2014.03.02
『乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問──藤井聡先生へのリプライ』への追加コメント
本記事は、飯田泰之(明治大学経政治経済学部准教授・シノドス)と藤井聡氏(内閣参与・京都大学大学院教授)の討論のうち、「三橋貴明の 「新」日本経済新聞」(メールマガジン)に掲載された、藤井氏による飯田への追加コメントを転載したものです。この討論は、飯田泰之が月刊誌『Voice』に寄稿した連載「ニッポン新潮流」に、藤井氏がコメントを同メルマガにお書きになったことから始まりました。藤井氏のコメント、飯田のリプライは下記よりご覧いただけます。また本記事に対する、飯田の再リプライも掲載しましたので、ぜひご覧ください。(シノドス編集部)
藤井聡:「飯田泰之氏のVoice(2014年3月号)への寄稿論説について」
飯田泰之:「乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問――藤井聡先生へのリプライ」
藤井聡:『乗数効果と公共事業の短期的効果への疑問──藤井聡先生へのリプライ』への追加コメント
飯田泰之:財政政策に関する政策的・思想的・理論的課題――藤井聡氏からの再コメントへのリプライ
はじめに
当方の討論
【藤井聡】飯田泰之氏のVoice(2014年3月号)への寄稿論説について
http://www.mitsuhashitakaaki.net/2014/02/18/fujii-76/
に対しまして、ご多用の中、大変丁寧なリプライを頂戴いたしました飯田先生に、改めまして心から御礼を申し上げたいと存じます。
飯田氏のリプライを拝読し、さらに当方が差し上げましたいくつかの討論上の論点がさらに明確化して参ったものと思います。
とりわけ、建設業の供給制約の問題、およびそれに基づく所謂「クラウディングアウト」の問題や、それを解消するためには「長期計画」を策定し、それをマーケットに提示する必要がある、という点などについては、当方も大いに同意する論点であります。
(なお、飯田氏がご提起になった、建設業の供給制約問題は、筆者としては、飯田氏がご主張になった長期計画等によるコミットメントの方略に加えて、建設発注額の単価を、「適正化」していくことが極めて重要であると考えます。単価が安過ぎる場合、建設業者の投資はどうしても進まず、供給力が増進しないからですが、このあたりについては、また別の機会に改めて論じたいと思います)
あわせて、「財政政策の効果の低下については、中立命題、マンデル・フレミング効果などさまざまな仮説が提示されてきましたが、これらが現在の日本経済に強く作用しているとは考えづらい状況です」というご指摘も、当方としても強く同意する論点であります。
とりわけ、こうした「中立命題」「マンデル・フレミング効果」等、経済学を少しでも学んだ者ならば(筆者も含めて)誰もが理解、場合によっては「知悉」しているような論理である一方、一般の方々はなかなか存じ上げない様な知見を、半ば振りかざすようにしつつ、「中立命題や、マンデル・フレミング効果がある以上、財政政策の効果は限定的だ」と主張するエコノミストや評論家、はては(飯田氏とも様々な形でお仕事をご一緒されている様な)世界的に有名な経済学者達が後を絶たない状況の中で、飯田氏のこうした誠実なご主張は、誠に有り難く感ずる次第であります。こうした飯田氏の勇気あるご発言とも言いうるご発言に、心から敬意を評したいと存じます。
しかしながら、飯田氏がこの度ご解説頂いた建設業の供給制約問題についての議論は、当方からの討論で提起致した論点と、必ずしも直接的に関連するとは言い難い側面もございますので、飯田氏から頂戴いたしましたリプライから改めて浮かび上がりました(飯田氏のご議論で準拠しておられる)経済学的における本質的課題について、当方から改めて再コメントを差し上げたいと存じます。
そしてその上で、読者の皆様方に、「誠実・真摯かつ理性的」なご判断を委ねたいと存じます。
民間と政府の合理性についての論点
まず、当方が申し上げた討論について、飯田氏がどの様に回答されたのかを、確認いたしたいと存じます。
『藤井:第一に、そもそもGDP統計は経済規模を測る統計数値です。民間の活動と政府の活動の合計が国民経済の規模でありますので、何が「泣き所」なのか計りかねます。民間経済規模だけ測りたいなら、国民所得(NI)を用いればよろしいかと思います』
この点について、筆者の誤解でなければ、飯田氏は、「家計や民間企業が事前に価値がないと思っているものに支出すると言うことはない」という前提に立ち、かつ、マーケットメカニズムの中で無駄な投資を繰り返している民間企業は市場から退出する(倒産する)ため、基本的に市場には、無駄な投資をする企業は存在しない、という「考え」を「表明」され、かつ、その「考え」が、現代経済学で共有されている教科書的な大前提であるということを「説明」しておられます。
