「生身の個人にとっての自由」の潮流の中のマルクス

ここまでのところで、リバタリアンの「消極的自由」論の内包する自己矛盾について、二点確認しました。ひとつは「個人の言動を縛るのも、意識的でない縛りならOK」とする理屈についてで、もうひとつは「理性ノ自己実現コソ自由ナリとするのは抑圧のもと」とする認識についてです。

 

第一の論点については、「お上」の明確な意志なんかなくても、フラットな個々人の間の意図されざる縛りあいでも、個人の自由への抑圧になるのではないかという批判が成り立ちます。人身御供の因習でも、「イジメ」や差別でも、主戦論が高まって戦争になるときも、そんなケースはたくさんあります。

 

よく考えれば、暴君の支配だって、「多くの他者が暴君に忠実だろう」と、軍人や警官を含むめいめいが予想することで、みんなで自分を守るために縛りあって維持されている秩序だと言えます。結局は、フラットな個人間での、因習のような相互束縛と図式は同じです。そうすると、「暴君に逆らう自由」が認められるべきならば、その他の意識的でない縛りあいからの個人の自由も、同様に認められるべきだということになります。これを前々回確認しました。

 

第二の論点については、「理性の自己実現=自由」論を一旦批判したならば、まさに「自分の心身に自己支配を確立した理性的個人」というリバタリアンの理想像こそ、この批判があてはまってしまうという矛盾が指摘できました。

 

「理性の自己実現を自由だとする姿勢は抑圧のもと」とする認識は、フランス革命のジャコバン派の恐怖政治から共産党独裁まで、たくさんのおぞましい実例に照らして、とても説得力があるのですが、この認識を貫くならば、「自由である」ことの主体は何であるべきかという議論にまで行き着かざるを得ません。それは第一義的には、本能や欲求や情動や肉体等々としての「生身の自己」でなければならず、「理性としての自己」ではない──というのが前回の結論でした。

 

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

 

 

「考え方」が「生身の個人」を抑圧することへの批判

 

さてそうすると、以上の二点の論点は、一つの共通の図式にまとまることになります。

 

第一の論点の「お互いの縛りあい」というのは、詳しく見ると、連載第5回(PHP新書『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』第5章に所収)で述べたように、「他者の行動についての予想」がみんなに共有されていて、各自がそのもとでマシになるように振る舞ったら、その予想が自己実現されるという事態でした。

 

この予想のあり方が別のものに変わったら、今度はそっちの予想のもとで各自が最適行動した合成結果がその予想を自己実現するかもしれません。だから、ある一つの秩序のもとで不幸な目にあってしまっている人は、人々の共有する予想が別のものに変ったらもっと境遇がよくなっていたはずかもしれません。そうだとすると、そうした人々は、「人々が今現に共有している予想によって抑圧されている」と言えます。

 

つまり、ここで、個々人の自由を縛ってしまっているのは、「他者の行動についての予想」という「考え方」です。「信念」とか「思い込み」などと言ってもよい。「秘密警察は暴君の意に逆らう者を弾圧するものだ」とか「男は纏足していない女を嫌うものだ」とか「同僚たちは、自分だけサービス残業せずに帰る者には冷酷に当たるものだ」とかいう「信念」「思い込み」です。

 

「信念」とか「思い込み」とかいう言い方をすると、現実と違うただの幻想みたいなイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。「周囲の者は少数民族に同調する側の者を嫌う」という予想が共有されれば、それ自体に何の合理性がないとみんな知っていても、みんな自分を守るために少数民族を差別してこの予想が実現される。

 

ところが逆に、「周囲の者は少数民族を差別する側の者を嫌う」という予想が共有されれば、全く同じ条件のもとで、やはり各自が自分の身を守って、少数民族が差別されない世の中が実現される。たとえ「幻想」でも、現実の人間の行動によって否が応でも「物質化」され、善かれ悪しかれ「力」を持つわけです。「景気の予想」などは、なおさらそうなります。

 

すなわち、第一の論点も第二の論点の「理性」同様、人間の「考え方」による抑圧を問題にしているのだということがわかります。

 

しかも、前々回の最後の部分で問題提起したように、「因習」のような相互束縛を個人の自由への抑圧として問題視するときには、本人が望んでやっているかのように自己表明することを真に受けていいのかという問題があります。因習などによってひどい苦痛や死のような犠牲を引き受けたとき、本人の表層の意識では望んだことのように思っていても、内面には苦痛や恐怖に悲鳴を上げて嫌がっている自分がいるかもしれません。

 

つまり、「考える私」だけが自分ではない。本能や欲求や情動や肉体としての「生身の自己」がいる。このどちらを「自由であることの主体」とみなすのかという問題で、やはりこれも第二の論点で問題にしたことと同じです。

 

たしかに、個人の自己決定を最大限重視するリバタリアンの立場としては、最終的には本人が自己表明して選んだことを尊重するほかありません。現実の政策や運動としては、その原則をはずしてはならないケースがほとんどだと思います。

