2013.09.17

人々を自閉症とみなす社会――自閉症スペクトラム概念の拡大を考える

井出草平 社会学

社会 #アスペルガー#自閉症#DSM#自閉症スペクトラム障害

アメリカ精神医学会の診断基準DSM(精神障害の診断と統計の手引き:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)が19年ぶりに改訂され、アスペルガー症候群を含む広汎性発達障害が、自閉症スペクトラム障害という診断名に変更になった。変更点については以前の記事を参考にしていただきたい。

今回は少し趣向を変えて、自閉症スペクトラム障害とその社会的背景について考えてみたい。

そもそも自閉症スペクトラムとはどういう概念だったか

最初に確認したいのは、自閉症スペクトラムという言葉の意味である。この言葉は統一的な定義がなく、研究グループによって、国によって、人によって意味が異なっているため、文脈によってどのような意味で使われているかということを考える必要がある。

今回は、この「自閉症スペクトラム」という言葉の使い方について考えてみたい。まずは自閉症スペクトラムという言葉はどのように生まれ、どのように変化し、DSM-5に収録に至ったかをみてみよう。

「自閉症スペクトラム」という用語を提唱したのは、イギリスの精神科医であるローナ・ウィングである(Wing 1988; 1997)。

ウィングは1944年に小児科医のハンス・アスペルガーが書いた論文を再発見する形で、自閉症にも知的障害をともなわないもの(IQが70以上)があるという報告をし、これを「アスペルガー症候群」と提唱した。

精神科医の村田豊久はウィングの報告に対して「高機能(自閉症)を、自閉症から区別したということで、アスペルガーの報告を評価したということですね。ただの、ロウIQ、ハイIQの問題だけです」(村田 2007: 406)と述べている。

80年代当時は知的障害をともなった自閉症は知られていたものの、知的障害がないタイプの自閉症は専門家の間でもまだまだ知られていなかった。ウィングが、アスペルガー症候群という概念を提唱したことによって、知的障害のない自閉症は大きく取り上げられるようになった。

ウィングはアスペルガー症候群の提唱をした後に、自閉症スペクトラム概念の提唱をしている。

自閉症スペクトラム概念の新規性はどこにあったのか。ウィングによれば自閉症スペクトラムは「奇矯さと正常性を統合し、両者の区別を曖昧にするもの」(Wing 1997)である。自閉症か否かで正常と異常をスパっと分けることを避けるためだったことがわかる。

自閉症スペクトラムと呼ばれる範囲についてウィングは「自閉症スペクトラムは広汎性発達障害とオーバーラップし、より広いもの」(Wing 1997)だと述べており、当初想定していたのは、広汎性発達障害とその周辺群であったことがわかる。これは、自閉症スペクトラムという言葉が異常な拡大を起こす前の話である。

自閉症スペクトラムの意味の変化

自閉症スペクトラムという言葉は日本国内でも解釈が異なる。

宮本信也『アスペルガー症候群 高機能自閉症の本』は自閉症スペクトラムを「自閉的な特徴のある状態をすべて連続したものとしてとらえる考え方」(宮本 2009: 31)と述べている。宮本は自閉性を持つ者を連続的にとらえると紹介している。スペクトラムは、自閉症を自閉性の濃淡でとらえるという考え方だ。

宮本の紹介が近年では最もスタンダードな理解である。DSM-5に収録された自閉症スペクトラムの考え方も基本的には同じである。詳細は後述するが、この理解だとウィングの提唱した自閉症スペクトラムより狭い範囲を指すことになる。

一方で、本田秀夫『自閉症スペクトラム』では異なった捉え方をしている。内容紹介では「自閉症とアスペルガー症候群、さらには障害と非障害の間の垣根をも取り払い、従来の発達障害の概念を覆す『自閉症スペクトラム』の考え方が注目されています」と書かれている(*1)。

