2013.05.23

憎悪表現(ヘイト・スピーチ)の規制の合憲性をめぐる議論

小谷順子 憲法学

社会 #ヘイトスピーチ#表現の自由#人権法#ポリティカルコレクトネス#RAV判決

20世紀の半ば以降、過激な人種差別思想の台頭に直面した国々は、これを深刻な事態として受け止めた。そして、こうした差別思想にもとづく憎悪表現を規制すべく、人種差別撤廃条約4条において、差別思想の喧伝を禁止する法律を制定するよう加盟国に義務づけた。

現在、イギリス、フランス、ドイツ、カナダなどでは、この条文を履行すべく憎悪表現を規制する法律を設けている。一方、アメリカは、表現の自由の保障を最大限に保障しようとする判例法を背景に、第4条に留保を付して表現規制を回避するかたちで条約本体に加入しており、現在も憎悪表現を規制する立法は行っていない。アメリカ同様、日本も同条に留保を付して加入しており、憎悪表現を規制する立法を行っていない。

過去10年ほどのあいだで、日本国内においても、インターネット上を中心に、自己とは異なる人種・民族集団に属する人々に対する憎悪や偏見の表現を、日常的かつ一般的に見聞きする機会が増えた。さらに、最近では、そのような憎悪や偏見の思想を宣伝する街頭デモも見られるようになっている。

このような、特定の人種・民族集団(およびその集団を構成する人々)に対する憎悪や偏見の表現(以下、単に憎悪表現と記す)の発信については、なんらかの方法で規制すべきだという意見が聞かれる一方で、憲法21条の保障する「表現の自由」の重要性に照らして規制すべきでないとする慎重な意見もある。はたして、憲法が「表現の自由」を保障している国家において、「憎悪表現の発信の自由」を規制することは許されるのだろうか。

本稿では、以下、まず憲法上の表現の自由の保障をめぐる従来の考え方を確認した上で、憎悪表現の規制をめぐる問題点を指摘していく。

「表現の自由」とは

まず、「表現の自由」の重要性について確認しておく。表現の自由は、憲法の保障するさまざまな自由のなかでもっとも重要なもののひとつとして位置づけられているが、それは、表現の自由の保障が、個人の「自己実現」と社会全体の「自己統治」に不可欠だと考えられているからである。つまり、人間はだれしも自己の意見を形成し、それを他者に伝え、他者の意見にも触れて、さらに自己の意見を再形成していくという過程を通して、自由な人間としての人格を形成していく。このような個人の人間性の実現のための過程に着目した表現の自由の価値が「自己実現」である。

一方、健全な民主主義(ないし代表民主制)の実現のためには、たんに、人気投票(選挙)で代表者(国会議員)を選んだ上で、選ばれた代表者が国会で多数決で政策を決定しさえすればよいというものではなく、選挙から国会での意思決定に至るまでのあらゆる過程において、つねに、国政に関するあらゆる情報が社会全体にくまなく流通していて、だれもが自由に国政に関する自己の意見を主張することができる環境が整っている必要がある。なかでもとくに、政権に対する批判的見解を自由に述べることのできる環境が整っている必要がある。このように、社会全体の民主主義の過程に着目した表現の自由の価値が「自己統治」である。

さらに、「思想の自由市場」の重要性が唱えられることもある。経済の自由市場をなぞらえたこの考え方のもとでは、さまざまな思想や言論を「思想・言論の市場」のなかでの自由競争に委ねることで、真に価値のある思想や言論が勝ち残っていくという過程を重視し、「思想市場」に対する政府の介入は避けるべきであるとされる。

憎悪表現の規制をめぐる諸見解

上記の「自己実現」と「自己統治」が、表現の自由の重要性を支える考え方である。このような考え方に照らすと、憎悪表現の規制には多くの難題がともなうことが分かる。

たとえば、歴史を振り返ると、政府や皇室を批判する表現や模範的な道徳観に反する表現などは、しばしば規制の対象とされてきた。そして、従来、個人の自由を重んじる憲法学者や弁護士たちは、このように政府が一定の内容の表現を「悪い表現」であると認定した上で規制すること(=表現内容にもとづく規制)を批判し、個人の表現の自由は最大限に確保されるべきであると主張し、表現の自由の保障の強化を主張してきた。

この文脈に沿って考えると、憎悪表現が一定の人々にとっていかに耳障りで不愉快であったとしても、また、憎悪表現の蔓延が共生社会の実現という政策遂行に不適切なものであったとしても、「不愉快、不適切だから規制する」という結論を導き出すことは許されないことになる。

