新春暴論2015――幸せな階級社会

ここしばらく、毎年この時期に「暴論」を書くことになっている……のかどうか知らないが、どうも今年もそういう流れらしいので、若干例年より遅れたが、やってみることにする。

 

ここへきて、格差問題に再び注目が集まるようになってきているようにみえる。きっかけはいくつかありそうだが、最近邦訳が出版されたピケティの「21世紀の資本」はまちがいなくその1つだろう。

 

加えて、OECDの最近の発表も、注目を集めた。OECD 全域で過去 20 年間に所得格差の拡大が一般化しており、そうした格差が経済成長を抑制してきた、という論文で、少なくとも格差が拡大しているという指摘、及びそれが望ましくないという見解においてはピケティの議論と同じ方向性といえよう。

 

・Federico Cingano「Trends in Income Inequality and its Impact on Economic Growth」(OECD Social, Employment and Migration Working Papers No.: 163、2014)

「所得格差は経済成長を損なうか?」(OECD雇用労働社会政策局 2014年)

「所得格差が経済成長を阻害=OECD」(WSJ日本版2014年12月9日)

 

 

「どのくらいの格差なら許されるの?」

 

格差や格差論には専門家の方がたくさんいらっしゃるのであまり深入りすると危険なのだが、そういう議論をみるたびに思うことがある。「じゃあどのくらいの格差なら許されるの?」という疑問だ。

 

これは格差の議論に限らず経済学的な議論ではよくあること(そして別にそれ自体悪いことではない)だが、格差の議論には、めざすべき状態に関する議論がきわめてあいまいであるという共通の特徴がある。「これ以上の格差拡大は問題だ」という人はよくいるが、では現在の格差は問題ではないのかと聞くと、ないとは答えないだろう。では現在の格差はだめだというなら、どの時代まで戻せばいいのかというと、それに対する答えもない。上に挙げた2つの文献も基本的には格差の「水準」ではなく「動向」について語っている。

 

理由は簡単で、そもそも過去のどの時代にも格差のない状況など存在したことがないからであり、それ以前にそもそもどの水準の格差ならいいのかについての合意が存在しないからだ(外国の例を持ち出す人もいるが、さまざまな条件が異なる国のごく一部をひっぱりだされても比べようがない)。

 

また、議論すること自体も事実上タブーとなっている。「格差」というといかにも存在してはならないものといったイメージがあるわけだが、能力の差による所得のちがいすべてを否定する人は少ないだろう。たとえばすべてのプロ野球選手はヤンキースの田中投手と同じ年俸を得るべきだ、といった主張があったとして、多くの賛同が集まるとはとうてい思えない。

 

しかし、ではどのくらいの所得差なら許容されるべきか。どのくらいの能力差ならどのくらいの所得差につなげてよいのか。そうした問題をトータルに論じたものを見たことがない。経済学的には、「根本的な問題はさておき当面の課題はこれこれである」といった答え方が政治的に正しく、もしさらに問い詰められたら「最終的には政治の問題だ」と逃げることになろう。

 

これは悪口でも何でもなく、経済学はそうした価値判断を伴う選択問題を切り離すことで、資源の効率的な配分を追求する科学として成立したという側面がある。

 

実際、総論賛成、各論反対の嵐になるだろうことはあらかじめ予想がつくし、特にこの問題ではイデオロギー的に強いこだわりと主張を持つ面々がたくさんいて、何かうかつに発言しようものならわらわらと集まってきて袋叩きにするものだから、誰もそんな「地雷」を踏もうとはしない。

 

会社に就職したばかりのころ、当時の上司であった部長に居酒屋で言われたことばを思い出す。バブルが始まろうとしていた時期のことだ。

 

曰く、「君らは恵まれている」、と。聞いてみると、自分が新入社員だったころは新入社員と部長の給料に10倍ぐらいの差があった、しかし今は4倍ぐらいしかない、ということだった。当時の私にとって「4倍」は「前は10倍もあったのか。進歩したんだな」という数字にみえたのだが、部長にとっての「4倍」は、「前は10倍もあったのに今は4倍しかないなんて不公平だ」、という不満の種だったわけだ。