(*1)本田の自閉症スペクトラム概念について批判的に取り扱ったが、冒頭にあるこの部分を除くと良書である。例えば、発達をボトムアップ的にのばすのではなく、いくつかの目標(協調性よりもルールを守ること等)などをトップダウン的に設定して、将来の到達点を低めに設定しておくことなどは非常に重要である(129頁)。また「非障害性自閉症スペクトラム」という点も重要である(91頁)。いわゆるシュナイダー基準というものだ。精神病理の症候としては、自閉症スペクトラムなり、うつ病なり、不安障害の項目は満たしているが、日常生活に支障がなければ、それは精神障害とは呼ばないという考え方である。自閉症スペクトラムにおいても、この考え方を尊重することは非常に重要である。

自閉症が片方の軸にいるとし、もう一方の軸に正常があるとすると、その間に正常と異常の線引きはなく、地続きであるというイメージだ。そして、どんな人も、そのどこかにマッピングされるという考え方だ。本田は広く捉えた場合には、自閉症スペクトラムは人口の10%は存在すると述べている(本田 2013: 15)。

私の知る限りなのだが、日本では本田のように拡大された自閉症スペクトラムの解釈が紹介されることが多い。しかし、この解釈はスタンダードなものだとは言いづらい。

そして同時に強い違和感も覚える。本田の本から引用しよう。本田は典型的な自閉症ではないが、以下のことも自閉症スペクトラムに該当するという。

「話が理屈っぽい」「食事中にテレビについ夢中になってしまう」「特定の作家の漫画に熱中する」「インターネットやSNSに熱中する」「女の子同士のグループでいつも行動することが肌に合わないと感じる」(本田 2013: 23)

行動が少し逸脱的だと自閉症スペクトラムというラベリングを貼られるようだ。このくらいの逸脱ならば、誰でも一つや二つくらいは当てはまるのではないだろうか。

これは、社会からの逸脱を診断名や病名で捉える現象である。医療社会学ではこの現象を「医療化」と呼ぶ。このような拡大された自閉症スペクトラム理解も医療化の一つだと考えられる。

確かに、生活に支障をきたすくらいインターネットやSNSに熱中して社会生活に支障があるなら、それはそれで問題である。精神医学であれは、インターネット依存という概念のアプローチをするのかもしれない。しかし、少なくともインターネットへの熱中を脳機能障害である自閉症スペクトラムだと捉える研究はないし、エビデンスもない。

また、特定の作家の漫画に熱中することに至ってはどこが問題なのかが理解できない。

インターネットやSNSに熱中するのを自閉症スペクトラムだと言い始めれば、エセ科学の領域に突入する。要するに、インターネットの使いすぎは脳機能障害であるということだ。ゲーム脳などとほとんど変わらないレベルのデタラメさである。

このようなことを書いている本田秀夫は無名な人物であれば「そういうことを言う人もでてくるだろう」で済む話なだが、彼は日本における自閉症の大家の一人である。

しかも、本田のような拡大された自閉症スペクトラム理解をしている臨床家は少なくない。ほとんどの臨床家は、日本語で書かれたものを読んで臨床の知識を得ている。日本では自閉症スペクトラム拡大の運動的思想の下で書かれた書籍が多く、書籍に明らかな偏りがあるということを気づく機会もあまり提供されていない。

自閉症スペクトラムという言葉の取り扱いは丁寧にした方がよいのではないかと思うのだ。自閉症概念の拡大によって自閉症研究がエセ科学めいたものになっていることは、もう少し知られてもいいのではないだろうか。

DSM-5における自閉症スペクトラム障害

標準的な理解をするために、今年改訂されたDSM-5では自閉症スペクトラムの定義をみてみよう。

DSM-5では、自閉症スペクトラム障害という診断名が採用されている。しかし、その意味は提唱者のウィングのものとも異なる。もちろん、本田秀夫のような考えた方ともかけ離れている。

