2019.08.01

動物にたいする倫理的配慮と動物理解

久保田さゆり 倫理学

社会 #動物倫理

私たちの社会には、人間の他にも、多くの動物が含まれている。たとえば、犬や猫などのコンパニオン・アニマル(伴侶動物)は、その多くが人間の生活圏の中で生き、人間と密接な関係を築いている。

また、全国にある動物園や水族館(日本動物園水族館協会加盟施設だけでも、2017年7月現在で151施設)では、さまざまな種類の野生動物が飼育・展示されており、私たちはそうした動物を国内の整備された環境のなかで見ることができる。

実験動物や、豚や牛や鶏といった畜産動物もまた、人間社会のなかで生きる動物である。私たちの多くは、かれらが生きている姿を直接に見る機会は少ないかもしれないが、身の回りの製品や、日々の食事などを通して間接的にそうした動物と関わっている。

こうした動物たちのことを、私たちはどのような存在として理解しているだろうか。このことを少し真面目に考えてみることが――動物との向き合い方をめぐる学術的な議論においても、また、私たちがかれらと出会う日常的な場面においても――結局のところ最も大切なのではないか、ということを本稿では述べていこうと思う。

それを通して、「動物倫理」の基本的な考え方が、学問上の単なる抽象的な学説であるわけでも、欧米の新奇な考え方の単なる輸入であるわけでもなく、身近な――意識してみれば、自分のなかにすでにあるような――考えだということを述べたい。

動物をめぐる状況

動物をめぐる状況は、人間によるかれらにたいするこれまでの扱いを反省し、改善していこうという方向に進んでいる。これは海外だけで生じている流れというわけではない。日本では、たとえば犬や猫をめぐる状況が小さくない変化を見せている。とくに大きな関心を引いているのは、殺処分の問題だろう。

環境省がまとめている2004年度の数字では、41万頭以上の犬や猫が自治体に引き取られ、その9割以上にあたる39万頭以上が殺処分されていた。しかし、このように犬や猫が大量に殺処分されている現状にたいして、動物愛護団体だけでなく、殺処分を実際に行わざるを得ない自治体職員や、動物に関心をもつ個々人が疑問の声を上げてきている。

そうした声を受けるかたちで法律の改正も進んでおり、「動物の愛護及び管理に関する法律」の2012年改正(次回改正予定は2018年)では、自治体が、犬猫の引取りをその所有者から求められたときに、相当の事由がない場合には「引取りを拒否することができる」と定められた。また、「殺処分がなくなることを目指して」、自治体が、引き取った犬猫の返還や譲渡に努めるよう明記されてもいる。

加えて、「人気のある品種」の犬や猫をペットショップで購入するのではなく、愛護センターや譲渡会を通して犬や猫を迎えるように呼びかける活動〔たとえば、フリーペーパー「ペットショップにいくまえに」など(http://bikke.jp/pet-ikumae/ 参照2018年7月20日)〕や、野良猫の数を、殺処分によってではなく、繁殖を防ぐことで時間をかけて減らしていこうという「地域猫」の取り組みも盛んになっている。

地域猫活動とは、いわゆる「無責任な餌やり」ではなく、その地域に住む野良猫を一時保護し(T:Trap)、不妊去勢手術を施し(N:Neuter)、元の地域に戻す(R:Return)というTNRを主軸に、地域住民が、餌やりと糞尿等の清掃を含めた適切な世話を行うというものである。この活動は、これ以上猫が繁殖してしまうことを防ぎながら、今いる猫たちがその生をまっとうできるよう助け、また清掃による地域の生活環境保全によって住民間のトラブルを防ぐことを目的としている。

こうした取り組みのおかげもあり、2016年度には、犬猫の引取り数は113,799頭、殺処分はそのおよそ半数にあたる55,998頭と、いまだ多くの犬や猫が命を落としてはいるものの、以前と比べて大幅に殺処分数・殺処分率が減少してきている。

さらに、実験動物や動物園の動物や畜産動物の状態にたいしても目が向けられるようになっている。たとえば畜産動物に関しては、1964年に出版されたルース・ハリソンの『アニマル・マシーン――近代畜産にみる悲劇の主役たち』や、1975年に第1版が出版されたピーター・シンガーの『動物の解放』といった著作において、現代的集約型畜産の実態が広く知られたのを契機に、飼育環境の改善が求められるようになってきた。