 

当否はともあれ、格差とはそういうものだろうと思う。「格差」と感じるのは、「公平」ないし「公正」と考えられる何らかの基準があって、それにそぐわないからであろう。そこには、正当と考えられる理由に基づく差は「公平」であって、「格差」とは考えない、という暗黙裡の前提がある。

 

しかしその「公平」や「公正」は、けっこう人によってちがう。だから広い賛同を得るためには「水準」ではなく「動き」を論じるしかないわけだ。中でも「格差は拡大しつつある」という現状認識自体は比較的多くの人が合意しやすいのだろう。それ自体では誰も損しないからだ。

 

 

「中」と答える者

 

もちろん、対策の方はそうはいかない。対策のためには予算を割く必要があり、それは「どこから持ってくるか」の議論を欠くことはできないからだ。しかし、「どこそこへの分配を減らせ」という議論はめったに聞こえてこない。敵を作りたくないからだろう。

 

結果として政府へ要求することとなり、政府はものいわぬ未来世代から調達、すなわち借金を増やして対応することとなる(ちなみにだが別にこれも必ずしも悪いこととはいえない)。

 

こうして行われる所得再分配は、少なくとも現在世代の格差是正にはそれなりの機能を果たしている。格差問題でよく言及されるジニ係数でも、少なくとも所得再分配後の値でみればほぼ横ばいとなっている(再分配の効率が悪いという問題や若年層についての再分配はあまりうまくいってないという問題などが指摘されていると思うがここでは捨象する)。にもかかわらず、なぜ格差の「拡大」が問題視されるのであろうか。

 

もちろん、当初所得のジニ係数が拡大傾向にあるのは事実で、それが問題視される大きな要因の1つであるわけだが、そこには非正規雇用の増加の影響とともに世帯構成の変化が大きな影響を及ぼしていることが知られている。

 

後者は本来、必ずしも解決すべき課題とはとらえられていないはずであるにもかかわらず、全体が問題であるかのような取り上げ方をするものが多いのはなぜだろうか。

 

「社会的不平等(Social Inequality)」がテーマだった国際比較調査ISSP2009は日本ではNHK放送文化研究所が実施し、1999年と2009年との比較を行ったレポートを発表している。

 

日本の社会全体について聞いた質問では、「ほとんどの人が中間の層にいる社会」であるとの答えが32%から18%へ急減している。格差の大きい社会に移行したという認識であろう。しかし、社会の中での自分の位置について聞くと、中程度であるとする回答が依然として多い。

 

「浸透する格差意識~ISSP国際比較調査(社会的不平等)から~」

 

内閣府「国民生活に関する世論調査」をたどると、自分の生活の程度が「中の上」「中の中」「中の下」を合わせた「中」と考える者は1971年から2011年にかけて概ね一貫して9割前後であり、わずかながら増加傾向ですらある。

 

また、ISSP2009で自分の収入が「少ない」と答えた者は57%だが、これは前回1999年の調査時より6ポイントも低下している。「一億総中流」の崩壊などとよくいうが、「中流」が相対的な生活の水準の話をしているのであれば、中流意識は未だに健在といえる。

 

こうした中で、ピケティ推奨の資本課税どころか、OECDレポートが提唱する所得再分配の強化ですら、現実には相当ハードルが高いのは理解に難くない。そもそも、格差拡大の影響は自分には及んでいないと思う人が大半を占める状況下で格差が拡大しているという問題意識だけが拡大しているというのは、やはりメディアの影響を考えざるを得ないだろう。

 

 

「格差社会」とマスメディア

 

朝日新聞のデータベースで「格差社会」ということばが含まれる記事の数を数えてみると、2004年以降にほぼ集中しており、特に2006年に急増しているのがわかる(ちなみに「格差社会」は2006年の流行語大賞に選ばれている)。

 

所得格差が初めて社会問題として浮上したのは1990年代だった。その後2000年代に入っていくつかの著作が格差問題を取り上げて注目を集めたが、最も大きなインパクトをもったのは2006年初頭の政府・与党内や国会での議論だろう。【次ページへ続く】

 

 

 

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