さらに言えば、人種・民族的な憎悪表現は、たんに「さまざまな表現のうちのひとつ」であるにとどまらず、日本国の重要な政治課題である内政・外政に関する意見表明という一面も有していると言いうる場合がある。政治的な論点に関する表現の自由はもっとも手厚く保障されるべきであるとする「自己統治」の価値に照らすと、憎悪表現の「発信の自由」も手厚く保障されるべきであるということになる。

一方、憎悪表現の規制を肯定する論者たちは、憎悪表現が従来の規制対象とされてきた反政府・反道徳的な表現とは異なるのだという点を強調する。こうした論者は、たとえば、憎悪表現が被害者に与える精神的な苦痛や日常生活への支障などを防止することの必要性を指摘したり、憎悪表現の蔓延が社会の偏見や差別構造を増長させることの問題点などを強調したりして、規制の正当化を試みる。

また、憎悪表現の「発信」の自由を保障することがかえって表現の自由の保障の意義を損なう結果をもたらすことを指摘する(後述「アメリカの状況」の節を参照)。さらに、人種差別撤廃条約がその加入国に対して、人種的優越思想の流布や人種差別の扇動を禁止するための立法措置を求めていることにも言及し、憎悪表現規制が国際的な差別撤廃の動きに則したものであることも指摘する。

憎悪表現の規制は、弱者の人権保護や社会全体の利益のために設ける必要があるものなのだろうか。それとも、表現の自由を不当に制約するおそれのある危険なものなのだろうか。以下、まず、日本国内において想定しうる憎悪表現規制の手法を概観した上で、アメリカとカナダにおける憎悪表現規制をめぐる議論の展開に焦点を当てて、この問題についてさらに掘り下げて考えていきたい。

日本国内で想定しうる法規制の手法

現在の日本社会でみられる過激な憎悪表現は、既存の法制度のなかで規制することが可能なのだろうか。また、諸外国の規制例を参照した場合、現在の日本で採りうる規制手法にはどのようなものがあるのだろうか。ここでは、既存の法令を憎悪表現に適用するパターンと、新規の法制度を設けて憎悪表現を規制するパターンの双方に言及しておく。

第一の手法は、刑事法規を使って憎悪表現を規制するというものである。イギリス、カナダ、ドイツ、フランスなどでは、この手法で規制を行っている。

日本の現行法の刑法関連規定のうち、憎悪表現に対して適用できそうなものとして、脅迫罪(刑法222条)、名誉毀損罪(刑法230条)、侮辱罪(刑法231条)などがあげられる。しかし、これらの規定は「○○人はみな犯罪者だから○○国へ帰れ」といったタイプの憎悪表現に対して適用するのは困難である。

これらの刑法規定を適用することのできる表現は、原則的には特定の個人に向けられた表現に限定されるのであって、不特定多数の人々の集合体である「○○人」という人種・民族的な集団に向けられた憎悪表現には適用されない。そのため、もしも日本において刑事法によって上記のような不特定多数に向けられた憎悪表現の規制を設けるのであれば、たとえば、脅迫罪、名誉毀損罪、侮辱罪等の概念を応用して人種・民族的な集団に対する名誉毀損や侮辱を規制対象にするといった新たな手法を採るか、憎悪表現の規制のための規定を新たに創設するという手法を採る必要がある。

ところで、刑事司法体系は、法律上に「罪」となる行為を明記した上で、その行為を行ったとされる者を裁判所に呼び出し、裁判所で審理を行った上で、「有罪」であれば「刑罰」を科すという構造を有している。したがって、もしも憎悪表現を規制する刑事法規を設けた場合、違反者(すなわち憎悪表現を発信した者)は裁判所で審理された上で、有罪と判断された場合は刑罰を科されることになる。

不適切な内容の表現を発信したことを理由として個人に罰を科すという手法は、表現の自由の保障への重大な脅威であり、本来、できるかぎり回避されるべき手法である。そのような脅威を緩和する方策であると言いうるのが、次にあげる第二の手法である。

第二の手法は、人権法を新たに制定して、人権法体系のもとで憎悪表現を規制するというパターンである。カナダやオーストラリアなどでは、この手法が用いられている。日本の民主党政権下で導入が模索された人権法(人権擁護法)もこの手法の一例である。

