会党は健全な社会民主主義政党になれたのにと思います。

先ほど述べたように、江田氏は死ぬまで社会主義者を自称しますが、社会主義の定義を「目の前に存在する矛盾や不合理を解決すること」とあえてあいまいにすることによって、時代状況に合った社会主義のあり方を模索し続けました。

しかし、そのような江田氏の姿勢は党内からは、戦前に軍部に妥協した右派・中間派と同じと見られたのではないでしょうか。江田氏自身は松下氏と同じように、高度経済成長によって日本社会が根本から歴史的な大変革を遂げているという認識を持っていたと思います。しかし、社会党内で江田氏の認識が共有されなかったことが、江田氏が最後まで社会党内で孤立した原因だと思います。

「革新自治体の時代」の終焉

――「革新自治体の時代」はなぜ終焉したのでしょうか?

首長選挙で革新政党が勝利するためには、中道政党(とくに公明党)との協力が不可欠でした。ところが、中道政党とどのように連携していくのか、明確な指針を革新政党が最後まで打ち出すことができなかったのが最大の原因でしょう。

もともと都市部の新住民を支持基盤とする公明党と共産党は、支持基盤が重なるゆえに関係が良くないので、革新政党と公明党が協力関係を長期的に構築するというのはかなり困難だったのです。

それでも、1974年に作家の松本清張氏の仲介で創共協定が結ばれ、公明党と共産党の橋渡しの努力が一部の支持者によっておこなわれます。しかし、公明党はこの協定を受け入れず、両党の歴史的和解は実現しませんでした。社会・公明・民社の三党で連携の枠組みを作り、その後、共産党の協力を取り付けるという方法もあったと思いますが、社会党左派には民社党アレルギーが強く、これも困難でした。

――住民運動によるバックアップはなかったのでしょうか?

住民運動との関係で言うならば、結局、住民は何かに反対したり、何かを要求したりするときには盛り上がるけれども、自分たちで政策を立案して、自分たちでそれを実現するための道筋をつくるのが苦手なままでした。革新首長にまかせっきりというかたちになってしまい、革新首長を支える力になり得なかったということです。こうした住民運動の特徴は現在の脱原発運動などにも受け継がれていると思います。

――革新自治体の経験は、日本社会にどのような影響を残したのでしょうか? 

革新自治体で導入された環境政策・福祉政策・情報公開制度などは、その後の地方自治体や国の政策にも引き継がれました。また、松下氏が提唱したシビルミニマムという考え方も、後の地方自治体や国の政策に引き継がれたと思います。シビルミニマムというのは、住民が生活するうえで最低限度必要な社会資本の程度を数字で表し、現在の充足率はどれだけで、あとどれだけの整備が必要か目で見える形で表すことです。

一方で、革新自治体とはどのような存在で、そこからどのような教訓を導けるのかといった議論はなおざりにされてきたように思われます。それは革新派が「革新自治体はうまくやっていたが、自治省が革新自治体バッシングをおこなったためにつぶれてしまった」、保守派が「革新自治体は公務員の厚遇や社会福祉に金を使いすぎ、財政破綻を起こして自滅した」という神話を信じ込み、まったく検証しないまま今日まで来たからです。

革新自治体や社会党の研究をしている私の個人的な見解ですが、革新自治体や社会党を評価している人たちの方が、革新自治体や社会党の歴史を再検討することに無関心でいるように思えてなりません。

――革新自治体という経験に、いま学ぶべきことはなんでしょうか?

中進国から先進国へとキャッチアップすることに躍起となっていた高度経済成長期の日本において、軽視されがちであった環境政策や社会福祉政策に力を入れ、国もそれを追随せざるを得ないような状況をつくり上げたことは、革新自治体の成果として誇ってよいと思います。

そして、それは各地で市民運動を起こし、革新首長誕生の機運を作り上げた当時の人々の成果でもあります。しかし、指導力のありそうな人物を自分たちのリーダーに選び、そのリーダーの指導力に喝采を送るだけで、自分たちは問題の解決のために何もしようとしないという日本人の体質は、革新自治体の時代からいささかも進歩していないのではないでしょうか。

美濃部氏のような革新首長が退陣した後、石原慎太郎東京都知事・小泉純一郎首相・橋下徹大阪市長、そして小池百合子東京都知事といった個性的なリーダーが、地方政治や国政の場に次々と登場しました。しかし、こうしたリーダーが登場したとき、人々はその指導力に期待し、リーダーは自らの指導力を誇示するために敵を作り上げて対立してみせ、人々はそれが何を意味するのか理解しないまま、リーダーに喝采を送り続けるというパターンを繰り返してきました。

しかし、そろそろ私たちは「指導力のあるリーダーにすべてを委ねれば、何事もうまくいく」という考え方を捨て、自分たちがどのような政治を望んでいるのか、そうした政治を実現するために自分が何を為すべきかを、自分の頭で考えるようにするべきではないでしょうか。

プロフィール

岡田一郎日本政治史

1973年、千葉県生まれ。96年筑波大学第一学群社会学類卒業。2001年筑波大学大学院博士課程社会科学研究科修了。博士(法学)。現在、小山工業高等専門学校および日本大学非常勤講師。専門は日本政治史。

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