DSM-5での診断の要件は「コミュニケーションの障害」と「常同性」という2つの要件であった(https://synodos.jp/society/4414)。ちなみにDSM-IVの自閉症スペクトラム障害に相当する広汎性発達障害では、2つのうちどちらか1つで診断ができていた。1つの要件のみで診断ができていたものが、2つ必要になるのだから、診断範囲は当然狭くなる。

問題は診断範囲だけはない。この変更が意味することは、自閉症スペクトラムである限りは、自閉症の2つの要件を満たし、同じ疾患単位でなければならないということだ。

1.自閉症と同じ要件を満たすこと

2.知的機能は高くても低くても構わない

自閉症の中でも自閉性には強弱がある。自閉性が高く、知的機能が低い場合には呼びかけても反応がないケースがあり、一方で自分から積極的にいろいろな人に声をかけていくケースもある。DSM-5は、このような自閉性の強弱を取り入れている。

もう一点は知的機能、つまりIQのハイ-ロウである。2つの連続帯(スペクトラム)が一つの診断名として認められたわけだ。

自閉症である限りは自閉症の症候(特徴)がなくてはならない。ある意味当たり前のことである。これを拡大して健常までの連続帯だと捉える、拡大された自閉症スペクトラム概念は、一部の研究者の支持を集められたのかもしれないが、世界中の研究者の合意として作られる診断基準では一切排除された。

話が理屈っぽいことや特定の作家の漫画に熱中することが自閉症であるというエセ科学に比較して、DSM-5の改訂は自閉症研究が科学であり続けるための矜持を示したように思える。

自閉症スペクトラムの比較

自閉症の研究者であるフレッド・R・ヴォルクマーがニューヨークタイムズに語ったところによると、広汎性発達障害を持つ4人に1人が新しいDSM-5で自閉症スペクトラム障害の診断から漏れるという。

DSM-IVの広汎性発達障害よりもDSM-5の自閉症スペクトラム障害の方が診断範囲は狭い。これは先述したように「コミュニケーションの障害」と「常同性」の2つの要件をDSM-5が要求するようになったためである。

自閉症スペクトラムの提唱者であるウィング「自閉症スペクトラムは広汎性発達障害オーバーラップし、かつより広いもの」(Wing 1997)と述べていたが、今回の改訂では広汎性発達障害よりも狭い基準が採用された。

また「奇矯さと正常性を統合し、両者の区別を曖昧にするもの」ともウィングは述べていたが、自閉症の2つの要件をDSM-5は要求するので、正常と異常の間を切断している。

自閉症スペクトラムの提唱者であるウィングの主張は、結果として「自閉症スペクトラム」という単語以外、診断基準にほとんど採用されなかったと言える。

広汎性発達障害の有病率は0.6~1.2%程度(*2)である。自閉症スペクトラム障害になると、この有病率がさらに狭まる可能性がある。本田は自閉症スペクトラムを広く取ると10人に1人と述べていた。DSM-5の自閉症スペクトラムと本田のような考え方にはかなりの乖離があることがわかる。

(*2)Fombonne et al. (2001)、Baird et al.(2006)において、知的障害を持たないグループは半数程度。半数程度は知的障害を持っているため、その多くは旧来から使われてきた自閉症である。従って、アスペルガー症候群と慣例的に呼ばれているグループはこの有病率のおよそ半数程度である。

自閉症で社会を区切る必然性はどこにあるのか?

