2024.02.27

都市論のすすめ

シノドス・オープンキャンパス03 / 近森高明

社会 #シノドス・オープンキャンパス

はじめに――都市論とは何か? 

都市論とは何か?――それが扱う中身とともに、そこに含まれるニュアンスを初学者に簡潔に伝えるのは、やや難しいところです。が、とりあえず、互いに近い分野である「都市社会学」と「都市論」の違いから考えてみましょう。都市社会学は、社会学のひとつの分野で、都市をフィールドとして生じる社会現象を実証的に扱う学問分野です。具体的なトピックとしては、コミュニティ、ネットワーク、階層、エスニシティ、等々があげられます。それに対して都市論は、社会学のみならず、地理学、都市計画、建築、都市史、現代思想、メディア論、美学、文学、等々、さまざまな分野の知見を参照しながら、都市という領域それ自体の現在的特性を批評的に扱う言説分野です。 

……と、いきなり辞書的に抽象的な話をしてもわかりにくいですよね。もう少し具体的な話をしましょう。たとえば「中華料理」というお題について、都市社会学と都市論は、それぞれどのようにアプローチするでしょうか? 

都市社会学であれば、たとえば池袋に集住する華僑コミュニティに的を絞り、インタビューや数量的データをもとに相互扶助ネットワークなどのあり方を探り、池袋に中華料理店が集中している状況の背景をなす、社会的な条件とその歴史的な変容プロセスを明らかにしようとするでしょう。一方、都市論であればどうでしょうか。近年、「町中華」という呼び方が広まっていますが、この「町中華」という言葉にあえてひっかかりを感じてみる、といったことが都市論的な問いの発端になります。そのうえで、この独特のカテゴリーがどのような経緯で出現し、拡散してきたのか、「町中華」の「町」にはどのような意味の層が含まれるのか、そして、この呼び方が普及してきた現象を手がかりに、私たちが暮らす都市の現在的特性についてどのようなことが示唆されうるのか、等々といったことを考えるのが都市論的な問いとなります。 

両者で、ずいぶんアプローチが違いますよね。都市社会学の方がきちんとした科学的問いにみえるのに対して、都市論の方は面白そうだけれども、何となくいいかげんな感じがします。その印象はおおむね間違っておらず、都市社会学の方が学問として正統的・中心的であるのに対して、都市論は学問として少し怪しく、どちらかといえば非正統的・周縁的な分野であるといえます。制度的にも、都市社会学の方が圧倒的にしっかりしていて、専門の学会もありますし、学術雑誌もあります。都市社会学を学べる学部や学科もあります。都市論の方はといえば、そうした制度的な支えはほぼありません。むしろ何か別の専門領域をもっている研究者が、なかば趣味的に、都市の現在的特性について批評的に語るという態度が、都市論という言説分野を支えています。 

じっさい、都市についてうまく批評的に語れる人は、他のジャンルについても上手に批評的に語れたりします。映画だとか、文学だとか、アニメだとか。その意味では、何らかの「作品」を的確に批評できる能力が大事なのであり、その批評的なまなざしを都市という対象に差し向けたときに、その語りが都市論として成立する、という言い方もできそうです。

都市についての批評的な語り 

都市についての批評的な語り――以上のことから、都市論とは、ひとことでいえばこのように定義できるように思います。「批評」であり「語り」である以上、じゃあ、何でもありで、とにかく語ればいいの…?と思われるでしょうか。が、そうでもありません。というのも、批評的な語りが十分な説得力をもつには、その語りを支える根拠として、関連する既存の知のネットワークを参照する必要があるからです。要は、それなりに物知りでなければ語りに説得力が出ないよね、ということです。あるいは逆にいえば、そうした関連する既存の知のネットワークを十分に参照しているかぎりにおいて、都市の批評的な語りは「何でもあり」である、ともいえます。 

たとえば、映画の批評について考えてみましょう。めちゃくちゃ映画に詳しい人がいるとして、ある映画作品についてのその人の批評的な語りは、どのような点において、映画にあまり詳しくない人の語りと異なっているでしょうか? 

