2015.09.04
『天空の蜂』――核・原子力、自衛隊……日本の2大テーマに挑む、エンタメ映画の可能性
原発事故発生。巨大ヘリ墜落まであと8時間。ベストセラー作家・東野圭吾が1995年に発表した小説『天空の蜂』が堤幸彦監督により映画化される。核・原子力そして自衛隊、戦後日本の2大テーマに、エンターテイメント作品はどう挑むのか。その可能性について、新刊『はじめての福島学』が話題の社会学者・開沼博と、『ふくしまからきた子 そつぎょう』などを手掛ける絵本作家・松本春野とが語りあった。(※なお本記事には映画の内容に関するネタバレが含まれております)(構成/山本菜々子)
<ストーリー>
1995年8月8日。最新鋭の超巨大ヘリ《ビッグB》が、突然動き出し、小学生の高彦を乗せたまま、福井県にある原子力発電所「新陽」の真上に静止した!遠隔操作によるハイジャックという驚愕の手口を使った犯人は〈天空の蜂〉と名乗り、”日本全土の原発破棄”を要求。従わなければ、大量の爆発物を搭載したヘリを原子炉に墜落させると宣言する。
1995年という時代
松本 『天空の蜂』の原作は1995年なんですね。いまからちょうど20年前か……。
開沼 宣伝文句には「映像化絶対不可能といわれた禁断の原作が、ついに映画化!」とありますが、たぶん3.11前に映画化できなかったのは単に原発が地味なテーマだったからだと思っています。とはいえ、予言的な作品だと言えるでしょうね。
原発のリスクが科学技術の問題を超えて、社会的・政治的に影響を及ぼす様子が、専門家のみならず広く一般的な興味を惹くような形で描かれている。そもそも、原発のことは、「政治や科学の話でしょ」と多くの人はタッチしづらい。でも、『天空の蜂』は家族の物語を並走させることで、多くの人が共感しやすいようにしている。
松本 ただ、ちょっと女の人をステレオタイプに描きすぎているかもしれません。20年前の原作だから仕方ないのかなぁ。
開沼 女性の描き方は確かに古い。でも、それは東野圭吾さんが原作を書いた1995年のリアリティなのかとも思います。
時代背景をお話すると、いくつかの重要な社会学研究や批評でも1995年は節目の時代として象徴的にとらえられています。阪神淡路大震災やオウム真理教事件、あるいは原発関連で言うならばもんじゅのナトリウム漏えい事故などを通して、いわゆる「安全神話」が崩壊した年とイメージされる。
他方、10年ほどかけてプラザ合意、バブル崩壊と大きな経済状況の転換を経てきた上に、円高最高値を記録、日経連、現在の経団連が出した報告書「新時代の『日本的経営』」の中で非正規雇用の拡充が提言され、それが現在の派遣法などにつながっていく。当時は村山内閣。55年体制崩壊後の政治的な混迷の中で様々な課題が噴出していた。
もちろん、ネガティブな変化だけではありません。Windows95が発売された95年から一般家庭へのPC・インターネットの普及は急速にすすんだ。街の風景も大きくは変わらないから、ブラウン管のテレビとか携帯電話の大きさとかを観ない限りは、それほど違和感はない。
でも、そういったものと違って目に見えにくい価値観はまだまだ旧式のものだった。大企業に入り家庭を作り、一生勤めあげるのが標準であるというような感覚はまだまだあった。終身雇用、年功序列、護送船団方式が生きていた。
湯原の奥さんの抑圧された感じは、1995年のリアルだったのかもしれない。あと赤嶺のゆがんだ感じも。「そこまで思いつめる?」って、2015年に生きる僕達からしたら思ってしまいますけどね。
松本 でも、震災以後「絆」って言葉がもてはやされたり、今の政権内でも、ちょっと前より保守的な性別役割分担を口にする政治家が目立っている気がします。社会としては共働き家庭が増えているにも関わらず、3.11後に「弱者」として語られた家族も、父と専業主婦の母で子供がいて、みたいな家族ばっかりだったりして。
世の中が提示しているものと現実とが乖離している感じはありますよね。だから、「古いなぁ」と笑いながら見ていられないのかもしれない。
「けしからん」映画!?
