2020.04.07
「表現の自由」のための自律――緊急事態宣言と「集会の自由」
「表現の自由」擁護論者が「自粛」を呼びかける理由
この原稿を執筆している最中の4月6日夕方に、「明日(4月7日)、緊急事態宣言を発令する」との発表があった。今、世界中が新型コロナウィルスによる感染症と戦わねばならない状態に陥っている。残念ながら、この戦いには、この地上に生きる人すべてが、好むと好まざるとにかかわらず巻き込まれている。
緊急事態宣言が発令されると、都道府県知事は、以下の措置をとることができるようになる(主なものを挙げる)。
・住民に、外出自粛を要請
・学校や福祉施設などに、使用停止を要請・指示
・人が集まるイベント(音楽やスポーツなど)の開催制限の要請・指示
・臨時医療施設のための土地や建物の強制使用
・医療用品やマスク、食品の買い上げ(売り渡し要請)や、収用、保管命令
・鉄道や運送事業者に、緊急物資(医藥品など)の輸送を要請・指示
・予防接種の実施の指示(これは有効な予防接種が確立された後の話になる)
筆者は、感染症そのものについては専門外の素人である。しかし、素人にも、わかることがある。それは、この病気については2020年4月6日現在、まだ専門家も対処法を突き止めるには至っておらず、そこに確たる知識と医療技術の確立が見られない間は、最大限のリスクを考えて用心すべきだ、ということである。
その用心には、「集会」の自粛も含まれる。
集会の自由は、本来ならば、憲法21条「表現の自由」によって保障される権利として、最大限の尊重を要する自由である。しかし2020年4月6日現在、今回の感染症拡大防止策の関心においては、筆者は、当面の間の集会の自粛を必要やむを得ないことと考えている。筆者自身の知る団体や研究会の関係者にも、自粛と、延期または開催方法の切り替え(無観客講演として動画配信をするなど)を呼びかけた。状況によっては、無観客講演であっても、大勢の登壇者が一堂に集まってマイクを回しあって発言するリレートーク形式の講演会については、見合わせたほうがいいと考えている。
各種の情報の中に、誇張や煽り的な言葉がないとは言えない。しかし、公式に発表される感染者数や感染経路の情報をすべてフェイクだ、コロナ不安に便乗して市民の自由を塞ぐ陰謀だと言うだけの材料も筆者にはない。
仮にもし、新型コロナウィルスに関する報道が誰かによって流された壮大な偽情報で、国内外での感染者数や死亡者数、医療関係者の発表などがすべてどこかのスタジオで作られた虚偽(フェイク)だったとしたなら、私たちはこの偽情報を作成し拡散した者や、それを嘘と知りながら利用した者に対して、法的責任を追及し損害賠償を求めるべきだ。しかし、そうした情報が出ていない現在、日々報道される情報を――数字などの事実の部分を――事実であると考えて、判断・行動する必要がある。
先週まではそこを甘く見る行動がまだ目立っていたが、今週はさすがに違ってくることを期待したい。今、緊急事態宣言とそれに基づく措置が憲法の人権保障を骨抜きにする流れを招くのではないか、と警鐘を鳴らす議論もあるが、この議論は、「感染症拡大を防止するための策は不要」とする議論ではまったくないので、この憲法論を誤解しないでほしいと思い、急遽、本稿を書いた。
憲法が要請している政府の「責任」と緊急事態宣言
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定める憲法25条1項、「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とする憲法25条2項のもとで、政府が有効な策を早急に実施する責任を負っていることはもちろんである。
この「責任」は、違法行為や不正行為を行ったことへの「責任」が追及されるときの「責任」とは意味合いが異なる。国を悪者として責めて追い詰めれば、有効な策が自然発生する、というわけではないのである。そこが、国が関与しないことによって実現する「自由」と、国の積極的政策によって実現する事柄との違いである。
