戦争の「犠牲」のリアリティー:当事者不在の政治の行く末にあるもの

昨年、ロッキング・オン・グループから不定期に刊行されている雑誌『Sight』が「老人が始めた戦争で死ぬのは若者」というタイトルの特集を組み、戦争への不安感や危機感に直面する情況を問うた(注1)。私はこれまで沖縄を中心に戦争体験の聞き取りをしてきたが、当時若者だった戦争体験者からも同様の言葉を何度か聞いたことがある。

 

本稿では、アジア・太平洋戦争(1941~45年)、とりわけ沖縄戦(1945年)の歴史的事実を踏まえて、政治的決定権という観点から、この言葉のリアリティーを今に引きつけて考えてみたい。

 

 

戦争で死んだのは誰か?

 

まず、72年前に終わった戦争について、はたして本当に若者の戦死者が多かったのか、人口統計データにもとづき検証してみよう。

 

図1は、1945年11月の沖縄を除く日本全国の人口ピラミッドであるが、その山型の一部がごっそり崩れ落ちているのが見て取れる。大きくえぐれている部分は、日中戦争、アジア・太平洋戦争期に徴兵された年齢層に該当し、ほぼ大正時代に生まれた男性と重なる。大正生まれの戦争体験者は「私たちの世代が一番戦争の割を食った」とよく口にしたものだが、当時の若者たちの言葉に誇張はないことを人口統計データが証明している。

 

 

image001

図 1:1945年11月の「本土」の人口ピラミッド(注2)

 

 

たしかに、当時の若者たち(1945年時点の20代と30代)の人口減少数は際立っており、その数は約227万5000人に及ぶ(注3)。戦争以外の要因での人口減少も含まれようが、この世代だけで200万人以上の男性が戦死したことは間違いなく、これは日中戦争とアジア・太平洋戦争における軍人軍属等の戦死者約230万人(注4)の大多数を占めている。巷では「人生25年」と言われた時代であった。

 

1945年3月下旬から6月下旬にかけて日米両軍の間で展開された沖縄戦もまた、若い世代に甚大な人的被害をもたらした。図2は、図1とほぼ同時期の1945年12月の沖縄本島(沖縄島)の人口ピラミッドである。戦前の沖縄でも、若年齢層から高年齢層に向けて段階的に少なくなっていくピラミッド型の人口構成がほぼ保たれていたが、4人に1人が命を落としたといわれる沖縄戦を経て、その形状は一変した。そのいびつな形から男女ともに全世代で極端に人口が減ったことがうかがわれるが、特に21~45歳の男性、そして1~5歳の子どもの減少が著しい。

 

この文字通り崩れ落ちた人口ピラミッドの向こう側から、大規模に住民を巻き込んだ沖縄戦がどのような戦争であったのか、誰が戦場で死んでいったのかが浮かび上がってくる。

 

 

image003

図 2:1945年12月の沖縄本島の人口ピラミッド(注5)

 

 

地上戦という体験

 

アジア・太平洋戦争末期の日本国内で、住民を巻き込んだ日米の地上戦という想定されていた最悪のシナリオが現実化したのは沖縄と硫黄島だけであった。1945年2月から3月にかけて地上戦が展開された硫黄島では、開戦前までに島民の大部分が強制的に疎開させられ、実際に地上戦に動員されたのは軍属として残存した島民100人余りであったが(注6)、沖縄では50万人以上のありとあらゆる世代が戦闘に巻き込まれた。

 

アジア・太平洋戦争中、近代兵器で立ち向かってくる敵兵相手に民間人が竹槍を振らされ、自爆攻撃まで強いられた地域は、日本国内では沖縄しかない。最前線へと無防備に投げ出された人びとが、老若男女を問わず、日々の暮らしの場で殺されていったのである。その大半は米軍の無差別爆撃による被害者であったが、日本軍によって直接的・間接的に死に追いやられた人も少なくなかった。

 

 

image005

図 3:沖縄戦における戦死者の内訳(沖縄県推計)