自閉症スペクトラム拡大派はウィングを含めて、10人に1人が自閉症スペクトラムだと主張する本田のような考え方などさまざまなバリエーションがたくさんある。ただ、そこに共通するのは、自閉症から健常(*3)を連続的に捉えるという考え方である。このことについてもう少し考えてみたい。

(*3)「健常」ではなく「定型」という呼び方がされることがある。定型は当事者側から出てきた言葉のようである。しかしこの言葉はあまり適切だとは思えない。例えば、ICD-10の診断名として「非定型自閉症」がある。この文脈で定型というといわゆる自閉症(ICD-10での小児自閉症・DSM-IVでの自閉性障害)になる。メランコリア型のうつ病に対して非定型うつ病というものがあるように、ある症候の中で中心的なものだと想定されるものが「定型」であり、そうではないものが「非定型」という用語が使われている。

自閉症と健常者を二分して、正常と異常を二分することに問題があるという指摘はもっともなところがある。ただ、そこから、世の中の人々を自閉症といった精神障害の診断名で表現することには大きな飛躍があることは指摘しておかなければならない。

この考え方には2つの問題があると思われる。

第1に、自閉症概念だけで人々を説明していくこと

第2に、自閉症のコミュニケーションの障害と多少空気が読めないことは質的にまったく別の体験だということ

第1の点は自閉症以外にもあてはめることかできる。問題があることは容易に分かる。少しばかりシミュレーションをしてみよう。

人は誰しも落ち込むものだ。落ち込むというのは精神医学的に表現すると抑うつになる。ほぼ一日中、二週間以上連続する抑うつはうつ病(うつ病性障害)となる(*4)。ただ、それはあくまでも精神医学的な区別の問題である。

(*4)大うつ病性障害の診断には下記の方法で診断される。以下の症状のうち5つ(またはそれ以上)が同じ2週間の間に存在し、病前の機能からの変化を起こしている(これらの症状のうち少なくとも1つは抑うつ気分または興味・喜びの喪失である)。

1.その人自身の訴えか、家族などの他者の観察によってしめされる。ほぼ1日中の抑うつの気分。

2.ほとんど1日中またほとんど毎日のすべて、またすべての活動への興味、喜びの著しい減退。

3.食事療法をしていないのに、著しい体重減少、あるいは体重増加、または毎日の食欲の減退または増加。

4.ほとんど毎日の不眠または睡眠過多。

5.ほとんど毎日の精神運動性の焦燥または制止。

6.ほとんど毎日の易疲労性、または気力の減退。

7.ほとんど毎日の無価値感、または過剰であるか不適切な罪責感。

8.思考力や集中力の減退、または決断困難がほぼ毎日認められる。

9.死についての反復思考、特別な計画はないが反復的な自殺念虜、自殺企図または自殺するためのはっきりとした計画。

その診断基準まで、抑うつは段階的に捉えられる。週に3日だけ抑うつだったり、一日に数時間の抑うつだったり、軽い抑うつだったりあらゆる段階の抑うつが想定可能だ。日常会話でも「今日ちょっとウツだわー」くらい言うこともあるだろう。人生でまったくヘコむことがなかった強靱な精神(というか異常な鈍感さ)を持っている人間はほとんど存在しないはずだ。スペクトラムを拡大した考え方を適用すれば私たちは全員うつ病かその経験者になる。

私たちは人生の中で一度くらい自分の健康に不安を持ったり、金銭面の不安を持ったことがあるだろう。であれば、私たちは不安障害となる。リモコンの置き場所が決まっていたり、清潔好きだったりすれば強迫性障害になるし、寝れない夜があれば睡眠障害になる。ストレスで風邪を引けば身体症状障害になるし、不注意でミスをすれば注意欠陥多動性障害になるし、ダイエットをしたら摂食障害になる。少し嬉しいことがあってはしゃいでしまったら躁うつ病になる。

世の中のすべての人は精神障害を持つことになる。しかもそれは1つだけではない。少し落ち込んで人生に不安を感じればうつ病で不安障害である。1人いくつもの精神障害を持っていることになるのだ。もちろんスペクトラム(濃淡)としてだが。

そうするとやはり、「なぜ自閉症なのか?」という疑問が浮かぶ。うつ病ではダメなのか、不安障害ではダメなのか、なぜ自閉症が選ばれるのか。自閉症であることの必然性がよく分からなくなる。自閉症が他に比べて特別なものという訳でもない。

