「捏造」という言葉の重さについて――批判の自由か《排除》か

近年、「捏造」(ないし「ねつ造」)という言葉によって研究者や文筆家を論難する発言が見られる。こうした発言を名誉毀損に問う裁判も起きている。ジャーナリスト・植村隆氏が提起した二つの裁判(2019年6月26日東京地裁判決・東京高裁で控訴審係争中、2020年2月6日札幌高裁判決、最高裁に上告手続き中)や、研究者グループが提起した「フェミ科研費裁判」(2019年2月12日提訴・係争中)などである。この問題で、「表現の自由」を確保するための解釈はどうあるべきだろうか。

 

以下は2月24日に行われたシンポジウム「フェミ科研費裁判から考える「表現の自由」と「学問の自由」」(於 同志社大学)での登壇報告をもとにまとめた論考です。質問は、司会者の問いかけや質疑応答でいただいた質問を参考に、筆者(志田)のほうで再構成しています。

 

 

増える「研究不正」事例と「研究不正」批判

 

――近年、大学所属の研究者が「捏造」「剽窃」などの研究不正に問われる事例が増えています。その一方で、SNS上では、研究不正に関わる言葉が流行のように気軽に使われています。その結果、研究者の社会的信頼が危険にさらされるという問題も起きています。こうした表現トラブルをどう見ていますか。

 

たしかに今、「捏造」や「剽窃」、「盗用」など、研究不正というべき問題が、メディアで多く取り上げられるようになっていると思います。2014年のSTAP細胞に関する論文不正疑惑や、2019年5月の文献創作(捏造)の事例などが、多くの人の記憶に残っていると思います。そうしたことを受けて、「いい論文の書き方」よりずっと手前の話として、「違法なもの・倫理違反なものにならないための知識」を持っておこう(学生に持たせよう)、という関心も高まっていると思います。

 

実際に研究倫理に関する規範意識やスキルが低下していてそうした問題が多発するようになったのか、論文などの研究成果が社会一般に公開されるようになって、そうした問題が可視化されるようになった結果なのかは、わかりません。ただ、「捏造」「盗用」といった言葉は大変重い意味と作用をもつものなので、その重さを十分に認識して使う必要があります。そこは、研究者だけでなく、ネット参加者みんなが知っておくべき表現リテラシーとしてぜひ、知識を共有してほしいと思っています。

 

「表現の自由」は「批判の自由」を認めるからこそ重要なものです。しかし、それは表現者として対等な土俵に立てる資格を、互いに認め合う、ということなのです。だから、ある表現者を一方的に言論の土俵から追放する効果をもつ言論は、批判ではなく《排除》というタームで見るべきではないか、と私は考えています。こうした視点から、研究不正を表す言葉と「表現の自由」「学問の自由」の関係を考えてみたい、そして、最近の名誉毀損裁判について考えてみたいと思うのです。

 

 

「表現の自由」はなぜ大切か

 

――学術研究のための調査活動や、その成果である「論文」「学会報告」なども、「表現の自由」で守られる活動ですよね。ジャーナリスト、ノンフィクションライター、ドキュメンタリー映像作家も、それと共通する調査や検証をもとに、表現活動をしています。そういう人々にとっての「表現の自由」とは、どういうものでしょうか。

 

憲法21条は、「一切の表現は、これを保障する」と定めています。学術や芸術のジャンルの表現も、当然、この「一切の表現」の中に入ります。この権利は、もっとも手厚く保障されるべき権利と考えられているのですが、その理由は、次のように整理できると思います。

 

(1)一人一人の「人格」は、無数のコミュニケーションによって支えられ、発展していくと考えられています。「表現の自由」はそのプロセスを支えるために不可欠なものです。学問や文化芸術から知見や刺激を得ることも、こうした人格形成プロセスにとって重要な局面です。

 

「文化」cultureの語源は「耕す」cultivateにあると言われていますが、私たち一人一人の人格は、耕されないと育たない。他者とのコミュニケーションや、学問や芸術や報道に触れて「はっとする」とか「うーん」と考え込む、ということが、この「耕やす」にあたることなんだと思います。

 

(2)さらに学術や芸術にとくにかかわることとして、人類の発展には真理の探究がつねに伴ってきました。ここに国が上から「正しい答え」を押し付けてこれを塞いではならず、人々が自発的に切磋琢磨するための言論の場を開いておくことが必要だ、という考え方があります。思想の自由市場と呼ばれるものです。

 

現在高い価値を認められている学問知識や芸術成果の多くは、それが発表された当時は価値が認められず、不快がられたものもありました。今では医学と美術の両方にとって基本中の基本になっている解剖学も、レオナルド・ダ・ヴィンチが活躍した時代には、タブー視されて大変不正確なものが出回っていた。それにダ・ヴィンチをはじめとする芸術家の探求心が、大きな貢献をしたと言われています。それを考えると、今の誰かにとって「不快だ」ということを理由として、人間の探求心や表現の自由を否定してはならないのです。

 

