2012.03.05

大学生は多過ぎるのか、大学に行く価値はないのか?

畠山勝太 比較教育行財政 / 国際教育開発

教育 #教育政策#人的資本#スクリーニング仮説#収益率分析

近年、日本を含めた先進諸国で、大学生の数が多過ぎるのではないか、という議論が盛んに行われている。たとえば、アメリカでは学費の高騰に加えて、奨学金枠を縮小して教育ローン枠へと転換させようという流れも相まって、教育ローンを返済できないことによる自己破産が社会問題化し、大学生の数が多過ぎるのではないかという議論が盛んに行われるようになった。一方日本でも、提案型政策仕分けをはじめ、メディアでも大学生は多過ぎるのではないかという議論が取り上げられている。提案型政策仕分けでこの議論が取り上げた背景には、18歳人口の減少、財政赤字拡大に伴う公教育投資へのプレッシャー、大学生の学力低下、のおもに3点があげられている(http://sasshin.go.jp/shiwake/detail/2011-11-21.html#A2)。

しかし、日本で行われているこの議論はすべて誤りを犯している。その理由として、第一に、教育は経済発展のための人的資本投資であること、経済発展とともにより高度な教育を受けた労働力が必要となり、高度な教育を受けた人材が経済発展を推し進めることを無視している。18歳人口が減少しているから大学生の数も減らせば良いという考え方は、失われた20年と形容され経済が発展しなかった近年の日本では皮肉にも妥当性をもってしまうのかもしれないが、経済発展することを放棄しているのも同然であり、近年目覚ましい経済発展を遂げている国々がいかに人的資本投資を重要視しているか学ぶ必要がある。第二に、教育の量の拡大期には、それまでその教育段階に行けなかった低学力または低所得者層出身の学生が流入するので、平均が落ちてしまうのは仕方がないことがある。これを問題視して教育の量の拡大を止めてしまっては、いつまでたっても教育開発は進まない。

US NewsNY Timesの記事の中で、アイビーリーグで教鞭を執られている教育経済学者の先生方も主張しているが、ある教育段階が過剰であるかどうかは、「教育を受けるために支払ったコストに対して、教育を受けたことから得られるベネフィットがどれぐらいあるのか」を計算したものである「教育の収益率」からしか判断することはできない。つまり、大学教育を受けさせるために支払ったコストが、大学教育を受けさせたことで得るベネフィットに見合うか否かでしか、大学生の数が過剰かどうか、大学に行く価値があるのかどうかを判断できない。このことについて本稿では検討していこうと思う。

人的資本論・スクリーニング仮説から見る教育の私的・社会的収益率の考え方

大学生の数が多過ぎるか否かは、大学教育を受けさせるために支払ったコストが、大学教育を受けたことにより生じるベネフィットを上回るか否かでしか判断できないと言ったが、教育のコストとベネフィットがどのようなものであるかは、人的資本論とスクリーニング仮説の二つの見方が存在する。

人的資本論とは、アダム・スミスの時代から議論されてきた考え方で、教育を「人的資本を蓄積するための手段」として捉えている。つまり、ある個人に教育を施すことによって、その個人の生産性が上昇し(人的資本が蓄積され)、その個人の所得が上昇する。そして個々人の所得の上昇によって国のGDPが上昇し(経済成長が起こる)、ひいては経済発展をもたらすという考え方である。この考え方の下では、高卒と大卒の賃金差は、大学教育によってもたらされる初期の人的資本の差異や学習可能性(learnability)の差異によってもたらされることになると考えられている。

人的資本論の考え方の下では、教育のコストは、直接費用、間接費用(放棄所得)、政府支出に分類される。直接費用はおもに学費で、間接費用は教育を受けずに働いていた場合に得られたであろう賃金(放棄所得)である。教育を受けようが働こうが衣食住にはお金がかかるものなので、教育を受けている間の生活費等はコストとしては計算されない。政府支出の代表格は大学教育においては私学助成金であろうが、政府が出す奨学金や無利子教育ローン(*1)の有利子との差額も、政府が出す補助金に含まれる。

(*1)本稿では返済の必要がないものを奨学金、返済の必要があるものを教育ローンと呼ぶ。市場金利よりも低い金利や無利子で貸し出される教育ローンには、その分だけ奨学金の要素があるので、教育ローンに関してこの点も明確に区別して言及する。