一方で、政府は、(無駄ではない投資をすることも当然あり得るが)マーケットメカニズムが働かないために無駄な投資を続けることができるという「仮説」を「暗示」しておられます。
この飯田氏のご回答は(重ねて筆者の誤解でなければ)要するに、飯田氏が二つの仮説を前提としておられることを示唆しています。
(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う。
(仮説2)政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う。
しかし、まさに、当方が討論で申し上げたいのは、こうした「考え」や「仮説」が
「現実と乖離している疑義が濃厚である」
という一点であります。
そして、この当方の指摘は、上記の第一の当論点のみならず、以下の様に、第二、第三、第四、第五の、合計5つの討論点全てに共通する指摘です。
『藤井 第二に、それはさておくとしても、この主張は「政府の投資は無駄」である事が多いと言うことを暗に前提にしておられるようですが、…(略)』
(⇒これは、上記飯田氏の「仮説2」(政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であります)
『藤井 第三に、製鉄会社や造船会社等が、自社のために道路を引き、それを一般に供用するという例は、全国でしばしば見られます。この場合、できあがる道路は、利用者にしてみれば政府がつくる道路と差異がありません……(中略)……。この点を踏まえるなら、政府の道路投資をGDPに計上することだけが不合理であるかのように論ずることこそが、不合理であるという結論を受け入れざるを得なくなるのではないかと思われます』
(⇒これは論理的には、上記飯田氏の「仮説1」(民間企業は基本的に、合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であると解説することができます)
『第四に、この飯田氏の主張では(原稿全体を通して)、民間の消費・投資については言及しておられないのですが、このことは、民間の消費・投資には無駄は無いという事を前提しておられることを暗示しています……(略)』
(⇒これは文字通り、上記飯田氏の「仮説1」(民間企業は基本的に、合理的な投資を行う。民間企業は、合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であります)
『藤井 第五に、上記の様な議論を経ずとも、以下の仮想ケースを一つ想像するだけで、政府支出だけを取り出して、「統計の泣き所」と指摘する態度は、正当化しずらくなるように思います。すなわち、「どこかの物好きの金持ちが、穴を掘って埋める事業を見たいからといって、それを建設業者に頼んだ」という場合です』
(⇒これは上記飯田氏の「仮説1」(民間企業は基本的に、合理的な投資を行う)が非現実的ではないでしょうか、という指摘であります)
つまり、当方は要するに、上の第一から第五を指摘することを通して、
(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う。
(仮説2)政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う。
という、飯田氏が言うところの、『一般的な経済学のテキスト』が陰に陽に前提としている2仮説が、現実と乖離しているのではないか、そして、そういう誤った仮説に基づいて検討した「経済政策」を、雑誌という公器において主張することは、国益を毀損する可能性を増進させるのではないでしょうか、という趣旨の「討論」を飯田氏にさせていただいた次第であります。
そして飯田氏は、この点については、飯田氏の書籍『飯田のミクロ』(光文社)をはじめとした、『一般的な経済学のテキスト』が、この二仮説が正しいと論じ、かつ、その仮説に基づいて理論体系を構築してあります、という事実をご説明いただいた次第であります。
実を言いますとこの論点は、心理学、とりわけ昨今のノーベル経済学者の業績で言いますとダニエル・カーネマンやハーバート・サイモン等の、社会心理学、認知心理学研究に基づく経済学批判の中で、何十年という長い間繰り返し論じられてきた論点であります。
そして、少なくとも、「実証科学的」な視点から言うならば、(筆者の学者人生を賭して断定しても構いませんが)「(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う」という仮説は成立しない、と断定申し上げてもよろしいのではないかと主観的に感じております。
