2016.07.26

シオニズムとは何か――イスラエルの孤立化と軍事信仰の起源

鶴見太郎 歴史社会学、ロシア・ユダヤ史、パレスチナ/イスラエル

国際 #イスラエル#シオニズム

迫害と汎ヨーロッパ的なナショナリズムの興隆

シリアやイラクの混迷があまりに衝撃的であるからか、かつてほど注目を集めなくなっているとはいえ、中東における紛争地としてもはや「老舗」となっているイスラエルとパレスチナ。その状況は、現在でも悪化の一途をたどっている。ときが経つにつれ、その解はますます闇のなかに埋もれていく感があるが、この紛争が生じた経緯そのものはそれほどわかりにくいものではない。

ロシアを含むヨーロッパにおけるユダヤ人迫害が契機となって、列強の支援を受けながらユダヤ人がパレスチナ地域に押し寄せ、国家建設を行ったことで、もともと暮らしていた人々(現在ではもっぱら「パレスチナ人」と呼ばれる)や、その同胞としての周辺諸国のアラブ人とのあいだで争いが生まれた、というのが基本構図である。

この基本構図の一角を占めるユダヤ人は、「シオニスト」と呼ばれる。シオニズム(シオン主義)とは、パレスチナにユダヤ人の民族的拠点を設置しようとする思想・運動のことである。「シオン」とは、エルサレムのシオンの丘を指す。

このシオニズムが勃興した背景も、それほど難解には見えない。ユダヤ人は、それを民族と呼ぶかは別にして、太古より固有の集団として存続し、20世紀に入ってからも大半は独自の生活を送っていた。彼らが、ホロコーストに結実する反ユダヤ主義の数々によって生存の危機に瀕した際に、安住の地を求めたとしても不思議ではない。また、シオニズムが始まった19世紀終わりからイスラエルが建国された1948年までの時期は、民族を基礎とした国家の建設ラッシュが世界中で巻き起こってもいた。

こう考えると、ユダヤ人のなかにこのシオニズムの道を選択しなかった者が実は多くいたことのほうが不思議に思われるかもしれない。現在のイスラエルと北米(米加)のユダヤ人口は、それぞれ600万人弱である。そのほか、50万人程度がフランスに、30万人程度がそれぞれイギリスと旧ソ連諸国に暮らしている。つまり、21世紀にいたっても、「シオン」を選択しなかったユダヤ人のほうが多数派なのである。

では、迫害と汎ヨーロッパ的なナショナリズムの興隆にもかかわらず、過半数のユダヤ人が「シオン」を選択しなかったのはなぜか。実はそれも、さほど難しいことではない。

20世紀初頭、世界のユダヤ人口の中心はロシア東欧にあった。今日の北米・イスラエル双方のユダヤ人口の過半数はロシア東欧にルーツを持つのだ。地域別のユダヤ人口は、ポーランドの多くを含むロシア帝国が520万人、オーストリア・ハンガリー帝国が207万人、ドイツが52万人であり、アメリカはまだ100万人にすぎなかった。

ロシア東欧のユダヤ人の多くは貧しく、迫害よりも経済的苦境からの脱出を求める場合が多かった。だが、もともと手工業や商業(といっても小規模なものが大半)に従事していたユダヤ人に適した就職先は、当時のパレスチナには乏しかったのだ。一方、1920年代に移民制限が始まるまでのアメリカは可能性に満ちていたし、実際、多くのユダヤ人は2世代目までに中産階級に上昇した。

こうしてみると、一部のロシア東欧のユダヤ人が、わざわざ「シオン」を目指した動機のほうが不思議に思えてくる。難しいのはここからである。

シオニズムへの道

改めて、ロシア東欧のユダヤ人という観点から見てみると、そのシオニズムへの道は必ずしも十分に理解されてこなかった。簡単な概説では、シオニズムの契機として1881年のロシアでのポグロム(反ユダヤ暴動・虐殺)に言及され、その後で、もっぱら西欧ユダヤ人のテオドール・ヘルツルがシオニズムを推進したと説明される場合が多い。