刑事司法体系と人権法体系とには大きな差異がある。刑事司法体系が上述のとおり「法に違反した者を、司法府(裁判所)が審理して、有罪ならば刑罰を科す」という構造であるのに対し、人権法体系は、「違反者を、行政府に設けられた独立の機関(人権委員会等)で審理した上で、違反が認定された場合は、被害者への救済策を講じる」、という構造をもつのが一般的である。

人権法体系が目標としているのは、違反者を罰することではなく、被害者を救済することである。つまり、人権法による憎悪表現規制は、うまく機能した場合、表現者を罰することなく被害者を救済することが可能となるという画期的なものなのである。

しかし、人権法による表現規制にも重大な難点がある。刑事司法体系のもとでは、厳格な構成要件を満たす表現行為のみが規制対象となるのに対し、人権法体系のもとでは、一般に、規制対象となる表現行為が幅広くなりがちである。さらに、刑事司法体系のもとでは、加害者とされる者(被疑者・被告人、ここでは憎悪表現の発信者)の権利を保障するための手厚い予防策が講じられているのが一般的であるのに対し、人権委員会のもとでは、そのような手厚い権利保護のための対策は設けられていないのが一般的である。

このように、表現発信者の権利の保護が万全ではない制度のなかで幅広い表現が規制対象となって、表現発信者が(犯罪としてではないとはいえ)社会的に責められることになる点において、表現の自由の保障への重大な脅威となりうる危険性がある。

第三の手法として、デモという表現手法による憎悪表現の伝播という場面に限定して考えると、たとえば都道府県の公安条例にもとづくデモの許可条件を厳格化することで、憎悪表現の伝播を抑制するという手法が考えられる。より具体的に言えば、たとえば、憎悪表現を宣伝するデモについては許可をしないという手法や、デモの許可の際にデモを行う場所や時間についての条件を付して、一定の場所でのデモを認めないという手法である。

この手法は、表現行為に対して直接刑罰を科すわけではなく、あくまでも「表現の機会を与えない」ということにすぎないゆえ、一見すると、表現の自由の保障のもとで何らの問題もない対応であるかのように思われるかもしれない。しかし、デモ行為は、これまで、効果的な意見伝達手段を持たない一般市民が自己の意見を世間に知らしめる手法として、表現の自由の保障を存分に受けるべきものだと考えられてきた表現形態なのであり、伝統的な理解では、デモで発信するメッセージの内容の不適切さを理由に不許可とすることは許されない。

第四に、憎悪表現の発信を民事上の不法行為として理解した上で、被害者に損害賠償請求の機会を与えるという手法もありうる。しかし、従来の理解のもとでは、不特定多数の人々で構成される民族・人種的な集団全般に対する攻撃発言を不法行為とみなす余地はあまりなく、この手法での対処は困難である。

このように、既存の法制度のもとでは、不特定多数で構成される集団に対する憎悪表現に対処することは困難である。そして、仮にそのような憎悪表現を規制するための新しい法律を制定したとしても、今度はそのような規制が表現の自由の保障に対する脅威となるおそれが拭えない。このような難点を念頭におきつつ、以下、諸外国が憎悪表現の蔓延という事態に直面してどのような対応策を選んできたのかを見ていきたい。ここでは、規制違憲派のアメリカと規制合憲派のカナダの2カ国を見ていく。

アメリカの状況

日本でも近年耳にすることが増えた「ヘイト・スピーチ(hate speech)」という語は、アメリカから輸入された用語である。アメリカにおいて、「ヘイト・スピーチ」という用語が一般的に用いられるようになったのは1980年代後半以降である。

この時期、人種や性別をめぐる差別や偏見の解消のための効果的な対策が模索され、とくに大学のキャンパスにおける人種的・性的な嫌がらせ(ハラスメント)行為に対処するため、多くの大学が憎悪表現を含むハラスメント行為全般を規制する学則を採用するようになったことから、憎悪表現規制の合憲性及び妥当性をめぐる議論が一気に活発化した。そのような議論のなかで、「ヘイト・スピーチ」という用語が定着していったのである。

ヘイト・スピーチの規制をめぐる対立は、従来の表現規制をめぐる典型的なリベラル派と保守派との対立とは異なる様相を見せた。すなわち、従来繰り広げられてきたわいせつ表現、不道徳な表現、反国家的な表現の規制の合憲性をめぐる議論では、保守派が規制を認める姿勢を見せる一方で、リベラル派は一貫して表現規制を否定してきたのであるが、ヘイト・スピーチ規制をめぐる議論では、保守派(の一部)が規制に反対し、リベラル派(の一部)が規制に賛成するという構図を見せたのである。