めちゃくちゃ詳しい人は、おそらくその監督のフィルモグラフィー、俳優の過去の出演作品、当該のジャンルについての最近の動向、等々の話題に自在に触れながら、その作品の特徴と魅力について、延々と語ることができるでしょう。あるシーンについては、カメラの使い方やカットの組み立て方についても細かく分析し、何気ないシーンに、何重もの意味のレイヤーが潜んでいることを教えてくれるかもしれません。そうして、その批評的な語りを聞くことで、こちらの作品の理解が深まったり、面白さが増したりするとき、批評は批評としてうまく機能していることになります。言い換えれば、そのとき批評の言葉は、作品に添えられた無駄な言葉の羅列という以上に、作品そのものを輝かせ、作品自体の創造性に連なるクリエイティヴな言葉として働いているといえるでしょう(ちなみに、このような批評の考え方は、思想家ヴァルター・ベンヤミンによるものです)。 

さてその一方、映画にあまり詳しくない人は、印象深かったシーンなどについてひと言ふた言、かんたんな感想はいえるかもしれませんが、延々と語ることはおそらくできないでしょう。その語りには、説得力もなさそうですし、作品の理解が深まったりするかどうかという点でも微妙でしょう。違いは何でしょうか? それはもう、語りを支える知の分厚さ、ですよね。批評的な語りの説得性を支えるのは、関連する既存の知のネットワークの広がりです。監督について、俳優について、ジャンルについて、カメラや音や編集など技術面について、映画史について、さらには既存の映画批評の蓄積について、その人が参照している関連する既存の知のネットワークが広ければそれだけ、ある映画作品について、その特徴と魅力を説得的に語ることができるようになります。 

都市論、ないしは都市の批評的な語りについても同様です。その人が参照しうる関連する既存の知のネットワークが充実していればそれだけ、その人は、都市について、説得的なかたちで批評的に語ることができます。 

このとき、ここでいう「関連する既存の知」は、おおまかに二種類のカテゴリーからなることに注意しましょう。冒頭では、このように規定していました。

「都市論」は、社会学のみならず、地理学、都市計画、建築、都市史、現代思想、メディア論、美学、文学、等々、さまざまな分野の知見を参照しながら、都市という領域それ自体の現在的特性を批評的に扱う言説分野です。

この規定に登場する「地理学、都市計画、建築、都市史」という(前半の四つの)知は、都市という対象が共通軸になっているカテゴリーです。都市について批評的に語るには、一方で、都市という対象そのものについての詳しい知識が必要です。都市を対象として蓄積された複数分野の知を踏まえることで、語りがより説得的になるというのは、その点、わかりやすいですよね。他方、都市について批評的に語るには、批評という語りの形式に精通している必要があります。批評というアプローチについては、語りの対象にかかわらず、さまざまなジャンルの批評に適用しうる、概念や図式、語り方のヴァリエーションというものが存在します。たとえば、映画批評でつちかった批評の能力は、都市の批評にも部分的に応用がきく、というわけです。先ほどの規定に登場する「現代思想、メディア論、美学、文学」という(後半の四つの)カテゴリーは、対象というよりも、批評というアプローチを共通軸とするカテゴリーです。これらに精通していればそれだけ、批評に使える「道具=言葉」が磨かれ、やはり語りが説得的になるよね、というわけです。

記号論的な都市論 

ここまで、都市論の中身にはほとんど触れずに、その手前、ないしは外周にあたる「都市論とは何か?」をひたすら説明してきたので、そろそろ具体例がほしいところかな、と思います。「で、結局、都市論って何をやるの?」と。 

そこで、まずは記号論的な都市論を紹介してみましょう。記号論とは、日本では一九七〇年代から八〇年代にかけて流行した考え方で、ある対象のうちに潜んでいる、対立関係をなす暗黙の意味のコード(=お約束)をあばき出すことで、その対象に隠された意味の水準を読み解いてみせる、という手法です。記号論的な読み解きの対象は、広告、写真、映画、文学、建築、等々、何でもよく、都市も、そうした対象のひとつに並ぶことになります。記号論的な都市論は、かつて都市論の代表格であり、いわば「ザ・都市論」でした。都市論という言説分野を一気に押し広げ、一般の読者が都市論を知るきっかけとなったのは、記号論的な都市論だったのです。それ以降の都市論は、乗っかるにせよ批判するにせよ、記号論的な都市論を重要な参照点とせざるをえず、その意味で現在に至るまでの都市論のベースを形成している、といえます。 

記号論的な都市論が明らかにするのは、私たちは、都市について暗黙のうちに、外部/内部、オモテ/ウラ、聖/俗、日常/非日常、制度/自然、秩序/無秩序、等々といった意味的な対立関係を適用して理解しているし、あるいは都市の空間構造そのものが、そうした対立関係を内蔵したかたちで組み立てられている、ということです。 