自閉症は遺伝的リスクが高い障害であることも根拠にはならない。遺伝的リスクは躁うつ病や統合失調症で高いことは昔から知られていることであるし、他の精神障害でも近年の研究で遺伝的要因の高さが指摘されている。

多少落ち込んだ状態をうつ病だと診断して投薬することがおかしいように、多少空気が読めないくらいで自閉症扱いをするのは酔狂ではなかろうか。

自閉症スペクトラムへの高い関心

最後に「日本では自閉症やアスペルガー症候群への関心が高い」ということについて指摘しておきたい。日本で住んでいるとこのことは感じようも無いのだが、実は重要なことなのだ。

データでみてみよう。

データとして使うのは書籍出版数である。出版されている書籍数を英語と日本語で比較する(*5)。日本語で自閉症スペクトラム障害の関連本は執筆段階で383冊、英語書籍は5327冊であった。日本語よりも英語の文献が多いというのはどの分野でも当てはまるので、自閉症スペクトラムでも同様のことがみられている。

(*5)日本語書籍については国立会図書館NDL-OPACを使用。検索条件と使用したキーワードは以下のもの。

・うつ病

・自閉症スペクトラム or アスペルガー症候群 or 広汎性発達障害

・注意欠陥 or 多動

英語書籍についてはOCLC WorldCatを使用。検索条件と使用したキーワードは以下のもの。

・kw:”depression”

・kw:”Autism spectrum” | “asperger” | “pervasive developmental disorder”

・kw:”Attention Deficit Hyperactivity Disorder” |”attention deficit disorder”

次に、最も有名で有病率の高い精神障害であるうつ病と比較してみよう。加えて、神経発達障害の中で有病率が最も高い注意欠陥多動性障害(ADHD)の書籍数も比較グラフに加えた。

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自閉症スペクトラム障害とうつ病を比較する。自閉症スペクトラム障害の書籍はうつ病に比較して、英語では13分の1であるが、日本語ではおよそ3分の1である。英語での出版を英語圏と言うのは多少適切性に欠けるが、英語圏よりも日本において自閉症スペクトラム障害の注目度は高いことがわかる。

さらにADHDとの比較では、面白い傾向が見られる。日本語では、ADHDよりも自閉症スペクトラム障害の関連本がおよそ2倍出版されている。一方、英語では同程度である。むしろADHDの方が多いくらいである。

日本でADHDの知名度が低いという訳ではない。またADHDが珍しい訳でもない。自閉症スペクトラム障害の有病率が0.6~1.2%程度なのに対して、ADHDは5.29% (Polanczyk et al. 2007)と高い割合で一般人口に存在している。一方で、自閉症スペクトラム障害はどちらかというと珍しい部類の精神障害なのだ。

日本における自閉症スペクトラムへの関心は高い。しかもそれは知名度でも有病率では説明がつかないようなのだ。

アスペルガー症候群と日本文化

高い関心というのは自閉症に対するものではない。どういうことかというと、知的障害を持った自閉症はレオン・カナーによって1943年によって報告され、1960年代から70年代には広く知られた神経発達障害になっていた。もう数十年も前から、言葉だけは一般的に知られている。

従って、近年の爆発的人気は、自閉症ではなく知的障害を伴わないタイプ、つまりアスペルガー症候群への着目だったといえる。

言葉は多くの人が使うようになると、意味が拡散し、本来の使い方とは違ったものに変質していく。アスペルガー症候群でも同じことが起こっている。

近年、ウェブの記述や日常用語でアスペルガー症候群という用語は使われるようになってきている。省略された形の「アスペ」という言葉の方が多く使われているかもしれない。そして、類似した意味として「コミュ障」という言葉もよく使用されている。

一般的に「アスペルガー症候群」と「コミュ障」は同じもの、よく似たものだと誤解されている。ここで、「誤解されているから良くない、正しい理解をしよう」と言いたいのではない。

