「地域エゴ」の何が悪いのか?――NIMBYから考える環境倫理

NIMBYは罪深き自分勝手ではない

 

Feldman & Turnerによれは、NIMBYとは住民の選好の表明であり、特に地理学的な偏好性(或る場所を他の場所よりも気にかけること)が示されており、それは必ずしも自己利益を伴っていないという。また、そこに自己利益が伴われていても、そのために悪徳な人になるわけではないという。彼らの論理を簡単な例で示してみよう。

 

寄付をすることは良いことであり、誰か他の人が寄付をすることは望ましいと思っているが、自分自身は寄付をせずに素敵なテレビを買った、という人はよくいるが、その人は悪人として非難されはしないだろう。同様に、彼らによればNIMBYのなかに自己利益が含まれていたとしても、それによって非難される理由はないのである。

 

 

NIMBYと公共善を対立的にとらえるべきではない

 

第二に、彼らによれば、NIMBYの要求を尊重することが、必然的に公共善の実現を妨げるわけではないという。また、たとえNIMBYの要求に従うことによって、他の人々が何かしらの犠牲を払うことになるとしても、NIMBYの要求は尊重されるべきであるとする。それは、たとえコミュニティがテロ攻撃にさらされることがあっても、市民的自由を侵害しないほうがよいのと同じことであると彼らは言う。さらに彼らによれば、地域住民の選好の表明としてのNIMBYを、政策立案者は良い政策をつくるための重要な情報として尊重しなければならないとする。そしてNIMBYという形で自分たちの選好を表明することは「市民の義務」であるとさえ述べている。

 

 

NIMBYは環境不正義の状況を固定化するわけではない

 

第三に、彼らは、NIMBYの要求に従うことが、実際に環境不正義(環境をめぐる不公平や差別)の状況を固定化するかどうかは偶然的な問題だと答えている。豊かな人々のNIMBYによって貧しい人々に負担が押し付けられることが想定されているが、逆に貧しい人々がNIMBYを叫ぶ場合もあるからである。

 

ただしこのテーマについての彼らの説明には甘いところがある。この点については、コメンテータの意見(本当は「住民参加」や「環境正義」を求めている住民たちにNIMBYのレッテルを貼るのは誤りだ)のほうに説得力がある。

 

 

NIMBY以外の要素のほうが問題だ

 

このように、Feldman & TurnerはNIMBYに対する三つの批判に反論し、NIMBYの要求に一定の意義を認めている。これを読むと、地域開発に対する抗議運動=「地域エゴ」「NIMBY」=悪徳と見なして、歯牙にもかけないという態度のほうが、倫理的に問題があるのではないかと思えてくる。

 

全体として、Feldman & TurnerはNIMBYを住民の選好の表明として、ニュートラルに扱っている。それに対応するように、Feldman & Turnerの議論に対するコメントの中には、NIMBYが悪いというより、その主張に含まれている「偽善」の要素や、「フリーライダー」の要素が非難に値するのだという意見がある。その一方で、NIMBYという用語はあくまで軽蔑的なものであり、地域住民の要求にNIMBYというレッテルを張るのは不当だという意見もある。つまり、本当は「住民参加」や「環境正義」(環境をめぐる不公平や差別の是正)を求めている人たちの主張を、NIMBYという用語が覆い隠してしまう点が問題とされる。

 

これらのコメントは、NIMBYの評価の問題を超えて、地域環境問題における住民の主張をどう評価するかについて考える際に役立つだろう。例えば、住民を「偽善者」とか「フリーライダー」などと言ってみたところで、状況はあまり変わらないだろう。それに対して、「住民参加」や「環境正義」の論点をNIMBYが覆い隠してしまうという指摘には説得力がある。先にもふれたが、この点はFeldman & Turnerの論文の弱いところであり、後の彼のリプライもやや的外れなものとなっている。

 

 

NIMBYは環境保全の動機づけになる

 

この論文をめぐるやりとりは、日本の「地域エゴ」という言説を考える上でも示唆に富んでいる。ただ一つ難をいえば、この論文では、風力発電所が例に挙げられていることである。この例がふさわしいかどうかは疑問である。むしろ近所に清掃工場、廃棄物処理場、葬儀場などがつくられるという問題のほうが、どこでも起こりうる身近な問題として感じられるだろう。

 

その際に、第一に、NIMBYは住民の意志の表明であり義務であるという論点には大きな意味がある。地域の政策や計画を進めるにあたっては、その実現可能性が考慮されるべきである。その際に、地域住民が反対していたとすれば、政策や計画がうまく進まなくなるのは当然のことだろう。NIMBYという形でも、住民の意志が表明されれば、それを組み込んで政策を進められるはずである。その貴重な情報を無視するのは、政策を進める側からしても損失であろう。

 

第二に、例えば清掃工場の建設を進める側は、反対住民に対して、自分勝手だ、エゴだ、偽善だ、フリーライダーだ、と言い立てるよりも、これを機に廃棄物処理問題に関心をもってほしい、家庭からのゴミを減らすことも必要だということを認識してほしい、と訴えたほうが、全体として良い結果を生むように思える。地域住民は、大量のゴミを生み出す社会の問題の最前線に立たされており、そこはゴミ問題をより一般的に考えるための入口でもあるともいえる。

 

この点について、NIMBYに関する著作を出している二人の論者の意見が参考になる。

 

 

「ようやく矛盾が矛盾として意識され、当然あるべき葛藤が生まれるのは、実際に『迷惑』が我が身に降りかかってきたときである。そういう立場に置かれてみてはじめて、人は現実(リアリティー)の痛みに目覚めて思わず大声を上げる。ところが不幸なことに世間は、それを『ニンビイだ』と指さして言うのである。そのように考えれば、ニンビイこそ現実(リアリティー)の自己表現であることがわかる。そして皮肉なことに、現実(リアリティー)がそのようにして自己を表出した途端にそれは単なるニンビイではなくなり、かえってそれを包囲する側のニンビイを映し出す鏡になる」(清水修二『NIMBYシンドローム考――迷惑施設の政治と経済』より)。

 

 

「NIMBYという問いかけは、作られようとしている施設を単に拒否することではなく、そのまえに『なぜ環境を守らなければならないのか』を自ら問うことを通して、より『普遍的なもの』が存在するのではないかという議論を、作る側と受け入れる側との間に提起する根源的な問いなのではないだろうか」(土屋雄一郎『環境紛争と合意の社会学――NIMBYが問いかけるもの』より)

 

 

NIMBYはこのような問いの契機になりうる。もちろん大前提として、住民参加のしくみがきちんと機能することと、環境正義という考え方が共有されていることが重要である。ただこれらはすでに地域問題に関する論文ではしきりに言われていることなので、あらためて注意を喚起するにとどめる。本稿のねらいは、NIMBYを要求することが必ずしも非難に値するわけではないことを示し、むしろそのことが環境保全の動機づけにつながることを示す点にあったからである。

 

*本論の詳細版として、『公共研究』11巻1号(2015年3月、千葉大学)に収録された吉永明弘「「NIMBYのどこが悪いのか」をめぐる議論の応酬」を参照。

 

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