2013.10.24

「小さな政府」という誤解

松尾匡:連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

経済 #小さな政府#リスク・責任・決定、そして自由!#脱70年代転換

「小さな政府」という誤解の二潮流

この連載では、これまでの三十年ほど、世界中でみんなが「大きな誤解」をしてきたという話をします。

「誤解」というのは何かと言うと、「小さな政府」というスローガンのことです。こないだ亡くなったイギリスのサッチャーさんから始まって、小泉さんとかブッシュさんとか、このかんずっと、世界中でいろんな政権が追求してきましたよね。

最初はいま名前をあげた人たちなんかが、大きな企業が自由におカネもうけできるようにしよう、もっと競争を激しくしようということで、「小さな政府」の路線を進めました。「新自由主義」政策と呼ばれています。

これが、格差だとか貧困だとか、地域の人々の絆の崩壊だとか、金融危機だとかをもたらしたというわけで、今度は、イギリスのブレア政権とか、アメリカのクリントン政権だとかが、もう少しマイルドにした路線をとりました。新自由主義でも、これまでの福祉国家でもない、「第三の道」だとかと自称していたものです。でもこれも結局、財政支出を抑えようとか、規制緩和をしようとかという点では新自由主義と似たようなものだったと言えます。

そこでは、それまでの福祉は一方的な「ほどこし」だった、バラマキで駄目だったと言って、ワークフェアとか「参加と包摂」とかのスローガンを打ち出しました。そして、NPOとか地域の人のつながり(コミュニティ)を重視すると謳って、国家財政でめんどうを見切れない分を担わせようとしました。でも結局こうした姿勢では、格差も貧困も解決できませんでした。

その究極のケースが日本の民主党政権で、財政削減、おカネ発行の引き締め、官僚批判、規制緩和、コミュニティやNPOによる公財政の身代わり、エコロジー志向といったこの路線の典型的な姿勢は、人々がモノやサービスを買おうとする力を停滞させ、デフレ不況を深刻化させました。結局、倒産や失業や不安定な雇用に苦しむたくさんの人々の期待を裏切って、破産してしまいました。どっちにしろ、「小さな政府」を目指すという、新自由主義と同じ誤解をしていたわけです。

このような二潮流のもたらしたものを見たら「そら見ろやっぱり小さな政府を目指すのがいけなかったのだ。自分は最初から反対していたぜ」とおっしゃる人たちもいらっしゃると思います。

ところが実はこれ、賛成する側も反対する側も両方とも誤解していました、というのが私の言いたいことです。

そう、反対する側もなんですよ。

1970年代までは政府が管理介入する体制

もともとどうしてこんなスローガンが持ち出されてきたのでしょうか。三十年以上前にもう物心ついていた人は思い出して下さい。「小さな政府」が大義名分として通用するようになった経緯です。

1970年代までは、おおかたの人たちの間では、「大きな政府」がいいと思われていました。そして実際、国の中央政府や地方政府が、経済のことにたくさんのおカネをかけて管理介入してくる体制が作られていました。

先進資本主義国では、ケインズ型国家介入体制がとられていました。「ケインズ」というのは戦前戦中頃に活躍したイギリスの経済学者です。資本主義経済は放っておいたら不況になって倒産や失業がひどくなることもあるので、そんなときには政府がおカネをかけて、いろんな商売の売れ行きがよくなるようにしてあげなさいということを唱えた人です。

第二次大戦後の先進資本主義国では、どこでも、その学説にしたがって、政府がいろんなことにおカネをかけて、景気をよくする政策をとってきました。道路やダムを作る公共事業とか、軍事とか、福祉とか、どこの国でもいろいろやってきましたが、とくに、アメリカでは軍事中心、ヨーロッパでは福祉中心、日本では、とりわけて70年代には、公共事業中心に政府支出してきたとされています。ちょっと図式化しすぎかもしれませんけどね。

中でも、スウェーデンなどの北ヨーロッパでは、主に社会民主主義系の政権によって、高度な福祉国家が建設されたのは有名です。

先進資本主義国でないところでは、ケインズ型よりも、もっと国家介入が強烈なシステムがとられていました。ソ連や東ヨーロッパでは、「共産党」など、マルクス=レーニン主義を看板に掲げる政党が独裁政党になって、企業は原則みんな国有で、政府の指令で運営する経済体制がとられていました。中国や北朝鮮やキューバ等、多くの発展途上国がこれをお手本にして国づくりをしていました。マルクス=レーニン主義を看板にかかげない政党が支配する発展途上国でも、多かれ少なかれ似たような体制がとられていたものです。