(3)民主主義の社会は、選挙の制度だけでなく、情報共有や意見交換が自由にできる状態を必要とします。この観点からは、批判を含めた政治的表現や、公共情報(報道など)がとくに保護される必要があります。名誉毀損に関する法制度や裁判所の解釈は、このことを反映して、公共的価値のある情報を「名誉権」よりも優先させている部分があります。この民主主義は、広い意味で、市民が自らの意思で作っていく社会、といった意味でとらえたほうがよく、学術文化の「公共的価値」も、ここに含めて考えるべきだと思います。

 

ここまでの(1)、(2)、(3)ともに、国家が主導・先導するのではなく、各人各様の価値観があることを尊重しつつ、社会の成り行きをその構成員自身にゆだねるという、リベラルな価値観を体現しています。「由らしむべし知らしむべからず」とは対極にある思考を土台とし、自己決定や自己統治のできる人間像・社会像を目指している、と言えると思います。

 

(4)「表現の自由」は、罰などの不利益があるとすぐに萎縮してしまう弱い権利なので、とくにその自由を手厚く保障して支える必要があります。この観点からは、表現への制約は必要最小限にとどめ、「公」の側に属する統治担当者が、表現活動を萎縮させるような言動を行うことを慎むことが求められます。

 

ただ、これについては法的なルールはありません。いわゆる公人が、表現者や研究者や一般社会に対して萎縮を招くような発言をしても、それを制する仕組みはありません。このことは昨年の「あいちトリエンナーレ2019」展示一部中止問題や、2018年の杉田水脈議員による「生産性」発言、同議員による「反日」「ねつ造」対して「科研費」を使うべきでないとの発言に関連して、クローズアップされました。

 

 

――同じ「捏造」批判でも、新聞紙上に掲載された論説に対するものと、科研費のような研究助成を受けた研究に対するものでは、問題としていることが違いますね。

 

はい。一般人や新聞社・出版社が自由に(実費は自費で)行っている表現の場合には、「捏造」発言は、「このような表現があっていいのか」という、表現内容へのストレートな論難になります。これに対して、研究助成や芸術助成のように公の支援に基づいているものの場合は、「このようなものに公金(みんなの税金)が使われていいのか」という形になります。昨年、大きな社会問題となった「あいちトリエンナーレ2019」でも、いくつかの作品に対して、このタイプの批判が出ました。やるなら自腹でやれ、という批判です。

 

先に確認した「表現の自由」は、本来、公権力からの自由、つまり一般人が自発的に自由に行っている表現に「公」が関与することに対して「No」という権利です。

 

一方、科研費などの研究助成は、「公」が支援という形で関与しています。こうした助成事業では、採択にあたって、研究内容の価値、研究計画の現実性などに照らした選別や調整が行われる。採択のさいに選別があることを、憲法が禁止する関与(「検閲」)と見る議論は見当たりません。しかし、その採択は専門家の集団に委ね、支援する者が直接に選別に関わることを避ける。そして、ある研究がいったん採択された後は、その分野の専門家である研究者の尽力に任せ、行政や政治家は介入しない。「アームズ・レングスの原則」(金は出しても口は出さない)と呼ばれる考え方です。

 

この原則は、「あいちトリエンナーレ2019」展示中止事件をきっかけとして、「芸術の自由」の問題として一般社会でも知られるようになりましがが、「学問の自由」にも、同じ考え方が当てはまります。むしろ「学問の自由」のほうが、日本国憲法上ははっきりした根拠があります。「フェミ科研裁判」も、この土俵で起きた問題でした。

 

科研費に関する上のような発言にたいしては、田中優子・法政大学教授が大学総長として発表した声明や、土屋恵一郎・明治大学教授が中心となって出した声明に、「学問の自由」に照らした問題性が明記されています。こうした対抗言論は、「表現の自由」の本質から見ても大変重要です。

 

しかし、対抗言論による軌道修正を待つだけでなく、法的にその発言の不当性を争うことでこれを止めさせ、名指しでやり玉に挙げられた研究者たちの社会的信用を回復しよう、ということで起こされた裁判が、「フェミ科研費裁判」と呼ばれる裁判です。

 

こうした名誉毀損を争う訴訟では、自費での研究活動か公的助成を受けての研究活動かで違いが出るということはなく、《その発言によって社会的信用が低められ、これによって実害や精神的苦痛を被った》ということが問題となります。

 

 

「表現の自由」の限界としての研究倫理

 

――「学問の自由」が保障されている大学研究者の学術研究は、「公」から支援を受けていてもなお専門家としての信頼を受けるべきで、内容面で「公」からの自由が保障されるべきだ、ということになるわけですね。これと「不正」を防ぐルールとの関係は。

 

学術研究の成果公表は、法的には、憲法21条「表現の自由」、19条「思想良心の自由」によってその自由が最大限に保障されるべき「表現」です。これに加えて、それが大学所属の研究者の資格においてなされるときには、23条「学問の自由」の保障を受けます。これは「なんでもあり」の自由ではなく、「自分たちのことは自ら律していく」という「自律」の側面を持つ「自由」です。

 

学術成果のうちでも「論文」は、とくに高い創作的価値と完成度をもつものとして評価されます。その成果を認めるための必要事項として、他者にとって理解できるものであること、追試可能性ないし検証可能性が確保されていることが求められます。人文社会系であれば論証の根拠として参照・引用されている文献を確認できること、などです。

