「獲得による普遍化」という解決──センのアプローチをどう読むか

ここまでのところで、流動的人間関係にふさわしい政治哲学を探求する中から、リバタリアン思想の内部矛盾を解いてそれを徹底することを試みました。

 

その結果、理性や主義主張や制度などが暴走して人間を犠牲にすることを防ぐには、「自由」の主体は第一義的には理性ではなく、あくまで生身の個々人でなければならないということに至りました。

 

すなわち、本能や肉体や感覚を持って具体的な暮らしや労働の現場で生きている「感性的個人」でなければならないということです。しかしこの個々人が、互いに矛盾、対立しあわずに、望む通りに自由が実現できることはどうしたら可能なのでしょうか。

 

そこで前二回はマルクスの解決を見ました。暮らしや労働の現場で生きている「感性的個人」が、理性や主義主張や制度などの、人間の「考え方」による制約を逃れ、それらを自己にとって自由なものにすることを求める立場は、マルクスやエンゲルスが、フォイエルバッハの疎外論から引き継いだ立場でした。

 

しかしフォイエルバッハと違い、マルクスやエンゲルスの場合は、資本主義経済の発展によって世界が「普遍化」されたこと、特に、職業・技能の違いや、男女の違いや、地域・身分・民族などの違いが、みんな剥ぎ取られた単純労働者のプロレタリアートが生み出されたことが、疎外のない自由な社会を作る条件とみなされたのでした。

 

なるほどこの場合なら、人々は互いの仕事や暮らしの事情を実感からわかりあえるでしょう。みんな同質労働で競合しあうので、即時的には、お互い足を引っ張りあって、民族ごとに排除しあったりもすると思いますが、逆に言えば、自分だけ賃金や労働条件が高い境遇にいると、競争に負けて取り替えられてしまう……

 

言い換えれば、他者みんなの境遇が上がらなければ自分の境遇を上げることができないということですので、長期的には企業や職種や地域や民族を超えた団結を形成して労働運動を闘うことが利益になる、ということが誰にでもわかります。

 

そして、そんな運動が積み重なった暁には、資本家階級の生産支配を追い出して、自分たちで納得づくで生産を組織する力量がなるほど誰でも身に付くでしょう。

 

この図式では、労働者はとても自分に正直な人たちだと言えるでしょう。

 

「私」というものは一色に塗りつぶされた単一の主体ではなく、「考える私」と「生身の私」は区別しなければならない。「自由であることの主体」は、究極においては後者の「生身の私」でなければならないというのが、この連載での「積極的自由批判」論をめぐる論考の結論でしたが、その「生身の私」と自分の主観的意識がダイレクトに一致しています。

 

既存の道徳や法秩序や宗教や国家などの「考え方」は、「ヤツら側」のもの。自分のものではない。財産を貯めて商売を起こすことも、出世して支配階級の仲間入りすることも、可能性ゼロでハナから諦めています。

 

だから、ブルジョワ階級の紳士淑女たちのように、他人を蹴落として生き残るために、媒介者たる「モノ」──おカネや地位や権威等々の(実は)観念──の力を追い求めて、「生身の自分」を傷つけてさえも「見栄」に生きるような意識とは無縁です。

 

だからここでは、肉体を備えた生身の実感の側に「私」の自由があり、まるっきりその外側から、「公」的な「考え方」が敵対してくるという「疎外」の図式が、恐ろしくきれいに成り立ちます。そして人間がみな生物学的に同じであるかぎり、自己の感性的利益を透明に見つめた理性でつかない調整はない!