とくに1980年以降のヘイト・スピーチ規制をめぐる議論は、有色人種や女性の積極登用を進めるアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)やハラスメント防止対策を中心とした「政治的な正しさ(Political Correctness)」を追求する流れと相まって推進され、リベラル派と保守派とのあいだでの社会的・政治的な論争を激化させた。

さらに、そのような対立にとどまらず、リベラル派内部においても規制肯定派(マイノリティの自由と権利を重視)と規制否定派(個人の表現の自由を重視)とが対立する様相を見せ、「リベラル派の分断」(Owen Fiss, “Liberalism Divided” (1996))と呼ばれる状態を生み出した。

そのような論争のつづくなか、1992年、アメリカ連邦最高裁は、RAV判決(R. A. V. v. City of St. Paul, 505 U.S. 377 (1992))において、憎悪表現規制は違憲であると判断した。RAV事件の争点となったミネソタ州セントポール市の「偏見を動機とした犯罪に関する条例」は、ある者のなした表現行為が人種、肌の色、信条、宗教、性にもとづく怒り、不安、憤りをもたらし、それが「喧嘩言葉」を構成する程度に至った場合に刑罰を科すというものであった。

*)なお、「喧嘩言葉」とは「言葉自体が侵害を与え、あるいは平和の破壊を即座に引き起こす傾向にある」表現を指し、連邦最高裁の先例のなかで、わいせつや名誉毀損と並んで表現規制が許されるとされた表現領域である。

連邦最高裁は、当該条例が人種等の不人気な題材(disfavored topics)に関する表現のみを喧嘩言葉のなかから選び出して規制していることを指摘し、当該条例は表現の内容にもとづく規制であると述べた。そして、連邦最高裁は、市の主張する規制利益(=歴史的に差別の対象となってきた集団に属する人々の基本的人権を保障すること)の重要性を認めつつも、当該利益を達成するために表現内容にもとづく規制を課す必要性を否定し、同条例は違憲であると述べた。

RAV判決によって、全米において憎悪表現の規制は不可能となったと理解され(*)、それまで憎悪規制を設けていた自治体や大学は規制を廃止した。しかし、憎悪表現規制を違憲と判断した連邦最高裁のRAV判決に対しては、規制合憲説の論者からさまざまな反論が寄せられている。規制合憲派の主張は多岐にわたるが、まずは、合憲派の主張するところの「憎悪表現のもたらす害悪」を紹介したい。ここで紹介する害悪は、被害者個人に及ぶ害悪と、社会全般に及ぶ害悪とに大別できる。

*)2003年の連邦最高裁のブラック判決では、脅迫に該当する「十字架を燃やす行為」を規制する州法を合憲としている。十字架を燃やす行為は、白人優越主義集団KKKが黒人を威嚇・迫害するために用いた表現行為であり、アメリカにおいては今日でもとくに強烈な威嚇的・迫害的なメッセージを発するものとされる。さらに、連邦最高裁は、人種・宗教的な憎悪を動機とする「犯罪」を罰する際に刑を加重すること(憎悪犯罪刑罰加重規定、hate crime法)は合憲であると判断している。

第一に、憎悪表現が伝達するメッセージは、差別意識の残る米国社会において、その被害者に劣等感を植えつけ、精神面に重大な影響を与えるのみならず、自己表現の権利を行使することを躊躇させるなど、被害者の自由な行動を抑制する効果をもつと言われる。つまり、憎悪表現は、被害者の尊厳を傷つけるとともに、被害者の自律的な自己決定を妨げるものであると言われる。

さらに、憎悪表現は、被害者側の表現活動の自由を抑制する効果を生み出すと言われる。そのため、憎悪表現の被害者に「言論には言論で対抗せよ」という原則(=「対抗言論」の原則)を強いるのは不適当であると言われる。つまり、憎悪表現に関しては、表現発信者に対して被害者がまともに反論をすることができる可能性は低いのであり、現実には多くの被害者は沈黙を強いられ、表現発信の機会を奪われていると言うのである。

第二に、憎悪表現の発信は、被害者個人に被害をもたらすにとどまらず、社会全体の憲法上の理念を損なう結果をもたらすと言われる。まず、憎悪表現の「発信」の自由を保障することは、社会全体における表現の自由の保障そのものを後退、または縮小させることにつながると言われる。つまり、憎悪表現の発信の自由を保障することによって、将来的に憎悪思想の蔓延した社会が到来する可能性が指摘される。

