2018.05.24

沖縄に基地があるのは地理的宿命か?

川名晋史 基地政治(Base Politics)、安全保障論

政治 #沖縄基地

日米両政府が米軍沖縄普天間基地の返還に合意してから22年が過ぎた。沖縄での基地反対の動きは衰えることを知らず、日本政府が進める辺野古沖の埋立ては実現の見通しが立っていない。昨年来、米軍関連の事故も後を絶たず、沖縄社会はいまなお基地をめぐる政治に翻弄されている。

さて、本稿はこの問題を考える際のある重要な言説を取り上げる。それは「沖縄は地理的に重要な場所だから、基地が集中するのは仕方がない」、あるいは、より一般的に「米軍基地の存在はその地理的位置に由来する」といった類の言説である。それらは、いわば沖縄の「地理的宿命論」とでもよべるものであり、基地を肯定する人々、あるいはそれを遠慮がちに容認する人々のあいだで、ときに「諦め」に似た嘆息とともに語られてきたものである。

では、われわれはかような地理的宿命論の妥当性をどう評価したらよいだろうか。その手始めとして、まずは「日本に基地がある」ことと、「日本の特定の場所に、特定の軍種の基地がある」ことが、必ずしも同じ問題ではないことを確認しておこう。

日本に基地があること/沖縄に基地があること

なぜ、日本に米国の軍事基地が存在するのか。この素朴な問いに対しては、多くの人が納得できる、言わずと知れた「答え」のようなものがある。

すなわち、日本は米国と同盟関係にあり、米国への基地の提供は、日米同盟を根拠づける日米安全保障条約(第6条)に規定された義務である。日本側にとって、米軍基地とそこに展開する部隊は、自衛隊の通常打撃力を補完するとともに、米国による防衛コミットメントの信頼性を担保する。他国からの攻撃があった暁には、基地に展開する米軍部隊の損害と引き換えに、米軍を半ば自動的に戦闘に巻き込むことができる。もう少し広い視点でみても、日本の基地は極東地域において作戦行動に従事する米軍の発進基地、並びに米本土や西太平洋地域に展開する米軍増派部隊の受け入れ基地として、地域秩序そのものを安定化させる役目を負っている。

このように、米軍基地を日米の戦略的利益に資する存在として認めるための議論を成り立たせることはさほど難しくない。しかし、このような議論からは日本の特定の場所の、特定の基地の存在理由がただちに導かれることはない。今日の沖縄の基地問題をめぐる論点はそこにある。

今、問われているのは「なぜ日本に基地が存在するのか」ではなく、「なぜ沖縄に(かくも多くの)基地が存在するのか」である。ここを混同すると、基地をめぐる議論は途端に噛み合わなくなる。

沖縄の地理的優位性とはなにか

 

もっとも、基地に賛成する人々は、沖縄の基地の存在理由を、その地理的優位性にもとづいて次のように主張するだろう。

沖縄の米軍基地は、米軍が西太平洋地域に前方展開するうえで代替不可能な役割を担っている。沖縄は朝鮮半島から約1,000km、九州から800km、台湾海峡から900kmの位置にあり、嘉手納空軍基地には戦闘機や空中給油機、そして早期警戒管制機が展開している。戦闘機の行動半径が一般に1,200km以上であるとすれば、嘉手納基地は北東アジアから南シナ海北部に至る地域のすべてをカヴァーする。このことが地域の抑止力の要を構成する。したがって、沖縄への基地の集中は地理による「選択」の結果である。

かような議論は一見すると十分に理にかなっているようにみえる。しかし、歴史を紐解けば、実際に行われたいくつかの在日米軍基地の配置の決定(つまり、基地を国内のどこに置くか)は、地理から演繹された米国の戦略というよりも、米国(および日本)の政治判断の影響を強く受けていたとみられるケースが少なくない。

