2020.01.07

ネットは社会を分断しない――ネット草創期の人々の期待は実現しつつある

田中辰雄 計量経済学

社会

1.ネットが社会を分断する?

インターネット草創期の人々は、ネットは人々の相互理解を進め、世の中を良くすると期待していた。時間と空間を超えて多くの人が意見交換すれば、無知と偏見が解消され、世界はよくなっていくだろう、と。しかし、今日、ネットで我々が目にするのは、罵倒と中傷ばかりの荒れ果てた世界である。相互理解に資する建設的な会話はほとんど見られない。ネトウヨ、パヨクという侮蔑語が示すように、人々は相反する二つの陣営に分断され、果てしなく攻撃しあっているように見える。

ネットとはそういうものだという、あきらめに似た見解もひろがってきた。人間にはもともと自分と似た考えの人や記事を選ぶ傾向があり、それは「選択的接触」と呼ばれている。ネットでは情報の取捨選択が自由にできるため、この選択的接触が非常に強まる。自分と同じ意見の人をツイッターでフォローし、フェイスブックで友人になり、自分と似た見解のブログを読めば、接する情報は自分の意見を補強するものばかりになる。

同じ情報ばかりに囲まれると人々の意見は補強され、過激化していく。これはエコーチェンバー現象を呼ばれる現象で、ネットではそれが大規模に起きているのではないかというのである。もしそうなら、ネットのせいで過激な考えの人が増え、社会は極端な意見に分断されていくことになる。これは民主主義にとって望ましい事態ではない。

ネットは自由な言論の場である。その自由な議論の結果として分断が生じていることに注意しよう。誰も何も強制したわけではなく、意図したわけでもない。インターネット草創期の人々は自由な言論が広がることで、人々の相互理解が深まり、民主主義が良い方向に発展する事を期待していた。しかし、自由な言論が分断を生み、民主主義に悪影響を及ぼすとすれば嘆くべき事態である。昨今のネットをめぐる議論には、自由な議論の場が分断を生んだという悲観論のようなものが透けて見える。ネットの自由で我々が手にしたのは相互理解の世界ではなく、果てしない分断の世界ではないか、と。

しかしながら、である。ここで、ネットは社会を分断しない、と言ったら読者は驚くだろうか。罵倒と中傷が飛び交うネットが社会を分断していないとはどういうことか、疑問に思う方もおられよう。しかし、事実を詳細に分析していくと上に述べた懸念はあたっていない。ネットは社会を分断しない。以下、我々の研究を下敷きに(注1)、このことを示す3つの事実を示そう。

(注1)田中辰雄・浜屋敏、2019、『ネットは社会を分断しない』角川新書

2.分断が進んでいるのはネットを使わない中高年

まず、分断が進んでいるのは、年齢別に見ると、若年層ではなく中高年だという事実がある。これはネット原因説と矛盾する。ネットのせいで分断が進むなら、ネットを使う若い人ほど分断されているはずなのに、事実はまったく逆だからである。

このことを見るために分断の度合いを図る指標をつくろう。分断は政治的には保守とリベラルの意見の相違が極端になることなので、アンケート調査で人々の保守の度合い、リベラルの度合いを測ればよい。

アンケート回答者に対し「憲法9条改正に賛成か反対か」「原発は直ちに廃止すべきか」「夫婦別姓に反対か賛成か」など、保守とリベラルで対立しそうな10の争点について、強く賛成、賛成、やや賛成、どちらでもない、やや反対、反対、強く反対の7段階で選んでもらう。選択肢は7段階あるので、それらに-3点から+3点まで点数をふり、10の争点への答えの平均値をとる。点数を振る際はリベラルが好む方をマイナスに、保守が好む側をプラスにしておくと、この平均値はその人の政治傾向の大きさを示す数になる。プラスの値が大きいほど保守的、マイナスの値(絶対値)が大きいほどリベラルである。

図1はこの調査を10万人規模で行って得た政治傾向の値の分布である(調査時点は2017年8月、マイボイス社のインターネットモニター調査)。左にいくほどリベラルで、右にいくほど保守で、分布はきれいな山型となり、世の常として中庸な人が多い。分断とは極端な意見が増えることなので、この分布の左右の裾野の部分の人が増えることを意味する。