そのあたりは、当方の2000年代前半の頃の下記の研究論文(Fujii, Kitamura, Suda, 2004; Fujii& Garling 2003; 藤井,2001,2010)を中心にご参照頂ければと思いますが、要するに、人間の主観的な価値・満足度にせよ選好(効用)にせよ、意思決定、選択、判断にせよは、僅かな要素(情報の提示のされ方や、その時の気分、提示の順番等)に極めて甚大な影響を受けるのであり、かつ、その僅かな要素は短期的に目まぐるしく変化するものである以上、そうした選好や選択等もまた短期的に目まぐるしく変化し得る、ということが科学的に明らかにされているのであります(例えば、需要側供給側双方のあらゆる側面で流行は目まぐるしく変化します)。
これらの研究から暗示されるのは、「(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う」という仮説が真であるとは考えがたい、という論理的帰結です。
とはいえ、飯田氏が主張しておられるように(あるいは、現在主流となっている一般的な経済理論がおおよそ前提としているように)、帰結の観点から不合理な企業(つまり、たとえば、儲けられない企業)は、自由なマーケットが存在していれば退出(つまり倒産)することが期待されます。その結果、「儲けられる合理的な企業」だけがマーケットの中で生き残り、その結果、やはりマーケットに残っている企業は「合理的な投資を行う企業」だけとなっていく、ということは「理論的な可能性」としてはあり得ることになります。
これが飯田氏、あるいは、一般的な主流派経済理論の基本的な主張であると考えられますが、残念ながら、その「理論的な可能性」が現実のものとなる「可能性」は、「極めて低い」と、理性的な論者であるなら言わねばならないのではないかと考えられます。
なぜなら、「マーケットからの退出」プロセスは、「選好や行動、あるいは、流行がめまぐるしく変化していくプロセス」に比べて遙かに「緩やか」にしか進行しないので、その時々の非合理的な企業を目まぐるしく退出させていく事は、現実的に不可能であると言わざるを得ないからです。
(このあたりの指摘は、ケインズが、美人投票の比喩で論じようとしたものと同様だと言うこともできます)
したがって、(無駄な投資をするような法人が退出をして)「市場価格が主観的な価値とおおむね一致する」という飯田氏が主張されるような事態は、心理学上の科学的知見に基づくなら、論理的に到底受け入れがたい主張であるということとなるのであります。
逆に、飯田氏がおっしゃる「主観価値」は長期的な合理性を反映出来ぬものであることは、行動心理学で何十年も繰り返し証明され続けた命題でもあり、かつ、社会的文脈でも繰り返し証明され続けている命題でもあります(詳細は、例えば心理学のテキストであります藤井(2003)や、動物行動理論の数理モデルを描写した竹村・藤井(2005)をご参照ください)。
そして、マーケットによる退出プロセスは、短期的な主観的合理性(例えば流行を追いかけるだけの合理性)よりは「長期的合理性」(いわば、「神」に近い合理性)の方が実質的により強い影響があることは論理的に明白であると考えられる以上、この点からも「市場価格が主観的な価値とおおむね一致する」という事態が生ずるとは、やはり考え難いわけであります。
いずれにしても、「心理学」を中心とした「行動科学」「認知科学」に基づくと、飯田氏が主張している「(仮説1)民間企業は基本的に、合理的な投資を行う」という仮説は、理性的な論者であるなら到底受け入れがたいものであることが一目瞭然のものとなるのでは無いかと、筆者には思われます。
(なお、これは全ての企業が非合理的であると主張したり、マーケットは合理性の確保において全く無意味である、という強い主張をしているわけでは無い点、ご了解願います。筆者はただ、「常に民間企業は合理的だ」と考える事は不可能であろうし、おおむね基本的に合理的だと信ずることも極めて厳しいのではないか、と言うことを主張しているに過ぎません)
その一方で、政治的決定に基づく国土計画、都市計画はいずれも、短期的、狭域的合理性を達成しようとするものではなく、長期的広域的合理性を保障しようとするものです。
その具体的詳細は、同じく当方の公共選択の社会科学についてのテキスト(藤井、2008)を参照頂きたいと思います。無論、当方が、このテキストで記載した通りに常に政府が動いているという事を断定している訳ではありませんが、過去のインフラ投資が各国の経済成長に多大なる影響を及ぼしている事は、当該テキストにも論じた通り明白であると考えられる訳です。
そして、合理性は短期的なものよりも長期的な合理性がより、我々の人生、社会にとって重要な意味を持つことは明白でありますから(明白でないとお考えの場合は、当方の社会的ジレンマ、公共心理学のテキストであります藤井(2003)をご参照下さい)…。
