2014.07.30

「自己決定の裏の責任」と「集団のメンバーとしての責任」の悪いとこどり

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #小さな政府#自己責任

この連載は昨年10月に始まり、当初毎月一回一年間続けたものを書籍化する予定でしたが、PHP出版さんのご意向で、前回までの分で一旦出版し、続きについてはその一年後にまた出版することに決まりました。

そこで、シノドスさんには連載期間をその分延ばしていただき、一回あたりの分量を、これまでの半分ほどに減らして、ゆっくりしたペースで掲載していただくことになりました。読者のみなさんには、気長におつきあいいただけましたらうれしく思います。

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

責任のあり方が変わった

さて、ここまでのところでは、70年代まで普通だった国家主導型のシステムが、その後世界的スケールで崩れていった転換の本質は、「リスク・決定・責任は一致すべきだ」ということだったことを見ました。しかし実際にはこの転換は、新自由主義やブレア=クリントン=日本民主党型の「第三の道」路線によって、「小さな政府」への転換と誤解され、はなはだしい歪曲を受けて遂行されてきた、それが今日までの世界を覆うさまざまな混乱の原因だった──ざっとこのようなことを論じてまいりました。

ここで問題になるのは、では70年代まではリスク・決定・責任は一致しなくてもよかったのか、なぜ急に80年代以降このことが課題になったのかということです。このことは、なぜ新自由主義や「第三の道」のような誤解が生まれたのかということにもかかわります。

これを考える手がかりのために、まず今回は「責任」とは何かということをはっきりさせたいと思います。というのは、「責任」という言葉で表されているものには、全然違う二種類の概念が含まれているのですが、しばしば両者が混同されて、いろいろな問題を引き起こしているからです。

実は、人間関係のシステムのあり方によって、ふさわしい責任概念は変わります。この連載ではここまでで、国家主導型システムの行き詰まりを、リスク・決定・責任が一致せず、責任をとるべきところが責任をとらない仕組みから説明したのですが、しかしそうした世の中にそれまで責任割り当てのシステムがなかったわけではないし、急に70年代になってから人々が無責任になったわけでもないのです。世の中が変わって人間関係を律する責任のあり方が切り替わっているのに、社会の仕組みがそれを反映していなかったから、「リスク・決定・責任の不一致」が生じてしまったのです。

二種類の責任概念と「自己責任」論

結論から言いましょう。責任概念の二種類というのは、

(1) 自己決定の裏の責任:自分で決めたことのせいで他人に不利益を与えないようにし、万一不利益を与えたときにはきっちり補償し、自分が不利益を被ってもそれを自分で引き受けること。

(2) 集団のメンバーとしての責任:自分が決めたかどうかにかかわらず、ある集団に所属することにともなう役割を果たす責任。

ということです。自己決定を要件とするかどうかで大きく違うわけです。この二つは、どんな時代でもどんな国でも二つともあるのですけど、人間関係のシステムのいかんによって、どちらがメジャーになるかは変わってくるのです。

言うまでもなく、「リスク・決定・責任の一致原則」のいう「責任」というのは、上記の(1)、「自己決定の裏の責任」です。本連載でこれまで述べてきたことは、この意味での責任が適切にとられるシステムにしようということだったわけです。

そうすると、「おお、これは『自己責任論』ではないか、くわばらくわばら」という声が聞こえてきそうです。日本で新自由主義に反対する言論には、「小泉政権時代に『自己責任論』が唱えられるようになって以降、格差拡大が進行し……」というようなフレーズが「枕詞」のようについています。「自己決定にともなう責任」などと言うと反発する人が出るのはもっともなことです。

しかし、「自己決定の裏の責任」を重視する立場が、日本で流行った新自由主義的な「自己責任論」と同じとみなすのは誤解です。誤解というのは、まず、

(1) 日本で流行った「自己責任論」は、「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念との混同が大いにある。