 

この部分については手続の遵守が求められ、この部分で創作を行えば「捏造」や「改ざん」「盗用」「剽窃」といった重大な研究倫理違反となります。こうした手続的要請に違反する行為は、「研究不正」となります。研究者は、内容面では精神的自由を十分に保障されるべきですが、その分、論証の手続きについてはプロとして、ルールの遵守が求められるのだ、と言えます。

 

こうした学術研究倫理は、法令で定められているものではなく、大学や学会などの研究者集団が、その自律として相互に課している倫理と言えます。だから、大学や学会が個々の研究者に学術研究倫理の遵守を求めることは、憲法21条「表現の自由」を制約することになる、とは見られていません。「査読」も、憲法21条2項で禁止される「検閲」にはあたりません。

 

一方、学術および高等教育は、国家や自治体が関心を持つべき「公共的な」事柄でもあります。したがって、学術研究を支援すること、倫理の啓発に関わることは、国家の正当な関心事と言えます。

 

何らかの成果を社会に公表すれば、当然に批判を受ける可能性も出てきます。「表現の自由」は、「批判の自由」を重要な内容としています。先に見たように、学術研究は、「ここの論証は根拠が足りない」「別の解釈も採れる」といった批判によって、より精緻なものとなっていったり、新たな展開を見せたりして発展します。批判と反論の自由を確保することは、「表現の自由」にとっても「学問の自由」にとっても要の部分です。

 

 

――研究不正があった場合には、どうなるのでしょうか。

 

ある論文が研究不正を含むことが確認された場合、大学は、懲戒や学位取り消しなど厳粛な対応を行うようになっています。

 

たとえば、医学論文における「データ捏造」認定の真否が争われた裁判例(大阪地方裁判所平成20年12月26日判決・判例タイムズ第1293号)があります。また、2019年5月、ある論文に依拠文献の創作という「捏造」があったことが認定された事例では、懲戒解雇が行われています(朝日新聞電子版2019年5月10日記事、同・電子版2019年5月11日記事)。

 

学術研究倫理違反があったことの認定は、多くの場合、当該研究者が所属する研究機関(大学)が行っています。そして不正が認定されたときには、多くの大学が、社会にその旨を公表しています。この公表は、大学が研究教育を担う機関としての社会的責任から自発的に行うものです。この公表は、当人の社会的信用を低下させる点で、名誉毀損に当たる可能性がありますが、後に見るように、一定の条件を満たせば、名誉毀損にあたらない、というルールがあります。

 

 

研究不正と名誉毀損

 

――研究不正は社会に公表されるべきものとされている、しかし、その公表が誤って行われたら「名誉毀損」になってしまうわけですね。その線引きをどこに見るかが、一連の「捏造」名誉毀損訴訟で問題となっていることですね。その議論の組み立てについて、ざっくり説明してもらえますか。

 

研究不正があったことが確認・公表された場合、先に見たような実際例でも、当該の研究者は学位取り消しや懲戒解雇の対象となっています。この不利益性の重さから見て、研究不正の認定には、適正さと厳格さが求められます。この公表が誤った事実認定によって行われた場合には、大学は名誉毀損を免れないでしょう。

 

こうした研究不正の非難が、ネットや雑誌など、社会一般の言論空間で始まることもあります。他者の社会的名誉を低下させる内容を公に表明することは、刑法230条の「名誉毀損」に該当することになるため、このような発言があった場合、これが「名誉毀損」に該当するかどうかが問題となります。植村隆氏の裁判も「フェミ科研裁判」も、このことを問う裁判です。

 

刑法230条では、相手の社会的信用を低下させる事実情報を「公然と」表現したとき、名誉毀損が成立します。ただし、その内容が「公共の利害に関する事実」で、その公表が社会の利益のために行われ、公表された内容が「真実であった」場合には、名誉毀損は成立しない、という規定があります(刑法第230条の2)。この「真実性の証明」は、実際の裁判ではやや緩められ、「その事実を真実と信じるにつき相当の理由があった」(真実相当性)との証明があれば名誉毀損は成立しない、と判断されています(※)。

 

※月刊ペン事件・最高裁第一小法廷判決、昭和56(1981)年4月16日。

 

 

――名誉毀損の規定は刑法にあるのですか。では、名誉毀損は「犯罪」となるわけですね。

 

訴える人が刑事事件として告発すればそうなりますが、名誉毀損は民事裁判でも争われます。民事で争う場合には、民法709条・710条の不法行為の規定に基づいて判断されます。ここで名誉毀損に該当するかどうかを判断するさいに、刑法230条の内容が参照されます。

 

民事裁判の場合にも、刑法230条の2に当たるような公共的な情報の公表であれば、損害賠償などの民事責任も発生しない、と考えられています。そして、このときにも、「行為者がそれを真実と信ずるについて相当の理由があるときは,同行為には故意又は過失がなく,不法行為は成立しない」と考えられています(※)。

 

※最高裁昭和41年6月23日第一小法廷判決、民集20巻5号1118頁。また、最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決、民集56巻1号185頁。

 

多くの裁判で、この「真実性」ないし「真実相当性」が最終的な争点となっています。発言が「真実」であるならば、その公共性に照らして名誉毀損とはならない、ではその発言は「真実」なのか。「捏造」裁判もこれを争う裁判となりました。

 

 

――「捏造」という発言については、どう考えますか?