仮に、政府において市場の退出メカニズムが働かないと暗示する飯田氏の指摘が真であることを鑑みましても、「(仮説2)政府は基本的に、民間企業よりも非合理的な投資を行う」という仮説を、飯田氏のように自明の前提のようにして議論を展開することは、理性的な態度とは乖離している疑義が見受けられるように、少なくとも筆者には思われる次第であります。
ただし、以上はあくまでも筆者の議論にしか過ぎませんので、上記の様な参考文献の提示した上で、後は、読者の皆様方の誠実な理性を信じ、これ以上の議論については、ここでは差し控えたいと思います。
「フロー効果」と「所得移転効果」は、経済学的に全く別である
さて、筆者は先の討論の第六番目の論点として、次の様な論点を指摘致しておりました。
『第六に、仮に、飯田氏が言うような「無駄な投資」があったケースを考えてみましょう。その時、その投資が「景況感に何の足しにもならない」という事態が生ずる可能性は、極めて低いものと考えられます。なぜなら、仮にその投資でできあがった「ストック」が何の価値も生み出さないものであったとしても、そのストックを作りあげる過程で、受注業者が「受注」をしているとするなら、それは、法人の所得になり、ひいては、世帯の所得になる、という「フロー」が存在することは否定しがたいからです。一般に、そうしたフローによる景気浮揚効果は「フロー効果」と呼ばれます。そして、ストックがもたらす景気浮揚効果は「ストック効果」と言われますが、これらの言葉を使うと、「仮にストック効果がゼロの投資」でもあっても、「フロー効果が生ずる」という事態が生じないとは、到底考えられないのです。つまり、飯田氏の言うように「景況感に何の足しにもならない」と断定する事は、論理的には不可能なのではないかと、筆者には思えてならないわけであります』
この点について、飯田氏はやはり、「分配の問題を無視すると「1兆円増税して1兆円の給付金を支給した」ならば経済効果はゼロ(乗数は0である)と考えられます」と論じておられます。
当方の「フロー効果」についての論点は、まさに、この飯田氏のご主張に疑義を申し上げた次第です。
今一度繰り返しますが、公共投資には、フロー効果とストック効果の双方が存在します。この概念を用いるなら、飯田氏が語っておられる「B.10億円分の自宅警備事業(または穴を掘って埋める工事)を発注した」という事業は、「ストック効果がゼロの公共投資」と言うことが出来ます。飯田氏は、これを「C.定額給付金10億円を支給した」とことと、「実質的に(BとCでは)同じ事が行われている」と断定しておられますが、これは当方としては、残念ながら同意できないご主張です。
以下、その理由をお話いたしたいと思います。
まず、「C.定額給付金10億円を支給した」場合は、直接的には、その給付先が世帯であれ、企業であれ、所得が増えるという効果「のみ」が存在します(その所得を使うかどうか、とうい事はここでは問わないことにしておきましょう。ちなみに、それが使えば乗数効果が生ずることになりますが、それについてもここでは不問に付す事にしましょう)。
ところが、「B.10億円分の自宅警備事業(または穴を掘って埋める工事)を発注した」場合、そこで建設業者が「労働」をしておりますし、その穴を掘るための「重機」を使用していることになります。その重機が「レンタル」であるなら、その業者は、重機レンタルマーケットから、重機レンタルサービスを購入しています。
これは文字通り、民間の経済活動です。その重機の輸送を、建設業者が輸送業者に委託すれば、これもまた「輸送サービスの購入」という民間経済活動になります。さらには、労働者は「通勤」をしており、その通勤時には、その労働者は「バスサービス」「鉄道サービス」をバス・鉄道マーケットから購入しています。これは文字通りの民間の経済活動であります。
ここで重要なのは、上述の例で登場する建設業者も重機レンタル業者もバス・鉄道事業者も建設労働者も皆、仮に彼等の個人・法人の所得を一切使わずにタンスにしまったとしても、これだけの民間経済活動を誘発することになる、という点です。これが、筆者の言う「フロー効果」(の一部)です。
(なぜ一部かというと、この事業を経て得た所得を「使う」ことがあれば、一般的に言われる「乗数効果」が生ずることになるからです)(なお、飯田氏がおっしゃる乗数効果という言葉の定義と、当方がここで言及している乗数効果という言葉の定義とは共通で無い可能性が考えられますが、本稿の超長文化を避けるために、その点についてはここでは不問に付す事にしたいと思います)。
(ちなみに、こういう分析は一般に「産業連関分析」と呼ばれるもので、当方の様な公共政策の経済分析を行う人間にとっては、極めて一般的な分析アプローチであります)。
それにも関わらず、飯田氏は、「実質的にBとCでは同じ事」と断定しておられるのですが、なぜ、そのような断定ができるのでしょうか?