地理は「いつも」基地を拘束するか

第二次世界大戦後、現在にいたるまで、東アジアにおける米国の戦略目標は、一貫してロシア(ソ連)、中国、北朝鮮という潜在的な脅威への対処にあるといってよい。米国にとっての脅威の対象が長きにわたり固定されている一方で、その戦略目標を達成するための手段としての在日米軍基地の態勢/配置は、これまで頻繁に組み換えられてきた。しかもその過程では、今日の米国が戦略的に重視する基地が閉鎖/移転の候補となることも少なくなかった。

一例をあげよう。1960年代後半から70年代前半にかけて、米国は現在の在日米軍基地ネットワークの原型をつくりだす大掛かりな基地の再編に着手した。その過程では、朝鮮半島に地理的に近く、したがって当時、朝鮮有事においてもっとも重要な役割を果たすと考えられていた板付空軍基地(福岡空港)の返還が決まった。

折しもそれはプエブロ号事件(米軍艦船が北朝鮮軍によって拿捕された事件)やEC-121撃墜事件(米軍の偵察機が北朝鮮軍によって撃墜された事件)によって、朝鮮半島情勢が緊迫していた最中の出来事であった(返還の決定直前まで、米国は北朝鮮核に対する攻撃のオプションを検討していたことが明らかになっている)。

同じような例はほかにもある。冷戦期、ソ連にほど近い北海道は、ソ連の陸上侵攻を抑止するための重要拠点と位置づけられていた(実際、日米はソ連軍による北海道上陸侵攻作戦を想定していた)。しかし、米軍は冷戦只中の70年代初頭に、一部の通信施設を除いて北海道から撤退した。地理的優位性が特定の基地の存在を根拠づけるとすれば、なぜ米国は福岡や北海道の基地を手放し(せ)たのだろうか。

沖縄への移転

一方の沖縄はどうか。沖縄が地理的な理由にもとづいて日本の安全、あるいは米国の戦略にとっての「要石」だとすれば、冷戦期から今日まで、基地の配置や態勢には一貫性がみられて然るべきである。しかし、沖縄における米軍基地の態勢は、70年代まで実際にはきわめて流動的だった。

今日の在沖米軍の中心をなす海兵隊(沖縄における基地のおよそ70%は海兵隊が使用している)が、沖縄に駐留を始めたのは、朝鮮戦争が終結してしばらく経った1950年代中期以降のことである。しかもそれ以降、米国は再三再四、海兵隊の沖縄からの撤退/移転計画を検討してきたことが知られている。その移転候補地は、グアムやサイパン、マリアナ、フィリピン、韓国とじつに多様だった。

たとえば、ベトナム戦争がピークをむかえていた1968年から69年にかけて、米国は沖縄に駐留する海兵隊の米本国への完全なる撤収を計画し、それにあわせて普天間基地の閉鎖を検討した。軍部はこのとき沖縄の海兵隊を戦略的に重要なものとはみていなかった。普天間飛行場は空軍から海兵隊へと主を替えた1960年からしばらくの間、戦略的位置づけが曖昧だったし、69年1月の時点では、わずか4機のヘリが展開するのみだった。

いずれにせよ、このときの基地再編の結果として、日本本土の米軍基地は減少し、沖縄の基地が相対的に増大した。背景には、当時、深刻な撤退圧力にさらされていた首都圏の基地を縮小せざるを得ないという日米双方の政治的事情があった。

いったんは「不要」の烙印を押された普天間が一転して残留、ないし後の固定化へと舵が切られたのも、厚木基地(神奈川)の返還に伴う代替措置(厚木の航空部隊の受け皿)としての側面があった。横田(東京)所属の戦闘機、板付(福岡)所属の爆撃機も同じく沖縄に移転された。本土復帰(1972年)前の沖縄は、日本本土で維持できなくなった基地の「収容場所(repository)」だった。沖縄はまぎれもなく、本土の「身代わり」だったのである。