 

刑事裁判の場合には、事実言明のみが名誉毀損罪の問題となり、意見・論評は、判断対象となりません。これに対して、民事裁判の場合には、意見・論評についても名誉毀損が成立する場合があります。

 

たとえば「ロス疑惑事件」平成9年判決では、意見ないし論評も名誉毀損となりうるとの見解が述べられています。「名誉毀損の不法行為は、問題とされる表現が、人の品性、徳行、名声、信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を低下させるものであれば、これが事実を摘示するものであるか、又は意見ないし論評を表明するものであるかを問わず、成立し得るものである」(最高裁平成9年9月9日第三小法廷判決)。

 

また、ここで言う「事実」とは、「証拠等をもってその存否を決することが可能な」特定の事項のことを言います(最高裁第二小法廷昭和 31年 7月 20日判決、および最高裁第三小法廷平成 9年 9月 9日判決)。

 

「捏造」という言葉は、「それに該当する資料があるかないか」、ない場合には「その誤りは見落としや転記間違いなど、注意していても出てしまった間違い(オネスト・エラー)か、故意にでっち上げたものか」について、証拠をもって確認すべき事柄です。したがって、これは「事実」に関する発言、と言えます。

 

一方、ある成果物(論文や芸術作品など)にどのような価値や意義があるか、ある水準に達しているかという評価は、意見・論評になります。もっとも、その価値判断が、ある事実(「捏造」)を前提として行われた論評だという場合には、その前提となる事実の部分を見ることが先決になります。その部分が名誉毀損となれば、意見の部分も含めて名誉毀損となります。

 

たとえば、「このような捏造を含んでいる文章は、学術論文としてはゴミでしかない」という表現があったときには、まず「捏造」が真実だったかが問われます。この部分が虚偽であれば名誉毀損となります。この部分が真実と認められたときには、残った問題として、「ゴミ」という表現が名誉毀損にあたるかが問われるわけです。ここで、論評として度を越した表現(個人攻撃など)があった場合には、名誉毀損になると考えられます。

 

 

――「捏造」のような研究不正を示す言葉が名誉毀損になるかどうかについては、「公共性」と「真実性」がカギとなるわけですね。

 

 

ほとんどの場合、そうなります。まず、学術成果の公正性の維持は、公共の利害にかかわります。研究不正があった事実を大学が公表したりメディアが報道したりすることは、その研究者の社会的名誉を害するわけですから、名誉毀損にあたる可能性があるのですが、その公表の目的が公共の利益のためだったこと、その内容が真実だったこと、または真実相当性があることが証明されたときには、名誉毀損が成立しないことになるのです。

 

この点について、過去の裁判例を見ると、「誤記」と「捏造」とは異なる事柄で、「誤記」があったとしてもそれが「捏造」とまで言えるかどうかには別途の認定が必要であることが示されています(※)。

 

※大江健三郎の『沖縄ノート』が名誉毀損に問われた裁判の、大阪高裁平成20年10月31日判決(判例時報2057号24頁以下)にある記述。「複数の誤記があるとは認められるものの,・・・捏造に関する主張には疑問がある」。

 

さらに、報道上の言論については、平成14年の「ロス疑惑事件」最高裁判決で、自分で取材をしないまま通信社の配信記事の内容を鵜呑みにして「有罪」と決めつける報道をした新聞社を、名誉毀損にあたるとしています(※)。

 

※最高裁平成14年1月29日第三小法廷判決、民集56巻1号185頁。 「本件各記事は,被上告補助参加人が配信した記事を,被上告人らにおいて裏付け取材をすることなく,そのまま紙面に掲載したものである」として、通信社の記事をそのまま記事を公表した新聞社には真実相当性が認められないとした。

 

つまり、発言の真実相当性を認めるためには、発言の裏付け取材を発言者自身が行っていることが必要、ということになるわけです。

 

ここまでのところをまとめると、こうなります。研究不正があったことを大学が公表したり、出版物やネット上で個人やジャーナリストが指弾したりしたとき、手続きを守ったにも関わらず生じた誤差や見落とし(オネスト・エラー)を悪質な不正として公表したり、軽微な誤記や引用間違いに過ぎなかったにもかかわらず重大な不正として公表したりしたときには、その公表は、名誉毀損の成立を免れないことになります。また、そもそもきちんとした調査を行わないまま、予断だけで不正があった旨の公表をしたりしたときにも、その公表は、名誉毀損の成立を免れないでしょう。

 

誤りが見つかった、ということと、「捏造を行った」ということとは、雲泥の差があるので、それを混同した発言は名誉毀損となる、ということです。これまでの裁判例を素直に読むと、一般論として、こういうふうに言えると思います。

 

しかし、ここで取り上げた「捏造」名誉毀損裁判は、そうした一般論に則っていないと思われるのです。次では、このことについて、考察してみようと思います。

 

 

「捏造」名誉毀損裁判――近年の新傾向?