 

超有名な『共産党宣言』は、若きマルクスとエンゲルスの、論壇デビューしたての頃の作品ですが、意識して読めば以上の図式がクッキリと見える文章です。資本による世界の普遍化の描写は、まるで「資本主義礼賛論」にすら見えます。

 

とっても短い文章ですので、未読の方は歴史的古典として一度は読んで下さい。読んだ人も改めて読んでいただければ、拙論への理解を深めていただけると思います。

 

なお、当時の現実の資本主義経済や労働者が、本当にこんなきれいな図式どおりだったかと言えば、もちろんそうではなかったでしょう。マルクスやエンゲルスのその後の知的な歩みは、複雑な現実に合わせて考え方を補正していく苦闘だったのだと思います。

 

しかし、50年、100年単位で見たら、当時のイギリスを中心とした資本主義のあり方が、大雑把に言ってこうした図式で近似できたことは間違いなかったと思います。

 

連載『リスク・責任・決定、そして自由!』

 

 

複雑労働者中心の時代が独占資本家の支配を生んだ

 

問題はその後20世紀に移る頃からです。マルクス経済学の世界では、20世紀に入る頃からの資本主義体制は、「独占資本主義段階」に入ったとされています。

 

これは、主流派経済学で「寡占」などと呼ばれているものにあたります。それぞれの産業が、少数の巨大企業だけに牛耳られてしまい、市場競争が十分に働かない状態が普通になったのです。

 

普通マルクス経済学では、この事態は、マルクスが『資本論』で描いた予言が当たったものとして解釈されています。

 

マルクスは、19世紀の自由競争段階の資本主義のもとで、競争に強いられてますます大規模な機械化が進んでいく様子を見て、このままいくと、比較的小さな企業が競争に負けて次々と脱落していって、ますます少数の企業だけに集中していくだろうと、資本主義経済の発展のゆくえを展望したのです。

 

しかし私は、独占資本主義段階は、単なる19世紀の資本集中傾向の延長線上にできたものではないと思っています。前回も書きましたように、19世紀末に進行した重工業化のせいで、それまでの繊維産業中心の時代のような単純労働者が多い労働構造ではなくて、複雑労働者が中心の労働構造に経済全体が変ったことが重要だと思います。

 

つまり、企業が巨大化して多くの人々が一つの組織的な依存関係の中に組み入れられているのに、そのそれぞれの人たちが、お互いに違ういろいろな熟練の複雑労働者になっているわけです。

 

単純労働じゃありませんから、専門の熟練技能の種類が違うと、お互いのやっている仕事がよくわかりません。だから意思疎通しあって納得づくで組織全体をまわしていくことは難しいです。

 

そうするとどうなりますか。そう、媒介者が君臨するという「疎外」が起こるのでした。すなわち、資本家階級の支配が必然的に生じてしまうわけです。

 

 

互いに責任を確定できない

 

これを、「リスク・決定・責任」で説明すると次の通りです。

 

例えば自動車メーカーが労働者自主管理企業だったとしましょう。デザイナーが新車のデザインを考えたけど、技術者は「こんなデザインじゃ売れない」と思ったとします。

 

思ったけど、自分は専門じゃないから自信はありません。だから、専門の知見で言える技術的に困難なところだけ変えさせたとします。デザイナーは内心不満なのですが、技術的なことはよくわからないので、しぶしぶ受け入れて変えたとします。

 

さていざこれを発売したら、全然売れなかったとしましょう。すると、技術者はもともとのデザインが駄目だったのだと思います。デザイナーは、技術者がもう少し頑張ってくれたらよかったのに変えさせられたせいだと思います。互いに相手のせいだと思うのですが、専門ではないのでその責任を確定できません。

 

仕方がないから損をみんなでシェアするしかありません。お互い、自分が納得していない他人の責任のために犠牲になったと思います。こんなことになると、誰も新しいことに手を出すのに賛成しなくなるでしょう。

 

ところがここで「失敗したら俺が損の責任を負う。誰も犠牲にしない。だから俺の決めたことに従え」と言う人がでたらどうでしょう。みんな喜んでこの人に決定を委ねるのではないでしょうか。

 

この寓話からもわかるように、一つの企業の中で組織的に協業する労働者どうしが、互いに理解不可能な専門の熟練に分かれている時には、失敗したときの損の責任をとれる一部の者が専制支配した方が、新しい試みをいろいろすばやく決断することができて効率的だということになります。(もちろん、現実の経営者が失敗した損には、結局労働者だって巻き込まれてしまうのに、組織が巨大化するにつれて、経営者が実質的に負える責任はますます薄くなってしまうところに、その後のいろいろな問題の根源があるのですが。)