教育のベネフィットは、私的なものと社会的なものの二つに分類することができる。ある教育レベルの私的な教育のベネフィットは、おもにその教育段階を受けた当事者と、その前段階の教育しか受けていない労働者の税引き後の賃金差であると考えられている。つまり、大学教育の私的なベネフィットは、大卒労働者と高卒労働者の税引き後の生涯収入の差である。一方、ある教育レベルの社会的なベネフィットは、私的なベネフィットに、その教育段階を受けた当事者が納めた税金の額と、その前段階の教育しか受けていない労働者が納めた税金の額の差が加わったものであると考えられている。つまり、大学教育の社会的なベネフィットは、大学教育の私的なベネフィットに、大卒労働者と高卒労働者の納税額の差を加えたものである。

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しかし、教育の私的ベネフィット・社会的ベネフィットは賃金差、納税額の差ように、直接金銭で表すことができるものに留まることはない。直接金銭で表すことができない教育のベネフィットとして実証されているものには、次のようなものがあげられる。同じ資金制約の下であってもより最適な消費行動を選択できるようになる能力・健康管理能力の差がもたらす医療費の差、犯罪関与率の減少による直接的/間接的コストの減少、より効果的な民主主義の実施・生活保護/失業手当などの政府支出の削減、である。

人的資本論の考え方の下では、教育に対する政府への介入が重要になる。第一に、個人が教育投資を行う際、社会的ベネフィットは当然ながら考慮されずに判断が行われる。ゆえに、教育投資を完全に家計に任せてしまうと、社会的なベネフィットの分だけ、社会全体で行われる教育投資が社会的に望ましい水準よりも過小投資になってしまう。第二に、教育投資のベネフィットは、その後40年以上にわたって回収される長期的なものであるが、現時点での資金制約によって、教育投資が行えないケースが存在する。これも教育投資を社会的に望ましい水準よりも過小な状態に留めてしまう。

第三に、とくに親の学歴が低い場合、子が親の受けていない教育段階のベネフィットを理解することが難しい。とくに教育開発が急激に進む段階で顕著に発生するが、これも社会的に望ましい水準よりも過小な教育投資の要因となる。将来、失業手当・生活保護を受け取る可能性が高い子どもを、教育によって所得税を納められるように押し上げる、という具体例が分かりやすいかと思われるが、教育のベネフィットは低学力層の子どもで大きいことが近年確認されつつある。つまり、人的資本論の考え方の下では、低学力層、教育投資に当たって資金制約に直面する層、親の学歴が低い層、にとくに政府が介入することが求められる。

一方、スクリーニング仮説は、1970年にバーグが出版した本を皮切りにノーベル経済学賞受賞者のスペンスらによって洗練されてきた考え方で、人的資本論とは異なる視点から教育のコストとベネフィットを考えている。スクリーニング仮説は、教育を「人材選抜を行い、情報の非対称性が存在する労働市場においてその人物の能力のシグナルとなる卒業証書を付与するもの」として捉えている。つまり、生産性の高い人材ほど高い学歴・学校歴を獲得できるという選抜(スクリーニング)が教育システムによって行われるため、労働市場において雇用者と被雇用者の間に存在している被雇用者の能力に関する情報の非対称性に対して、学歴・学校歴が被雇用者の能力のシグナルとして機能する、という考え方である。

教育のコストに関して、スクリーニング仮説は人的資本論とまったく同じ考え方をする。しかし、スクリーニング仮説の考え方の下では、教育は人的資本を増加させることなくただスクリーニングを行い、教育を受けた個人にシグナリングを付与するだけのものなので、社会的なベネフィットはほとんど無い。

話はやや脇道にそれるが、なぜ教育そのものが社会に対してベネフィットをもたらすわけではないのに、スクリーニング仮説の考え方の下でも教育に対して需要が発生するのかを具体例を用いて説明する。スクリーニング仮説の下では、自分の生産性に関するより正確なシグナルを得ることによって、労働市場でより高い賃金を得ることを目的に、人々は教育に対してコストを費やす。