 

――昨年(2019年)6月26日には、植村隆氏が原告となった「捏造」名誉毀損訴訟の東京地裁判決がでました(東京高裁で控訴審係争中)。また、今年(2020年)2月6日年には、同氏が原告となった同種の訴訟の札幌高裁判決が出ました(最高裁に上告手続き中)。また、同じく「捏造」という指弾をめぐって提起されている「フェミ科研費裁判」(2019年2月12日提訴)は、今、係争中です。これらについて、どう考えますか。

 

裁判所の判断に一貫性ないし法的安定性が保たれているかどうか、問うべきだと思います。そして、「フェミ科研費裁判」の地裁判決はまだこれからですが、この植村氏の裁判の判決が、「フェミ科研費裁判」の地裁判決にも影響する可能性はあります。これは漫然と踏襲されるべきではない、軌道修正されるべき判決だと私は思っています。

 

植村隆氏が原告となった二つのケースでは、原告の植村氏は元新聞記者で、被告の発言のあった当時は大学教員でした。被告は二件とも、著名なジャーナリストです。原告は、従軍慰安婦問題に関する論説を新聞記者として公表していました。この論説について、被告はその公表後20年以上が経過してから雑誌上で、あるいは自身の公開ブログなどで、証言・証拠資料の「捏造」があったとの発言を繰り返していました。これを原告が名誉毀損として訴えた裁判です。

 

この裁判と、その背景となる従軍慰安婦論争については、すでに丹念にまとめられた解説記事があります。私は下記の記事が参考になると思いました。※

 

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190630-00132310/

 

ただ、「名誉毀損」の複雑な規定については、もう一歩、法律家のほうから説明させていただく必要があると感じました。「名誉毀損」の規定の仕組みについては、先に「3 研究不正と名誉毀損」でお話した通りです。

 

判決は、問題となった記述を刑法230条の名誉毀損にあたるといったん判断した上で、刑法230条の2に基づいて、公共性のある発言なので名誉毀損不成立、とすることができるかどうかを検討した。そして、それを認める条件としての「真実性」または「真実相当性」を認め、名誉毀損不成立としているわけです。ここが、「名誉毀損」の法制度の建付けの複雑さについて、理解を要するところです。

 

ここでは、(1)発言者(被告)は、誤記を「捏造」と断じている、(2)発言者(被告)は「捏造」と言明するにあたって原告に直接の取材確認を行っていない。先に確認した前例に照らせば、この二つの要素を見れば、「真実性」も「真実相当性」も、認めることはできないのではないでしょうか。

 

論争における批判については最大限の自由を確保するために、真実性認定の要件を緩め、これによって研究者やジャーナリストの負担や萎縮可能性を軽減する方向が図られている、と言えるならば、「表現の自由」の保障にとって望ましい方向です。裁判所が、そういう意味で「表現の自由」の自由度を上げる判断をしたと言えるか…。

 

筆者の見解は「No」です。これはむしろ「表現の自由」を萎縮させる判決になると思います。

 

 

――名誉毀損が成立しない条件のハードルを緩める、ということは、名誉毀損が認められにくくなる、ということで、それは、表現者にとっては自由度が上がることを意味するように思えるのですが、それがそうではない、ということでしょうか。なぜでしょうか。

 

私は、この判決で採られた論理は、ここまでの考察で確認できた一般原則と相容れない「甘さ」だと感じます。この甘さが、「表現の自由」に資するものかどうか。私には、そうは思えないのです。

 

たとえば、会合や謝恩会の別れぎわ、「論文の追い込み、頑張れ」とか、「卒業後の活躍を祈る」といって学生に順番に握手の手を差し出した教員がいたとします。手を握る行為は、状況によってはセクシャル・ハラスメントになりえます。しかし、握手の手を差し出したことをもって直ちに「学生にセクシャル・ハラスメントを働いた、資質において不適切な教員」と指弾することはできないでしょう。

 

もしかするとこの状況で、学生のほうはこの教員を内心で激しく毛嫌いしており、握手を求められただけで身の毛がよだつほどの生理的嫌悪感を感じた、という事情があるかもしれません。この場合、それに気づかず他の学生にするのと同じふるまいをしてしまったその教員は、「オネスト・エラー」をしてしまった立場と言えます。その学生が自分を嫌悪しているということを知ってさえいたら、そのようなエラーはせずにすんだかもしれません。

 

こうしたエラーを、直ちに、懲戒免職や報道の対象にもなりうる悪質行為としての「セクシャル・ハラスメント」であると公開の場で言い立てることは、名誉毀損を構成しうる言論であろうと思います。その発言が、教育者の資質という「公共性」にかかわる発言だと認められるとして、ここで発言者が刑法230条の2にそくして立証すべきなのは、「その教員が手を差し出した事実はあった(それを発言者がハラスメントだと思ったのももっともだ)」ということではないはずです。

 

必要な立証は、その教員の行為は単なる握手という行為ではなく、学生の意に反して行われた性的な行為としての「ハラスメント」であった、という事実、あるいは、発言者がそのように信じたとしても仕方がないような特殊事情があった、ということであるはずです。