そこで分断度合いの指標として、この政治傾向の絶対値を使うことができる。絶対値は真ん中の0の点からどれだけ離れているかを示しており、いわば政治的な過激さの指標でもある。この値が大きいほど、分布の両端にいる人が多くなるので、社会は分断されることになる。

図1

図2

この分断度合いを年齢別にわけて描いて見たのが図2である。左から、20代から70代までのバーがあり、これを見ると分断度合いは次第に上昇している。したがって、分断が進んでいるのは中高年である。言い換えると、若い人は図1の政治傾向の分布の真ん中付近に集まるのに対し、中高年は両端の裾野の部分に集まっている。

比較のために男女差をみると、20代と70代の差(0.69-0.54)は男女の差(0.69-0.52)とほぼ等しい。すなわち20代と70代では、政治的過激さの点で平均的な男女の差と同じくらいの違いがある。これはかなり大きな差である。俗に高齢者ネトウヨという言葉があり、高齢者の保守方向への過激化が話題になるが、これが統計上も確かめられる(ただし、高齢者が過激化しているのはリベラル方向でも同じである)。

そして、過激化すなわち分断が進んでいるのが中高年だという事実は、ネット原因説と矛盾する。ネットを長時間見ているのは若い層であるから、もしネットで選択的接触が起こって情報源が偏るのなら、若い人ほど過激化し、分断が進んでいなければならない。しかし、事実はまったく逆なのである。これはおかしい。ネットが原因ならこうなるはずはない。

3.ネットの利用を始めると分断がすすむのか

そもそもネットを利用すると意見が強まって分断が進む、というのは本当なのであろうか。これを確かめるために先に調査した10万人に対し、半年後に再度、同じ調査を行った(回収は5万人)。この間に少数ではあるが、ソーシャルメディアの利用を開始した人がいる。彼らの分断度合いが上がっていれば、ネットの利用開始が原因で分断が進んだことの証拠になる。

これを試みたのが図3である。ソーシャルメディアとしてはツイッター、フェイスブック、ブログをとりあげる。それぞれ週に2~3回以上見る人を利用者と見なし、利用開始前と開始後の分断度合いを比較したのが図の青い実線である。比較対照のために、どのソーシャルメディアも使っていない人の場合もオレンジ色の点線で描いてある。

この図を見ると、フェイスブックの場合、利用開始にともなって分断度合いは0.573から0.559へと低下している。ツイッターでもブログでも、利用を開始した人の分断度合いは低下している。すなわちソーシャルメディアの利用開始とともに過激化するのではなく、むしろ穏健化しているのである。冒頭に述べたこととはまったく逆方向の変化であることに注意されたい。ネットで選択的接触が起こるなら、ネットの利用開始とともに情報源が自分の政治傾向にあうものばかりになり、保守・リベラルどちらかに分断されていくはずである。それなのに、事実は逆であり、むしろ両極端から離れ、穏健化している。

一体何が起きているのであろうか。ネットでは選択的接触が強いので人々の意見が過激化するという話をしていたはずである。あれはどこに行ったのだろうか。そこで、次に選択的接触の実態について調べてみよう。

図3

4.ネットで人は多様な人に接している

選択的接触の度合いを測るため、まず、ツイッターで活発に言論活動をしており、フォロー数も多い論客を27人選んだ。アンケート回答者に対し、フォローしているかどうかを尋ね、彼らの政治傾向の平均値別に並べたのが図4である。

この図でたとえば上から6人目の安倍普三(531)の0.68というのは、安倍普三をフォローしている人が10万人の中に531人おり、その531人の政治傾向(図1での値)の平均値が0.68であったことを示す。この値は安倍普三自身の政治傾向ではなく、彼のフォロワーの政治傾向であるが、選択的接触が働いていれば、その人自身の政治傾向に近くなるだろう。実際、図4で正の値をとった上半分の人を保守論客、負の値を取った下半分の人をリベラル論客と呼んでも違和感はない。以下の分析では論客たちをそのように分類することにする。