分かりやすくするために、人の生産性を数値化した、きわめて単純な事例を考えてみる。54の生産性を持つが、得た学歴・学校歴のシグナルが50-55とやや幅をもったAという人物がいるとする。このとき、雇用者が50-55の平均である52.5をAの能力であるとして賃金を支払ってしまうのであれば、Aは真の自分の生産性よりも低い賃金しか受け取れなくなってしまう。この賃金が低くなってしまう分だけ、Aにはより自分の能力を正確に反映できる学歴・学校歴を取得するために、教育にコストを費やすインセンティブが発生する。このような作用によって、スクリーニング仮説の考え方の下でも、教育そのものが生産性を向上させるわけでもないのに、人々は教育にコストを費やすこととなる。

スクリーニング仮説の考え方の下では、政府の教育に対する介入はほとんど正当化されない。人々に教育を施してもGDPが上昇するわけではなく、教育はただ企業の人材選抜コストを縮小させる働きしか持たないので、人的資本論の考え方と比較して、つまり、スクリーニング仮説の考え方の下では、教育に費やされるコストはほとんど経済発展を生み出さない浪費となるので、政府は教育に介入する必要はない。

しかし、スクリーニング仮説はその実証の難しさも相まって、人的資本論と比べて査読付きのアカデミックジャーナルで実証されたものはきわめて少ないうえに、アメリカで使用されている教育経済学の教科書でも数ページしか扱われず、Handbook of the Economics of Educationに至っては取り扱ってすらいない。たしかに日本の大学教育の成果を考える際にも、現実は人的資本論とスクリーニング仮説が折衷していると考えるのが妥当ではある。しかし、現在の日本では教育サービスが無償ではないために、スクリーニングが本人の能力だけではなく家計の資本制約によっても起こってしまっており、スクリーニング仮説の影響力は人的資本論よりも限定的であると考えられる。このため、本稿でも比較的人的資本論に立脚した議論を進めてゆくこととする。

日本の大学教育のコスト

では、日本の大学教育の平均的な収益率はどの程度であるのだろうか?税率に関するデータが不明瞭なため、本稿では私的収益率と社会的収益率の和である総収益率を考え、大学教育のコスト・大学教育のベネフィットをそれぞれ分析し、収益率分析を試みることとする。

まず、平均的なコストであるが、前述のように直接費用・間接費用・政府補助金に分類することができる。直接費用は学費であるが、こちらは文部科学省が行っている私立大学・国立大学それぞれの授業料・入学料に関する調査のデータを活用する。まず私立大学の平均的なコストから分析すると、2010年のデータで初年度納付金が約132万円、1年間の学費が約86万円、4年間の合計学費が約390万円となっている。次に国立大学の平均的なコストは、初年度納付金が約82万円、1年間の学費が約54万円、4年間の学費の合計が約243万円となっている。そして、日本の大学生の73.6%が私立大学に通い、残りの26.4%が国公立大学に通っているので、大学生が4年間で支払う直接費用の平均は、約350万円となる。

次に間接費用となる放棄所得がどれぐらいになるのか、厚生労働省の賃金構造基本統計調査のデータを使って算出する。大学に通うことによって生じる放棄所得は、実際には数多くの大学生がアルバイトをしているためこれよりも小さくなることが考えられるが、平均的な高卒者が高校卒業後の4年間で得る賃金と同額だと考えることとする。平均的な高卒男性労働者の1年目の平均月給は約16.7万円で、年間にボーナスとして平均で約0.9万円受け取る。また、4年目には平均月給は約19.1万円となり、ボーナスとして年間約57.4万円受け取る。

この結果、失業率も加味した高卒男性労働者が高校卒業後4年間で得られる期待賃金は、総額で約878万円となる。一方、平均的な高卒女性労働者の1年目の平均月給は約15.7万円、ボーナスは約0.4万円で、4年目には平均月給は約17.3万円、ボーナスは約44.8万円となる。結果、高卒女性労働者が卒業後4年間で得られる期待賃金は、総額で約797万円となっている。つまり、大学教育の間接費用は男性で約878万円、女性で約797万円となっている。