現代の集約型畜産は、過密飼育によって、消費者の需要に合わせた均質な生産物を、効率的に大量生産することを目指す飼育方式である。そうした飼育方式のもと、畜産動物たちは、人工的に、急激に体重を増加させられることに起因する疾病や負傷などに苦しみ、狭い空間に詰め込まれて満足に体を動かす自由すらないまま一生を終える〔具体的な状況についてここで詳しく触れることはしないが、とくに日本の状況については、佐藤衆介2018「生きているウシ・ブタ・ニワトリについて思いを馳せてみませんか」打越綾子編『人と動物の関係を考える――仕切られた動物観を超えて』第2章を参照〕。とくに欧州において、こうした飼育状況が知られることで批判が高まり、産卵鶏のバタリーケージ飼育や妊娠豚のストール飼育の禁止などが法律で定められている。

こうした動きの背景には、さまざまな要因があるだろう。本稿で注目したいのは、こうした動きの背景にあると考えられる――あるいは、こうした動きと調和する――動物にたいする理解である。それは、人間が好きに利用してよい単なる「道具」や「手段」や「物」といった理解ではない。そのような理解では、動物が苦しんでいても、そもそも動物のそうした状態にたいして気を配るべきかどうかという問いすら生じなかったかもしれない。

そうではなく、動物の状況に私たちが問題を見いだす際、その背景には、動物を、かれら自身の生をもつ「個々の動物」として見る理解がある。そうした理解においては、動物がたんに「命」であるという抽象的な理解にとどまらず、それぞれ個々の動物が、自身の生を生き、苦しんだり喜んだり、何かを怖がったり期待したりしているという、その具体的な状態に目が向けられている。

倫理学は動物の問題をどう論じるか

倫理学の関心は、伝統的には、主に人間にあったといえる。つまり、倫理学は、人間を対象とする行為の倫理的是非について検討してきた。それにたいして、動物倫理の議論は、人間以外の動物も倫理的配慮の対象であり、動物にたいする人間の行為や制度に関しても、その倫理的是非が問われうるのではないかという疑問を提示している。

人間だけを倫理の範囲に含めることに疑問を投げかけてきた主な倫理学の立場が功利主義であり、現代におけるその代表的な論者が、ピーター・シンガーである〔戸田清訳2011『動物の解放 改訂版』〕。功利主義においては、大まかに言えば、倫理的によい行為とは、世界のなかで生じる幸福の総量を最大化する行為である。功利主義に基づけば、自分の行為によって影響を受けるすべての存在にもたらされる幸不幸――福利(welfareやwell-being)とも呼ばれる――を考慮に入れて、その差し引きを計算し、もたらされる幸福が最も大きくなるような行為を私たちは選択するべきである。

幸不幸にはさまざまなものがありうるが、最も基本的なのは、快楽と苦痛である。私たちにとって、基本的には、快楽は手に入れたい、よいものであるし、苦痛は避けたい、悪いものである。このとき、快楽がよいもので苦痛が悪いものであるのは、なにも人間に限ったことではない。人間以外の多くの動物もまた、快や苦を感じる能力をもっており、それらを得ようとしたり避けようとしたりする。そうであるなら、動物の感じる苦痛についても倫理的な考慮に入れる必要があるはずである。

シンガーは、この考えを「利害にたいする平等な配慮」の原理と呼び、動物がもつ(苦しめられたり痛めつけられたりしないという)利害を、それが動物のものだからという理由で考慮に入れないのは、ちょうど、性別や人種を理由に誰かを不利な仕方で扱う性差別や人種差別と同じ形の、「種差別」だと主張する。

苦痛は、それを感じる能力があるどの存在にとっても悪いものであり、誰かに苦しみをもたらすことは、基本的には、倫理的に非難されるような行いである。シンガーの主張は、苦痛が倫理的に重要であるならば、動物が被ることになる苦痛をも私たちは考慮に入れるべきであり、もし、人間が自分たちの些末な利益のために、動物に多大な苦痛をもたらしているのなら、そうした行為をやめるべきだというものである。

功利主義に基づくシンガーの議論では、人間が得る利益が動物の被る苦痛を上回る場合には、動物に苦痛を与えることは許容されることになる。これとは別の主要な議論として、義務論という倫理学上の立場から動物の扱いについて論じるものがある。その代表的論者であるトム・レーガンは、人間だけでなく他の動物のなかにも、「固有の価値」をもつものがおり、そうした存在はその価値を尊重したかたちで扱われる権利があると主張する〔青木玲訳1995「動物の権利の擁護論」『環境思想の系譜3――環境思想の多様な展開』〕。