図4

選択的接触の度合いを測るには、接する論客が自分と同じ政治傾向かどうかを測ればよい。そこで接する論客のうち、その人の政治傾向の反対の論客の割合を指標に取ろう。たとえば、その人自身の政治傾向がリベラルであって、10人の論客に接しているとする。そのうち7人がリベラル論客、3人が保守論客とすると、自分と反対の論客の割合は0.3すなわち3割である。これは自分と異なる意見の人に接する割合であり、仮にクロス接触率と呼んでおく。クロス接触率が高いほど選択的接触は行われておらず、多様な意見に接していることになる。

このクロス接触率の回答者全体での平均値を求めると、0.389であった。すなわち接するネット論客のうち38.9%、ほぼ4割は自分と反対の意見の人である。残りの6割の人は自分と同じ意見であるから、比率としては同じ意見の人の方が多く、選択的接触は確かに働いてはいる。しかし、その程度は思いのほか弱い。接している論客の4割が反対意見であれば、自分と異なる意見も十分耳に入っているはずである。ランダムに論客を選んだ場合が5割であり、それから1割減っただけである。ちなみに接する論客の9割が自分と同じ意見というエコーチェンバーが起こりそうな人を数えると、全体の1割しかいなかった。

比較のために新聞・テレビでも同じことをやってみよう。図5は新聞・テレビについて同じように政治傾向を測ったものである。すなわち、その新聞を購読している人、そのテレビ番組を良く見る人の政治傾向である。

上から4つのメディアを保守的メディア、下の4つをリベラルメディアと分類することに違和感はないだろう。そのうえで、クロス接触率を計算すると0.373となる。この値はネット論客でのクロス接触率0.389 よりわずかに低い。。さらにクロス接触率がゼロ、すなわち保守メディアのみ、リベラルメディアのみ見ているという人が3割も存在する。したがって、新聞・テレビで情報を収集する人の方が、ネットで情報収集する人よりも自分の意見に似た情報ばかりに接していることになる。

詳細は省略するがブログと紙の雑誌についても同じこと、すなわち、ブログを読む人より紙の雑誌を読む人の方が、情報源が自分の元の政治傾向に偏っている事を示すことができる。たとえば、「チャンネル桜」「厳選!韓国情報」といった保守ブログを見る人で、リベラル系ブログ「リテラ」も見る人が30%近くいるのに対し、月刊Hanada・Will・正論といった保守系雑誌を読む人で、週間金曜日・世界といったリベラル系雑誌を読む人は15%程度しかいない。

図5

選択的接触はむしろリアルの方が高く、ネットでは低いのである。考えてみれば、朝日新聞をとり、報道ステーションを見て、週刊金曜日を読めば、接する情報はリベラル系ばかりである。産経新聞をとり、そこまで言って委員会を見て、正論を読めば保守系の情報ばかりを目にすることになる。リアルの世界ではそのような人がいかにもいそうである。しかし、ネットの場合、そこまで偏る人は実は少ない。

これはネット場合、反対意見に接するコストが低いからと考えられる。リアルでは情報の摂取にコストがかかる。新聞・雑誌は買わなければならないし、テレビはその時間にテレビの前にいなければならない。いずれもコストがかかるのでわざわざ自分と反対の意見の情報を入手しようとは思わない。しかしネットの場合、クリックするだけで、あとは半ば自動的に情報が入ってくる。このコストの低さゆえ、ネットユーザたちは自分と反対意見も含めて多様な情報に接していると考えられる。

ネットを使うと自分と反対の意見を含む多様な意見に接するなら、ソーシャルメディアの利用開始とともに反対意見に触れて穏健化するのは自然である(図3)。またネットに親しむ若い人ほど穏健化するのも当然である(図4)。ここまでの知見は一貫してりおり、ネットは社会を分断しない、という一言に要約できる。

もし、ネットの利用で人々が多様な意見に接し、極端にならずに相互理解を進めているなら、これはインターネット草創期の人が期待した姿であることに注意しよう。ネット草創期の人々の期待は消えたかに見えたが、じつは若い人を中心に実現しつつある。ネット草創期の人々の期待はまだ死んでいない。

