2015.09.03

東日本大震災、仮設住宅に移るまでに起きたこと

佐藤一男 防災士

社会 #東日本大震災#仮設住宅#震災復興

はじめに

前回の投稿「東日本大震災、体育館避難所で起きたこと」では、震災から4年以上が過ぎているにもかかわらず想像をはるかに超える反響をいただきました。

「自分も考えます」「家族と話してみます」というコメントが多く、防災や減災に取り組んでくれる人が多い、思ったほど風化していないと感じることができ嬉しく思っています。防災の基本は家庭教育だと思っています。備える・身を守る・避難する・二次災害を防ぐ。これは、学校で短期間に学ぶよりも家庭で子どもや孫に繰り返し「刷り込む」ように教えることが効果的だと思います。

一言で「防災」といえども、災害の種類によっても対策が異なります。地震のように現在の科学では詳細な予測が不可能なものから、台風・豪雨・豪雪のようにある程度予想可能なもの。津波や噴火や豪雨など、逃げることが有効なもの。深夜の豪雨や豪雪のように逃げることに危険を伴うもの。すべての災害に有効な手段はないとも言えます。

万が一に備えて、多くの情報を手に入れてほしいと思います。私のように過去の災害時の様子や対応を発信している人や、専門家の方も多くいますので、地震だけではなく、他の災害についても、ぜひ探して読んでみてください。

今回も米崎小学校の体育館避難所で起きたことを紹介します。前回は主に災害発生から避難所前半を中心に書きましたが、今回は避難後にどのようなトラブルがあったのか。また、避難所から仮設住宅に移るまでのことを書きたいと思います。今後の避難所運営マニュアル策定の参考や各家庭で防災や減災を話し合うきっかけしていただければと思います。
ただし、ここに記すことは避難所運営の一例であり、最善の策ではないこと、ここの避難所では起きなかったトラブルもあるということを心に留めて置いてください。また、ここに記すことは、私個人が思いついたことではなく、運営役員を担ってくださった皆さんが感じ、考え、自分に相談してくださった結果だということも記しておきます。

どのように生活環境を確保したのか

<マットやゴザをしきつめた>

米崎小学校の体育館は中学校の体育館に比べて一回り狭いサイズです。バレーのコートを二面並べてラインが引いてありますが、サーブする場所に立つと手が壁にぶつかるくらいと言うとイメージできるでしょうか。3月12日には、フロアスペースに300人以上が泊まりました。

米崎小学校は避難所の設定がされていなかったので備蓄倉庫はありませんでした。ですが、住まいを流され学校に寝泊りしていた副校長に相談にのっていただき、学校の備品をお借りしました。加えて、初日に避難していた中学校の柔道用の畳や体操用マット、ダルマストーブなども小学校に運び使わせていただきました。

体操のマットや敬老会などの地域行事に使うための長いゴザも敷物に使い、狭いながらもほとんどの人が床に直接寝ることなく過ごせました。5、6年生が太鼓を叩いているため、太鼓保管と運搬用に20枚くらいの毛布も用意されていて寝る時や防寒に使いました。

電気を使わないタイプの灯油ストーブが小学校にもあり、灯油の備蓄も18リットルポリタンクで3~4本あったと思います。しかし、天井の高い体育館では熱は上に逃げてしまい、室内を暖めることはできません。それでも凍えた指を暖めることはできます。ヤカンや金属のタライに水をいれて乗せることにより乾燥防止と調理用のお湯の準備にもなりました。
雨風をしのげる場所はできましたが、電気なし、電波なし、情報なし、帰る家などもちろんありません。当初は、ここで何日過ごすか、いつ支援が来るのかも定かではありません。横になると余震への恐怖とこれからの不安で気持ちがいっぱいになり、すすり泣きがあちらこちらから聞こえてきました。

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<土足生活から土足禁止へ>

東日本大震災の時のマグニチュード9,0と最大震度7は皆さんの記憶にしっかりと刻まれていると思います。

しかし、それ以外にも震度5を超える余震は短期間に何度も襲いました。米小避難所で恐ろしかったのは何度も襲う余震により体育館が揺れることを中にいながら見ていたことでした。体育館が倒壊するのではないか、体育館の上のほうにある大きな窓が割れて頭の上から降ってくるのではないかという恐怖感とも戦っていました。

そのため、ガラスが降ってきても、いつでもどの出入り口からでも避難できるように体育館内をみな、土足で生活していました。

しかし、寝たり食事をとったりする空間に土ぼこりが舞う生活は体に良くありません。看護師さんの知識を生かし、喉の防塵と寒さ対策を兼ねて支援物資で届いたマスクをして寝ることにしましたが、マスクをして寝たことがない人には苦痛のようでした。2~3日もすると、ほとんどの人はマスクをせずに寝ていました。