その意味では、感染発生を国のせいにしてもしかたがない(そういう悪者探しをしている暇があったら有効な策をさぐることに限られた時間とマンパワーを使おう)と言うのは正しい。しかし、国土交通政務官が発言したと伝えられる「感染拡大を国のせいにしないでください」というメッセージは、憲法25条を読んだことがない人のものであるように思える。
同時に、そのための特別な政策をとる場合、各種の人権を不当に奪うことのないように、その必要性と合理性を精査する姿勢を持たねばならない。憲法が国政(統治)担当者に要求しているのは、このときの正しいバランシング(両方の必要性、重要性を秤にかけて、落としどころを見出すこと)である。憲法のさまざまな理論は、この「落としどころ」をどこに見出すかについてのロジックを提供する理論なのだ、と言ってもいい。
4月7日に発令されると伝えられている緊急事態宣言は、改正新型インフルエンザ対策特別措置法に基づく措置である。これは、憲法改正の論議の中で話題となった緊急事態条項の新設とはまったく別のもので、この特措法自体が憲法のもとにある法律なのだから、それに基づく緊急事態宣言とそれに基づく措置も、憲法の枠内で行われるべきものである。
それが政府自身によって誤解ないし目的外利用されて、事実上の憲法停止が起きるのではないかという懸念があることは、多くの識者によって語られている通りである。しかし、緊急事態宣言発令と具体的措置が実施されるとなれば、できることは、その懸念が現実のものとならないように気を配って見守ること、その兆候が出てきたらすぐに警鐘を鳴らすこと、だろう。
筆者自身は、この緊急事態宣言にとくに賛成する立場ではなく、こうした強烈な言葉で「宣言」するようなパフォーマンスを行わなくても、できることを迅速に行うことのほうが必要だと考えている。しかし、事柄の深刻さについて十分な関心を持たず旅行に出たり宴会をしたりする人々がまだ少なからずいるとなれば、その人々にメッセージを届かせるために、この不必要に強烈な言葉を使わざるを得ないと政府が判断したとしても、仕方がないのでは、とも思う。
少なくとも、感染症拡大を防ぐという現在の政府の目的は正当なものであり、今は「干渉せずに、市民の自由に任せてほしい」という消極型の立憲主義より、有効な策を打ってもらうことを求めつつ、それが適正・公正・公平に行われること、かつ他の人権を制限する度合いを必要な限度に抑えることを求めるという、積極国家型の立憲主義を選択すべき局面である。
人権保障とのバランシング
この歯止めが見失われて、医療(公衆衛生)の名のもとに非人道的な人権侵害が行われてきた例として、ハンセン病者への隔離問題があった。国は、25条で求められている責任を引き受けるべきときには引き受けなければならないが、その時にも、不当・不要な人権制約を引き起こさないよう、そのバランシングには細心の注意を払うことが求められる。
ここで、不当・不要な制約が起きることが危惧されているのが、「表現の自由」(憲法21条)、「幸福追求権」(憲法13条)、「移動の自由」(憲法22条)、「経済活動の自由」(憲法22条・29条)である。
このうち憲法22条と29条は、「公共の福祉」による政策的・積極的な制約を認める規定になっている。先に見たような憲法25条上の責任を果たすため、たとえば「正当な補償」のもとに経済活動への制約を求めること(たとえば一定の土地や建物や船舶を公用収用して医療施設として使うこと)は、できるのである。それが「できない理由」として現行憲法を出し、憲法改正の検討という壮大な迂回路を持ち出すことは、誤りである。
これに比べて、精神的自由権と呼ばれる権利、とくに「表現の自由」は、憲法上、よほどの必要性がないかぎり強制的な制約は認められない。よほどの必要性があって制約をする場合でも、その制約がその必要性に照らして過剰なものであってはならず、必要最小限のものでなくてはならない、という理論が、学説のおおよその一致点である。
たとえば、著作権侵害を含む音楽作品がいくつかあったとして、その音楽作品が個別に差し止めを受けることはあるとしても、「音楽というジャンルは著作権侵害を引き起こしやすいから全面禁止」という規制が行われるとしら、これは間違いなく憲法違反となるだろう。