松本 家族の話はおいておくとして、私は、エンタメでこんな作品が出てきたのはすごく良かったと思っています。でも、ちょっと外からみたら「けしからん」感じに見えちゃうのかなって思いました。
開沼 メインテーマが「原発」に、しかも「自衛隊」も重要な要素ですからね。
松本 不謹慎だ!ってみもせずに怒ってしまう人もいるのかなぁ。観たら観たで、リベラルには「自衛隊を美化し、原発の安全性を描いている」という見方もできなくはない。一方保守には「国や大企業に不信感を抱かせる映画」と不快感を示す人もいるのではないかと想像しました。両サイドから「けしからん」って言われかねない。
開沼 核・原子力と自衛隊は、戦後社会の民主主義を支える二大テーマです。1945年8月15日に原爆が落ちることによって、戦後社会ははじまりました。ある種の歴史観によると、そこをもってそれまでのファシズム体制が刷新されて、戦後民主主義体制が成立していくことになったとも言われる。
その歴史的な分断線のビフォア・アフターを分ける際、アフター側にとって重要なのが、日本が核を拒絶し、軍隊を持たない平和な国である、という二大フィクションに他ならない。この二大フィクションを軸に戦後社会はできてきたわけです。
でも、もうフィクションが通用しない時代になってしまった。今までの私たちは「けしからん!」と言い続けて、議論をしないままで来てしまったけれども、そろそろ「けしからん!」以外の言葉を探し、冷静な議論をする必要がある。
松本 原発や自衛隊について具体的な疑問を呈したり、意見表明すると「お前はどっちなんだ」とすぐに攻撃され、ありかなしかの二項対立の中で左右のレッテルが張られがちですよね。
子供の本をつくっている立場ですと、業界的にも「子供を守ること」に本当に一生懸命な方たちとたくさん出会います。それはとても素晴らしいことで、私も同じ気持ちでいますが、しばし、何が何でも危険な法案は遠ざけなければという思いから、「原発は絶対即時ゼロ」「安保法制が成立すればすぐに戦場に送られる」など、極端にもとれるような主張が蔓延することもある。そうなると、その文脈を相対的に見ようとする議論に首を突っ込むことにすら躊躇してしまいます。
3.11の原発事故後、私は『ふくしまからきた子』『ふくしまからきた子 そつぎょう』という福島から母子避難した子どもたちが、福島に帰るまでの絵本を描きました。それに対しても「福島みたいな危険な場所に親子を返すのか」との批判をたくさん浴びました。
開沼さんが仰っているように、現実の「福島」を語ること自体が、イメージ上の「フクシマ」に振り回される中で、めんどくさくて政治的なものにされてきた。でも、そこをまじめに議論しようとすると、「御用学者」だ「国策作家」だと言われてしまう。国や権力を美化した作品だと揶揄されてしまう。
開沼 大事なことなのに、多くの人にとってはあたかも存在しないかのような存在になってきた。でも、映画に出てくるテロリストはヘリを原発の上に落とすことで、それを目に見える形で出そうとしたんですよね。その両義性が本作のストーリーの最も面白い部分です。私達が普段社会意識の奥底に隠しているものが、全てひっくり返って自分たちにブーメランのように返ってきた。
松本 この映画が「けしからん」と言われないようになってほしいなって本当に思いました。安全に暮らして行くためにこそ、議論を深めないといけないタイミングに来ているとおもっています。だからこの映画は「けしからん」映画じゃないと思うんです。
スッキリしない?
開沼 映画の最後に、あるメッセージが出てきますよね。これは、エンタメ映画の結論としては分かりづらいものなのかもしれません。多くの観客はその最後の見せ場のちょっと前のアクションシーンで映画の印象が終わってしまうかもしれない。だから、映画は最後の最後までみて欲しいですね。
松本 一緒に見たんですけど、私、大衆代表なので、最後のアクションシーンに息をのみ、ドキドキさせられ、最後の大事なところを理解しのがしましたね(笑)。色々詰め込まれていたから、半分くらいの速度で見たかった……。
開沼 すごいテンポでしたからね。
松本 正直、この映画、全然スッキリしないじゃないですか。
開沼 よく分かります。
松本 でも、私スッキリしなくてよかったなぁと思ったんです。この映画は単に反原発/推進を言おうとしていないじゃないですか。
開沼 映画を紹介するサイトで「禁断の反原発映画」みたいな煽り文句とともに紹介されているのも見ましたが、言うまでもなく反原発か原発推進かという単純化された話ではない。
原発をとりまくリスクや社会構造が、非常に面白いエピソードとともに語られている。事故があったら大騒ぎをする。事故がなくてもセンセーショナルな社会運動が、様々な波紋を呼んでいることがある。そういった細かい部分がかなり網羅的に描かれている。
たとえば、原子力産業で働いている家の子がいじめられ、自殺する話が出てくる。あれはフィクションで、もちろん大げさだと見る人もいるでしょうが、現に行き過ぎた正義感が、現場を踏み荒らし弱い立場にある人を傷つけ、この問題をより困難にしている側面はある。