 

ここのところの甘さは、発言者の「表現の自由」に資するメリットよりも、指弾を受けた当事者、そしてそうした指弾をいつでも受ける可能性のある社会的立場にいる者(潜在的には大学所属の研究者すべて)に与えるデメリットのほうが大きいと思います。

 

 

「表現の自由」の基礎理論からの再考

 

――発言者と、発言を受けた者の両方の「表現の自由」を考えたときに、「表現の自由」の理論から見えてくる論理がある、ということですね。

 

はい。植村氏の「捏造」裁判や、「フェミ科研費裁判」は、今のところ憲法が直接に適用される「表現規制」「公権力の介入」の事例ではないですが、研究者に深刻な不利益がありうることに照らすと、憲法の「表現の自由」の保障の意義を確認して理論的検討をする必要があると思います。また「フェミ科研費裁判」のほうは、当事者となった研究者たちが今後、助成金の取り消しや不交付などの不利益を受けることがあるすれば、「公」との関係が生じてくる問題になります。

 

まず、ここでの「公共性」には、以下の二つがあることを確認する必要があります。一つは、(A)この発言の背景となる論争内容(従軍慰安婦論争)の公共性です。もう一つは、(B)(論争の内容いかんにかかわらず)学術成果の公正性を維持するという関心からの公共性です。

 

ここで、(A)の土俵においては、論争や相互批判の自由が最大限に認められるべきです。これに対して、研究不正があったかどうかに関する発言は、(B)によってその「公共性」が認められるものです。

 

たとえば、医学上のデータに捏造が含まれていた、という問題が起きたとき、これを調査する大学内の委員会は、その医学上の課題・成果の社会的意義や公共性を理由としてその不正行為を目こぼしすることはないでしょう。むしろ、公共性の高い課題であればあるほど、その学術的公正性が重視され、不正がなかったかどうかの審査も綿密に行う必要がでてくるでしょう。

 

そして、不正と認定された研究活動は、その土俵そのものからの撤退を余儀なくされます。発言者にとってこれは深刻な不利益となります。この不利益は、(B)の観点、すなわち学術の公正性を維持する必要性から正当化されるものです。(A)の公共性においては、発言者を土俵から追い落とすことまでは正当化されません。

 

 

――土俵の上で論争をする自由が確保される「批判の自由」と、相手を土俵から追い落とすこととは異なる、ということですか。

 

はい。私は、そのように考える必要があると思っています。大学所属の研究者は、学術研究倫理を遵守して研究活動を行うことができる者である、という社会的信用を、社会活動の足場にしています。ある研究者が、自己の公表した成果について、「捏造」「剽窃」とされた場合のペナルティは深刻です。学位の剥奪や失職など、学術言論の場への参加資格を剥奪されるに等しいことが起きるからです。研究不正を指し示す言葉は、研究者に対して、そのような致命的な作用を及ぼす言葉です。

 

これは、研究不正を指す言葉についてだけでなく、ヘイトスピーチにもまたがる基本理解だと思うのですが、互いに言論空間に身を置くことを認め合うことを前提とした「批判の自由」や「異論を述べる自由」と、相手を一方的に言論空間・社会空間から追い落とす「排除」や「沈黙強制」とは、異なるものだと思います。

 

「表現の自由」の保障を受けるとは、表現の場ないし空間に参加することについて自由・平等であること――不当な理由によってその空間から排除されることのないこと――を意味します。この空間では、《見解の相違》が存在することを許容することが当然に求められます。ある見解に対して異なる見解や批判を述べることは「自由」だが、これを理由として特定の発言者を言論の場から退場させることがあってはならない。言論の場は、論難によって相手の発言機会を奪う「椅子取りゲーム」になってはならない。これは論理必然として言えることだと思います。

 

 

これを理解するには、競技場としての「リング」あるいは「コート」をイメージしてもらうのがいいと思います。各論者はこの競技場の中で、一定のルールに従って論究を行ったり、論争という形でバトルをしたり、独白的につぶやいたりします。憲法上の「表現の自由」は、この競技場への自由な参加を保障するわけです。そこから生み出されてくる個々の表現(物)には、公的なものも私的なものもありますが、「表現の自由」というルールは、その足場を支える地面のことを言うのであり、すべての人に平等に開かれているべき《公的なもの》です。

 

そして、法は、この競技場を支える原理としての「自由」が確保されている限りは、試合の成り行きは参加プレーヤーの尽力に任せて、身を引いているべきものです。しかし例外的に、そうした「自由」の一般論に吸収し得ない問題、外部(裁判所)による救済が必要になる問題が起きることがあります。

 

このことを、大江健三郎の『沖縄ノート』が名誉毀損に問われた事例で、大阪高裁判決がじつに的確に述べています。

 