 

しかし哲学レベルの原理問題としては、前々回の最後の部分でも言いましたように、「本人がいいならいい」と言ってしまったら、DVにも児童虐待にも北朝鮮体制にも何も言えなくなってしまい、リバタリアンの存在意義はなくなります。やはり、第一義的には、本能や欲求や情動や肉体としての「生身の自己」こそ「自由であることの主体」とみなさなければならないということです。第二の論点と同じです。

 

さらに、第二の論点で問題にした「理性」というものも、多くの人々で共有されてこそ被害が深刻なものになるということを指摘しておきましょう。ここで問題にすべき「理性」とは、「理論」「学説」「思想」「計画」「法令」「要領」「綱領」「信念」等々といったものですが、これらは人々をまとめあげ、互いに齟齬がないように秩序だって目的を達成するために使われるものです。したがってここでも、第一の論点と同じく、人々に共有される「考え方」こそが問題とされているということがわかります。

 

かくして、第一の論点、第二の論点に共通する図式は、次のようにまとめることができます。──自由とは、本能、欲求、情動、肉体等々としての「生身の個々人」の望む状態が、もっぱら人間の「考え方」のせいで実現できないということがない状態。──これが万人に対等に満たされることを目指すのが、バーリンやハイエクといったリバタリアンの思想を、矛盾がないように徹底した立場だと思います。

 

ここで言う「考え方」というのは、純粋な個人の意志かもしれませんが、典型的には多くの人々によって共有されているものを問題にしています。その場合、それが別のものに変りさえすれば、多くの「生身の個々人」の満足状態が、犠牲者なく改善できるはずなのに……という理不尽な事態に陥り得るからです。

 

 

「生身の個人」はそのまま容認できるか

 

しかし、このようにまとめたとしても、なお問題が残ります。それが前回の最後で問いかけた問題です。個々人の間で「生身の自己」の望みが共に食い違いなく成り立つならいいのでしょうけど、多くの場合、「あちらを立てればこちらが立たず」の関係になってしまいます。

 

たしかに、例えば「強姦してはいけません」というルール(「考え方」)によって、「身を犯されたくない」という「生身の自己」の自由を守り、他方の「強姦したい」という「生身の自己」の自由を妨げることは、正しいことだと誰でも思うでしょう。前者の自由が侵されたときの「生身の自己」のダメージの深刻さは、後者の自由が実現できなかったときの「生身の自己」の被るマイナスよりも、はるかに甚大だと誰でも認めると思います。

 

そうすると今度は、少数の障がい者や文化風習の異なる人の「生身の自己」の望みが、社会の少々の配慮が足りないために実現できなかったケースを考えてみて下さい。それが当事者の「生身の自己」にとって深刻なダメージであるならば、たとえそれが多数派の人々には直接実感できないものだとしても、少々の配慮にともなう多数派側の「生身の自己」のマイナスは容認できることだというのも、同じ理屈からわかります。

 

しかし、だったらこんな例はどうでしょう。「ナッツ姫」が客室乗務員から袋のままナッツを出されたときの屈辱感のダメージは、我々凡人にとって、肉親が死んだときのダメージに匹敵したのかもしれません。多数派の人々にとって直接実感できなくても、上と同様の理屈を通すなら、それは配慮しなくていいのでしょうか。

 

身分を隠して宿を求めたお姫様が、ふかふかの羽根布団に仕込んだ一個の真珠玉のせいで、背中の違和感で眠れなかったためにバレたという童話がありましたけど、「少数派の文化風習であれ、お姫様であれ、幼い頃から長年の生活習慣で作り上げられてしまった心身の感じ方を尊重しなければならないのは同じだ」と言われたら、いったいどう反論しますか。

 

そう考えると、お姫様ならぬ普通の庶民でも問題は同じです。互いに直接実感できない「生身の自己」のダメージのために、どこまで譲るべきかは簡単には決着できない問題になります。声の大きい人のために一方的に食い物にされる人が出てきたり、互いにいがみ合ったりにはならないでしょうか。

 

つまり、私たちはここまでのところで、リバタリアン思想を自己矛盾がないように徹底させ、「生身の個人」に対する「考え方」による抑圧を批判し、その抑圧から「生身の個人」が自由になることを求める思想として再構成しました。しかし、とは言っても、できあいの「生身の個々人」をそのまま容認するわけにはいかない。その自由のためにも、やはり「考え方」で人を縛ったり動かしたりすることは避けることはできないわけです。その問題をどう解けばいいのでしょうか。

 

実は、本能、欲求、情動、肉体等々としての「生身の個々人」を本来の主人公とみなして、社会の「考え方」が外からそれを支配抑圧してくることを批判する図式は、ほかならぬカール・マルクス(1818-1883)の著作に生涯貫いているものです。ではマルクスはこの問題をどのように解決したのでしょうか。今回と次回の二回に分けて、マルクスの考えを検討します。【次ページにつづく】

 

 

 

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