先に述べたとおり、憎悪表現に関しては「対抗言論の原則」が想定している「(憎悪表現を受けた側からの)反論」が実際になされる可能性が低いため、その結果として、社会には憎悪表現(およびその思想)のみが流通することになり、憎悪表現に対する反論は流通しない。さらに、憎悪表現は、連鎖的に周囲の者を感化して憎悪表現の蔓延を促進させる可能性が高く、長期的には社会全体の人々の偏見や憎悪を増進することとなり、社会の理性のレベルを下げる傾向にある。

こうして憎悪や偏見の思想が社会に充満してしまうという段階に達してしまった場合、もはや憎悪表現に対する反論を発信しようにも、偏見や憎悪の思想を理性的に論破することはきわめて困難であるし、そもそも偏見や憎悪の対象者である被害者の意見は軽んじられる可能性も高い。そして、このように社会に憎悪表現が蔓延するということは、民主主義の過程に偏見や憎悪の思想が浸透するという事態をもたらすのみならず、公共の議論に被害者側の観点が登場しないという事態をもたらす。このような影響を考慮すると、憎悪表現に関しては、積極的に(善良なる)政府が介入をして規制を試みる必要があると主張される。

憎悪表現の害悪はこのように説明されるのであるが、もちろん、憎悪表現の害悪の重大さの程度は、個々の憎悪表現の内容、性質、状況、あるいは、その受け手の立場、性質、状況などによって異なる。そこで、規制合憲説は、規制可能な憎悪表現の範囲を厳格に確定することで、表現の自由の侵害を避けようと試みる。そして、厳格に定義された憎悪表現については、喧嘩言葉や脅迫など既存の原則のもとで、あるいは新規の規定を設けることで規制することが可能であると主張するのである。

もっとも、このような規制肯定派の見解に対して、規制否定派からは、それでもなお表現内容規制は避けるべきであるという主張がなされる。つまり、憎悪表現の害悪がいかにひどいものであろうとも、特定の内容の表現(つまり憎悪表現)を「悪い表現」であると政府が認定して、そのような表現の発信を禁止するということは、表現の自由の保障の中核にある表現内容規制の禁止という考え方に根本的に反するゆえ、許されないというのである。

このような指摘に対し、規制合憲派は次のような反論を展開する。まず、憎悪表現のもたらす害悪は、わいせつ表現や脅迫表現の害悪とは異なり、法的に認識されるようになってから間もないため、それを規制すべきか否かをめぐる社会のコンセンサスが得られないために、その規制が許容されないのだという主張がある。

また、憎悪表現の害悪は深刻かつ重大であるにもかかわらず、社会の多数派にはその害悪が及ばないがゆえに、わいせつ表現などのように多数派にも害悪が及びうるものと比較して、害悪の重大さが理解されにくいという指摘もある。この点につき、1960年代以降の国際社会では人種や宗教を原因とした憎悪にもとづく思想の流布や人種差別の煽動などを法的に規制すべきとする見解が主流であって、人種差別撤廃条約などでも差別表現の国内規制が義務化されているという主張もなされる。

カナダの状況

カナダでは、1960年代に反ユダヤ主義や反黒人主義の動きが広がり、白人優越主義集団の活動が活発化したことが社会問題となった。そのようななか、連邦議会は、1970年に刑法典に憎悪表現(hate propaganda)を禁止する条項を設けた。

その後の改定を経た現行の連邦刑法は、肌の色、人種、宗教、性的志向などの指標によって識別される集団に対する憎悪を煽動する意見を公然と伝えることを禁止するとともに、プライベートな会話以外の場面で特定集団に対する憎悪を意図的に促進する意見を伝えることを禁止する。そして、免責条件として、(a)真実性の証明がある場合、(b)誠意をもって宗教上の題材に関する意見を述べた場合、(c)公共の利益のためになされた場合、(d)憎悪感情の除去を目的としていた場合という4つの場合を規定している。

カナダでは、刑事法に加えて人権法による憎悪表現規制も行っている。カナダの人権法は、人種、肌の色、宗教等の事由によるさまざまな形態の差別「行為」を禁止する法律であるが、その第13条において、電話や通信システムを利用して憎悪表現を発信することを禁止している。