「・・・このような歴史的事実の認定については,・・・多様な史料を多角的に比較,分析,評価して,事実を解明してゆくことが必要となる。それらは,本来,歴史研究の課題であって,多くの専門家によるそれぞれの歴史認識に基づく様々な見解が学問の場において論議され,研究され蓄積されて言論の場に提供されていくべきものである。司法にこれを求め,仮にも「有権的な」判断を期待するとすれば,いささか,場違いなことであるといわざるを得ない。しかし,もとより,裁判所は,申立者らに具体的な権利の侵害があればその救済を使命とするものであって,前記歴史的事実の存否の解明それ自体が目的ではないとしても,必要な限度ではこれに触れて,これまで判示した損害賠償請求や差止め請求等の要件へのあてはめを立証責任を踏まえて判断してゆくことになる。」(大阪高裁平成20年10月31日判決(判例時報2057号24頁以下)。

 

 

――近年の一連の「捏造」裁判は、「表現の自由」の一般論に吸収し得ない問題が生じている、権利侵害からの救済が必要な場面にあたる、ということですね。

 

はい。先に「公共性」を二つに区別したのも、それを言うためでした。

 

ある論考について、別見解のほうに理があるとする批判や、学術上の不備や不整合があることの指摘は、表現の自由の保障を受けます。論争のテーマが社会的・政治的に意義のあるもの、つまり公共性の高いものであれば、なおさらです。

 

これは先の整理での(A)の土俵でのことです。ここで「名誉毀損」を武器にして論争に勝とうとするのは、「表現の自由」への理解を欠く筋違いな訴えと言えます。植村氏の提訴に対しては、このタイプの批判もいくつか見られます。が、私はそうではないと思うわけです。「研究不正があった」と指弾することは、「批判」を超えて、相手方を言論空間から排除する結果を招くからです。

 

ここで「研究不正があったこと」の公表を社会的に正当なものとして支える「公共性」は、先の整理での(B)の土俵です。ここでは、研究不正が実際にあったときには、発言者(研究者)が退場を宣告されてもやむなし、というシビアな判断がされるわけです。このシビアな判断は、大学内であれば、相当に綿密な検証に基づいて行われます。そういう事実確認をして初めて、言うことのできる言葉なのです。

 

ここで「研究不正」を行ったとして排除された者は、同じ土俵で反論する資格を奪われるか、反論してもその信頼性を著しく奪われることになります。そのことの当・不当を問い、その不当性からの救済を求めることは、そのバイアスを共有してしまった言論空間内部では、難しくなる。だから外部(裁判所)に対して救済を求める。こういう理路で、裁判所が介入すべき「法的」問題と言える、と思うのです。「名誉毀損」という制度の本質を、ここに見るべきだと思います。

 

こう考えてみると、発言の背景となる論争(従軍慰安婦論争)に公共的価値が認められるとしても、そのことから研究不正を指し示す発言内容の真実性または真実相当性の認定が不要になったり緩められたりすることにはならないはずなのです。ここでは、その指弾の対象となった論文や研究活動に、通常の不正確さや飛躍があったという問題とは別に、それが実際に「捏造」(意図的な創作)だった、ということが証明されること必要があります。この証明はおこなわれていません。

 

ここが証明できない場合には、発言者が「捏造だ」と信じるにつき「それはもっともだ」と言える事情(真実相当性)があったことが証明されること必要がある。これらのケースでは、ここが最終的な判断対象となりました。この点について、裁判所はこれまで、発言者本人による取材調査や一次資料の確認などが必要、との立場をとってきました。これに対し、2019年6月26日の東京地裁判決や2020年2月6日の札幌高裁判決は、二つの公共性を混線させ、さらに発言者から本人に対して取材を行っていないことを不問としたまま、真実相当性を認める判断をしました。この点は、名誉毀損法制における法的安定性に、不当な揺れを生じさせてしまったと思います。

 

 

――結局、植村氏の論説に「捏造」があったかどうかについては、どういう判断が下されたことになるのでしょうか。そして今後への影響は。

 

2019年6月と2020年2月の判決で注意すべきなのは、この判決では、植村氏の側に「捏造」があった、という事実が認定されたわけではない、ということです。そこは触れられていないのです。認められたのは、発言者(西岡力氏や櫻井よしこ氏)の側がそう思い込んだのも仕方がなかったと言える、ということです。だから、植村氏の請求が棄却された(敗訴した)という結論を見て、「裁判所が捏造があったことを認めた」と受け取るのは大きな誤りです。

 

他方、そこに行く前の段階で、刑法230条に言う「名誉毀損」にあたるといったん認めている、ここを見て「裁判所は、捏造はなかったと判断している」と見るのも誤りです。この最初の段階では、発言内容が真実かどうかは問題とせず、人の社会的信用を低下させる発言があれば(真実であったとしても)、まずはざっくり名誉毀損にあたることを認めるところから出発して、「あたらない」と言える事情を見て引き算していくわけなので。

 

要するに、裁判所は、植村氏が実際に「捏造」を行ったか、という点については触れていない、ということになります。しかしこの裁判、そこに触れずにすませることのできる裁判だったのでしょうか。証明不可能、ということであれば、「真実相当性」を認めるハードルをこれまでどおりの高さに置いて、発言者が自ら調査を尽くさなかったためにそれを証明できないのであれば、発言者の側に非があったとするのが自然ではないでしょうか。

 