記号論的な都市論の決定版ともいえる、前田愛『都市空間のなかの文学』(1982、筑摩書房)をみてみましょう。そこでは、さまざまな文学作品の舞台となっている都市空間を対象に、テクストに隠された対立構造を抽出しながら、物語の内容と都市とが、どのように意味的に絡まり合っているのかを読み解いています。たとえば森鷗外の『舞姫』は、一九世紀末のベルリンで、遙か日本からやってきた主人公が、貧しい現地のヒロインと出会い、屋根裏部屋で穏やかな愛をはぐくみながらも、やがて悲劇的な別れを迎える物語ですが、主人公が闊歩するウンテル・デン・リンデン(立派な大通り)とヒロインが住むクロステル街(迷宮的な路地)について、制度的/エロティック、外部/内部、中心/周縁といった対比関係を取り出したうえで、主人公が空間的には「外部→内部→外部」と移動してゆく物語であることが、きわめて明快に論じられています。 

こうした記号論的な読解は、身の回りの小説やドラマ、映画などについても、試してみることができるはずです。テクストのなかの都市に潜む意味的な構造は、そのまま、私たちが経験する都市空間の意味的な構造とつながっています。記号論というメガネをかけてみると、目の前の凡庸な都市空間は、あちこちに暗黙のコードが潜んでいる、豊かなテクストとして浮かびあがることでしょう。

渋谷の舞台化/脱舞台化 

つづけて、特定の街に注目した都市論をみてみましょう。吉見俊哉の『都市のドラマトゥルギー』(1987、弘文堂)は、演劇論的なパースペクティヴから渋谷という街の仕組みを説明した議論として、有名です。吉見が注目するのは、一九七〇年代のパルコによる公園通り界隈の開発プロセスにおいて、街自体をファッショナブルな「ステージ=舞台」として整備していった面があることです。 

パルコの仕掛け人たちが開発にあたってまず手をつけたのが、「界隈の通りや坂にそれっぽい外国風の名前をつける」ということでした(公園通り自体、もとは「区役所通り」と呼ばれていたのを、パルコ開業にあたり「公園通り」と名前を変えています)。その結果、何でもない通りや坂に「オルガン坂」「スペイン坂」などの名前がつけられていきました。つづけておこなったのは、ネーミングに合うストリートファニチュア(ベンチ、街灯、プランター、等々)を通りにしつらえていくことです。これは要するに、空間にそれっぽいテーマや物語を設定したうえで、それらにそったパーツをそろえるという、テーマパーク的な空間づくりの方法論ですね。そのようにして、公園通り界隈を「ステージ=舞台」に仕立てていったのです。 

ではそこは、何の舞台なのでしょうか? それは来街者がファッションをつうじて個性的な「私」を演じる舞台です。街が「舞台」であり、来街者が「演者」であり、周囲の人たちがその「観客」である、と。だとすれば、そこで必要になるのは演技のための「台本」ですが、その「台本」の役割を果たしたのが、各種の情報誌でした。それらの情報誌は、どこが最新流行のスポットであり、それぞれのスポットにはどのような服装で出かけるべきであり、そこではどのように振る舞えばよいのかを、ひとつひとつ「台本」のように指定してくれたわけです。 

舞台としての街/演者としての来街者/台本としての雑誌――一九七〇年代から八〇年代にかけて一定のリアリティがあったこの図式は、しかし、二〇〇〇年頃には説得力を失っていきます。その頃にはパルコ界隈は求心力を徐々に弱め、センター街などのストリートが勢いをつけてきました。来街者は、もはや街を「舞台」とみなさず、たんに便利だからという理由で、何となく渋谷にやって来るようになります。メディアとしての雑誌もすっかり力を喪失し、旧来のマスメディアにかわって、ケータイやネット、そしてスマホやSNSの時代が訪れます。北田暁大の『広告都市・東京』(2002、廣済堂出版)は、こうした渋谷の変化を「脱舞台化」および「情報アーカイブ化」というネーミングで的確にとらえてみせました。ここで「情報アーカイブ化」というのは、渋谷という街が、街自体が帯びる象徴的価値ではなく、情報量の多さという数量的・相対的価値で評価されるようになった、という変化をさしています。 

「舞台化/脱舞台化」という図式は、以上のように、渋谷という街の変化をきれいに読み解くことのできるメガネです。その気になれば、ほかの街にも適用できるでしょうし、あるいは街でなくとも、たとえば大学キャンパスなどの空間にも、「舞台化/脱舞台化」という図式をあてはめることで、何かみえてくるものがあるかもしれません。