震災から一週間目には余震も少なくなったので、10日目に体育館内を土足禁止にしました。あわせて、各世帯の並びを変えて、地域ごとに区画を作ってお互いに健康管理に目を配ってもらうように配置換えをしました。

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<医療>

治療と健康管理を目的に日本赤十字チームや岩手県の医療チームが定期的に回ってきてくださいました。

しかし震災直後は電波もなく救急車を呼ぶことができません。その対応として(どちらの計らいか分かりませんが)大船渡市の自動車専用道路から岩手県立大船渡病院に降りる救急車進入専用道路を開放していただき、被災者の車を通していただき対応しました。

この対応は、すべての避難所に連絡が届いていたようで、避難所ごとに登録された車両の前面に緊急車両と書いた紙を貼り、急病人の際に通らせていただきました。特に、透析を必要とする人が米小避難所にも数人いたため、救急ルートを通していただけることが、とても助かりました。

<調理場>

米小避難所では当初、近くの保育園の調理室で食事の用意をしていました。小学校の調理場は校舎の壁がひび割れていたため、ガスの安全性に問題があったからです。しかし、4月と同時に保育園の再開予定が立ち、4月10日までに保育園を空けてくださいと連絡が来ました。つまり調理場を使えないことになったのです。

修理された小学校の調理場を使わせてもらおうかとも思いましたが、小学校も再開するでしょう。また、小学校の調理場は体育館から一番遠い所にあり、運搬の際に校舎を汚す可能性もありますので、別の方法を考えることにしました。

そこで、サッカーゴールを基礎にして津波で流れ着いた木材と支援で届いたシートを使い調理場を作ることにしました。役員の自宅の裏に保管してあったイベント用の長い流し台を運び込み、自作の調理場ができました。

4月11日に微弱ですが携帯の電波が届き出しました。そのタイミングで、自分が過去に務めていた会社(山形県米沢市)の社長から電話があり、大型の鍋を使える五徳とまな板数枚と包丁と大き目の鍋を送っていただきました。大人数の調理に非常に助かりました。

<防犯活動>

震災から半月ほどはガソリンも軽油も灯油も手に入りません。被災し流された車はいたるところにあり、その車の燃料タンクがこじ開けられ燃料を抜かれた車は数多くありました。それほど燃料に窮していました。災害時ですので、それが犯罪に当たるかどうか私には分かりません。小学校に駐車している車からガソリンが抜かれたこともあります。

こんな例もありました。

消防団が捜索活動をしていると、ドラム缶が瓦礫の中から半分見えています。漁業の町では、船舶の燃料をドラム缶にストックしているので、それが流れ着いていたのです。中身は軽油で、所有者の名前も書いてあります。それを所有者から許可をいただき、避難所の入り口近くに置きました。被災した道路を片付けている土建業者さんに渡したり、避難者のディーゼル車用にも入れたりと活用していました。

しかし、避難所の入り口近くに置いたそのドラム缶から軽油を抜かれました。声をかけてくれれば譲る物を内緒で持っていく。悲しい現実です。犯人が誰かはわかりません。怖いのは、軽油やガソリンを素人が内緒で扱うことです。火災の危険もあります。

そこで、米小避難所では毎晩、体育館周辺から駐車場や学校の校舎までを巡回しました。全員で当番を決めることも考えましたが、当番を決めることにより防犯の情報が外に漏れることを心配した役員の声もあり、私と声掛けした友人たちとの少人数で行いました。

避難所にいる人には毎晩巡回していることは知らせていましたが、巡回時間は知らせず、不定期な時間での活動でした。その後、燃料の盗難はなくなりましたが、4月中旬までは毎晩巡回していました。

運営役員決定

消防団の先輩に命じられて、運営役員を引き受けることになりました。そこで、すべてを一人で抱えない方法を考えました。

受付、あいさつと御礼、物資の管理と配布、避難所運営の決定と周知、食事の調理と配膳と食器洗い、生活環境の改善、看護、会計など、避難生活をやっていく上では、様々な役割があります。自分ひとりではできない事はわかっていました。

運営役員を他にも頼まないといけませんが、大変な仕事になるでしょうし、断られてしまうかもしれません。

幸運だったのは、祭りの際に音頭をとっていた人が多くいたことです。祭りの運営に関わっていると、地域の人とつながりを作ることができます。

隣の祭りの組でも運営に携わった人とは知り合いとなり、性格・職業・得意分野を知ることができます。祭りの際に音頭を執れる人はここでも頼ることができる。避難所で必要な役割は祭りでも必要な役割です。