歴史を「処方」するということ

もっとも、このように歴史のひとつの断面を切り取ることで、現在の基地がもつ戦略的意義をやみくもに否定するような態度は慎むべきである。実際、今日の日本に所在する基地の相違の多くは、戦略環境や地理的条件の違いによって説明できてしまうことも疑いようのない事実だからである。

あるいは、仮に当初は明確な目標をもたず、またごく小さな基地として誕生したとしても、一定の条件の下ではそれは時間の経過とともに成長し、他の基地との相互作用を繰り返しながら当初の目的を上書きしつつ、あるものは環境に適した、戦略上重要な機能を備えていくようなケースも十分に想定できるだろう。

実際、施政権返還前後の時期を分水嶺として、沖縄の基地は動かしがたい政治的「解」となっていった。また、普天間のような軍事活動の中心地は「磁場」のような働きをみせ、しだいに別の海兵隊基地・施設を引き寄せていった。

69年11月に第3海兵師団司令部がキャンプ・コートニーへ移り、第4海兵連隊もキャンプ・ハンセンへ移駐した。71年4月には、第3海兵水陸両用軍司令部がキャンプ・コートニーに配備され、8月には第12海兵連隊がキャンプ・ヘーグに入った。キャンプ瑞慶覧は新たに海兵隊基地司令部の拠点となった。岩国からは、第一海兵航空団司令部が沖縄に移転され、牧港補給地区も陸軍から海兵隊へと移管された。かくして、沖縄には第3海兵師団司令部、第1海兵航空団司令部、そして第3海兵水陸両用軍司令部が集結し、現下の海兵空地任務部隊(MAGTF)の条件と訓練環境が整った。

それらの事実に鑑みれば、本稿の主張は抑制的にならざるを得ない。せいぜい、かような基地の集中は沖縄でなければ生じなかったとはいえない、といったところだろうか。しかし、そのことが含意するものは決して小さくない。詳細は省かざるを得ないが、戦後の在日米軍基地の配置は、地理や脅威をはじめとした外部環境によってのみ形成されてきたわけではない。国内で生じる米兵による犯罪や事故、地方選挙の結果といった社会的・政治的摂動が基地の再編を促し、そのたびに、外部環境との相互作用をつうじた調整がなされてきた。

本稿が取り上げた60年代後半の基地再編も同様である。このとき生じた沖縄への基地の集中には、地理に紐付けられた戦略的要因よりも、本土の反基地運動や目前に迫る安保自動延長問題、沖縄の施政権返還問題等々の政治的要因が強い影響を与えていた。

タイミングの妙もあった。たとえば、もしエンプラ入港(68年1月)や九大への戦闘機墜落事故(68年6月)が、沖縄の施政権返還(72年5月)よりも時期的に後に生じていたとすれば、それによって高揚する本土の反基地運動は、はたして着地点を見いだせていただろうか。そのときすでに日本に基地の「収容場所」はなく、仮に沖縄への移転を考える者がいたとしても、それを実現するための「政治価格」は跳ね上がっていたはずである。

さればこそ、事象のタイミングやその順列によっては、今日とはまったく異なるかたちで基地が配置されていた可能性があったと推論することは決して不自然ではない。このように、もし現在の沖縄の状況が地理的宿命によって生じたものではないとすれば、われわれの手中には、じつは想像よりもはるかに多くの政策的選択肢が残されているのかもしれない。

プロフィール

川名晋史基地政治(Base Politics)、安全保障論

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。博士(国際政治学)。
専門は、基地政治(Base Politics)、安全保障論。
著書に『基地の政治学―戦後米国の海外基地拡大政策の起源』(白桃書房、2012年、佐伯喜一賞)、『共振する国際政治学と地域研究―基地、紛争、秩序』(編著、勁草書房、2019年、手島精一記念研究賞)、『基地の消長1968-1973―日本本土の米軍基地「撤退」政策』(勁草書房、2020年、猪木正道賞特別賞)、Exploring Base Politics: How Host Countries Shape the Network of U.S. Overseas Bases, (eds., Routledge, 2021) など。

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