郊外化・モール化・無印化 

二〇〇〇年代に入ると、「郊外化」や「モール化」が新たに都市論のキーワードになってきます。共通点は「均質化」です。この時期には、コンビニやファミレスなどのチェーン店が全国あらゆる街に増殖し、郊外には巨大なモールが建設され、地方の駅前商店街はつぎつぎとシャッター街化してゆく、という状況がありました。コンビニやモールは、たしかに便利で快適な消費環境だけれども、それぞれの街の地域性や歴史性が失われ、全国どこも似たり寄ったりの風景になってきたよね、ということが、「郊外化」という括り方のもとで指摘され、「ファスト風土」(三浦展)と呼ばれたりもしました。 

人類学者マルク・オジェは、空港やモールなど固有の場所性を欠き、ヒトやモノのフロー処理に最適化された空間を「非-場所」と呼びましたが、類似したテナントが並ぶモール的な施設が都市空間のあちこちに増殖すると同時に、都市空間それ自体が、ひとつの超巨大なモールのごとく「非-場所」的な空間になりつつある状況をさして、都市の「モール化」が指摘されたりもしました。 

注意すべき点は、都市の「郊外化」や「モール化」という語り方をするとき、当初はもっぱらネガティヴな意味合いがあったのが、やがてニュートラルであったりポジティヴであったり、さまざまなニュアンスで語られるようになったことです。場所の個性が失われて均質化することは、何となくダメなことのようにみえますが、そもそも生まれたときからコンビニやファミレスに囲まれた若者にとっては、それらはむしろ自明な環境であって、「均質化しているからダメだ」といわれても、ピンと来ないのではないでしょうか? あるいは幼少期からモールに通っていた世代にとって、フードコートやシネコンという「非-場所」的な空間に絡めて、家族との、友だちとの、恋人との、かけがえのない思い出があったとしても、何ら不思議ではありません。 

「郊外化」という言葉には、価値的な負荷がかかりすぎているので、複製的な消費環境が増殖する都市空間が、どのような特性をもち、そこでの経験がどのような特徴をもつのかを中立的にとらえるうえで、「郊外化」というよりも(建築家レム・コールハースの「ジェネリック・シティ」という概念を参照して)「無印都市」ないし「無印化」と呼んでみてはどうか――このようなことを、私自身、一〇年ほどまえに提案しています(近森高明・工藤保則編『無印都市の社会学』2013、法律文化社)。

「町中華」とは何か? 

ここまでは、都市論が具体的に何をどのように論じてきたのかをみるために、「記号論的な都市論」「渋谷の舞台化/脱舞台化」「郊外化・モール化・無印化」という、一九八〇年代から二〇一〇年代までの議論の流れを眺めてきました。それでは、これらを踏まえつつ、現在の目の前に広がる都市について、何かしら新たな都市論的な考察を展開してみようと思ったときに、どのような批評的な語りが可能でしょうか? そのサンプルとして、最後に示したいのが、冒頭で少し触れた「町中華」を素材とした都市論です(以下は私自身、現在進行形で考えている途中の議論で、その「さわり」だけを紹介します)。 

「町中華」という言葉は、いまではメディアでも日常会話でもふつうに登場するようになっていますが、広まってきたのはここ五、六年ほどのことです。明示的に「町中華」に言及しはじめたのは「町中華探検隊」という(ライターなどの)グループで、昔ながらの大衆的な中華食堂が街から消えはじめていることに危機感をおぼえ、街ごとの店舗を記録していく活動を、二〇一四年から細々とはじめました。彼ら(北尾トロ・下関マグロ・竜超)が執筆した『町中華とはなんだ』(2016、リットーミュージック)という書籍が刊行されて以降、メディアでしばしば言及されるようになり、二〇一八年頃に本格的に「町中華」ブームと呼びうる状況がやって来ます。 

「町中華」が、各種の雑誌メディアで言及されるさいの意味づけのフレームをたどってみると、当初は「絶滅危惧種」「消えゆく」というフレームでとらえられていたのが、ブームの最中になると「ほっとする」「変わらぬ味」「何気ない幸せ」といったかたちにフレームが転換するのに気づきます。「町中華」の「町」という言葉にこめられた意味の層を抽出してみると、「チェーンではない個人経営」「地元の常連客相手」「顔のみえる関係性」「昭和」といったニュアンスが浮上します。私たちはこうした「町」に、何となく好ましさを覚えるようになっていることがわかります。 