少なくとも一部の動物は、ただたんに生きているだけではなく、何かを欲求したり、その欲求のために何か行動を始めたりする能力をもっている。また、過去の記憶や未来の感覚をもち、快苦の感覚を含む情緒的生活を送っている。そうした存在には、他者の利害や欲求とは独立の――つまり、他者の好きなように扱われたりしない――その存在自身にとってよいことや悪いこと(福利)がある。この点で、ある種の動物は、人間を倫理的に重要な存在たらしめているものの一部を人間と共有している。

レーガンの主張は、たとえ他の誰かの利益になることでも、そうした存在の価値を損なうような扱いをすべきではないというものである。そのため、この立場によれば、動物を殺して食べたり毛皮にしたりすることや、野生動物を狭い檻に閉じ込めて観賞することなどは、たとえそれによって利益を受ける人が多くいたとしても、動物の権利を侵害することであり、倫理的に許容されないことになる。

また、徳倫理という倫理学の立場が近年注目を集めているが、この立場は、動物がもつ能力だけに注目するのではなく、そうした能力をもつ存在に向かい合うときの、人間の徳性に注目する。徳倫理にはさまざまな立場があるが、現代の代表的な論者であるロザリンド・ハーストハウスは、どのように行為すべきか決める際には、その行為に伴う動機や感情の適切さも含め、有徳な人ならばどのように行為するか、その行為はどのような言葉で表されうるかを考えるべきだと主張する。

動物との関連で言うと、たとえば、必要性がないにもかかわらず、動物にたいしていたずらに苦痛を与えたとしたら、それは残酷で、正当化できない行為だとみなされる。反対に、道端で苦しむ動物を見つけたときに、その苦しみに心を痛めてその動物を助けることは、多くの場合、思いやり深いとみなされる。ハーストハウスの議論は、行為にたいする強い禁止を導くようなものでは(おそらく)ないが、私たちが倫理的な判断を行う際に重視している事柄を捉えるものになっている。

このように、倫理学にはさまざまな立場があり、小さくない対立もあるが、どの立場も、「ある状況である倫理的判断を下したならば、それと道徳的に重要な点で違いのない状況においては、同じように判断を下すべきだ」という、判断の一貫性を重んじる点では一致している。そのため、もし私たちが、痛みや苦しみを感じるということを道徳的に重要な特徴だと考えるなら、痛みや苦しみを感じる存在すべてにたいして、少なくとも一定の倫理的な重みを認めるべきだ、ということになる。

もうひとつ、本稿でより強調したいのは、ここで概観したどの倫理学説においても共通して重視されている次の2つの事柄である。それは、第一に、動物を「個々の存在」として見る視点である。どの立場においても、目が向けられているのは、私たちの行為によって、個々の動物に何がもたらされるかということなのであって、かれら動物は、たとえば種全体として捉えられているのではない。配慮の対象は、具体的な個々の存在である。その点で、動物倫理の議論は、自然環境や生態系といった対象の保全を目的とする「環境倫理」とは、本質的に関心を異にしていると言える。

第二に、感覚を備える動物が苦しみうるということ、そしてそうした苦しみは私たちの倫理的判断に影響を与えるはずだという考えは、どの立場にも共通のものである。そしてこのこと自体は、功利主義や義務論といった特定の倫理理論に必ずしも依拠するわけではなく、日常的な、私たちの経験に根差した考え方である。

動物倫理の考え方は、本来、一部の活動家が信じる有無を言わせない理想のようなものではないし、動物に人間と同等の権利を確立すべきだというような主張である必要もない。そうではなく、その基本は、自分の行為が他者に危害をもたらしうるなら、それを避けようと真剣に考え、動物の苦しみや、苦しみがもつ倫理的な重みについて、真剣に考えるということである。私たちはそれを出発点に、個別の具体的な状況のなかで、動物にたいしてどのように向き合うべきかを考えることができる。

日常的な動物理解の間の齟齬

動物倫理の議論で重視されるのは、まず、動物を個々の存在として捉える視点である。そして、誰かに正当な理由なく苦痛を与えるのは倫理的に問題があるという考えであり、動物のなかには、苦しんだり喜んだり、何かを怖がったり期待したりといった、豊かな内面的状態をもちうるものもいるという理解である。そうした基本的な考え方は、初めに述べたような、動物をめぐる社会的変化を支えるものにもなっているだろう。