松本 現場の人たちが一番大変であることを描いていますよね。最終的に、全然思想を持っていない人が犠牲になった。
開沼 かわいそうな人が犠牲になりましたね。
松本 そうそう。よりによってこの人なんだ……って思いました。強固な思想や信念を持っていない人にしわ寄せがきてしまう。それは、子どもだったり現場の人だったりする。
電力会社の息子がいじめられるように、社会の側が良かれと思って形成されていった世論のなかで追い詰められてしまう人々はたくさんいます。
実際に、福島でも電力会社の一般社員やその家族が肩身の狭い思いをしています。東電の社宅となっている集合住宅では、東電の看板を下ろし、建物名をわからなくしてありました。嫌がらせを受けることがあるのかもしれません。また、現場の後始末や復興を担う役場の人たちが猛烈なクレーム処理を行って、心身ともに疲弊している状況も続いています。
福島の原発事故当初の一番の犠牲者は、強制避難を強いられた人々だったかもしれません。けれど、その後、賠償金が出たり、住む場所が確保されたり、支援が集中したりと、解決する問題も出てきます。そうすると、時間が経つにつれて、「犠牲者」が「最弱者」でなくなり、弱者の移り変わり、多様化がはじまっていきます。
3.11以降の社会運動では、政府や東電を責め「悪の権化」と吊るし上げる風潮がありました。私も当初「東電が悪い!」と攻め立てるような気持ちでデモに参加したこともあります。ですが、4年間福島と関わる中でその考えが変わりましたし、反省させられました。そんな単純な話ではなかったことに気がついたのです。
社会運動を扱う映画の多くは、権力の不正を暴く形式が多いですよね。「弱者」に寄り添って物事を描こうとする。静かなトーンで描かれると、より深刻さが増したりして、見る人も、今まで知らなかった真実を知った気になり、正義の側に立てた気にすらなる。
ただ、「弱者」が移り変わることを考えると、いろんな角度から物事を考えなくてはならなくなる。正義が何かがわからなくなるんです。
この映画は、そういった権力を暴く社会派映画とは真逆です。それどころかアクションシーンもどんどん入っていて、すごくエンターテイメントに徹している。
開沼 印象的なシーンなんですが、事件が収束した瞬間、テレビの前の人が日常に戻るでしょ。それが明確に意識されて描写されていた。
警察やエンジニアのような大企業の幹部の中でことが進んでいく。周りはそこに関われませんが、かといって一方的な第三者でもない。少なくともその恩恵にあずかっていることも確かである。多くの人は加害者でもあり被害者でもある。
加害者であり被害者でもある多くの人たちが、こういった社会問題にどう関心を持ち続けられるのか、投げかけられている。それこそエンタメが担える役割なのかもしれませんね。
松本 押し付けがましい深刻なトーンで描かずに、一番届けたい人たちに届けたい形を取れる。エンターテイメントの可能性はすごくあるんじゃないかな。教養のある高尚なものを好む人は侮りがちですが、バカにしちゃいけないですよね。
なにを持って「いい作品」と言えるのか難しいですが、『天空の蜂』は社会に「あったほうがいい作品」なのかもしれません。
「いい作品」ってなに?
開沼 何をもって「いい作品」とするのか。『天空の蜂』は、原発と自衛隊という、簡単に押しつけがましいイデオロギーと結びつけることができるテーマを扱っているのに、まったく押しつけがましさがありませんでした。イデオロギーを主張するような作品ではなかった。
でも、「押しつけがましい」は「いい作品」の要素の一つになり得ます。世界で一番売れている本は聖書・聖典ですが、言ってしまえば、これは押しつけがましさの塊ですよね。善い行い、真なるものや美しいものは何か。何を着て何を食べたらいいのかというものまで示している。そうであるから、魅力的なのです。
ですが、現実はそんな単純に善か悪かで割り切れるものではありません。答えが出てこないあいまいさにあふれている。だからこそ豊かで面白い。答えを与えてくれない「おしつけがましくない」作品も「いい作品」と言えるのかもしれません。
松本 私は割と思想の強い家で育ったんですが、思想って答えがあるじゃないですか。なにかしら意見を持つことは私の家ですごく「いいこと」とされてきたんです。
でも、福島の取材をしていて感じたのは、世の中は複雑で、色んな人がいるという当たり前のことです。
原発だって、事故が起きて危険だと分かった。でもなかなかなくせない。それは原発立地地域の人たちが「権力に流されている」とか「保守的なしがらみがある」とか「勉強が足りない」からではないんです。複雑な状況がからみ合ってそれで生計を立ている人たちが多くいるからです。