 

独占資本主義が、『資本論』が描いたような単なる資本の集積集中の延長線上でできたものならば、大企業の巨大な協業に結ばれた労働者が、資本家を追い出して自分たちで経済運営することは夢ではなかったと思います。しかし、実際には複雑労働者化のために、独占資本主義段階では、マルクスの将来社会展望は不可能になってしまったのだと思います。

 

 

複雑労働力商品の売り手はシンボルとしての「モノ」に振り回される

 

たしかに、別に労働者が生産の管理権を手にできなくったって、暮らしが豊かになったんならそれでいいじゃないかという声も成り立つでしょう。しかし、ここで一つ、人間の自由を考える際に、重大な問題が発生するのです。

 

資本主義経済のもとでは、労働者は「労働力」という商品を売っているのですが、単純労働者の場合は、この取引はただの見かけの形にすぎません。

 

マルクス経済学の見方によれば、労働者は本当は自分の受け取り分を自分で生産している上、資本家に貢いでやっている存在です。「労働力」なんて、ただ本能のままに食いつないで生き延びさえすれば「再生産」されるのです。

 

しかし、複雑労働者の場合はそうではありません。彼らは「複雑労働力」という商品を生産して売っています。これは、主流派経済学で言う「人的資本」とほぼ同じことです。これは、「この複雑労働力を作ってやろう」と意識的に労働して、生産手段にあたる教材などのコストを費やして、はじめて生産されます。すると、この複雑労働力を作るための教育・研修の労働や学習活動や家事育児労働は、教材などを作るための労働とともに、社会全体の労働依存関係の一環になります。

 

こうして「ヒトとヒトとの依存関係」の一環をなすにもかかわらず、複雑労働力は「商品」として生産されるわけです。

 

つまり、社会全体のニーズについて直接に伝えあうことに基づくのではなく、バラバラな私的な見込みの判断に基づいて生産され、あとから交換することで世の中の役に立ったかどうかがわかるという仕組みです。そうすると、やっぱり媒介者が君臨する疎外が発生することになります。

 

かくして複雑労働者は、生産の場で媒介者としての資本家の君臨に服するばかりではないのです。現役世代と次世代の複雑労働力の生産者たる家族と、そのユーザーたちとの間を媒介する「モノ」──おカネはもちろん、資格、学歴、瀟洒なマイホーム、高価な自家用車、主婦の美貌、パリっとしたスーツやブランドものの腕時計等々の、物のように見えてその正体は観念(シンボル)──が自己目的化して一人歩きし、人々は「生身の自己」を犠牲にしても、これらの「モノ」を膨らませるための奴隷になってしまうわけです。

 

商品生産者であるかぎり、やっぱりブルジョワ階級と同様、自己の売り物の優秀さのシグナルや、商品取引者としての自己の信用のシグナルとなる「モノ」に、自ら振り回される人生を選んでしまうわけです。

 

 

自分の外にあるものにアイデンティティを持つ生き方

 

そういえば、エーリッヒ・フロムの『生きるということ』という本がありますね。私ぐらいまでの世代には、迷える青春時代に人生の手引きを求めて手にした人も多かったと思います。かくいう私も学生時代読んだ口です。

 

その後全然開いておらず今手元にもないのですが、あえて30年近く前の記憶だけでものを言うことをお許しいただくと、学生時代の私が解釈したフロムが問題にしたテーマは、まさに今述べたことにつきると思います。

 

すなわち、「生き方」には、「〜である(to be)」生き方と、「〜を持つ(to have)」生き方の二種類があると言います。そして「〜を持つ」生き方ではなく、「〜である」生き方をしようと訴えている本です。

 

これを浅く解釈してしまうと、「物欲を持つのをやめましょう」というような、お堅い説教のように読んでしまいますが、そうではないと思います。フロムが批判しているのは、いわば、「車を買ってドライブを楽しむこと」ではなくて、「ドライブにもいかずに休日をいつも洗車に費やすために車を持つこと」なのだと思います。

 