その誤解が生じることによってアスペルガー症候群への注目度が上がったことが重要なのだ。日本の空気を読む文化の存在は、アスペルガー症候群への関心を高める非常に大きな原動力になったと考えられる。

コミュニケーションがうまくいかないのは何かの障害ではないだろうか。コミュニケーションの障害を持つアスペルガー症候群というものがあるらしい。では、うまくいかないコミュニケーションの障害はアスペルガー症候群だからなのではないか……。おそらく人々の間ではこのような推論が行われてきたのだろう。日本では拡大された意味の自閉症スペクトラム障害が受け入れられる文化的土壌があったのだ。

日本文化にはコミュニケーションに対して特殊な注意を払う文化がある。「アスペ」や「コミュ障」は逸脱と見なされるのだろう。空気の読めないことは「問題だ」という意識が人々に共有されているからだ。従って、それが「できないこと」は逸脱となるのだ。

自閉症スペクトラムの拡大

この文化的土壌にさらに拍車をかけたのが、自閉症から健常までを連続帯で捉える、拡大された自閉症スペクトラム(DSMの自閉症スペクトラムにあらず)の概念である。この概念を採用すると、空気が読めないことや場違いなことをやってしまうこともスペクトラムの中に入れることができる。そしてコミュニケーションが苦手な人に「自閉症スペクトラム」という脳機能障害のラベリングが可能になるのだ。

自閉症スペクトラムという考え方は異常も正常を分けない考え方であるなら、「異常とは何か?」を考える機会を与えてくれる概念ではある。しかし、なぜ世の中の人々を精神障害で切り分ける必要があるのかということをこの概念は教えてくれない。

加えて言うならば、自閉症スペクトラム概念は、異常と正常を分けないかもしれないが、段階的に人々を精神障害の概念で分けている。

本田は広く考えると10人に1人が自閉症スペクトラムだと述べていたが、10分の1と10分の9との間で線引きを行っている。自閉症スペクトラムは正常と異常を分けないと言いながら、結局きっちりと分けるのである。

きっちりと分けるというと誤解を招くかもしれない。連続的ではっきりした分断線はないという論法でぼかすのだ。異常と正常の間を消失させることは、一見すると非常に良いアイデアのように思える。しかし、結局、最終的にはどこかの時点で人々を分けることになる。しかも脳機能障害があるという形で。

もちろん、人々を脳機能障害で評価していくことが間違いだとは言えない。どのような捉え方をしようとも人の価値観で、好みなのだといってしまえば、それまでだからだ。

しかし、私が持つ根本的な違和感は、なぜ私たちの感情や生活態度が「病気」や「障害」といった言葉で表現され、ラベリングされるのか、ということだ。

それによって治療や介入ができれば意味もあるのだろうが、コミュニケーションが上手くなる薬などあるはずもない。

心理的・療育的介入でも同じことだ。自閉性は直感的に社会のルールを学ぶことが難しいため、基本的な社会ルールを学ぶSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)が有効である。しかし「空気が読む」といった高度なコミュニケーションを身に付けたくても、単純なソーシャル・スキルをつけるためのSSTでは役にたたない。

拡大された自閉症スペクトラム概念は生産的概念なのだろうか。おそらく、唯一の有用な機能は、自閉症へのスティグマ(社会的に負の烙印を押されることや、未知のものであるという恐怖感など)を軽減することができるという点だろう。自閉症概念がカジュアルになることで、自閉症へのスティグマが緩和されるだろう。

確かに人口の10人に1人が自閉症スペクトラムであれば、社会は自閉症を特殊なことだと思わなくなるかもしれない。しかし、自閉性は「空気が読めない」といったものとはまったく質的にことなる体験であるという最も基本的な自閉症への理解が抜け落ちることになる。