また、国全体の政策でなくても、1970年代の日本では、東京都、大阪府、京都府、神奈川県、埼玉県などの主要都府県、横浜市、京都市はじめ、全国いたるところの市区町村で、社会党(現社民党)や共産党が応援する首長が行政を担い、手厚い福祉を目玉政策に掲げるようになりました。こういう自治体は「革新自治体」と呼ばれました。

政府が管理介入する体制の行き詰まりと崩壊

これが、70年代から80年代を通じて、みんな行き詰まっていったのです。

ケインズ政策は「スタグフレーション」で行き詰まったと言われています。「スタグフレーション」というのは、「スタグネーション」(停滞)と「インフレーション」(物価上昇)を合わせてできた言葉で、「不況下のインフレ」のことです。普通は不況のときは「デフレ」、つまり物価の下落が起こり、インフレになるのは景気のいいときです。だけどこのときには、不況なのにひどいインフレになったのです。

不況だからというわけで、景気を好くしようとして、「それならケインズ政策だ」と言って政府支出をバンバンやってたら、一向に景気はよくならないのに、インフレばかりひどくなってしまった……というわけで、ケインズ経済学の人気は落っこちてしまいました。

まあ、とは言っても、いまから振り返って当時の日本経済のデータを眺めてみたら、これのどこが「不況」だ! って気になりますけどね。実質成長率で4%とか5%とかが普通、完全失業率は2%前後ですよ。いまは、完全失業率が5%台から4%台になったって言って喜んでいる。いま当時みたいな経済状態になったら、みんなハッピーでハッピーでたまりませんよね。いったい何が不満だったんだか。「南京大虐殺はなかった」とか言う人がいるくらいですから、「スタグフレーションはなかった」とか言いたくなる。こっちの方がよっぽど信憑性があります。

ともかく当時はこれでも大変と思っていたんですね。そのうえ、革新自治体は住民福祉サービスの手を広げているうちに、どんどん財政赤字が膨らんでいっちゃった。本家本元の北欧福祉国家も、財政赤字が膨らんでいきました。インフレもひどくなっていって、福祉国家はもうオシマイだと言われました。

さらに、ソ連・東欧体制は、70年代、80年代を通じて停滞を強めていきます。食糧や燃料はじめ生活必需品がいつも不足。一般国民は生きていくだけでも苦しいのに、先進資本主義諸国の豊かな暮らしの様子が知れ渡るようになり、人々の不満が高まっていきました。そして、最終的に1989年に東ヨーロッパの国々で人々が共産党独裁を打倒する革命を起こし、91年には共産党保守派のクーデタを市民が粉砕し、ほどなくソ連は崩壊します。

このかん、ソ連型をお手本にしていた多くの発展途上国でも、経済が行き詰まってしまい、マルクス=レーニン主義を看板に掲げる政権がこぞって崩壊したり、看板替えしたりして、国有指令経済をやめました。マルクス=レーニン主義の看板を掲げていなかった政権も、同じようにみんな国有指令経済をやめて、市場経済を導入していきました。

中国では、国有経済や集団農場を守ろうという独裁者の毛沢東が、ちょっとでも市場経済的なことを目指す幹部は許さないと、「文化大革命」と称する大粛清運動を起こして大量の人々を死に追いやったのですが、その結果1970年代には国中が荒廃しきって崩壊寸前までいっちゃいます。そして毛沢東の死後、独裁政党は依然「共産党」と名乗りながらも、1980年前後から大幅に市場経済を導入して、国を建て直していくことになります。

政府が管理介入する体制からの転換は必然

さて、このような一連のことの結果、政府が経済のことに管理介入してくる70年代までのやり方からの脱却の動きが、世界中で起こることになります。私が「誤解」と言ったのは、この動きを「小さな政府へ」と解釈したことについてなのです。

国家介入体制が、いろいろなバージョンはあるけど、みんなこぞって行き詰まって、何か転換しなければならなかった、これは経済学的にきっちり説明できる、ちゃんとした理由があることです。昔の社会主義者風に言えば、「鉄をも貫く物質的必然法則」(笑)です。

この転換の正体はなんだったのか。これをこの連載でお話ししたいと思っているのですが、とりあえず何と呼んでおきましょうか。以前、講演や論文では「脱70年代転換」と呼びましたが、ちょっとこなれてませんね。十年以上前に私が碓井敏正さんや大西広さんたちと書いた本(*1)では、「自由主義的転換」と呼びました。もっとも、当時の段階では、この転換の正体を正確に把握していたわけではなかったですが。

(*1)碓井敏正、大西広編『ポスト戦後体制への政治経済学』大月書店、2001年。

まあこの呼び方でもいいのですけど、とりあえずいまは、ネタバレにならないように、正体は謎のまま「転換X」とでもしておきましょう。「小さな政府」路線を推進する側の人たちは、「転換X=小さな政府」と誤解して「小さな政府」こそ歴史の進む道と思ったのですが、それに反対する側の人たちも同じく「転換X=小さな政府」と誤解して、こちらは「転換X」自体に反対してしまったわけです。