この「表現の自由」には、「集会の自由」も含まれる。通常であれば、「集会の自由」は民主主義の実践にとって重要な意味をもつ市民的自由であるため、最大限の尊重が求められる。今回の新型コロナウィルス感染拡大防止策においては、この「集会の自由」がどうしても制約されざるを得ない。インターネットを利用した遠隔方式での発信はもちろんできるが、生身の人間が集まることに意義と魅力、あるいはやりがいを感じている表現活動者にとっては、意気を殺がれる形となってしまう。そこに自由制約を受けたことの憤懣を感じる表現者がいることは、十分に理解できる。
憲法的見地からは、「その制約は本当に必要か」と問わなくてはならない。緊急事態宣言が出るとこの「問い」が停止させられ、問答無用で集会その他の表現活動が制圧されてしまうのではないか、という懸念は、たしかにある。しかもこの5、6年の間に、その不安を市民に感じさせる「表現の不自由」事例が蓄積されてきた。今回の自粛呼びかけも、「政府批判を塞いで市民感情を統制するための口実として、コロナが利用されているのではないか」「不必要な不安を与えておいて、安心を提供することで、市民の支持を取り付けようとする策ではないか」という声はある。これまでの「言論の自由」軽視のツケだと言うべきだろう。
しかし、今回については、仮に政府が何もしなかったとして、それで私たちが感染症拡大の危険から逃れられるわけではない。先にも書いたように、多くの事実報道と公的呼びかけをフェイクだと言い切る根拠がないかぎり、私たちは、その情報を一応は事実として受け止めて、自分たちの生命と生活を守る姿勢をとるほうが良いのではないだろうか。
そうなってくると、感染拡大防止のための政策と「表現の自由」とのバランシングも、通常モードのままではすまず、この事態の緊要度を重く勘案せざるを得なくなってくる。
事態の緊急性と「表現の自由」
本稿を書いている4月5日夜から6日にかけて、7日に緊急事態宣言が出される見込み、との報道が出ている。おそらく本稿が公開される時点では、宣言は出ているだろう。
相当数の憲法研究者が緊急事態宣言に難色を示してきたのは、これによって政策と人権保障のバランスが見失われ、さまざまな自由権が制約を受けることが「当たり前」の扱いとなってしまうのではないか、との懸念があるからである。しかし先にも指摘したとおり、今回の緊急事態宣言は、その言葉のインパクトの割には、実際にとれる措置はそれほど強力なものではない。これは憲法改正による「緊急事態条項」とはまったく別物である。それを先取りするような人権保障停止につながることのないよう、事態を注視することが、筆者を含め、この方面の研究者の社会的役割となっていくだろう。
日本国憲法13条には、「生命」という言葉が明記されている。前文には「平和的生存」という言葉もある。これらの言葉と先に見た25条を総合して考えると、日本国憲法は、人間の生命を守ることを根底的な関心事としていると言える。感染症拡大について、ここまでの危機的状況が起きている現在、(緊急事態宣言を行うかどうかはともかくとして)、生命への危険を回避するためにさまざまな政策をとる根拠は、現行憲法上、すでにある。
ここで国や自治体が、未知の経験について最も賢明な策をとれる保証はない。民主主義はもともと、最も良い結果を得られるから採用されているわけではなく、少数者の専断に委ねる結果起こりがちな最悪のシナリオを、社会メンバー全体の参加とコントロールによって回避しよう、というリスク回避思考の選択である。だから、こうした未知の経験については、政府の対応は不完全だったり的外れだったりする可能性が十分にある、という前提に立って、その不完全な部分に情報と知識を持ち寄るのが民主主義にかなう思考である。
その中にはもちろん、現実のニーズ(どこにどのような補償が必要か)について知らせる、噛み合わない政策についてはそれを指摘する、ということも含まれる。このための「表現の自由」や「請願権」は、今、このような状況だからこそ最大限に確保されるべきである。仮にこれを事実上塞ぐような措置があったとしたら、憲法違反と言うべきことになる。
やむにやまれぬ場合を組み込んだ「表現の自由」理論