ひょっとしますと、我々は「無駄なモノ=ストック効果がゼロのモノが作られた場合、それが作られる際に投入された全ての付加価値はゼロである」という強い仮定を引き受けなければならないのでしょうか?
あるいは、JR山手線に乗っている人々を、無駄なものに従事している人々と、そうでない人々に分類し、後者の移動サービスだけが「価値」あるものであり、後者の移動サービスは「無価値である」という強い仮説を我々は引き受けなければならないのでしょうか?
さらにあるいは、仮に、受注した仕事が最終的には「無駄になる」とうい事が確定していたとしても、取引先から「来てくれ」と言われたら、やはり、その受注業者は、「目的地に行きたい」という(飯田氏がおっしゃる)主観的価値を形成する以上、その受注業者にJR山手線が提供する移動サービスは「価値がゼロ」であるとは言い難いのではないか、という論理を、我々は棄却しなければならないのでしょうか……?
筆者は、(B=Cであるという等式を成立させるために、論理必然的に求められるであろう)こういった強い諸仮説を全て引き受ける事を「回避」することが、理性的なのではないかと考えます。そしてその上で、(最終的な帰結はどうなろうと) 電車に乗りたいと考える人がいれば、彼に電車移動サービスを提供すれば、そこには経済価値があると考えることが、極めて自然な考え方ではないかと思います。
したがって、筆者は、やはりB=Cである、という飯田氏の主張は、受け入れがたい……と言う主観的認知を形成している次第であります。
ただしいずれにしても、(もしもここまで当方の討論にお付き合いいただいた読者の方々がもしもおられましたら)このご判断は、読者の皆様方にお任せいたしたいと思います。
ただ、読者の皆様方に是非お願いいたしたいのは、この
B.10億円分の自宅警備事業(または穴を掘って埋める工事)を発注した
C.定額給付金10億円を支給した
という両者において、B=Cか否か、という議論は、アベノミクスを成功させる上で、極めて重大な帰結をもたらす議論なのだ、という一点だけは、忘れないでいただきたい、という点であります。
もしも「B=Cである」と信ずる政策担当者αと、「Bの方がCよりも遙かに効果がある」と信ずる政策担当者βがいたとすれば、担当者αよりも担当者βの方が遙かに、財政出動=第二の矢を重視した経済政策を展開することとなるのは、論理的に必然だからです。
言うまでも無く、筆者は客観的な真理を常に断定できる神のような立場ではございません。したがって、筆者は筆者の主観を断定的に論じたに過ぎませんが、この筆者の討論をご覧になった方は、「B=Cである」と信ずる政策担当者αと、「Bの方がCよりも遙かに効果がある」と信ずる政策担当者βのいずれが理性的であるのかを、是非とも、「誠実・真摯かつ理性的」にご判断頂ければ幸いに存じます。
終わりに
以上、上記(2)(3)の議論を踏まえますと、飯田氏のリプライを頂戴した上でもなお、当方の先週の「討論」で申し上げました結論であります、
A)政府だけが無駄な投資をしているかのように論ずることは正当化し難いし、
B)民間が無駄な投資をしていないかのように論ずることも正当化し難いし、
C)「無駄な投資」が仮に(官民問わず)存在したとしても、それによって景況感には何の足しにもならないと論ずる事は正当化し難い、
という三点の当方の主張は何ら論駁されるものでも、修正されるものでもない、と申し上げねばならないと筆者は感じております。
そして、このA)、B)、C)の三点の主張を受け入れる論者は、残念ながら飯田氏の主張を総体として受け入れることはできないとお感じになるのではないかと、やはり感ずる次第であります。
(なお言うまでもないと存じますが、フロー効果のみの事業を筆者は主張しているのでは決して無く、フロー効果とストック効果の双方が豊富に存在する事業こそを政府は進めるべきであると筆者は考えており、そして、フロー効果の出現の仕方は供給量制約に影響を受けるであろうという点に反論している訳では決して無い、という点は、誤解を避けるために、改めてここに付記しておきたいと思います)