国家介入時代の「資本vs労働」の政策対立

こんなことを言うと古くさく聞こえるかもしれませんが、資本主義経済であるかぎり、おおぜいの人を雇って働かせて、機械や工場などをどんどん大きくしていく立場の人と、自分で食べていくための財産が何もなくて、人に雇われて働かされて生きていくほかない人との間の本質的な利害対立は決してなくなることはありません。前者は「資本側」、後者は「労働者側」と呼ばれます。

賃金をケチって従業員の安全コストやなんかを削れば削るほど、利潤がもうかって事業を拡大できます。社会全体で見れば、労働者たちの手にする消費財を作るための人手の配分を減らせば、機械や工場の拡大分を生産するために、たくさんの人手をかけることができます。その配分の仕方がスムーズにちょうどいいものになる保証はなにもありません。景気の良いときや悪いときを繰り返す中で、資本側と労働者側がお互い全力で引き合いを続けることで、長い目でならして見て、その時代時代のバランスが実現されるわけです。

70年代までの政府介入的な経済システムでは、その上に、政府の介入を自分たちの側に有利なものにしようという、資本側と労働者側の争いがありました。アメリカでは軍需産業の資本家がとっても大きな力を持っていましたから、たくさん軍事支出をしてもらおうと圧力をかけていました。日本の場合は、公共事業でもうけたいと、いろいろな業界団体の資本家が圧力をかけていました。

それに対して、西ヨーロッパや北ヨーロッパでは、労働者たちが労働組合に結集して、社会民主主義政党をバックアップして、しばしば選挙に勝って政権につけたりして、政府支出を福祉にまわすように力をかけました。日本では労働組合がバックアップした社会党は結局万年野党第一党で、政権はとれませんでしたが、国会で予算などを話し合うときに交渉して、福祉などへの政府支出をなんとか不十分ながら確保してきました。

まあそれぞれの国で、国家介入の振り向け先をめぐって、それなりの力を尽くした労資の引き合いがあって、それなりのバランスを実現していたわけです。

「転換X」に則した政策路線を打ち出せていない労働側

このような体制が崩れて、「転換X」が起きたとしても、資本側と労働者側の対立がなくなるわけではありません。「転換X」後の社会にふさわしいようなやり方が、資本側には資本側で、自分たちに有利な経営方式や政策があるように、労働者側にも自分たちに有利になるような闘い方や政策があるのです。

ところが実際には、最初に「転換X」に多少とものっとってとられた政策路線は、新自由主義しかなかったわけです。圧倒的に資本側に有利なやり方ですよね。労働者側である左翼勢力は、「転換X」にのっとった路線を打ち出したわけではなく、この転換そのものに反対してしまったわけです。

「転換X」自体は、経済やテクノロジーの上でのどうしても必要な事情がもたらしたものですので、これに逆らっていては資本側に勝てるはずがありません。左派的な政治勢力の衰退とか、労働運動の連敗とか、労働組合の組織率の低下とか、そんなみじめな結末になってしまったのは当然なのです。

じゃあ、というわけで、やっぱり世の中の転換はふまえないといけないという反省から、反保守系の政治勢力や既存労働組合リーダーが走ってしまったのが、ブレア・クリントン・日本民主党の路線だったというわけです。そこではやっぱり「転換X=小さな政府」という誤解は変わってなかった。だから、多少マイルドにして、犠牲になる大衆を気にしながら、おずおずとそれを推進するという具合になります。資本側にとっては、「小さな政府」はだいたいは利益になったかもしれませんけど、労働組合側が「小さな政府」と言っちゃったら、自分の首を絞める結果になるのはあたりまえです。

かつて新自由主義路線に対しては、社会党や共産党のような旧来の左派勢力が反発しましたけど、負けてしまって衰退しました。そしてブレア・クリントン・日本民主党の路線に対する反発は、今度は、極右ポピュリストを台頭させています。ヨーロッパでも、極右ポピュリスト政党は、最初は新自由主義者のすごいやつとして出てきたのですが、伸びてくるとたいてい内紛を起こして分裂します。人間関係がらみでゴチャゴチャすることもありますが、だいたいは、市場自由化をピュアに推進しようというものと、国家共同体を守ろうという民族主義的なものに分かれることで落ち着き、後者が伸びていきます。北欧の極右政党は、今日では高度福祉国家の擁護派です(*2)。その福祉を自民族に限ろうという点が、旧左翼と違うだけです。

(*2)宮本太郎「新しい右翼と福祉ショービニズム──反社会的連帯の理由」、 斉藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』第2章、ミネルヴァ書房、2004年。