ということであり、さらに、たとえその混同がなかったとしても、

(2) 「自己決定の裏の責任」論が社会保障や教育などの公的責任を否定するわけではない。

ということです。(2)の方はそれだけで大きな問題ですので後の回にまわすことにして、今回は(1)について述べたいと思います。

イラク日本人拘束事件での「自己責任」論のねじれ

ここで、この問題を考えるための材料として、2004年春に起こったイラクでの日本人拘束事件のことを思い出してみましょう。日本で「自己責任」という言葉が流行り出した始まりのような事件ですね。ストリートチルドレンの自立支援ボランティアや劣化ウラン弾の被害調査などのために、戦闘続くイラク入りして武装勢力に拘束された三人に対して、政府、マスコミ、インターネットでの書き込みなど、国中あげて、ヒステリックなバッシングの嵐が巻き起こりました。

このとき私が抱いた印象は、三人に対する擁護派と非難派の間で、「自己責任」という言葉の使い方があべこべになっているのではないかということでした[*1]。

[*1] 当時個人ホームページのエッセーで論評している。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_404091.html

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_404141.html

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_404281.html

私は、この三人は「自己責任」でヒトのために危険な活動をしているからこそ誉められるべきであり、そうである以上、日本政府は人質解放のために何もするべきではないと主張していました。日本人だから日本政府は救出に動けという主張は、簡単に「自衛隊の救出部隊を派遣しろ」という理屈につながります。後年、日本人10人が死亡したアルジェリア人質事件では、実際そのような声が聞かれました(ちなみにイラクのときには人質をバッシングしておきながら、アルジェリアの場合日本の石油確保のために働いているからという理由で態度を変えるのは首尾一貫した態度とは言えません。ストリートチルドレンの自立支援ボランティアの活動は、間違いなく戦後イラクでの日本資本のビジネスをやりやすくするだろうからです。もちろん私にとってはどうでもいいことですけど)。

ましてや米軍に救出を頼んだりしたら、人質ごと始末されかねません。自分が人質の立場だったら、頼むから政府は何もしないでくれと祈ることでしょう。しかし政府ではない個々の市民のとるべき態度は別です。「市民社会は自己責任での英雄的行動を讃えるべきだ」と思っていたのです。

ところが世間で起こったことは、三人をバッシングする側が「自己責任論」を唱え、擁護する側がそれをやっきになって否定するということでした。あまりにあべこべな事態に、私は毎日目を白黒させていました。

そうするうちに、海外の多くのマスコミが三人を擁護して、日本におけるバッシングの異様さを奇異の目でもって取り上げました。三人が帰国したとき、わざわざ空港まで行って「日本の恥」というプラカードを掲げた人がいましたが、そっちの方がよほど「日本の恥」だったわけです。アメリカのパウエル国務長官までが、この三人を讃えて擁護しました。本来三人はパウエル長官にとっては反米的な好ましからざる人物のはずです。にもかかわらずなぜそのような発言をしたかと言うと、そのように言うことがアメリカでは世論にかなった政治的に正しい発言だったのでしょう。うっかり三人を非難したりしたら世論から叩かれるという感覚があったのだと思います。

結局、アメリカ様だったらこんなふうに言うはずと思ってやっていたら、見事ハシゴをはずされたというのが、日本の「自己責任」論者だったわけです。それにしても、数人の人が何か勘違いしましたというならともかく、どうしてこれだけ大量の人が一挙同時に世界標準とずれた行動をとったのでしょうか。ここには何か世の中の仕組みに根ざした理由があるはずです。

与えられた役割を果たすのが日本社会の「責任」

こんなことがなぜ起きるのだろうかを考えるときに、ヒントになるのが東京大学の安冨歩さんの説明です。安冨さんは、外見がまったく同等な百一の扉を自由に選択するよう魔王から迫られて悩む人の物語について、「可能な選択肢がすべて与えられていれば、その人は「自由」であり、それゆえその状態で選んだ扉を開けて生じた結果は、自分で引き受けねばならない。これが「責任」をとることである。こうして自由と責任が結びつく」[*2]と解説したあと、次のように書いています。