5.ネットが荒れているのはなぜか

ネットは社会を分断しないと述べた。しかし、それならなぜネットでの議論は荒れているのかという疑問が出るだろう。ネットが人々を分断するわけではないというのなら、ネットで過激な議論ばかり目立ち、分断されているように見えるのはなぜなのか、と。

答えはまさに「目立つ」、「見える」という部分にある。ネットを利用する人の意見の分布は分断されてはいないが、ネットに現れた意見、すなわち表明された意見は極端な意見になり分断が生じているように見えるのである。図6はこれを描いた概念図である。実線が人の意見分布で、点線がネットで表明される意見分布である。表明される意見が両端に偏ると、人々の意見分布に変化が無くても、ネット上では意見が分断されるように見える。

図6

実際にこういうことが起きているかどうかを事例で示そう。例として憲法9条改正問題をとりあげる。憲法9条改正問題について、過去1年間にネット上に何回書き込んだかを答えてもらった。アンケート対象者数は19,000人で、調査時点は2019年5月である。図7がその結果で、人数ではなく総書き込み数の分布を表している。たとえば、過去1年間に4回から6回書き込みをした人は(括弧内に示したように)93人いるので、彼らの総書き込み数はおよそ5回/人×93人=465回となる。この総書き込み数の分布を描いたのが図7である。

ここで注目してほしいのは、一番下のバーが50%で他を圧して高いことである。一番下は過去1年間に60回以上書き込んだことがある人である。1年間に60回も書きこんだということは政治的に強い意見の持ち主で、実際、彼らの分断度合いを測ると1.1であり、図1の政治傾向の分布の右と左の端の10%のところに位置する急進派である。ということは、憲法9条について我々が目にするネット上の書き込みのうち半分はこの上位10%の急進派の書き込みだということを意味する。上位10%に位置する過激な人の書き込みだけを見ていれば、ネットが分断されていると見えるのは当然である。

人数も注目に値する。60回以上書き込んだ人は19,015人中の44人なので比率としてはわずか0.23%である。ネット上で我々が目にする意見の大半は、このようにごくわずかの急進派の見解である。ネットの特性として表明されている意見は両極端になりやすい。

図7

意見があまりに異なると議論は困難である。意見の相違が大きいと前提となる共通了解がなく、共通了解がない状態で議論を開始すれば議論は混乱しやすい。ましてネットでは匿名だったり、実名であっても、面識のない人といきなり議論をおこなうことが多い。司会者もいなければ時間制限もなく、書きこめる字数も限られる。

しかも、そもそも両端の人は自分の意見に強い確信を持っているので、相互理解して歩みよろうという気はなく、しばしば論争相手は打ち負かすべき敵と思っていることも多い。この状態で議論が開始されて相互理解など生産的な成果をあげたとすれば、ほとんど奇跡である。大多数のネットの議論が罵倒と中傷で終わるのはこう考えれば当たり前のことである。

しかし、繰り返すようにこれはネットでの意見の表明が分断されているだけで、ネット利用者の意見そのものが分断されているわけではない。ここを間違えてはならない。そして意見の表明が極端に偏っているのはソーシャルメディアの設計の問題なので、対処は可能なはずである。

対処法は意見分布の中庸に位置する人たちが意見を表明できる場をつくることである。そのような場をつくることは可能であり、筆者自身はサロン型SNSというアイデアを提案したことがある。他にもアイデアはあるだろう。何らかの方法で、図6の分布の真ん中に位置する中庸な人々の言論空間をつくり、両端の人は彼ら中庸な人に語りかけて説得を試みるというのが生産的な議論を復活させることになる。ネットと民主主義の将来について悲観論をとるのはまだ早い。

プロフィール

田中辰雄計量経済学

東京大学経済学部大学院卒、コロンビア大学客員研究員を経て、現在横浜商科大学教授兼国際大学GLOCOM主幹研究員。著書に『ネット炎上の研究』(共著)勁草書房、『ネットは社会を分断しない』(共著)角川新書、がある。

 

この執筆者の記事