 

 

図3の通り、1945年の沖縄戦による日本側の戦死者の半数は一般住民であった。日中戦争とアジア・太平洋戦争全体では、日本人の戦死者の比率は軍人軍属の3に対して民間人が1(約230万:約80万)であるので、沖縄戦の1対1という数値は突出している。民間人の戦死者数は9万4000人と推計されているが、戸籍などの基礎資料が沖縄戦で灰燼に帰したためいまだ正確な数は明らかになっておらず、実際はその数を上回るともいわれている。

 

「本土」でも、空襲や原爆投下などによる民間人の戦争被害が大きかったことはいうまでもないが、それは都市部に限定的なものであった。「本土」の戦災死没者(民間人)は約50万人と推計されているが(注7)、これは当時の「内地」の人口総数の1%に満たない数である。徴兵年齢層の男性を除けば、多くの日本人は地上戦の戦場から遠い「銃後」にいた。「本土」は、前線と「銃後」の境界が消失し、戦闘員と非戦闘員の区別が曖昧化する沖縄戦のような事態を経験することはなかった。

 

 

若者が死んでいった戦争

 

図4は、平和の礎に刻銘された沖縄出身者の年代構成である。平和の礎とは、沖縄県糸満市の摩文仁に存在する、沖縄戦の戦死者の個人名がすべて刻まれた刻銘碑である。ただし、沖縄県出身者に限っては、沖縄戦の範囲を越え、満州事変に始まる15年戦争全体の戦死者・戦争関連死者が対象となっているが、沖縄出身刻銘者の8割以上が沖縄戦関連の死者である。2012年6月23日現在で14万9246人の沖縄出身者が刻銘されており、図4ではその内年齢が確定・推定できる14万175人から年代構成を割り出した。

 

 

image007

図 4:平和の礎の沖縄出身刻銘者の年代構成(注8)

 

 

この図からも、沖縄戦の人的被害が若い世代に集中していたことが見て取れる。20代以下の年少世代が年齢のわかる刻銘者の54%を占めており、沖縄戦では子どもや若者の人的被害が大きかったことが明らかである。図4に見られるように、沖縄戦は、若い世代の大量死が短期間で発生した逆縁の極みであった。

 

 

image009

図 5:沖縄戦で戦死した新潟県出身者の年齢構成(注9)

 

 

これは、沖縄出身者に限ったことではない。沖縄戦に動員された「本土」出身の軍人軍属に関しても、そのほとんどは20代の若者であった。沖縄戦では、7万3000人以上の本土出身者が動員され、その内の約9割が戦死している。その全体の年齢構成は明らかになっていないため、ここでは、参考までに新潟県出身の沖縄戦戦死者(1109人)のデータを提示したい。図5の通り、22歳の165人を頂点として、20代が全体の7割近くを占め、10代の戦死者も82人いる。最年少は15歳である。それに対して、40代以上は17人に過ぎない。戦死者の平均年齢は26歳であった。

 

以上のデータから、冒頭に挙げた「老人が始めた戦争で死ぬのは若者」という言葉の後半部分が、キャッチフレーズでも偏った主張でもなく、少なくともアジア・太平洋戦争に関しては歴史的な事実であることがはっきりした。戦前の日本で「一銭五厘」と揶揄された兵隊の命の値段であったが、その言葉通りに、多くの若者が消耗品扱いされ、死んでいったのである。【次ページにつづく】

 

 

◆◆「αシノドス」購読でシノドスを応援!◆◆

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.228 特集:多様性の受容に向けて

・安藤俊介氏インタビュー「『許せない』の境界を把握せよ!――アンガーマネジメントの秘訣」

・【PKO Q&A】篠田英朗(解説)「国連PKOはどのような変遷をたどってきたのか」

・【今月のポジだし!】山口浩 ことばを「『小さく』すれば議論はもっとよくなる」

・齋藤直子(絵)×岸政彦(文)「Yeah! めっちゃ平日」第九回:こんなところでジャズ