しかし他方で、現実には、そうした動物理解とは相容れないような扱いを受けている動物がいるのも事実である。たとえば、豚や牛や鶏などの畜産動物は、「アニマルウェルフェア」ないし「動物福祉」という考えのもとで、たしかに、「生きている間」の福利の向上が目指されはじめているが、結局は、人間に殺されて食べられている。これは、殺処分を避けるためにさまざまな取り組みが行われている犬や猫とは、大きく異なる扱いである。また、とくに日本や欧米などでは、犬や猫を食べるという考えにたいして強い抵抗感が示されるのが普通である。

こうした扱いの違いを考えると、結局のところ、動物にたいする倫理的配慮という考え自体、犬や猫を好きな人が自分の都合で主張しているだけの、恣意的なものだと言いたくなる人もいるかもしれない。倫理学において判断の一貫性が重要視されると述べたように、たしかに、犬や猫も豚や牛や鶏も、苦痛や恐怖を感じたり、喜びや期待に溢れていたりといった内面的な豊かさをもつという点には違いがないのだから、これほどまでに扱いが異なるのはおかしいと言えそうである。

では、一貫性を重視するとすれば、どちらの態度が選ばれることに――どちらの態度を他方の対象へと広げていくべきだということに――なるだろうか。先に見た倫理学の議論に基づけば、豚や牛や鶏を食べるために殺すことの方が倫理的に維持できない扱いということになるのは、ほとんど確かである。

他方で、私たちの多くがそうした発想をもちにくいのだとすれば、それはなぜなのだろうか。人の考え方や生き方は一貫しないものだし、人はそれほど倫理的にはなれない、と諦めてしまう方がいいと思う人もいるかもしれない。しかしながら、ここでもやはり、私たちの動物理解を手がかりにすることで、もう少し別の仕方で、動物にたいする扱いや態度をめぐるこうした齟齬を捉えることができると思われる。

おそらく一方では、私たちは、豚や牛や鶏についても、かれらが苦しみや喜びといった豊かな内面をもちうる存在だという動物理解をすでにもっている。犬や猫とは違って身近に接することが少ないため、畜産動物の内面について考える機会はあまりないかもしれない。しかし、かれらについて少しでも思いをめぐらせてみると、かれらの倫理的な重要性に気づかせるそうした理解は、否定しがたいものであるはずである。

他方で、畜産動物に関しては、ここまで見てきた動物理解を妨げてしまうような、別の理解や考え方もまた存在していると考えられる。以下では、簡単にではあるが、そうした理解や考えとして、代表的だと思われる2つを検討したい。

ひとつは、生物はみな「同じ命だ」という考えである。一見すると、この考えは、動物を大切にすることにつながりそうだが、とくに動物を食べることの是非をめぐる文脈では、その逆に働く傾向にある。というのも、こうした言葉は、「動物も植物も命である。私たちが生きるには、他の命を犠牲にせざるを得ない。そうだとすれば、植物を食べることは許され、動物を食べることは許されないと考えて、動物だけを特別視するのは正しくない」と主張するために用いられることがあるからである。

たしかに、植物は生物であり、「命」であるという点では人間も動物も植物も同じだと言える。植物もただの「物」とは異なる存在であり、むやみに傷つけたり破壊したりすべきではないというのはもっともかもしれない。しかし他方で、「命を大切にしよう」と言われるときに考えられているのは、たんに生物であるがゆえに大切だということなのだろうか。

少なくとも豚や牛や鶏などの動物の死は、植物とは異なり、苦痛を伴うだけでなく、喜び、興奮、期待、満ち足りた気分といった、私たちが自分や他者のなかに見いだしている重要なものの途絶も意味する。そうした特徴こそ、命が大切なものだと私たちに気づかせるものであり、人間とも共有されているものである。このように考えていくと、植物が枯れることと動物が死ぬことが、本当に同等だとみなされていると考えるのは難しいのではないだろうか。

また、たしかに私たちは、他の命を犠牲にすることなしに生きることはできない。しかし、そうした犠牲を本当に真剣に受けとるならば、少しでも犠牲を減らそうというのが素直な発想のはずである――少しでも犠牲が生じてしまうなら、いくら生じても同じだというのは、あまりに投げやりな考え方だろう。少なくとも、これほどまでに多くの動物を犠牲にしなくても人間は生きていけるのだし、畜産動物を育てるためには大量の植物の命が必要になる。