これもやはり、「転換X」そのものへの反発です。だから、やっぱりこの人たちが成功するはずはないのですが、その決着がつくまでには、ひと波乱もふた波乱もあって、大きな犠牲がでてしまうかもしれません。

「転換X」を見極めることは資本側にとっても重要

こんなことにならないためには、「転換X」の正体をはっきり突き止めなければなりません。

もちろん私自身にとっては、労働者側に立ちたいという立場性を隠すつもりはありませんので、このことはとりわけ重要です。「転換X」にのっとりながら、なおかつ真に労働者側に立つ政策路線が意識的に打ち出されたことはいままでなかったのですから。

しかし別にそんな立場性に立つつもりのない人にとっても、これは大事なことです。新自由主義にしても、「転換X」をばっちりふまえた資本側の政策路線かと言えば、そんなことはまったく言えないからです。やっぱりたくさんの本質的な誤解をしていて、それがいろんな混乱をもたらしてきました。それは資本側にとっても困ったことです。

経済やテクノロジーや暮らしのあり方が新しいものに変わったとき、それにばっちりふさわしい政策路線にやがて変わることが運命づけられているのかというと、そんなことはありません。ズレた政策がとられたからといって、人類滅亡するわけでもありません。ただ、混乱や不要な犠牲が起こるだけです。

新自由主義もブレア・クリントン路線も、いっぱいズレたことがあるのですが、他に「転換X」をふまえた適当な政策路線がなければ、混乱や不要な犠牲をたくさん生み出しながら、延々持続するでしょう。「ハルマゲドン(大破局)の暁に輝く未来が来る」などと夢想しないことです。

だから、「転換X」の正体を見極め、それにもっとフィットした政策路線を打ち出すことは、資本側にとっても労働者側にとっても、混乱や不要な犠牲を少なくする、みんなにとっていいことです。ともに手を取ってこれが実現できたならば、「転換X」後の土俵の上で、すっきりと労資の利害をかけて全力で引き合いすることができます。

しかし資本側が現状の新自由主義路線について、時々矛盾に悩まされるけど、総じてこれでトクしているからいいや、などと満足して、これを「転換X」にもっとフィットしたものに変えようとしないならば、あるいはそれどころか、「転換X」以前のやり方に個別利害を感じて、かえって逆行しようとするならば、そのときには、労働者側だけが「転換X」の正体に則した政策路線を打ち出せば、たとえそれが労働者側の利害にかたよったものであっても、他にもっと「転換X」の正体に合致した対案がない以上は、それが最も人々の暮らしを満足させるものとなり、世界に通用する政策として実現されることになります。

というわけで、これからこの連載で、この「転換X」の正体を探っていくことになります。そのためには、70年代までの政府介入型のシステムが、なぜ行き詰まってしまったのかを解明しなければなりません。そして、それを解決するための要点が何かを把握しなければなりません。

当時これを究明したのが、反ケインズ派の経済学者たちや、ソ連・東欧体制での体制批判派の経済学者たちでした。この人たちの主張が嫌いな読者のみなさんはたくさんいらっしゃると思いますが、この人たちが1970年代までのやり方を批判したときの分析には見るべきものがあります。的を射た分析だったからこそ、言った通りに本当に行き詰まって崩壊したわけですし、その学説がケインズ派などを押しのけて説得力を持って広がったわけです。

そして、いまから見てみると、この人たちの言う通りにしたと言っている新自由主義政策自体、実は、この人たちの旧システム批判の要点がそのままあてはまるという、根本的な矛盾を持っていて、そのことがこのかん様々なひどい問題を引き起こしたのだということがわかります。

次回からこれを見ていきましょう。

(本連載はPHP研究所より書籍化される予定です)

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

第一回:「『小さな政府』という誤解

第二回:「ソ連型システム崩壊から何を汲み取るか──コルナイの理論から

第三回:「ハイエクは何を目指したのか ―― 一般的ルールかさじ加減の判断か

第四回:「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの──フリードマンとルーカスと『予想』

第五回:「ゲーム理論による制度分析と「予想」

第六回:「なぜベーシックインカムは賛否両論を巻き起こすのか――「転換X」にのっとる政策その1

第七回:「ケインズ復権とインフレ目標政策──「転換X」にのっとる政策その2

第八回:「新スウェーデンモデルに見る協同組合と政府──「転換X」にのっとる政策その3

サムネイル「£10 pound notes」Images Money

http://www.flickr.com/photos/59937401@N07/5857993560/

プロフィール

松尾匡経済学

1964年、石川県生まれ。1992年、神戸大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。1992年から久留米大学に奉職。2008年から立命館大学経済学部教授。

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