要するに、ロシア東欧のユダヤ人は、西欧ユダヤ人に率いられるだけの受け身の存在であったことが暗黙の前提になっているのである。つねに「西」が新たな運動の推進者であるはずだ、という近代世界の陳腐な想定は、シオニズムに関してはあまり反省的に乗り越えられていないのである(そして反省するには地道に研究しなければならない)。

しかし、初代イスラエル首相と大統領(名誉職)の双方がロシア帝国出身者(それぞれダヴィド・ベングリオンとハイム・ワイツマン)だったことに象徴されるように、西欧ユダヤ人がシオニズムを率いたといえる局面は実は相対的には少ないのだ。シオニズムの推進者とされるヘルツルも、初期こそカリスマ的に運動を盛り上げたが、次第にロシア東欧系からその「西欧的」手法を批判されるようになり、志半ばにして早世している。

ロシア東欧において、シオニズムは生まれ、進化していった。以下ではそのさわりに触れてみたい。ポイントとなるのは、ユダヤ人の自己意識と他者認識に生じた根本的な変化である。

生存戦略は「女々しく」生きる

日本でも翻訳によって知られるようになったダニエル&ジョナサン・ボヤーリンが指摘するように、ディアスポラ(離散;事実上はパレスチナ/イスラエル以外での居住を指す)におけるユダヤ人の生存戦略は「女々しく」生きるというものだった(これはもちろん、伝統的なジェンダー規範のなかで「女性」に付与された意味において、であって、実際の女性がそうであるという意味ではない)。

「男らしく」軍事力にものを言わせるイメージの強い現在のイスラエルとは対照的に、ディアスボラのユダヤ人は、暴力で立ち向かうのではなく、権力者の懐に入り込んで、ときに狡猾に、ときに柔軟に、またあるときは息を殺して、うまく生き抜いてきたのである。

数々の迫害を受けながらも、この戦略が機能する場所にユダヤ人は落ち着いてきた。20世紀初頭の段階でロシア東欧にユダヤ人が多かったのも、そうした理由による。中世西欧のキリスト教復興のなかでユダヤ人迫害が激化した際に、貴族がユダヤ人の社会経済的な機能を買ってユダヤ人を懐柔したポーランドに、多くのユダヤ人が移住したのである。

その後ポーランドを取り込んだロシア帝国では、政府自体はユダヤ人に敵対的であったものの、実質的にはポーランド時代のあり方がかなり温存された。温存された背景には、ユダヤ人が確実に当該地域の社会経済構造の一角を占めていた事実があった。

ユダヤ人の多くは手工業者や商人、輸送業者や金融業者として、当地に欠かせない役割を担っていたのである。こうした役割ゆえに、農民の搾取者としての偏見を持たれることも多かったが、ユダヤ人はロシア帝国における自己の存在意義を自覚していた。

しかし、産業化と反ユダヤ主義の激化により、この構図は狂い始めていく。大工場や鉄道の発達は、伝統的なユダヤ人の役割を奪い、彼らの多くは失業して都市に流入していった。彼らの受け皿として社会主義運動がユダヤ人の間で発達し、また、北米や西欧を目指す移民が急激に増えたのもこうした背景による。

このような変動期に頻発するようになったのが、ユダヤ人に対するポグロム(反ユダヤ暴動・虐殺)である。先にも触れたが、1881年から1884年にかけてのポグロムが、シオニズムの契機としてよく知られている。ただし、シオニストになった者たちは、必ずしもポグロムからの逃避を考えていたわけではない。多民族帝国ロシアにおいて、なぜユダヤ人だけがかようにも差別されるのか、その原因に考えを巡らせていたのだ。ユダヤ人だけが唯一国を持たずに流浪した存在である、だからこそ軽蔑されているのではないか、というのが彼らの見立てである。