この一連の判決が見せた先例との乖離は、一見、「表現の自由」に対し寛容な解釈姿勢をとったように見えるかもしれませんが、指弾を受けた側の「表現の自由」に重大な不利益を負わせることを許容・放置する結果となっています。そして、発言者の側において封じられるものと、発言対象となった側において封じられるものの深刻さの違いから考えても、バランスを失しています。

 

仮にこの件で発言者の側に名誉毀損を認めたとしても、発言者の批判発言(A)が封じられるわけではありません。「捏造」などの研究不正を表す言葉を、綿密な調査を尽くすことをせずに公言すること(B)だけが封じられるのであって、従軍慰安婦問題をめぐる論説について欠点を批判することや、発言者独自の異論を述べて公的討論に資すること(A)は、自由です。

 

今後への影響としては、この判決の論理が定着してしまうと、「表現の自由」の平等な保障にとって、今述べたようなバランスを欠く「自由度の傾斜」が生じる、と思います。捏造や剽窃などの研究不正用語が、不正ではない誤記や、字数制限のある原稿での圧縮で生じた欠落を奇貨として、「言ったもの勝ち」になるわけです。私は、この「言ったもの勝ち」状態には歯止めをかけるべきだと思います。まずは「フェミ科研費裁判」がその歯止めとなってほしいと願っています。

 

 

さいごに

 

大学所属の研究者を、研究不正を表す言葉で指弾することは、社会的制裁の引き金となりうるものです。その不利益は深刻なものです。名誉毀損の「真実性」「真実相当性」の証明のハードルについても、この観点から考えていくべきでしょう。その証明は、最近の東京地裁・札幌高裁判決で採用された論法ではなく、それ以前に蓄積されてきた論理と判断基準によることが、学術研究倫理の公正性と、社会に開かれたさまざまな言論の自由に資する方向だと思っています。

 

また、「表現の自由」に関する一般理論としては、こうした考察をもとに、「批判」と「言論空間からの排除」とを別のものととらえることを提唱したいと思います。そして「排除」にあたる言論については、単純に「言論の自由市場」にゆだねるわけにはいかず、法の介入によって公正公平な言論空間を回復・維持することも考えなくてはならない。「ヘイトスピーチ」への対処や明記毀損法制は、その一場面としてとらえることができるのではと考えています。

 

 

参考文献一覧

・愛敬浩二(2011)「表現の自由と名誉権・プライバシー権」阪口正二郎、愛敬浩二、毛利透編著『なぜ表現の自由か』(法律文化社)

・五十嵐清(2003)『人格権法概説』(有斐閣)

・T.I.エマースン(小林直樹、横田耕一訳『表現の自由』(東京大学出版会、1072年)

・奥平康弘(1988)『なぜ「表現の自由」か』(東京大学出版会)

・奥平康弘(1997)『ジャーナリズムと法』(新世社)

・河野哲也(2002)『レポート・論文の書き方入門(第3版)』(慶應義塾大学出版会)

・駒村圭吾(2001)『ジャーナリズムの法理』(嵯峨野書院)

・斉藤孝・西岡達裕(2005)『学術論文の技法(新訂版)』(日本エディタースクール出版部)

・阪口正二郎(2017)「表現の自由はなぜ大切か 表現の自由の「優越的地位」を考える」阪口正二郎、毛利透、愛敬浩二編『なぜ表現の自由か 理論的視座と現況への問い』(法律文化社)

・阪本昌成(2011)『表現権理論』(信山社)

・志田陽子(2018-1)『あたらしい表現活動と法』(武蔵野美術大学出版局)

・高柳信一(1983)『学問の自由』(岩波書店)

・坪井明典(2005)「報道の自由と名誉保護との調和」『自由と正義』2005 年 9月号

・烏賀陽弘道「『SLAPP』とは何か–『公的意見表明の妨害を狙って提訴される民事訴訟』被害防止のために」『法律時報』2010年6月号

・松井茂記(2013)『表現の自由と名誉毀損』(有斐閣)

・松尾剛行(2016)『最新判例にみるインターネット上の名誉毀損の理論と実務』(勁草書房)

・毛利透(2008)『表現の自由 その公共性ともろさについて』(岩波書店)

・山田隆司(2009)『名誉毀損―表現の自由をめぐる攻防』(岩波書店)

・文部科学省(2014)「研究活動における不正行為への対応等に関するガイドライン」(平成26年8月26日文部科学大臣決定)

 

この論考は、2月24日に行われたシンポジウム「フェミ科研費裁判から考える「表現の自由」と「学問の自由」」(於 同志社大学)での登壇報告をもとにまとめたものです。質問は、質疑応答でいただいた質問をもとに、筆者(志田)のほうで再構成しています。

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

1
 
 
シノドス国際社会動向研究所

vol.277 

・坂口緑「生涯学習論にたどり着くまで──人はいかにして市民になるのか」
・平井和也「ジョージ・フロイド殺害事件から考える米国の人種差別問題」
・野村浩子「日本の女性リーダーたち」
・安達智史「「特殊」を通じて「普遍」を実現する現代イギリスの若者ムスリム」
・太田紘史「道徳脳の科学と哲学」
・石川義正「「少女たちは存在しない」のか?──現代日本「動物」文学案内(2)」