筆者は主にアメリカと日本の「表現の自由」の理論から学んでいる。アメリカ型の「表現の自由」理論の多くは、ヘイトスピーチ規制に慎重であることからわかるように、「表現の自由」保障による社会の自己回復力を信頼しようとする理論である。が、その「表現の自由」の理論の中にも、「やむにやまれぬ」事情が政府側から示された場合には制約もやむを得ないとする理論や、緊急で具体的な必要がある場合には制約もやむを得ないとする理論がある。大勢の人が集まっている映画館で「火事だ」と叫ぶことは、多くの人を混乱と危険に陥れることになるため、そのような表現は例外的に制約することもやむなし、とする考え方である。
また、「表現の自由」を手厚く認めてヘイトスピーチ規制に慎重な立場をとるアメリカ判例理論でも、「暴力を誘発する言葉」fighting wordは「保護されない言論」として規制可能である。暴力的衝突が起きそうなときに、人をカッとさせて衝突の危険を高める決まり文句的な挑発言葉がいくつかあり、それを禁止することは州の判断に委ねられている。
この論理は、コトバそのものよりも、暴力が誘発されやすい状況を見ているとも言える。空気中にガスが充満しているような場所でマッチを擦ることは、引火爆発の危険を伴うので、その危険を阻止する、というイメージである(それを理由として「マッチを擦ること」一般を禁止することは、後で述べる「必要最小限」の原則からすると問題があるのだが、アメリカではこの「暴力を誘発する言葉」については、そうした緻密な理論フィルターなしに規制してよいとされてしまっている。その問題については本稿では立ち入らず、先に進む)。
新型コロナウィルス感染の爆発的拡大を抑え込むために、近距離での接触や集会を自粛するという要請は、「ガスが充満している可能性のある場所で、マッチを擦ることはしないでほしい」、と言うのと、ロジックとして似ている。しかも、今、ガスが充満している場所は不特定化してしまい、東京都内の場合、すべての場所にその可能性があるという状況になってきた。
ネット上では、今回の自粛要請や緊急事態宣言を「政府への批判的言論を抑え込むための策」と見る見解も散見されるが、筆者は、今回の自粛要請は上記の論理で求められているものであって、そうした見解をとることは無理だと考えている。
「魔女狩り」思考を避ける
病気に罹患した人を「悪」と見て罰したり、病気に接触した人を「ケガレ」として忌避し共同体から排除する、という思考は、近代以前の世界では、政治の表舞台で採られていた。中世ヨーロッパの「魔女狩り」や、日本では21世紀初頭まで続いてしまったハンセン病者の隔離政策などがそうである。
誰かを「悪」として名指し、その者を滅ぼせば目下の問題から逃れられると考える「魔女狩り」の思考は、何百年も前に乗り越えられた…はずである。近代以降の「法」の思考は、これを乗り越えたところに生まれた(はずだった)。
しかし、法制度や医療制度やその土台となる政治思想の表舞台ではとっくに乗り越えられたはずの「魔女狩り」思考は、社会全体が不安にさいなまれることになると、自然発生的にさまざまなところから湧き上がってくる。世界各地で報告されているように、感染症への怖れが外国人差別と容易に結び付いて、感染症に罹患する被害そのものとは別の二次被害を引き起こしている。少なくとも政府や自治体や、そこに属する公人は、この二次被害を拡大させるような不用意な発言をすべきではないし、この二次被害を是認するかのような救済選別をするべきではない。
その上で、今は、敢えて次の指摘をしたい。――この自粛要請を「政府による言論弾圧の一形態」と解釈して無視することは、外国人に感染症発生の責を負わせて排斥するのと同じ思考法に乗ってしまうことになる、と。
なぜこの二つが同じ線路上にある思考なのか。それは、悪者を名指しそれと戦う(指弾する)ことが、「自分は今、重要なことをやっている」という安心感を与えてくれてしまうからである。そしてこの思考によって、真に必要な戦いを見失いがちになるからである。
今、真に必要な戦いとは、医療従事者や介護従事者、清掃業者にとっては、文字通りの「戦場」に匹敵する危険業務を引き受ける戦いである。一方、それ以外の一般人にできることは、その戦いを無駄にしないこと、その戦いを少しでも残酷なものにしないこと、つまり「足を引っ張ること」をやめよう、という消極的協力である。今は、一人一人が、退屈や苛立ちに耐え、この「自粛」の中でできることを模索するという、地味で静かな振る舞いが「戦い」なのである(それによって収入を失う人々に対して、経済支援策が必要であることはもちろんである)。
