専門分化の「帰結」 ―― 専門家の3つの「受難」

R・バックミンスター・フラーの「宇宙船地球号操縦マニュアル」に、「専門分化の起源」と題した章がある。原著では「Origins of Specialization」で、いうまでもなくダーウィンの「種の起源」(Origins of Species)をもじったものだが、もちろん内容は生物学と関係ない。簡単にいえば、専門家たちがそれぞれ自分たちの領域に閉じこもって「専門バカ」となり、ものごとの全体を見ようとしないというタコツボ的状況を批判したものだ。

 

いかにも総合的な知を指向したフラーらしい書きぶりだが、そうした目で現代の状況を見たらさぞかし不満だろう、と想像してみることがある。かつて彼が批判した「専門バカ」たちが跋扈する状況がおそらくあまり変わっていないから、それは当然不満だろうが、それにも増して、現在各所で見られる、専門家たちの「受難」の方が、彼にとっては気になることかもしれない。

 

 

専門家受難の時代

 

ここのところどうも、「専門家」と呼ばれる人たちについては、総じて旗色が悪いという印象がある。「専門家」をどう定義するかにもよるが、とりあえず一般的な意味で「専門家」に分類されそうな職種をいろいろ思い浮かべてみると、仕事が減ったり職を追われたり、はたまた自ら辞める人が相次いで人手が足りなくなったり、相次いで訴訟を起こされたり逮捕されたり、信頼を失ったりといった具合で、とにかくあまりいい話を聞かない。

 

考えてみれば、近代以降はある意味「専門家の時代」だ。もちろん、分業は動物にもみられるし、古代から専門家に分類されるべき数々の職業はあった。しかし、今のように社会の幅広い領域で、体系化された知識や技能の蓄積・伝授のメカニズムと、程度はさまざまだが、そうした知識や技能を一定水準備えた者を認証し、そうした者だけが収益機会を独占できる制度的しくみが整備され、そうした専門家たちが社会を動かすために不可欠なプレーヤーとされるようになったのは、そう古い話ではない。

 

アダム・スミスが「諸国民の富」で分業の発展を分析した18世紀後半は、ちょうど産業革命が本格的に進み始めた時期だ。当時すでに多くの専門家がいたわけだが、その後産業や社会はさらに、そして急速に高度化・複雑化していった。それに伴って、幅広い領域の業務について深い知識や技能をもつ専門家の関与が必要とされるようになり、そのうち重要な一部については資格制度が整備され、現在のような姿になったというわけだ。

 

 

(1)急速な技術進歩という受難

 

しかし現代、とくに20世紀終盤以降は、むしろ専門家「受難」の時代といってもいいような状況がみられるようになった。具体的にはいくつあるように思われるが、ここでは3つあげたい。

 

ひとつは技術進歩だ。これまで一定の知識や技能を備えた人間でなければできなかった仕事の少なくとも一部は、機械によって代替できるようになった。また、高価な機械や技術が低価格化して素人でも簡単に使えるものとなったり、あるいはまったく別の技術に取って代わられ、別の専門家によって担われるようになったりしたケースもある。専門家が介在する必要性が減少ないし消滅すれば、その専門家の収入や仕事が減ったりなくなったりするのは自然な流れだ。

 

たとえば昨今のメディア業界の構造変化の中には、これによるところが少なからずある。これまで多額の資本を必要とし、それゆえに少数者の手に握られていた「伝える」ための技術が、広く利用できる手軽なものになった。

 

このため、それまで結びついていた「作り手」と「伝え手」の分離が進み、後者の付加価値が相対的に低下したわけだ。書籍や雑誌の業界は、その事例のひとつだ。ブログその他でウェブを通して安価に情報が発信できるようになったり、あるいは紙の書籍や雑誌でもネットを通じて販売されるようになったりすると、情報を物理的媒体に固定したり、それを従来のやり方で顧客のもとに届けたりする業務の価値は相対的に下がっていく。

 

本が高価だった中世には、本を修理する専門の職人がいた。また、つい数十年前までは、活字を版に組む仕事はそれなりに高度な技能を必要とする専門職であり、出版ビジネスを支える重要な役割を果たしていた。しかしこうした専門技能は、本を安価につくる技術が発達する過程で次第に必要性が薄れ、それにともなって専門家たちも活躍の場を狭め、失っていった。

 

いま起きていることは、基本的にはそれと変わらない。現在の技術進歩がかつてのそれと大きくちがうのは、そのペースの速さだ。いまは、ひとりの専門家のキャリアより短いスパンでどんどん進んでいく。かつては技術変革期に生れつくという「不運」を負った専門家だけが直面した問題に、現在ではすべての専門家が向き合わなければならない。それがこの受難の本質だ。

 

もちろん、ある技術が用済みになったからといって、それを専門とする人まで用済みになるとはかぎらない。蓄積した知識や技能、あるいは新たな努力をもって、新しい技術の専門家となることもできようし、また別の領域に移っていくことも可能だろう。実例は数多くある。

 

たとえば1993年の映画「ジュラシック・パーク」では、当初予定されていたミニチュアによるコマ撮り特撮が、コンピュータグラフィックスに変更された。しかし、当初の仕事を失った特撮専門家は、コンピュータグラフィックスのモデルをいきいきと動かすための「演技」指導として、その力を発揮することになったという。

 

専門家がもつ知識や技能にはしばしば、それが依拠する技術を超えた一般的な要素が含まれており、他に転用できるケースも少なからずある。そうした機会がすべての専門家に開かれているわけではないが、少なくとも対処のしようがないということではない。むしろ現在では、専門家としてもつべきスキルセットのなかに、技術進歩に対する柔軟性が加わったというべきなのかもしれない。

 

 

 

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