孤立化の道へ

当時のロシア帝国では、ポーランド人やウクライナ人のあいだでも次第にナショナリズムの機運が高まりつつあった。議会をロシアに導入する契機となった1905年革命では、ロシアが多様な民族に同権を与える国家に生まれ変わることが期待された。前記のように、単にパレスチナに逃れることよりも、ロシアにおけるユダヤ人の民族的権利の承認を求めていたシオニスト運動も、こうした文脈のなかで盛り上がりを見せた。

このことからわかるように、この段階でのシオニズムは、ユダヤ人が安住することだけに視野を絞っていたわけではなかった。それが最終的な目的ではあれ、そのためには帝国全体の民主化が不可欠であると理解し、他の民族との共闘を視野に入れていた。本稿ではディアスポラに長くとどまったシオニストに焦点を当てているが、このことは、早々にパレスチナ開拓に向かったシオニストにも当てはまる。彼らもまた、社会主義的な理想に燃え、「搾取者」としてのユダヤ人の生き方を根本的に変えるために農民化することを目指していた。その一つの帰結が、一時期世界的に注目されたこともあるキブツである。アラブ人との労働組合の展開も模索された。

つまり、20世紀初頭までの段階では、シオニストは、ユダヤ人の境界を超えて他者とつながる、いわば普遍的な原理についての関心を保っていたのである。もちろん、普遍主義は普遍主義で限界を持つ(その典型が帝国主義・植民地主義である)。だがここで重要であるのは、この段階でのシオニズムが、軍事という殻に自らを閉じ込めようと決め込んでいたわけではまだなかった、ということである。基本的にはロシア帝国という枠に限られるとはいえ、シオニストは他者とのつながりを具体的に思い描き続けていたのだ。

では、現在ではシオニズムの大きな特質とさえいえる軍事信仰の契機とは何だったのか。それは、ユダヤ人に対してさらに強烈に吹き荒れていった物理的暴力であったと筆者は考えている。そしてそれは、暴力を振るわれたから暴力で返すという単なる脊髄反射にとどまらない、より深刻な次元に影を落としていた。

1903年から1906年にかけて、より大規模なポグロムがユダヤ人を襲う。このとき、シオニストや他のユダヤ人の運動のなかから、自衛組織が立ち上がった。先述のように、これはユダヤ史のなかでの新しい動きである。ユダヤ人がユダヤ人自身のための軍事組織を立ち上げた例は、長いユダヤ史のなかでも、パレスチナの地にユダヤ王国が存在していた20世紀前まで遡らなければならない。

そしてロシア帝国は、1917年に崩壊する。それは多くのユダヤ人にとってさらなる苦境の始まりだった。赤軍(ボリシェヴィキ)と白軍(自由主義者と右翼を中心とした反ボリシェヴィキ)の争いに、ウクライナではウクライナ・ナショナリストも参入する内戦が数年にわたって繰り広げられたが、その際、ユダヤ人に対する暴力がかつてない規模で吹き荒れたのである。

反ユダヤ主義をブルジョワのプロパガンダとして抑制しようとした赤軍に対し、白軍はボリシェヴィキの親玉としてユダヤ人を敵視した(これはもちろん偏見であり、この時点でユダヤ人はせいぜい人口比と同程度しかボリシェヴィキには所属せず、社会主義政党ではメンシェヴィキにより多くのユダヤ人がいた)。ウクライナ・ナショナリストはユダヤ人を、ウクライナ独立を阻む裏切り者として攻撃した。

こうしたなかで、ユダヤ人の多くが、もっとも「まし」であったボリシェヴィキに次第に傾いていったのも無理はない。だが、中産階級を敵視するボリシェヴィキを危険視したユダヤ人も少なからずおり、彼らのなかには、ポグロムにもかかわらず白軍を支援する者がいた。彼らはロシアの国家的秩序が回復すれば、ポグロムのような粗野な行為は制止されると見ていた。

だが、思想的には赤軍よりも白軍に近い者も多かったシオニストのあいだで、ユダヤ人に対する暴力をより深刻に捉える者は確実に増えていた。それは自衛組織の拡大という実際的な側面にとどまらず、ロシアに対する不信感としても表出した。ロシアにおいて、他者との具体的な関係性のなかで自己の存在意義を見出していたユダヤ人は、ここに至って、他者とのつながりを捨て、孤立化の道を歩むことになったのである。