この直接費用と間接費用の合計額である1228万円(男性)と1147万円(女性)が、大学に通うために家計が負担するコストとなる。社会全体での負担額には、さらにこれに政府補助金が加わる。政府が大学生一人当たりにどれぐらいのコストを費やしているのかは、国際連合教育文化機関統計研究所(UNESCO-UIS)で公開されている、Public expenditure per student, tertiary (% of GDP per capita)(一人当たりGDPに対する大学生一人当たりへの公財政支出額割合)のデータに、一人当たりGDPをかけることで、政府が大学生一人当たりにかけているコストを求めることができる。2008年のデータでは、日本の一人当たりGDPに対する大学生一人当たりへの公財政支出額割合は約20.9%となっている。また、この年の日本の一人当たりGDPは約406万円であった。つまり、政府は大学生一人当たりに約85万円のコストを負担していることとなる。以上をまとめると、日本全体で大卒男性を1人生み出すために費やすコストは約1313万円で、大卒女性のそれは約1232万円となっている。

日本の大学教育のベネフィット


それでは大学教育が生み出すベネフィットは如何ほどのものになるのだろうか。厚生労働省の賃金構造基本統計調査のデータをもとに男性のケースを分析していく。平均的な大卒男性の新卒平年間給与額は約251万円であるのに対し、同年齢の平均的な高卒男性は約295万円稼ぎ、大卒同年齢よりも約44万円多く稼いでいる。しかし、平均的な大卒男性・高卒男性の賃金は、大卒3年目・高卒7年目の24歳の時に逆転する。24歳時の大卒男性平均給与は約328万円であるのに対し、高卒男性平均給与は約317万円となり、大卒男性の方が約11万円給与が高くなる。

男性の高卒・大卒の給与差はこの後、年々拡大していき、その差は30歳時で約75万円、35歳時に約98万円、40歳時には約181万円に達し、この後は約200万円程度の年収差が定年時まで継続される。この結果、先にも述べたが、大卒男性が4年間学んでいる間に平均的な高卒男性は約878万円稼ぎ、24歳時点では高卒男性は大卒男性よりも総額で約1062万円多く稼いできたにもかかわらず、仮に62歳まで働いた場合、失業率を加味した高卒・大卒の生涯収入差は約4472万円に達する。女性の賃金データについても同様の傾向が見られ、23歳時までに高卒女性は大卒女性よりも約928万円多く稼いでいるのだが、失業率も加味した生涯収入差を見ると、大卒女性労働者の方が高卒女性労働者よりも約6142万円多くなる。

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高卒・大卒の収入差には目を見張るものがあるが、失業率についても同様のことが言える。総務省統計局が公表している労働力調査(詳細集計)を活用してこの点を分析する。現在、先進国・途上国問わず若年労働者(15-24歳)の失業が大きな社会的な問題となっている。日本もこの例外ではなく、若年層の失業率は全体の失業率よりも2倍以上高くなっている。これはとくに高卒層で顕著となっており、大卒若年層の失業率が8.2%なのに対し、高卒若年層の失業率は13.1%と大きな差がついている。若年層を脱出しても、同様の傾向は続く。25-34歳、35-44歳、45-54歳、55歳以降での高卒労働者の失業率がそれぞれ7.8%、5.8%、4.7%、4.6%であるのに対し、大卒労働者のそれは4.8%、2.4%、2.4%、3.8%と一貫して大卒労働者の失業率は高卒労働者よりも低い。この傾向は、数値は違えど男女別に分けてもまったく同じで、合計では高卒労働者の失業率が5.9%であるのに対し、大卒労働者のそれは3.6%となっている。

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大学教育の総収益率


以上の分析から、日本では大卒男性を生み出すのに1313万円、大卒女性を生み出すのに1232万円のコストを支払っていることが分かる。そして、大卒男性は4472万円、大卒女性は6142万円のベネフィットを生み出している。割引現在価値法(*2)を用いた大学教育の収益率は男性で6.2%、女性で7.8%となっている。女性の教育収益率が男性の教育収益率よりも高くなるのは世界的にも確認されている傾向で、今回は含めなかったが子どもの教育・健康状況の改善が見込まれる他、教育を受ける際の間接費用が男性と比べて少ないこと、女性で教育を受けた人材は男性と比べて少ないため希少価値が高くベネフィットも大きくなりやすいこと、などが影響していると考えられているが、日本でも同じことが言えるためこのような結果になったと考えられる。

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(*2)