「……日本人にとって、「自由」という言葉から、多数の扉のついた部屋を想像するのは普通ではない。私たちが「自由」という言葉から思い浮かべるのは、たとえばフーテンの寅さんである。/(中略)/日本語の「自由」が与えるイメージが、無縁者の姿であるとすると、それが「責任」と結びつくことは考えられない。なぜなら日本語の「責任」とは、どんなに嫌でもその場にとどまり、与えられた「役」を果たすことだからである。役を果たせない者は「役立たず」であり、人間扱いしてもらえなくても文句は言えない。たとえば、『大辞泉』の「責任」の項には、「立場上当然負わなければならない任務や義務」という説明が与えられている。日本語の責任は「立場」から生じるのであり、「選択」から生じるのではない。/日本人が「自由は責任をともなう」などと言われても、サッパリ腑に落ちないのは当然である。せいぜい思いつくことは、「人間を自由(=無縁)にすると、何をしでかすかわからないので、多少は責任(=縁)で縛り付けておく必要がある、ということだな」というような理解である。」[*3]

[*2] 安冨歩『生きるための経済学──〈選択の自由〉からの脱却』(日本放送出版協会、2008年)、70ページ。

[*3] 同上書70-71ページ。

安冨さんの、この引用元の本は、安冨さんが「西欧的」とみなす「自己決定の裏の責任」の方の責任概念を批判したものです。「選択の自由」の「自由」はたいがい欺瞞で、自由な選択など本当はできるわけがないというのです。返す刀で、安冨さんは近著『ジャパン・イズ・バック――安倍政権にみる近代日本「立場主義」の矛盾』(明石書店、2014年)で、「集団のメンバーとしての責任」の責任概念のもたらす日本社会の病理について、「立場主義」と名付けて痛烈に批判しています。

そういえば、このような議論はすでに戦争直後からなされていたのでした。丸山眞男が「軍国支配者の精神形態」[*4]で描いた、ナチスリーダーと日本軍国主義リーダーの鮮やかな対比はまさにこれです。ナチスのトップリーダーたちは、意識的に「悪」を決断して実行し、その責任をすべて引き受けようとしたのに対して、日本の戦争指導者達は、誰もがみな、満州事変にも日中戦争にもドイツとの同盟にも日米開戦にも「反対」であったと称しながら、現実にはそのすべてを粛々と遂行し、結局誰も自らその責任を認めないのです!

[*4] 杉田敦編『丸山眞男セレクション』(平凡社、2010年)、131-184ページ。

つまり、ナチスのトップリーダーにとって戦争犯罪は自己決定で選択したことで、「責任」とはその結果を引き受けることだったのに対して、日本の戦争指導者にとっての「責任」とは、事態の成り行きの中で、自分に与えられた役割を自己の意思にかかわらず着実に全うすることだった[*5]のです。

[*5] 拙著『新しい左翼入門』(講談社、2012年)の丸山評の箇所でも書いたように、原発推進者が事故責任を認めない態度はこれとそっくりである。

集団の中の人間関係を規律するための責任概念

しかし本当は、自己決定するかしないかにかかわりなく発生する「責任」というのは、別に日本にだけ特有なものではありません。例の「ハーバード白熱教室」で大ブレークしたサンデルさんも、たとえ自己決定していなくても発生する責任というものはあるのだということを強調しています[*6]。合意があるかどうかにかかわらず、同じコミュニティの同胞を助ける責任があるのだということです。

[*6] ベストセラーになった『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤忍訳、早川書房、2010年)では、第9章で詳しく論じている。

そして、自分が個人的に合意したことでなかったとしても、所属するコミュニティの罪について責任を持つのだと言います。だから、現代アメリカの白人は、自分が生まれるよりはるか昔の黒人奴隷制という罪に関して、現代アメリカの黒人に対して謝罪する責任があるのだと言います。

サンデルさんは「コミュニタリアン」という哲学の一派の人です。日本語では「共同体主義」派と訳すのでしょうか。論敵の「リベラル」や「リバタリアン」といった自由主義系の思想が、個人の決定から積み上げて社会を説明しようとするのに反対して、個人というのはあらかじめ社会から作られた存在だということを強調します。このコミュニタリアン流の「集団の中で生きる人間」というものを想定したときに、それとつじつまの合う責任概念は、「集団のメンバーとしての責任」ということになるわけです。だからこれは、日本だけにあてはまることではなくて、集団内部の人間関係を規律するときには普遍的に必要になる責任概念だということになると思います。