感染症による社会崩壊の危機との戦いは、医療のさらなる発展と衛生管理、そのための福祉策ということになるが、それが見えていなかった古い時代には、病者の追放、陰陽師による呪術、寺院や大仏の建立、そして魔女への裁判と処刑、などなどの手段がとられてきた。今の人類は、科学的医療(テクノロジー)を手に入れ、人命や社会的生存への救済政策を打つことを使命とする現代的国家観も手に入れている。もう魔女狩りの時代に戻る必要はないはずなのだが、人間社会の性(さが)として、気を緩めるとそこに陥りやすい。陥りやすいからこそ、そこを脱する思考を常に掲げておく必要がある。
専門家でなくてもできる《自律》思考
有効な対処策は世界中でまだ模索中だが、専門家による模索を無にしてはいけない、という観点は専門家ではない一般人にも共有できることだろう。たとえば、スイスでは、「医療資源・医療インフラの不足」というリスクの深刻さが明確に把握され、ガイドラインが示されているという。ここには、誰もが「辛い事態」として躊躇するであろう「命の選別」についてまで言及があるが、これによって医療現場の従事者の心理的葛藤を和らげることはできる。
日本で今、これと同じことをすべきとは、筆者にも断言できず、そこは専門家の知見に委ねるしかないと思うが、究極の事態になったときにパニックに陥らずに乗り切るための心構えとして、こうした専門家の尽力に学ぶところは大きい。そして、他国が今ここまでの事態に至り、ここまでの対処を行っているという情報を知れば、先ほどのたとえ――ガスが充満している場所でマッチを擦ることはやめようと求めること――は、決して大げさではないことがわかってもらえるのではないかと思う。
すでに日本でも、日赤医療センターは、初診および救急外来の受付を停止している。限りある医療資源の不足に備えての構えだろう。
http://www.med.jrc.or.jp/?fbclid=IwAR2pV9flXwqnYMwy1rIUE-hjKqKKyZIbT249jcU40lC60lygQ9JnJzyvUoo
また、日本集中治療医学会が4月1日付で、次のような理事長声明を出している。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に関する理事長声明
「新型コロナウイルス感染症がオーバーシュートした場合の医療体制で最も重要なことは、如何に死者を少なくするかということであり、集中治療体制の崩壊を阻止することが重要ですが、本邦の集中治療の体制は、パンデミックには大変脆弱と言わざるを得ません。」
どのような団体も、自らの関与する業務については「万全の体制を組んでいますのでご安心を」と言いたいだろう。このような声明が出たことの意味を、受け手の市民も政府も、真剣にとらえる必要がある。このメッセージは「会員向け」となっているが、それでも公開のホームページに掲載しているということは、一般市民に対しても、「聞く耳のある者は聞いてほしい」と呼びかけていると受け止めるべきである。
そうした情報を知れば、たとえ素人でも、あるいは素人だからこそ、今は、《無防備の勇》よりも、有効な対処法が医療関係の専門家によって確立されるまで、自他の生命を尊重し、リスクと向き合う《臆病さ》を持つべきことが理解できるのではないか。
今、少なくとも人口の密集している都会地で、不特定者に集合を呼びかける集会の呼び掛けは、自分の《無防備の勇》のために他人の生命を危険にさらす行為になりうる。ここでの「危険な行為」は、他人との近距離接触、とりわけ室内での長時間の近距離接触である。「三密を避けて」という言い方の巧拙はともかくとして、医療関係者の多くの発言から、ここは大筋で合意できることではないだろうか。さらに、大声で話すことが感染につながりやすいことも指摘されている。この危険には、言論の内容の政治性も、言論価値の高低も、表現の芸術性も関係ない。
