事前的ルールを選ぶ自由──リバタリアンはハイエクを越えよ

この連載では、ここ数回、「固定的人間関係がメジャーだった世の中から、流動的人間関係がメジャーな世の中への転換に合わせて、それにフィットした政策を支える思想も転換しなければならない。それは何か。」ということを見ています。新自由主義も第三の道も、それぞれナショナリズム、コミュニタリアニズムという、固定的人間関係にフィットした思想を採用したために矛盾に陥ってしまったのでした。

 

そこで前回から、流動的人間関係にフィットした思想として最有力の、リバタリアンの思想を検討しています。リバタリアンと言えば、「税金なんか払わないよ」と言っている人たちというイメージが強いのですが、「左翼リバタリアン」と呼ばれる一派は、困った人のために税金をとることを正当化しています。彼らの言い分によれば、自分の身体をどう動かすかは各自の自由だとする「自己所有権命題」は認めるけど、それを各自の外部のモノにまで適応する根拠はないから、そこからあがる収益には税金をかけていいとのことです。とくに、人為で生産できない「土地」などの収益についてはそうだとします。

 

前回私は、こうした議論を受けて、課税が正当化される私なりの理屈を提案しました。それは結局、今どこの国でも普通に見られるような所得税や法人税の制度が、リバタリアンの立場に立っても否定されるわけではないことを示したにすぎないとも言えます。

 

しかし、以上の理屈では、税金をとっていくことは正当化できても、それを福祉のために使ったり、景気対策のために使ったりすることは、まだ正当化できていません。左翼リバタリアンは、リバタリアンの中心価値である「自由」の外から、たとえば「所得の平等」のような別の価値を持ち込んでこれを正当化していますが、そうではなくて、「自由」のような、流動的人間関係にフィットした価値観自体からこれが導き出せないのかが、以降のお話の課題になります。

 

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

 

 

「自己責任を担える理性的個人」という想定への批判

 

さて、このような私の企てに対しては、普通の左派の側からも、普通のリバタリアンの側からも、当然批判があるだろうと思います。

 

普通の左派の側からは、「自己責任論! くわばらくわばら」という反応があるでしょう。もともと、「リスク・決定・責任」が一致する社会を目指すために、決定の結果に自分で責任を負う「自己決定の裏の責任」の成り立つ、個人の自由な意思決定を尊重しようというのが私の議論のモチベーションでしたから、こんな反発をいただくのも当然です(注)。

 

(注)もちろん、批判者の側は、現代日本で蔓延する特殊な「自己責任論」を念頭において反発するケースが多いだろう。これについては、この連載の第9回で取り上げたように、現代日本で蔓延する「自己責任」論は、流動的人間関係で成り立つべき「自己決定の裏の責任」の責任概念に立つものというよりは、多分に、固定的人間関係で成り立つ「集団の中で与えられた責任」の責任概念との混同があったと言える。本来の自己責任論は、困っている人を道徳的に劣った人というニュアンスで責めるものではない。

 

もちろん、私としてはここで、「自己決定の裏の責任」の責任概念に立ったとしても、福祉や医療や教育や景気対策への公的責任が否定されることはないということを述べたいのですが、たとえそうだとしても、やはりもっと根源的な批判は残ると思います。

 

それは、わかりやすいように極端な例をあげれば、認知症の人が自分で選んだ行為の結果困ったことに陥っても、「自己責任だから甘んじて自分で引き受けろ」と言っていいのかというような問題です。

 

ギャンブル中毒の人がギャンブルに負けた結果陥った貧困は、どこまで自己責任と言えるのか。もともと中毒という時点で支援が必要だったのではないか。そもそもを言えば、我々大人の普通の健常者も、ほんとに「自己決定」なんかしているのか。その時代、その国の文化の中で各自に期待される役割にそって振る舞うようにさせられているだけなのではないか。あるいは、大資本や国家権力の、巨費をつぎ込んだ宣伝の力で、知らず知らずに選ばされているだけなのではないか……等々。

 

これに対してこの段階で一言だけ根本的な反論をさせていただけるならば、このような議論は、固定的人間関係のシステムの中では成り立ったかもしれませんが、流動的人間関係のシステムで、そのままあてはまるものではありません。

 

しかし、普通のリバタリアンの想定に対する批判としては、たしかにあたっていると思います。というのは、普通のリバタリアンが想定している個人というものが、自分のやることを理性的に判断して選びとる合理的個人であることは間違いないからです。周りの人や権威や常識に流されたり、しばしばいいかげんな判断をしたりする現実の人間に、こんな想定から導かれる結論を押し付けて、「自己決定の責任を取れ」と迫ってもいいのでしょうか。

 

このことは、あとで効いてくる大事な問題ですので、覚えておいて下さい。私自身は、必ずしも合理的個人を主人公に据えなくても「自己決定の裏の責任」の議論は成り立つと思っているのですが、詳しくは後回しにします。

 

 

積極的自由であって消極的自由でないから駄目という理屈

 

逆に、普通のリバタリアンの側からは、「おおこれは『積極的自由』ではないか! くわばらくわばら」という批判がなされるでしょう。

 