「〜を持つ」生き方において所有対象になるのは、正体は物理的な物ではなくて「考え方」です。だから、主義主張のために自分や他人を犠牲にする生き方も、学説のために自分や他人を犠牲にする生き方も、技能のために自分や他人を犠牲にする生き方も、地位や名誉のために自分や他人を犠牲にする生き方も、みんな「〜を持つ」生き方なのだと思います。

 

フロムはこれを複雑労働力のせいと言ったわけではありませんけどね。ともかく生身の自分自身ではなく、自分の外にある物事に、社会関係をつなぐよりどころとしてアイデンティティを持ってしがみついてしまうわけです。

 

もちろん複雑労働者も労働者としての一面を持ちますから、生身の自分自身の暮らしを健康で豊かなものにするために、賃上げや労働時間短縮を求めて連帯して労働運動を闘ってもきました。しかし他方で、バラバラの商品生産者の一面もあって、自分の外の「モノ」のために互いに争ってもきたわけです。

 

 

文化や国家にアイデンティティを持って相互理解できなくなる

 

しかも、商品は商品でも、複雑労働力商品は、売れなかったら在庫に積んで売れるまで待っておくわけにはいきませんし、捨ててしまって需要が回復してから新しく作るわけにもいきません。しかも、単純労働者にとってのお天気のような失業と違って、複雑労働者にとっての失業は過去自らに投下した労働が無駄になることですから深刻です。

 

特に、世界大恐慌後の1930年代の大不況で大量の失業者が出て、この問題があらわになります。このために複雑労働者は国家による保護管理を求め、この時期世界中で、多かれ少なかれ国家が経済や社会のことを上から管理する体制ができあがったのです。

 

それゆえ人々は、社会関係をつなぐ究極のよりどころとして、国家にアイデンティティを持ってしがみつくことになります。

 

かくしてマルクスの美しい図式は成り立たなくなってしまいます。各自は、本能的な「生身の自分」以外にも、システムから強制された別の「自分」を持つことになります。そのどちらにとっての自由を求めるかが矛盾することになります。

 

もはや、理性をサバサバと働かせれば各自の実感する利害が調整できるというわけにはいきません。文化的、民族的なアイデンティティへのこだわりは、違うアイデンティティの者にとっては実感することはできず、合理的な根拠付けもできないのですから。

 

そうなると、媒介者が外から有無を言わせず支配する、この不自由な現存体制を受け入れるしかなくなります。さもなくば、あくまで反体制を貫くならば、またあの例の「二つの道」の相克です。

 

前回も紹介したとおり、私が『新しい左翼入門』で整理してみた「二つの道」。大衆より高いところで理想を抱いて、そうなっていない現実を理想に合わせて変えようとする道と、抑圧される側の現場に身をおいてその大衆実感に依拠する道です。

 

前者は、ロシア革命のリーダーであるレーニンの考え方に典型的です。労働者たちは、あれこれの相異なるアイデンティティにこだわって、労働者全員に共通する普遍的利害が見えなくなってしまっている。だから、理性的な革命的知識人が労働者の外から「正しい」方針を注入してやるという姿勢になります。

 

これ自体が、あれこれ相異なる労働者を媒介するものとして、革命的エリートの組織が外から君臨する「疎外」の図式になってしまいます。そして彼らが権力を握ったあかつきには、罪のない人命が無数に犠牲にされる、旧体制に輪をかけた暴虐が吹き荒れることになるわけです。

 

後者は、少数民族や発展途上国の民族解放運動に典型的ですが、特定の民族文化などのアイデンティティに埋没して、外部に迷惑をかけても無頓着になってしまいがちです。

 

特に、ソ連などのひどい現実に直面してレーニン主義の普遍志向をへたに「反省」した結果、ますますズブズブにできあいの土着の慣習や宗教をありがたがるようになってきた傾向があります。

 

しかしそのことが、しばしば、その中にいる個人個人の「生身の自己」の自由を踏みにじる結果になるわけです。はなはだしくは、レイプの犠牲者の女性を公開石打で殺すとか、思春期の少女を陰核切除するとか、女性を無理矢理拉致して花嫁にする等々ということが正当化されてしまいます。【次ページにつづく】

 

 

 

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