そこで生きている人にも生活があって、産業は実際に必要だし、子どもを大学に行かせたいから給料が欲しい、とか色んな思いがあるでしょう。放射能や原発のことについても、一番にリスクを追う現地の住民の方は、東京にいる私達よりも、ずっとずっと勉強している。そういう人たちをイデオロギーで批判していいのかって思うんです。
本当は、慎重に考えたい問題なのに、踏み絵のように「どっちが正しいのか言え」と迫る状況があると思います。しかも、それを原発立地地域の人たちにより強く押し付けて、自分の考えと違っていたら厳しい目を向ける。
この映画は「原発」や「自衛隊」といったテーマを扱っていながら、主張がない。だから、モヤモヤする。でも、大事な問題なんだから、モヤモヤするのが当然なんです。私はちょっと映画をみて反省しましたよ。
開沼 社会派映画としてみたときに、反省させられる映画と、団結・連帯できる映画とがあるんです。『天空の蜂』は前者でしょうね。で、団結・連帯できないからモヤモヤ感がある。
エンタメ映画とゴニョゴニョ感
開沼 大衆向けエンタメ映画とインテリ向け教養映画に、あえて映画を分けるのであれば、前者の方が分かりやすくお決まりのパターンで、後者はスッキリせずにゴニョゴニョと最後まで分からないというイメージがあるかもしれません。
でも、最近はインテリ映画の方がスッキリして、主張を押し出すものになっているのかもしれない。むしろ、エンタメ映画の方がスッキリせずにゴニョゴニョしているものが増えていると思うんです。特に3・11以後、原発に関するものもそうでないものも、かなりの数の映画を見てくるなかでそういう感覚を持っています。
松本 ああ、よくわかります! ゴニョゴニョさせるからこそ、色んな人が観られる映画になっている。『天空の蜂』も社会派というだけの映画じゃないから、エンタメとして楽しみたい人も受け入れられる。
開沼 なぜそうなるかといえば、社会自体がゴニョゴニョしている。人の生き方が多様化し、社会の先行きが見えづらい中で、価値観が分かりづらくなって、微妙な空気の読み合いになっている。そこで、当初自明だった「エンタメ映画=正義・悪とか分かりやすい」VS「教養映画=色々あいまい」という構造の逆転が行われているのではないか。分かりやすい正義を大衆の方が受け入れられなくなっている。
当然ですが、大衆感覚の方が社会をリードしています。もし、この映画がヒットするのであれば、エンタメの中のゴニョゴニョ感に価値を見出している人が沢山いるのでしょう。
松本 エンタメは普段見ない人も見て欲しいですね。『天空の蜂』私は観て良かったです!
『天空の蜂』9月12日(土) 全国ロードショー
出演:江口洋介、本木雅弘、仲間由紀恵、綾野剛、柄本明、國村隼、石橋蓮司、佐藤二朗、向井理、光石研、竹中直人、やべきょうすけ、手塚とおる、永瀬匡、松島花、落合モトキ、石橋けい 他
監督:堤幸彦
原作:東野圭吾「天空の蜂」講談社文庫
主題歌:秦 基博「Q & A」(オーガスタレコード/アリオラジャパン)
脚本:楠野一郎
音楽:リチャード・プリン
配給:松竹
公式サイト:http://tenkunohachi.jp/
9月12日(土) 全国ロードショー
(c)2015「天空の蜂」製作委員会
プロフィール
松本春野
1984年東京都生まれ。絵本作家・イラストレーター。多摩美術大学油画科卒業。
これまで、映画「おとうと」(2009年公開・山田洋次監督作品)題字・ポスターイラストやNHK Eテレ「モタさんの“言葉”」(2012年〜2014年放送)作画、『熱風』(スタジオジブリ)表紙イラストなどを担当。絵本の著書に、『地震の夜にできること。』(角川書店)『ふくしまからきた子』『ふくしまからきた子 そつぎょう』(岩崎書店)『Lifeライフ』(瑞雲舎)『モタさんの“言葉”』シリーズ(講談社)『おばあさんのしんぶん』(同)などがある。
開沼博
1984年福島県いわき市生。立命館大学衣笠総合研究機構特別招聘准教授、東日本国際大学客員教授。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『はじめての福島学』(イースト・プレス)、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義 』(幻冬舎)、『「フクシマ」論』(青土社)など。共著に『地方の論理』(青土社)、『「原発避難」論』(明石書店)など。早稲田大学非常勤講師、読売新聞読書委員、復興庁東日本大震災生活復興プロジェクト委員、福島原発事故独立検証委員会(民間事故調)ワーキンググループメンバーなどを歴任。現在、福島大学客員研究員、Yahoo!基金評議委員、楢葉町放射線健康管理委員会副委員長、経済産業省資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会原子力小委員会委員などを務める。受賞歴に第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞、第36回同優秀賞、第6回地域社会学会賞選考委員会特別賞など。