つまり、今回の自粛要請で「集会の自由」がとくに影響を受け、さらに緊急事態宣言が出されれば、自治体の判断によって公共の集会施設(公民館など)が使えなくなる可能性はあるが、それは、政府批判といった「表現の内容」を見た措置ではない。これは、どのような内容の表現であれ、上記の要素をもつ集会を抑制しようとしているので、「表現への介入」として問題化する局面とは思われないのである。
いわゆる「ライブハウス」や「カラオケボックス」はたまたまこの条件に合致してしまうために、感染者が出やすくなった。しかし音楽や映画が危険なわけではないので、ギターを持った人が電車に乗ってきたのを見て「降りろ」と嫌がらせをするなどは、先に書いた「魔女狩り」の思考とまったく同じ、無意味な過剰反応である。むしろ、音楽をやらなくても、多数の人がマイクを回して大声でスピーチをするリレートーク集会を屋内で行うことなどは、事柄の本質として、ライブハウスと同じ意味を持つ。
医療関係者や介護福祉職員、児童相談所職員はどうなのか、人と接触しているではないか。宅配サービス業者は外で仕事をしているではないか。あれがOKなら自分もよいのではないか。と「つっこむ」ことは、今だけは、慎むべきだ。
緊急事態宣言が出されれば、自治体は、鉄道や運送事業者に緊急物資(医藥品など)の輸送を要請したり指示したりできるようになる。これは医療と生活インフラを支えるために必要な措置である。
生命、健康、生活インフラを支えるために、これらの活動を停止するわけにはいかない。これらは今、従事者がその危険性を承知の上で請け負っている特殊業務と言える。「不要不急の外出・会合は避けて」と言うときの裏にある「必要で緊急の事柄」は、これらの事柄を指していると考えるべきだろう。救急車が車道を通るときには、一般車両は止まって待機することとなっているが、今はそれと同じなのだと考えると、わかりやすいのではないだろうか。先に書いたとおり、そうした人々が今引き受けている危険任務を無にしないためにこそ、一般人のほうは「その足を引っ張らない」ことが求められている。
私たちは、今の段階で専門家でなくても入手できる知識と情報から、こうしたリスク回避の判断まではできる。このように自分の判断で自分を律することを「自律」という。「自分のことは自分で判断できるのでその判断力を信頼してくれ」、という「自由」である。この「自律」は、ときに自己規制、自己検閲を求める嫌な言葉でもある。しかし今、社会が危機に直面しているとき、危機の言説に押し流されずにせめてもの「自由」を確保するためには、この「自律」の思考が必要となってくる。
表現の自由と自律
たとえば、「自由」を確保するための「自律」として、多くのメディアが自身で倫理綱領(たとえば日本新聞協会の「倫理綱領」)を持ったり、他者の目による客観的な審査・評価が行われる方式(映画倫理機構や、BPO放送倫理・番組向上機構など)を採用したりしている。これは、表現内容については最大限の「自由」を守るため、関係者の活動内容や、公開された表現内容について、法的に適正だったか、倫理上適切だったか、ということをチェックする組織である。
これらは業界が自発的に設立したり加盟したりしているものなので、憲法21条2項で禁止される「検閲」には当たらない。ただし、こうした第三者機関が実態として公的機関(法務省など)の出先機関となっていたり、行政指導の名のもとに個別内容への干渉があるような時には、憲法21条2項の趣旨に照らして問題視すべきことになる。
いわゆる「AV」(アダルト映像作品)についても、人権侵害となるような出演強制があったことが数年来、社会的イシューとなっている。この人権侵害をなくす試みは当然に必要だが、その方向は、大きく分けて二つある。一つは、このジャンルの業界を人権侵害の温床と見て、この表現ジャンル自体を違法化する、あるいは監督官庁の監視下に置く、という道である。もう一つは、そうした人権侵害が起きないための仕組み(契約ルールや、契約後の出演者からの出演辞退を違約金なしに認めるといったルール)を業界が自主的に共有することで、表現ジャンル自体をつぶすことなくコンプライアンスを徹底する、という道である。