考えてみれば、ナチス戦犯だって、凡庸で有能な中間管理職アイヒマンともなれば、とった態度は丸山眞男描く軍国日本のリーダーたちと同じでした。おびただしいユダヤ人をいかに効率的にガス室に送るかに心を配ったことは、ただ粛々と与えられた任務を果たしただけだというのです。アイヒマンは組織の中にどっぷり浸かり、内部メンバーだけを相手にして生きていた人です。その責任概念がもっぱら集団内部の人間関係を規律するためのものであったのは、ある意味で理にかなったことだったと言えます。

本連載第五回で触れましたように、80年代頃までとられていた日本型の企業システムは、終身雇用や年功序列、サプライヤーシステム等々、いずれも流動的な市場取引にまかせる割合が低く、なるべく固定的な関係の中でものごとをすませようとする仕組みでした。これは日本人の遺伝子に組み込まれているわけでもなければ文化的宿命でもなくて、一旦この仕組みの中におかれたならば、アメリカ人だろうが中国人だろうが、各個人が合理的選択で振る舞った合成結果として再生産されるものでした。日本における責任概念が、「集団のメンバーとしての責任」の方に重心があったのは、このような固定的な社会の仕組みを反映した合理的なものだったと言えます。

それがやがて「行き詰まった」とされて崩れ出し、小泉「構造改革」で雇用流動化や系列解体が押し進められるに及んで、責任概念もまたそれに合わせて「自己責任」が強調されるようになったというわけです。しかし、雇用や取引のシステムは簡単に変えることができても──とはいえ十年やそこらでコロっと変わるわけにはいかないと思いますが──責任概念のような内面の価値観は、そう簡単には変わらないでしょう。表面だけ変えただけの勘違いみたいなものが横行するのは、しばらくは避けられない現象だったと言えます。

自己決定は善か悪か、「補償」か「詰め腹」か

「自己決定の裏の責任」の場合、リスクのある未知の試みに自由にトライすることは、権利として立派に認められる「いいこと」です。ただしその結果が悪ければ、結果について責任をとるというだけです。

この場合、自分だけが損をしたならば、たとえ「愚か」と言われることがあったとしても、倫理的に「悪いこと」とはされません。他人に損害を与えた場合は、もちろんその責任をとることが倫理的に要請されますが、ここで「責任をとる」とは、典型的には「補償する」ということです。元の状態に戻す。戻せないものがあれば、代わりになるような償いをするということです。つまりここで言う「責任」とは、もっぱら「民事的責任」のことです。

それに対して「集団のメンバーとしての責任」の方は違います。集団の中であらかじめ与えられた役割にのっとるかぎりリスクはありません。これをはずすと、集団の中にリスクが発生します。したがってこれをはずす行為は、それ自体が道徳的に「悪いこと」とされます。だから本来は、その時点で罰せられてしかるべきものです。もっとも日本社会の場合、結果としてその行為が集団にとってプラスになったならば大目にみられる場合が多いのですが、逆に、結果的に集団に迷惑をかけたならば、「責任をとれ」ということになります。

この場合の「責任をとる」とは、典型的には「補償する」ではありません。「詰め腹を切る」です。犯罪をして刑罰を受けることと、地続きの事態として理解されているのです。形として「民事責任」の見かけをとって、補償金をとるケースがあるかもしれませんが、実は被害をもとに戻すことにはあまり重きはなくて、本当の意味は「罰金」だったりします。つまり、本質的には「刑事的責任」なのです。

軍隊で、命じられた軍事行動に失敗しても、上官から賠償を求められたりはしないでしょう。政治家が公金着服したことがバレたとき、そのおカネを多少多めに返したとしても、それだけで責任がとれたとは誰も思わないでしょう。下請けが長年の納期や品質を守れなかったとき、本来なら賠償訴訟されてもおかしくないのですが、旧来の日本型システムではあまり見られないケースだと思います。取引停止などの「制裁」が普通だったのではないでしょうか。

