憎悪表現(ヘイト・スピーチ)の規制の合憲性をめぐる議論

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20世紀の半ば以降、過激な人種差別思想の台頭に直面した国々は、これを深刻な事態として受け止めた。そして、こうした差別思想にもとづく憎悪表現を規制すべく、人種差別撤廃条約4条において、差別思想の喧伝を禁止する法律を制定するよう加盟国に義務づけた。

 

現在、イギリス、フランス、ドイツ、カナダなどでは、この条文を履行すべく憎悪表現を規制する法律を設けている。一方、アメリカは、表現の自由の保障を最大限に保障しようとする判例法を背景に、第4条に留保を付して表現規制を回避するかたちで条約本体に加入しており、現在も憎悪表現を規制する立法は行っていない。アメリカ同様、日本も同条に留保を付して加入しており、憎悪表現を規制する立法を行っていない。

 

過去10年ほどのあいだで、日本国内においても、インターネット上を中心に、自己とは異なる人種・民族集団に属する人々に対する憎悪や偏見の表現を、日常的かつ一般的に見聞きする機会が増えた。さらに、最近では、そのような憎悪や偏見の思想を宣伝する街頭デモも見られるようになっている。

 

このような、特定の人種・民族集団(およびその集団を構成する人々)に対する憎悪や偏見の表現(以下、単に憎悪表現と記す)の発信については、なんらかの方法で規制すべきだという意見が聞かれる一方で、憲法21条の保障する「表現の自由」の重要性に照らして規制すべきでないとする慎重な意見もある。はたして、憲法が「表現の自由」を保障している国家において、「憎悪表現の発信の自由」を規制することは許されるのだろうか。

 

本稿では、以下、まず憲法上の表現の自由の保障をめぐる従来の考え方を確認した上で、憎悪表現の規制をめぐる問題点を指摘していく。

 

 

「表現の自由」とは

 

まず、「表現の自由」の重要性について確認しておく。表現の自由は、憲法の保障するさまざまな自由のなかでもっとも重要なもののひとつとして位置づけられているが、それは、表現の自由の保障が、個人の「自己実現」と社会全体の「自己統治」に不可欠だと考えられているからである。つまり、人間はだれしも自己の意見を形成し、それを他者に伝え、他者の意見にも触れて、さらに自己の意見を再形成していくという過程を通して、自由な人間としての人格を形成していく。このような個人の人間性の実現のための過程に着目した表現の自由の価値が「自己実現」である。

 

一方、健全な民主主義(ないし代表民主制)の実現のためには、たんに、人気投票(選挙)で代表者(国会議員)を選んだ上で、選ばれた代表者が国会で多数決で政策を決定しさえすればよいというものではなく、選挙から国会での意思決定に至るまでのあらゆる過程において、つねに、国政に関するあらゆる情報が社会全体にくまなく流通していて、だれもが自由に国政に関する自己の意見を主張することができる環境が整っている必要がある。なかでもとくに、政権に対する批判的見解を自由に述べることのできる環境が整っている必要がある。このように、社会全体の民主主義の過程に着目した表現の自由の価値が「自己統治」である。

 

さらに、「思想の自由市場」の重要性が唱えられることもある。経済の自由市場をなぞらえたこの考え方のもとでは、さまざまな思想や言論を「思想・言論の市場」のなかでの自由競争に委ねることで、真に価値のある思想や言論が勝ち残っていくという過程を重視し、「思想市場」に対する政府の介入は避けるべきであるとされる。

 

 

憎悪表現の規制をめぐる諸見解

 

上記の「自己実現」と「自己統治」が、表現の自由の重要性を支える考え方である。このような考え方に照らすと、憎悪表現の規制には多くの難題がともなうことが分かる。

 

たとえば、歴史を振り返ると、政府や皇室を批判する表現や模範的な道徳観に反する表現などは、しばしば規制の対象とされてきた。そして、従来、個人の自由を重んじる憲法学者や弁護士たちは、このように政府が一定の内容の表現を「悪い表現」であると認定した上で規制すること(=表現内容にもとづく規制)を批判し、個人の表現の自由は最大限に確保されるべきであると主張し、表現の自由の保障の強化を主張してきた。

 

この文脈に沿って考えると、憎悪表現が一定の人々にとっていかに耳障りで不愉快であったとしても、また、憎悪表現の蔓延が共生社会の実現という政策遂行に不適切なものであったとしても、「不愉快、不適切だから規制する」という結論を導き出すことは許されないことになる。

 

さらに言えば、人種・民族的な憎悪表現は、たんに「さまざまな表現のうちのひとつ」であるにとどまらず、日本国の重要な政治課題である内政・外政に関する意見表明という一面も有していると言いうる場合がある。政治的な論点に関する表現の自由はもっとも手厚く保障されるべきであるとする「自己統治」の価値に照らすと、憎悪表現の「発信の自由」も手厚く保障されるべきであるということになる。

 

一方、憎悪表現の規制を肯定する論者たちは、憎悪表現が従来の規制対象とされてきた反政府・反道徳的な表現とは異なるのだという点を強調する。こうした論者は、たとえば、憎悪表現が被害者に与える精神的な苦痛や日常生活への支障などを防止することの必要性を指摘したり、憎悪表現の蔓延が社会の偏見や差別構造を増長させることの問題点などを強調したりして、規制の正当化を試みる。

 

また、憎悪表現の「発信」の自由を保障することがかえって表現の自由の保障の意義を損なう結果をもたらすことを指摘する(後述「アメリカの状況」の節を参照)。さらに、人種差別撤廃条約がその加入国に対して、人種的優越思想の流布や人種差別の扇動を禁止するための立法措置を求めていることにも言及し、憎悪表現規制が国際的な差別撤廃の動きに則したものであることも指摘する。

 

憎悪表現の規制は、弱者の人権保護や社会全体の利益のために設ける必要があるものなのだろうか。それとも、表現の自由を不当に制約するおそれのある危険なものなのだろうか。以下、まず、日本国内において想定しうる憎悪表現規制の手法を概観した上で、アメリカとカナダにおける憎悪表現規制をめぐる議論の展開に焦点を当てて、この問題についてさらに掘り下げて考えていきたい。

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.265 

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