つまり、健康に生きるために動物を食べることがもし必要だとしても、動物を食べるのは本当に必要な分だけにして、植物を主に食べるようにすれば、生じる犠牲はずっと小さくできるのである。そうだとすれば、仮に「命」の重みが等しいという考えを真面目に受けとるとしても、動物も植物もどちらも区別なく犠牲にするという選択には無理があるだろう。このように、「同じ命だ」という言葉を掘り下げて考えてみると、「それゆえ、動物も植物も同じように扱わなければならない」ことになると主張するのは、難しいように思われる。

ふたつめは、畜産動物について言われる、人間が「食べるための存在だ」という理解である。こうした理解によって、多くの人は、動物の被る苦痛には関心を向けながらも、食べるために殺すということ自体に疑問を感じないのかもしれない。あるいは、豚や牛や鶏が「食用」であることは社会的に認められているにもかかわらず、倫理的な問題があると突然指摘されることに、反発を覚えるかもしれない。

しかし、「食べるための存在」という理解は、実際のところどのようなものなのだろうか。食用に適するように交配されていったからといって、その存在がもつ「何」によって、その存在は食べるための存在になるのだろうか。たとえば、ある犬種に、食用犬として飼育されてきた歴史があり、その後ろ脚が棒状になっているのは、食用に適するように運動能力を低くするためであったとしよう。だが、その特徴が、その犬を、たとえば柴犬とは違う「食べるための存在」にするだろうか。

こうした考えに無理があると思われるのは、どのような目的でその形質が変化させられてきたとしても、その犬も柴犬も、それとは独立に、それぞれ自身の生をもっているからである。たとえば物を切る目的で作られたハサミであれば、「物を切るための存在」だと言ってもいいだろうし、ハサミに関して重要なのは物を切るのに適しているかどうかだけだと言ってもいいかもしれない。

しかし、犬や猫や豚や牛や鶏などは、そうした存在とは異なる。かれらには、それぞれ自身にとっての幸せなあり方があり、それぞれが一個の「動物」として、喜びや期待をもって生きている。そうした特徴をもつ存在について、人間の「食べたい」という目的のための「道具」として存在しているとみなすことができるのかは、食生活に関して慣れ親しんできた思い込みから離れて、考え直す必要があるだろう。

倫理学は、私たちが当たり前のように受けいれているさまざまな理解について、その根拠を、いったん立ち止まって、もう一度よく考えてみようとする。ここで述べてきたように、動物にたいして倫理的配慮をする必要があるという考えは、動物の苦痛や喜びがもつ倫理的な重みを根拠にしている。ここで根拠の有無や是非が問われているのは、豊かな内面をもつ動物の生を、植物の命とひとまとめにする理解や、動物を食べ物として見る理解の方だと言える。

もちろん、豊かな内面をもつ存在として動物を理解することが、肉食をやめるべきだという倫理的判断に直ちにつながるわけではない。しかし、人間にたいするものを含めた日々の倫理的な配慮のあり方をふり返ると、相手にたいするそうした理解はたしかに重要な役割をもっている。動物にたいするふるまいについて、倫理的な観点から考え直す必要があるということもまた、否定しがたいだろう。

動物倫理の学術的な議論はすでにかなりの蓄積があり、現在も盛んである。その論点も多岐にわたっている。もちろん、個々の論点については対立もある〔より詳しく知りたい場合には、日本語の本として、伊勢田哲治2008『動物からの倫理学入門』や2015『マンガで学ぶ動物倫理――わたしたちは動物とどうつきあえばよいのか』を参照してほしい〕。しかし、その議論に共通しているのは、本稿で見てきたように、動物の苦しみや喜びについて真面目に考えるということであり、また、自分自身の考え方のなかにある齟齬を少しでも解消し、自分にたいして少しでも誠実に生きようという姿勢である。動物倫理のこのような基本的な考え方が、本稿を通して伝わればと思う。

プロフィール

久保田さゆり倫理学

千葉大学アカデミック・リンク・センター特任研究員。専門は倫理学、とくに動物倫理。千葉大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程修了(博士(文学))。博士論文「動物の倫理的重みと人間の責務―動物倫理の方法と課題―」、その他論文に「動物倫理における文学の役割」(『倫理学年報』第63集、2014年)等。

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