それに対して、武士が切腹する姿は、潔い責任の取り方の見本のように人々にイメージされています。それによって被害者が一銭も補償されるわけではないのですけど。

「集団のメンバーとしての責任」からの「自己責任」論の受容

おそらく日本社会では、従来長いこと「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念が主だったので、決められた道をはずすことが無責任で悪だとか、それで降り掛かる不利益を制裁として甘んじて受けることが責任の取り方だとかという感覚が自然だったのだと思います。そして、この感覚を残したまま、「自己責任」論を受け入れていったのだと思います。

そうするとどんなことになりますか。

「自己決定の裏の責任」の責任概念に基づく、アメリカ新古典派経済学流自己責任論の、「大草原の小さな家」の世界では、各自自分の足で大地に立って荒野を開墾し、ある人はたくさん収穫を得るためにたくさん働き、別の人は自由時間を大事にして少ない収穫で暮らします。これは、各個人が合理的に知恵をしぼってそれぞれ最適に選んだ結果なのであって、この間に道徳的な優劣はまったくつきません。リッチマン氏は「貧乏氏が貧乏なのは、自分が自由に選んだ結果で自己責任だ。公権力で私から収穫を取り上げて分け与えるいわれはない。必要かどうかは私が自分で判断して実行する」と言うでしょうが、公権力が貧乏氏に「怠け者は悪い。もっと働け」と言ったならば、「人間の自由な選択に対する介入だ。けしからん」と言って、貧乏氏と連帯するでしょう。

ところが日本型「自己責任」論では、例えば生活保護を受けている人は、「国家共同体のメンバーとして当然果たすべき役割を果たさず、国家共同体に迷惑をかけている存在」という位置づけにされているのだと思います。道徳的に劣った存在とされているわけです。だから、生活が苦しいのは「悪いこと」をした報いなのだから、甘んじてそれを受けなさいというのが、ここで言う「自己責任」の意味になります。

要するに、「人を殺してはいけないという法律を破ったから、甘んじて刑務所に入りなさい」というのも、「妻としてのあるべき行動をはずしたのだから、甘んじて世間のそしりを受けなさい」というのも、「ひとかどの者として働いて世間の役に立つという道をはずしたのだから、甘んじて貧乏生活を続けなさい」というのも、みんな一つながりに同じ理屈で理解されているのだと思います。

同胞助け合う責任の感覚を残しながら否定

もともと、「集団のメンバーとしての責任」という中には、サンデルさんも言っていたとおり、「同胞を助ける責務」が含まれています。その感覚は「自己責任」「自己責任」と言うようになっても、ぬぐい去ることはできないのだと思います。

2012年にお笑い芸人の河本準一さんが、普通の庶民よりは多額の所得をあげるようになってからも母親の扶養をせず、母親が生活保護を受け続けていたことが問題にされ、ネットや政治家などによるバッシングの嵐が起こりましたが、本当にピュアな自己責任論者なら、「親は子どもの援助に頼るな」と言うはずです。現役の元気な頃に個人年金をしっかりかけておくべきで、それをしなかったなら暮らしが苦しくなるのも「自己責任」だと言うのが、真に小泉改革の精神を体現した人の言うべき言葉でしょう。

実際には日本の「自己責任」論者からはほとんどそんな声は聞かれなかったわけです。やはり、社会関係のコアに血縁共同体があって、その中では、自分で決めたことかどうかにかかわらず、互いに助け合う責任があるという考え方は、いまの日本社会にも強く残っているのです。「親」こそ、自己決定で選べない関係の極例ですよね。

従来の日本では、そうした家族共同体を包み込んで会社や地域の共同体があり、そしてそれを包み込んで国家共同体があって、それぞれ、内部の小さな共同体の中では責任がとりきれないケースについては、より大きな単位で、同胞どうし助け合う責務が発動されてきたのだと言えます。

それが、会社共同体も地域共同体も崩れ、国家共同体も福祉予算を切り詰めて、いままでのようにはめんどうをみてくれなくなりました。それが「自己責任」の言葉のもとに正当化されているわけですが、実際のところは、各家族に責任が押し付けられているのだと言えます。