じつは福祉の必要を「自由」から基礎づけること自体は、そんなに突飛なことではありません。生存したいということは誰にとっても根源的な欲求であり、それを実現する自由がなければ、他のどんな自由も実現できないことは、あまりにも自明だからです。多くの論者がこの理屈で、福祉政策を自由主義的に基礎づけることを試みています(注)。

 

(注)立岩真也(2004)『自由の平等──簡単で別な姿の世界』(岩波書店)は、「人の存在とその自由のための分配を主張する」と宣言して始まる(2ページ)。「自由の主張からはむしろ分配が擁護される。得られることはよい。それは生きられるのがよいことの一部であり、そのことによって自由に生きていける。自由がよいものなら、それは誰にもあってよいとしよう。つまり自由が普遍的に、誰にでも認められるなら、分配が支持される」(3-4ページ)。リバタリアンとされる人々でも、連載第3回で触れたように、ハイエクは最低限所得保障の必要性を認めていた。日本のリバタリアンの代表的論客の一人である森村進も、最低限の生活保障を法律で定める必要を認めている。森村(2001)『自由はどこまで可能か──リバタリアニズム入門』(講談社)45ページ。

 

稲葉振一郎によれば、現代リバタリアンの教祖のノージック自身、明示してはいないが、この理屈を受け入れるのではないかとのことである。なぜなら、ノージックが提唱する「最小限国家」が成立するためには、国家成立の前段階の安全保護機関から、市民が「保護証券」を買って保護下に入らなければならないというストーリーになっているのだが、これが買えない貧しい人については、税金を原資にして、これを買うためのクーポンを与えると言っているからである。そこまで貧しい人は、無理にその安全保護機関のメンバーに加えなくても、力で圧倒できるので治安維持に支障はないはずなのに、こんなことをわざわざするということは、ノージックが価値を置く個人の権利・不可侵性の前提に、個人の生存があるとみなされているはずだということである。稲葉振一郎(1999)『リベラリズムの存在証明』(紀伊国屋書店)262-263ページ。

 

しかし普通のリバタリアンは、生存を実現する自由のために公的政策を使うなんて、「積極的自由」だから駄目だと言うでしょう。「積極的自由」とは、「意図することを実現する自由」(注)のことです。曰く、これを実現するためには、「もっといい顔になってモテたいから国家がなんとかしろ」等々と、自由実現のために国家の介入が要請されることになる。

 

(注)「積極的自由/消極的自由」という概念区分を提唱し、積極的自由批判、消極的自由の擁護を主張したアイザイア・バーリン(1909-1997)のオリジナルな表現によれば、「ひとが自分自身の主人であることに存する自由」。バーリン『自由論』(小川晃一ほか共訳, 1971, みすず書房)320ページ。

 

そんな要求が続々持ち込まれると、要求どうしのぶつかりや資源の制約を解決するために、結局政治判断が入らないわけにはいかない。そうして、特定の政治的意図のもとに人間が動員される始末になる──とされます。行き着くところ、ナチスやスターリン体制のような全体主義体制になっちゃうというわけです。

 

これに対して彼らが提唱するのは「消極的自由」です。これは、「やりたいことをやるのに、他人から意図的な妨げを受けない自由」(注)のことです。もちろん、他人に迷惑をかけるのは、他人の自由を意図的に妨げるから駄目とされます。その一方、「顔が悪い」という妨げは、自然の摂理にすぎず、他人による意図的な妨げではないので、そのせいでモテなくても自由の抑制にはならないわけです。

 

(注)同じくバーリンのオリジナルな表現では、「わたくしが自分のする選択を他人から妨げられないことに存する自由」前掲書320ページ。

 

これと同じ理屈で、誰も意図的にコントロールしていない、市場の自動運動の結果、極貧で生存の危機に陥ったとしても、それは自由の抑制にならないことになります。ここで生存のスムーズな実現を妨げているものは、他人による意図的な妨げでないとされるからです。公的権力の役割は、他人の自由への意図的な妨害を禁止することに限定されるべきだとされます。

 

この消極的自由論には、二点ばかり議論すべき問題があると思います。一つは、意図的でない制約や強制ならば、はたして自由の抑圧ではないと言えるのかという問題です。

 

もう一つは、積極的自由へのリバタリアンによる批判の本質的な論点が、「自己決定の裏の責任」を問えるような理性的個人の想定と、矛盾してしまうのではないかという問題です。

 

リバタリアンの消極的自由論への批判者は、その積極的自由批判の議論を「つまらないケチつけ」であるかのように簡単に片付けてしまう印象がある(注)のですが、私はこれはとても大事な問題を提起している論点だと思っています。それは、理性を「主体」にして、人間を「対象」としてかかわる図式でもって「自由」を理解することの危険ということです。

 

(注)立岩前掲書でもそう感じる。42-46ページ。

 

ところが、自由な意思決定の裏で責任を引き受けるリバタリアンのお手本のようなケース、たとえば、市場ニーズを理性的に調査分析して新商品を開発し、マーケッティングを行い、結果としてはずれたら損失を引き受ける実業家にとっての「自由」は、ほかならぬ、理性を「主体」にして、人間を「対象」としてかかわる図式で理解されたものではなかったでしょうか。

 

以上二つの問題を解くことが、以降のこの連載の課題になります。【次ページにつづく】

 

 

 

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