後者の道は、「表現の自由」を確保するために「自律」の思考をとる、という道である。「表現の自由」を守るために、社会的信頼を得られる方法を自ら守るという「ひと手間」が必要となる場面は、社会のあらゆるところに存在するのである。
不要不急の表現規制を避けるために
今、言論の全般が危険視されるわけではない。物理的な近距離接触を避ければいいわけだから、メディアやネットを介した言論発信や、電話での会話には問題はなく、「改正新型インフルエンザ対策特別措置法」に基づく緊急事態宣言も、そこにはまったく触れていない(関心外である)。
今、多くの職場や学校が、リモート(遠隔)ワークに切り替えているところである。それもまた、情報漏洩など多数の問題が指摘されてはいるが、そうした指摘によって脆弱性が克服されていけば、それが言論の力によるテクノロジーの発展につながっていくだろう。
「表現の自由」の理論の中には、「規制する必要のある表現があったとしても、それ以外のものまで規制対象にすること(過剰包摂)は避ける」、「自由を制約する必要があるときでも、制約の度合いの低い手段があるときには、わざわざ制約度の高い方法をとらずに、低いほうを選択する」、「制約する必要のない表現に萎縮が及ぶような方法は避ける」といった理論がある。仮に今回の緊急事態宣言に便乗して、物理的な近距離接触とは関係のない言論までが制約されたなら、これらのうちのどれかに当たることになり、憲法違反となることは間違いない。
では、「政治的中立性を損なう言論、その他公的助成にふさわしくない言論を行った者には、助成や補償を行わない」という選別があったら、どうだろうか。私たちが、自分の言論内容と引き換えに、政府からの救済や補償を受ける資格について左右されることがあったら、どうだろうか。
本稿では、補償の問題にまで立ち入ることはできないが、じつはこれがもっとも切実な「問題」となってくる可能性はある。「表現の自由」問題とは別筋だが、風俗系の職業従事者は補償(助成)の対象から外される、との案が上がり、その後、批判を浴びたために撤回されるようである。
「表現の自由」の領域で、これと同種の思考がとられる可能性がないとは言い切れない。芸術祭への補助金や芸術文化振興基金による補助金にこうした思考が入り込んでいなかったか、という問題はいまだに不透明なままである。ここでは、芸術祭に参加した作家や、審査にあたった芸術系の専門家、キュレーターなど、芸術側の関係者の《自律》が軽んじられている。この問題そのものは別に論じることとしたいが、助成対象者の選別の中に言論統制の動機が紛れ込みやすい、という問題は指摘しておきたい。
筆者は、集会を法律や行政によって禁止すること(言論規制)は、最後の最後の「やむにやまれぬ状況」が生じたときのこととして、反対する立場にいる。もともと、今回の緊急事態宣言に伴う措置では、そうした法的規制や警察的な規制は実施できないこととなっている。しかし、やたらにインパクトのある言葉で市民に自粛を要請しなくても、各人の理解と協力で目的が達成できるならば、そのほうが良いと考えている。
しかし、各人が自粛の意味を理解せずに、自粛疲れが出て感染症を拡大させる行動をとってしまうと、より強力な方策がとられる可能性が高まる。あるいは、「この緊急事態宣言と措置では目的を達することができないので、憲法改正によってより強力な緊急事態法制を実施できるようにしよう」という議論にも結び付きやすくなる。
だからこそ、言論の内容にかかわらず、今、いっときだけは、不特定者が参集する集会を我慢しよう、別の伝達方法を模索しよう、と呼びかける立場をとっている。自粛を必要とする事態が去ったときには迅速に表現の方法選択の「自由」を立て直すべきことが、その呼びかけの前提にあることを、最後に確認しておきたい。
(今回は、緊急の寄稿につき、参考文献注は省略させていただきました)
プロフィール
志田陽子
武蔵野美術大学造形学部教授、「シノドス」編集協力者。憲法と芸術関連法を専門にしている。本稿と関連する編著図書として、『映画で学ぶ憲法』(法律文化社、2014年)、『映画で学ぶ憲法 2』(法律文化社、2022年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)がある。