さて、このように「町中華」がクローズアップされるようになった状況について都市論的に考える場合に、手がかりになるのは、「オーセンティシティ」と「ジェネリシティ」という概念です。オーセンティシティとは本物であり真正であること、ジェネリシティとはありふれており凡庸であることを意味しますが、都市のなかに複製的で無個性的なもの(=ジェネリックなもの)が増殖する状況でこそ、その隙間をなす非ジェネリックなものに「オーセンティシティ」が求められる、という傾向が指摘できます。それはつまり、コンビニやファミレス的なものが都市空間のうちで自明化するなかで、非ファミレス的なもの、非コンビニ的なもの、そして非モール的なものの価値が上昇しつつある、という状況です(たとえば近年の「街ぶら」ロケで、商店街の精肉店、八百屋、喫茶店、洋食屋、等々への訪問が定番化していることが、その事例になります)。 

これはいわば「現在→過去」のベクトルですが、近年における「町中華」のクローズアップには、もうひとつ「過去→現在」のベクトルも働いているように思われます。ここで注目したいのは、高度経済成長期における「化学調味料(=化調)」による味の均質化です(なお先述の『町中華とはなんだ』では、「町中華」の「懐かしさの正体」は化調の味にあるのではないか、という大胆な仮説を立てていますが、このあたりの議論はその仮説に乗っかっています)。当時、味がまちまちだった町中華は、化調の普及により、全国的に味が均質化し、「大衆的な中華料理といえばこんな味」というかたちで、ジェネリックな味覚が成立したと考えられます。そのようにかつてはありふれた味だったものが、しかし、「町中華」自体が淘汰されてくると、やがて「唯一無二の(と感じられる)懐かしさ」と感じられるようになります。ここで生じているのは、「化調というジェネリシティ」の「化調というオーセンティシティ」への反転です。 

結局のところ、いま「町中華」が(瞬間的にとはいえ)輝いているとすれば、その輝きを支える二重の構造が存在しており、一方では、複製的で無個性的なもの(=ジェネリックなもの)が増殖する状況でこそ「オーセンティシティ」が求められるという「現在→過去」のベクトルがあり、他方では、高度経済成長期におけるジェネリシティ(=どこにでもあるありふれた味)のオーセンティシティ(=唯一無二の懐かしい味)への反転という「過去→現在」のベクトルとがあって、それら二つのベクトルが合流する地点で、「町中華」の輝きが成立しているのではないか、と考えられます。 

こうした「ジェネリシティの隙間にあらわれるオーセンティシティの上昇」と「ジェネリシティのオーセンティシティへの反転」という二つのベクトルの作用は、「町中華」にかぎらず、現在の都市空間のなかでさまざまな事例のうちに見出せるはずです。

おわりに――都市論のすすめ 

以上、かなりぎゅっと圧縮したかたちで、都市論とは何か、具体的な分析例としてどのようなものがあるのか、その魅力は何か、等々について紹介してきました。 

最後にもう一度確認しておきたいのは、都市論の効能です。批評的な語りの効能は、対象の理解をより深め、対象にまつわる意味のレイヤーを多重化し、対象の経験の強度をあげてくれるところにあります。ある映画についての的確な批評を聞くと、その映画の面白さが何割増しかになりますし、あるワインについての優れた批評を聞くと、そのワインの味わいがいっそう深まります。同じように、都市についての批評的な語りは、一見するとごく凡庸な目の前の都市を、より多面的に理解するとともに、より強度を高めたかたちで経験することを可能にしてくれます。同じことを、先に二度ほど出てきたメガネの比喩を用いて言い換えてみるなら、都市論という批評の「道具=言葉」をたくさん知っているということは、都市を眺めるメガネをたくさん手元にもっているということです。数々のメガネをかけかえることで、眼前のありふれた都市は、つぎつぎと、見知らぬ魅力的な表情を私たちにみせてくれるはずです。 

どうせ都市のなかで、都市とともに生きるのであれば、みずからの環境をより深く味わえた方が、楽しく暮らせるのではないでしょうか? そのために、みなさんも、都市論という批評の「道具=言葉=メガネ」を手にしてみることをおすすめします。それと同時にみなさん自身も、ちょっと慣れてきた段階で、もしできれば、何か新たな批評の「道具=言葉=メガネ」を考案してみてはいかがでしょうか? そうすることで、私たちが暮らしている都市を、お互いに、少しばかり面白くすることができるはずです。都市についての批評的な語りのネットワークに、ご参加いただけることを心待ちにしています。

プロフィール

近森高明都市社会学

1974年生まれ。慶應義塾大学文学部教授。京都大学大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。専門は都市社会学・都市空間論・文化社会学・技術社会史。著書に『ベンヤミンの迷宮都市』(世界思想社、2007年)、『無印都市の社会学』(工藤保則と共編、法律文化社、2013年)、『都市のリアル』(吉原直樹と共編、有斐閣、2013年)など。

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