カナダの連邦最高裁は、1990年の判決において、連邦刑法と連邦人権法の規制について、いずれも表現の自由に対する正当な制約であるがゆえに合憲であると判断している。連邦最高裁は、憎悪表現が個人や社会に与える強い害悪を認定し、さらに、その害悪の防止を必要とすることの重要性も認めた上で、そのような害悪を防止するという立法目的を肯定し、そのような害悪を防止するために表現規制という手段を採用することを肯定している。

もっとも、21世紀に入り、カナダにおける憎悪表現規制をめぐる状況に変化が生じている。2007年以降、イスラム教を批判する複数の表現物が憎悪表現であるとして人権委員会に申し立てられたことを契機に、とくに人権法にもとづく憎悪表現規制の廃止論が強く唱えられるようになったのである。そして、2012年6月、連邦議会下院は廃止法案を可決し、現在(2013年5月)、同法案は上院で審議中である。カナダの上院は公選制ではないがゆえに下院の法案を否決しない憲法習律が存在しており、今後、人権法13条の廃止案は上院でも可決される見込みである。

 

 

アメリカ、カナダの経験から学びうること

カナダの連邦最高裁が、現実社会における差別構造や差別意識の存在を直視し、歴史上の反省点を振り返り、憲法や国際条約上の表現の自由や平等の価値を考慮しつつ、憎悪表現規制を合憲であると判断したことには一定の意義が認められるように思われる。そして、カナダが、刑法にもとづく厳格な構成要件にもとづく憎悪表現規制に加えて、人権法による調停機能や救済機能を特色とする人権委員会や人権審判所を通した憎悪表現規制を設けることについても、一定の意義があるように思われる。

しかし、規制を設けることには慎重さが必要である。慎重さが要求される理由についてはすでに述べてきたところであるが、ここではさらに3つの理由をあげておく。

第一に、表現の自由のもつ「社会の安全弁」としての機能(=何らかの事柄に不満をもつ者が、実力での破壊行為ではなくたんなる言論行為で鬱憤を晴らすという意味において、表現は社会の安全弁としての役割を果たしているという考え方)を強調する立場からは、憎悪表現を規制してしまうと、憎悪思想を抱く人々が鬱憤を晴らすための手段が閉ざされることとなり、その結果、憎悪感情にもとづく過激な犯罪行為の発生につながるおそれがあると指摘される。

第二に、社会的な弱者を守ることを目的として導入した憎悪表現規制であっても、弱者の言論を取り締まるために活用されてしまうおそれも指摘される。たとえば、憎悪表現にさらされた社会的弱者が発信する反論のなかに社会的強者を攻撃する憎悪表現が含まれていた場合に、当該弱者の言論を取り締まるために規制が用いられてしまうという構図である。第三に、合憲的な規制たりうるためにはごく限定的な一部の憎悪表現のみを対象とせざるえないことを踏まえると、ほんのわずかな効果のために表現の自由の保障全体を揺るがすような規制を設けることを正当化できないという指摘もある。

さらに、アメリカやカナダで見られる規制反対論のなかには、伝統的に表現の自由の保障を重視してきた論者による反対論に加えて、政治的な対立を背景にした反対論があることにも留意しておく必要がある。たとえば、アメリカの連邦最高裁は憎悪表現規制を違憲と判断しているが、同最高裁が憎悪表現の生み出す害悪を認めつつもなお規制を許さないという考え方をとった背景には、「Political Correctness(政治的妥当性)」を追求する動きに対する保守派判事の反発感があったと言われることがある。

また、近年のカナダにおける人権法の憎悪表現規制廃止の動きは、保守派のなかで規制反対の声が強まった結果、保守党政権の主導で進められているのである。憎悪表現をめぐるこのような政治的な対立構造を目の当たりにすると、そもそも表現内容規制が許されないとされる理由、すなわち表現内容規制には政府による恣意的な表現規制の危険性がつきまとうという指摘が現実味をもつようになり、憎悪表現への法的対処の困難さが浮き彫りになる。

憎悪表現の広まりに対して国家として何をすべきなのか。何ができるのか。本稿でみてきた憎悪表現規制をめぐるアメリカとカナダの対応の経緯は、われわれにもさまざまな示唆を与えていると思われる。

プロフィール

小谷順子憲法学

1972年東京都生まれ。静岡大学人文社会科学部教授。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程修了。編書に、『現代アメリカの司法と憲法‐理論的対話の試み』(尚学社)、『地域に学ぶ憲法演習』(日本評論社)、共著に、『表現の自由Ⅰ‐状況へ』(尚学社)など。

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