無論、繰り返しますが、飯田氏の主張全てに対して疑義を申し上げているのではなく、大いに同意する箇所が存在するという一点については、重ねて申し上げたいと存じますが、少なくともここに上げましたA)、B)、C)の三つの論点に同意されるか否かにつきましては、読者の皆様方の誠実・真摯かつ理性的なご判断を期待いたしたいと思います。
重ねて繰り返しとなり恐縮でありますが、飯田氏の論説を基調としつつA)、B)、C)という筆者の主張に「同意しない」論者は、A)、B)、C)という筆者の主張に「同意する論者」よりも、公共投資をデフレ脱却においてより軽視する立場をおとりになることは論理的に自明であります。従いまして、やはりこの飯田氏との討論は、適切なデフレ脱却対策のあり方を論ずる上で、重要な討論となるものと考えてございます。
ついては当方の討論に対して大変に懇切丁寧にご対応頂きました飯田氏に、改めて心からの感謝を申し上げつつ、筆者からの再コメントを終えたいと思います。
飯田先生、また、ここまでお付き合い頂きました読者の皆様方、誠に、ありがとうございました。
追伸1
メルマガとしては異例の超長文エントリになりました点については、ご容赦願えますと大変にありがたく存じます。
追伸2:
上記討論を両論ご覧になった上で、当方と飯田氏のいずれの主張が誠実・真摯かつ理性的に考えて適当であるか、等を含めまして、多様なコメント頂戴出来ますと幸いです!
【参考文献】
Fujii, S. Kitamura, and R., Suda, H (2004) Contingent Valuation Method for Procedural Justice, Journal of Economic Psychology 25 (6), pp 877-889.
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0167487003001211
Fujii, S. and Garling, T. (2003) Application of attitude theory for improved predictive accuracy of stated preference methods in travel demand analysis, Transport Research A: Policy & Practice, 37 (4), pp 389-402.
http://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0965856402000320
藤井聡(2003)社会的ジレンマの 処方箋:都市・交通・環境問題の心理学,ナカニシヤ出版.
藤井聡(2008)土木計画学―公共選択の社会科学,学芸出版社
藤井聡(2001)土木計画のための 社会的行動理論-態度追従型計画から態度変容型計画へ-,土木学会論文集,No. 688,/IV-53, pp. 19-35.
藤井聡(2010)「選好形成」について~ハイデガーの現象学的存在論に基づく考察~、感性工学、感性工学 9(4), 217-225.
竹村和久・藤井聡:一般対応法則と意思決定論,理論心理学研究,7 (1), pp. 40-44, 2005.
※上記文献の詳細は、下記の当方のホームページでもご検索頂けます.
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/member/fujii
プロフィール
藤井聡
1968年生。京都大学大学院教授、京都大学レジリエンス研究ユニット長、ならびに安倍内閣内閣官房参与(防災減災ニューディール担当)。京都大学卒業後、同大学助教授、東京工業大学教授等を経て現職。専門は公共政策論および実践的人文社会科学研究.日本行動計量学会林知己夫賞、日本学術振興会賞等受賞、文部科学大臣表彰等受賞多数。著書「大衆社会の処方箋~実学としての社会哲学」(北樹出版)、「プラグマティズムの作法」(技術評論社)、「社会的ジレンマの処方箋~都市・交通・環境問題のための心理学」(ナカニシヤ出版)、「列島強靭化論」(文春新書)、「土木計画学―公共選択の社会科学」(学芸出版社)など多数。