そして、これは心理学しろうとの私の憶測にすぎませんけど、日本社会の中に実は「同胞は助け合う責任がある」という「集団のメンバーとしての責任」の感覚が強く残っているところに、「自己責任」「自己責任」と言って、弱者を切り捨てる動きが広がっていることから、一種の無意識の後ろめたさがわだかまっているのではないかという気がします。そして、この後ろめたさを否定して、心理的な安心感を得るために、ことさらに、福祉の対象者を、救済に値しない、道徳的に劣った悪い人たちだと思い込もうとする心の動きが働くのではないかと思います。

従来の日本社会は、世間的にノーマルとされる役割を果たさない人たちを、一種の「二級市民」として差別してきたわけですが、その代わり、同胞として最後にはめんどうをみる責任を果たしてきたと思います。アメリカ新自由主義流の自己責任論では、暮らしに困った人々は、自由な自己決定の結果とされて、冷たくのたれ死にするにまかされるかもしれません。しかし、あるべき人生像を押し付けてそこからはずれた人を差別することはないはずです。今日の日本の「自己責任」論は、この両者を「悪いとこどり」したような印象があります。

イラク拘束事件での「自己責任」論の「悪いとこどり」

さて、以上のように見てくると、最初にあげたイラク拘束事件で「自己責任」という言葉の使い方がねじれていた理由がわかります。

つまり、擁護側もバッシング側も、「共同体の同胞は助け合う責務がある」という、「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念に基づく倫理観から、一般論としては、「日本人の危機を救うために日本政府は努力するべきだ」という原則を共有していたわけです。そのうえで擁護側は、この原則の適用を主張して、自衛隊を使うことに後年道を開きかねないことを言ってしまったわけです。

他方バッシング側は、やはりこの原則に立った上で、救出に値しない道徳的に劣った存在として、対象者を認識したわけです。つまり、世間や政府が敷いた道で、与えられた役割を全うしていれば安全なのに、わざわざそこをはずれてリスクのあることをしにいくこと事態が、もともと「悪いこと」。冒険的チャレンジが称揚されるようになってきた時代へのフラストレーションのようなものもあったかもしれません。「自己責任」という言葉は、「こんな道徳的に劣った人は助けなくてもいい」という理屈のために機能したわけです。

「自己決定の裏の責任」の方の責任概念に基づく自己責任論ならば、リスクのある挑戦はもともと「いいこと」です。ましてやヒトのために危険を顧みない行動をするのですから、誉められてしかるべきです。責められるべきは、そのリスク管理技術の未熟さというレベルのことですが、それは、危機に陥ることによって自分で引き受けているのであり、わざわざ政府が助ける必要はないというのが原則になります。つまり、「道徳的に誉めて、政府は何もしない」というのが答になります。費用がかかるならば、その挑戦に意義を感じた世界の市民が、自由意志でカンパするのが筋になるでしょう。

逆に、「集団のメンバーとしての責任」の方の責任概念の筋を通すならば、「政府が同胞として救出した上で、道徳的に非難する」というのが答でしょう。ところが当時の「自己責任」論者の主張は、「政府は何もせず、道徳的に非難もする」という見事な「悪いとこどり」だったわけで、まさしく日本型「自己責任」論のスタートを象徴する出来事だったと言えます。

さて次回は、このような責任概念の違いをもたらす人間関係のシステムの違いについて考察しようと思います。ここには、「リスク」というものをどう管理するのかの違いがかかわってきます。

(本連載はPHP研究所より書籍化される予定です)

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

第一回:「『小さな政府』という誤解

第二回:「ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

第三回:「ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

第四回:「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの──フリードマンとルーカスと『予想』

第五回:「ゲーム理論による制度分析と「予想」

第六回:「なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

第七回:「ケインズ復権とインフレ目標政策──「転換X」にのっとる政策その2

第八回:「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3

サムネイル「Dots」Ian D. Keating

http://www.flickr.com/photos/ian-arlett/14012223974

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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