この分析の妥当性について、算出方法の観点から補足しておく。今回算出してみた教育の費用対効果分析は様々な要因を除外した荒いものである。たとえば、収益率を下げる要因として考えられる、定年前に死亡してしまうことや、そもそも労働市場にでてこないといったことを除外しているし、収益率を上げる要因としては、大学生活中のアルバイトによる放棄所得の軽減を考慮に入れていないし、生活保護費や失業手当といった公的扶助も除外している。さらに、今回用いた手法は比較的広く使われているものではあるが、賃金構造がそれほど変化しないという強い仮定を置いている。しかし、7%前後という大学教育の収益率は、他の経済協力開発機構(OECD)加盟国での分析結果や、日本でのこれまでの分析結果と近い数字であり、概観を示す役割は果たしているものと考えられる。

結論


結論として、大学進学におけるコストとベネフィットを比較した場合、少なくとも収益率が国全体で見てネガティブでない以上、日本に大学生が多過ぎる、大学に行く価値はないと結論づけるのは誤りであることが分かる。男性の6.2%、女性の7.8%という大学教育の収益率は市場金利よりも高いことから、むしろ日本の大学生の数は過小気味であると考える方が妥当である。

しかし、この結果をもってして、日本全体でみるともっと大学教育に投資すべきと断言することは難しいし、大学に行く価値があると断言することも難しい。前者については、日本の高度経済成長を支えた東海道新幹線や東名高速道路の建築のように、もし大学教育に投資する以上に日本にとって高い収益性を持つプロジェクトがあるのであれば、そちらへの投資が優先されるべきである。

また、後者についても、今回算出した大学教育の収益率はあくまでも平均値であり、しかも教育は人的資本への投資であることから、当然投資にまつわるリスクも発生する。この結果、人によっては大学教育の収益率がネガティブに出てしまう人もいると考えられる。さらに、高卒であっても大卒以上に多く稼げるのであれば、大学に行く金銭的な価値はない。ただ、今回用いたようなデータを示さないまま、自身の経験・主観だけにもとづき大学に行く価値はないと学生に向けて語るのは、その助言にしたがった学生の人生に対して責任を取れない以上、慎まれるべき行為であると考える。

上記のように大学教育にもっと投資すべきと断言することは難しいものの、わたしは日本ではもっと大学教育に投資されるべきだと考えるし、大学に行く価値は依然として高いと考える。経済発展という視点から考えると、厳密に推計した大学教育の収益率が市場金利と同じになるまで大学教育は拡大すべきだし、失われた20年が示唆するように、高度経済成長期と異なりもう日本にとって高い収益性を持つプロジェクトはあまりないと考えられる。

今回の論点とは外れるためまた別の機会に詳しく論じようと思うが、できない学生を大学に行かせるのは無駄という主張も見られるが、これまでのこの分野の研究結果を見ると、できる学生を伸ばすよりもできない学生を教育で何とかする方が、ベネフィットが大きいことから、この主張は誤りである。さらに、すでに日本の高等教育就学率は世界的に見て高いものでもなく、高等教育への政府支出も世界的に見て多いとはいえない。加えて、高卒程度のブルーカラーワークの途上国への流出が加速する中、現状のように国民の半数を高卒のままにしておくのは、いずれ国家の危機的状況を招くのではないかと危惧する。

(本記事は筆者個人の見解であり、所属機関を代表するものでも、所属機関と関連するものでもありません。また、立場上謝金は受け取っておりません。)

プロフィール

畠山勝太比較教育行財政 / 国際教育開発

NPO法人サルタック理事・国連児童基金(ユニセフ)マラウイ事務所Education Specialist (Education Management Information System)。東京大学教育学部卒業後、神戸大学国際協力研究科へ進学(経済学修士)。イエメン教育省などでインターンをした後、在学中にワシントンDCへ渡り世界銀行本部で教育統計やジェンダー制度政策分析等の業務に従事する。4年間の勤務後ユニセフへ移り、ジンバブエ事務所、本部(NY)を経て現職。また、NPO法人サルタックの共同創設者・理事として、ネパールの姉妹団体の子供たちの学習サポートと貧困層の母親を対象とした識字・職業訓練プログラムの支援を行っている。ミシガン州立大学教育政策・教育経済学コース博士課程へ進学予定(2017.9-)。1985年岐阜県生まれ。

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