こうした他者に対する姿勢の変化こそが、シオニストが軍事に身を包むための前提条件だったのではないかと筆者は見ている。軍事とは、究極的には敵と味方を明確に分け、その「間」を決して許さない論理を前提とする。そのため、他者とのつながりの断絶は、軍事化への障害がなくなったことを意味する。そしてこうした傾向は、ロシア帝国亡き後のポーランドにおいて増幅していく。

ポーランドでの「訓練」

シオニスト運動はソ連で次第に禁止されるようになり、そのディアスポラでの主戦場は新生ポーランドに移っていった。当時のポーランドの人口の3割強が、ウクライナ人やユダヤ人、ベラルーシ人、ドイツ人などの非ポーランド人だった。シオニストを含むユダヤ人は多民族共生に期待を寄せ、まだディアスポラの地を諦めてはいなかった。だが多民族的な枠組みを維持しようとしていた独裁者ピウスツキが1935年に死去すると、ポーランド民族中心的なポーランド・ナショナリズムがいよいよ本格的に吹き荒れるようになっていった。

こうしたなかユダヤ人は、ポーランド人中産階級の競争相手として、二級市民の扱いに甘んじていく。他者と手を携えて作り出していく普遍的な将来像が想起される余地はなくなっていた。

ロシア帝国からパレスチナに向かっていった社会主義志向の強いシオニストも、1920年にハガナーと呼ばれるイスラエル国防軍の前身をパレスチナで組織することになったが、より過激な軍事組織をつくっていったのは、戦間期ポーランドを中心に興隆した「ベタル」と呼ばれる軍国主義的な青年運動である。

のちにイスラエル首相となったメナヘム・ベギンも、ポーランドのベタル出身であり、イスラエル建国直前に、パレスチナを統治していたイギリスに対するテロ活動に身を投じていた人物である。そのベギンは自伝のなかで次のような言葉を残している。

 

「世界は屠殺される者に同情しない。世界が尊敬するのは、戦う者だけである。諸国民は、この厳しい現実を知っていた。知らなかったのはユダヤ人だけである。われわれは甘かった。敵がわれわれを意のままに罠にかけて殺戮できたのは、そのためである。」(メナヘム・ベギン『反乱―反英レレジスタンスの記録』(ミルトス、1989年上巻、72頁)

自衛のために武器を取ることを避けてきた平和主義のユダヤ人は、一夜にして過激派になったわけではない。19世紀終盤に始まるロシア東欧での経験が、一部であれ、ユダヤ人をして孤立化の道を歩ませ、軍事への信仰を揺るぎないものにしていったのである。

シオニズムが様々な局面を持った思想であり運動であることはいうまでもない。以上はその一面にすぎない。しかし、シオニズムが強靭で孤高なユダヤ民族を前提とし、実際にそのことをパレスチナにおいて誇示してきた事実は、ロシア東欧でのユダヤ人の経験が、シオニズムの不可欠な局面であったことを示唆しているのだ。

プロフィール

鶴見太郎歴史社会学、ロシア・ユダヤ史、パレスチナ/イスラエル

東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻准教授(博士・学術)。日本学術振興会特別研究員、埼玉大学研究機構准教授等を経て現職。主な著作に、『ロシア・シオニズムの想像力――ユダヤ人・帝国・パレスチナ』東京大学出版会(2012年)、「旧ソ連系移民とオスロ体制―イスラエルの変容か、強化か」今野泰三・鶴見太郎・武田祥英編『オスロ合意から20年―パレスチナ/イスラエルの変容と課題』NIHUイスラーム地域研究東京大学拠点(2015年)、”Jewish Liberal, Russian Conservative: Daniel Pasmanik between Zionism and the Anti-Bolshevik White Movement,” Jewish Social Studies 21(1), 2015など。

この執筆者の記事