この自閉症がカジュアルになることは2つのベクトルを持った理解を生み出す。

「空気が読めない」ということの類似現象として自閉症がみなされることによって、自閉性の困難性が理解されないというのが第1のベクトルだ。細かい議論は割愛するが、福祉の枠組みで対応するためには、当人が一般的な人とは質的に異なる体験をしていなければならない。統合失調症が精神障害者年金等の福祉の対象であるのは、彼らの体験が異質であり、かつ、生活をする上で支障があるからである。

もちろん、このような考え方には批判はある。しかし現行の制度において「空気が読めない」程度の人に対して、支援の枠組みを作ったり、福祉的な財政出動をするのは不可能である。

10人に1人程度まで拡大された自閉症スペクトラムを使い続けていくと、福祉の充実を訴えても説得力を欠くことになる。極論を言えば、話が理屈っぽい人や特定の作家の漫画に熱中する人に対して、なぜ支援をしなければならないのかということだ。支援の充実を考えたときに、自閉症をカジュアルにすることは得策とは言えない。

第2のベクトルは新しいスティグマを作り出すことだ。

コミュニケーションが下手なことを逸脱とみなす日本の文化と拡大した自閉症スペクトラム概念が結びつくことによって、コミュニケーションが下手なことは脳機能障害である、とみなされるようになる。今まではコミュニケーションが下手という程度の理解であったものが、脳機能障害であるという新しいスティグマが押されるようになってしまう。

自閉症のカジュアル化は、DSM-5などが指し示す自閉症スペクトラムのスティグマを和らげるだろうが、新たに10人に1人程度の人々に対して新たなスティグマを作り出す。

拡大された自閉症スペクトラムという言葉は、副作用があまりにも大きいように感じる。

少なくとも言えることは、拡大された自閉症スペクトラム概念を使うとしても、使う度に注意を払いながら使うべきものだということだ。コミュ障や空気を読めない人に対して無頓着に使うべきではないし、その言葉が新しいスティグマを生み出すということを念頭においておくべきだろう。

参考文献

・Baird G, et al., 2006, “Prevalence of disorders of the autism spectrum in a population cohort of children in South Thames: the Special Needs and Autism Project (SNAP).” Lancet, 368(9531): 210-215.http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/16844490

・Fombonne E et al., 2001, “Prevalence of Pervasive Developmental Disorders in the British Nationwide Survey of Child Mental Health.” Journal of the American Academy of Child & Adolescent Psychiatry, 40(7):820-827.http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12745327

・本田秀夫、2013『自閉症スペクトラム』ソフトバンククリエイティブ

・宮本信也,2009『アスペルガー症候群 高機能自閉症の本―じょうずなつきあい方がわかる』主婦の友社.

・村田豊久、2007、(石川元・川原ゆかり)座談会「崎市男児誘拐殺害事件「アスペルガー症候群」報道が臨床に投げかけたもの」『アスペルガー症候群歴史と現場から究める』至文堂。

・Polanczyk G, et al., 2007, “The Worldwide Prevalence of ADHD: A Systematic Review and Metaregression Analysis.” American Journal of Psychiatry, 164:942-948.http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/17541055

・Wing L., 1988, “The continuum of autistic characteristics.” In: Schopler E, Mesibov G, eds. Diagnosis and assessment in autism. New York: Plenum : 91-110.

・Wing L., 1997, “The autistic spectrum.” Lancet, 350(9093): 1761-6.http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9413479

サムネイル「Questioned Proposal」Ethan Lofton

プロフィール

井出草平社会学

1980 年大阪生まれ。社会学。日本学術振興会特別研究員。大阪大学非常勤講師。大阪大学人間科学研究科課程単位取得退学。博士(人間科学)。大阪府子ども若者自立支援事業専門委員。著書に『ひきこもりの 社会学』(世界思想社)、共著に 『日本の難題をかたづけよう 経済、政治、教育、社会保障、エネルギー』(光文社)。2010年度より大阪府のひきこもり支援事業に関わる。

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