選んだ役員候補に「運営役員になってください」と声をかけると、一瞬考えますが全員「わかった」と言ってくれました。そうして会長以下10人の役員を選任し、私は総務担当になりました。全体の不安を考えると、役員の選任は早いほうが良いのかもしれません。

被災者も運営役員だけが動いていたわけではありません。大工さんや看護師さんのように専門の知識を持つ人はその分野を優先に担当していただきましたが、他にも支援物資の搬入や整理、調理や配膳、食器洗い、生活改善とやるべきことはたくさんあります。

自分と家族の物をボランティアさんに運ばせるわけにもいきませんので、皆で力を出し合い、できることは各自でしてもらいました。

また、生活する中でゴミが出ます。毎朝、風が吹く前にそのゴミを焼却していましたが、数人で済む量ですが、10人以上が焼却作業に行きます。(田舎なので野焼きができました)それくらい「自分も何かしなくては」という意識を皆が持っていてくれました。

毎日迷うことが発生するなか、私が運営しながら心がけたことは二つです。

一つ目は、解決を明日にしていても問題は増えるばかり。明日の最善より今の次善と考え即断し、すぐ動く。ただし、疲れきっている避難者は無理に動かさない。ということ。

二つ目は、被災者全員のことを抱えるには自分には能力が足りませんので、「せめて、わが子が安心して居ることができる避難所にしよう」と頭に置き、選択に迷った時は、わが子の顔を頭に浮かべて決断しました。

物資の問題

<物資と宛先>

震災から半月くらいは宅配便の配達も機能していませんでした。配達が始まっても家を流された人がどこの避難所にいるのか把握できません。発送してから避難所に荷物が届くまでに一週間くらい必要でした。

よって、保存食以外の食べ物を入れてもらった場合は、期限が切れていたりカビが生えていたりした物もありました。(食品は賞味期限が切れていても食べました)

また、どこに避難所があるかの情報がほとんど発信されていなかったので、いろんなあて先の物がありました。「米崎町の避難所様」「小学校避難所様」「体育館避難所様」は米小避難所に届けられました。運送担当者さんも「これも受取ってください」という受け取りをしました。今考えると、支援の偏りになっていたのではと反省しています。

しかし、陸前高田市は市役所も被災し、公的建物のほとんども被災しました。受け取っても分別し配布することは困難だったと思います。陸前高田市は日本の今回の震災なかでも酷い被災状況だったと思います。この状況を想定した支援物資の配分方法の確立も必要と思います。

<物資をいただく中で考えたこと>

震災直後から多くの物資を届けていただきました。宅配便が機能するのに半月ほど時間がかかったため、ほとんどの物資は支援者の車で届けてもらいました。

毛布やタオルや衣類は嵩張りますが、必ずと言っていいほど積んできてもらいました。食料や水、中には地元の畑から野菜をもらってきたという人もいました。他にも非常食、カップラーメン、など長期戦を想定した物が多かったことをありがたく思います。

中には、水道の止まった中での集団生活は水の確保が大変でしょうからと白色の20リットルポリタンクを10個以上持ってきてくださった人がいます。灯油用タンク(赤)と一目で区別が付き、安心して使えました。

便利に使えたのは固いヨリのロープでした。サバイバルキャンプを趣味としている方が、7ミリ×200m、9ミリ×200m、12ミリ×100mと複数の種類のロープを持ってきてくださりました。一緒にスコップや、ロープを切れるハサミもあり助かりました。

また、防災について考えさせられる物資もありました。

個人からの支援物資として非常持ち出し袋が10袋以上届いたのですが、大半が水も簡易食料も期限が切れている。電灯にいたっては液漏れで使えない物でした。これでは、送ってくださった人が万が一被災していた場合にも役にたたなかった事が想像できます。製造年を見ると平成7年と16年がほとんどでした。つまり阪神淡路大震災と新潟県中越地震の年に購入した物です。

防災や減災への取り組みは、事が起きた時に多く取り組まれ、それで満足してしまう。一過性の流行になっているのではないでしょうか。東日本大震災をきっかけに、非常持ち出し袋を準備した方は多いでしょう。最低でも年に一度は中身の確認をして欲しいと思います。

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避難所の受付

避難所の受付にはさまざまな人が来ます。人を探しに来た人。支援物資を持ってきてくださった人。慰問活動に来た人。メディア。受付では、まず用件を聞き、それぞれの担当につないでいきます。

<人探し>

避難所で一番多いのは人探しです。行方不明の親族を探しに来ます。出会えた時の感動は言葉では言い表せません。抱き合い背中を叩きあいながら涙で会話になりません。

やっとしぼり出した声で「生きてた~、良かった~」と。本当に全員が生死の境を越えて、半信半疑で探した結果の再会ですから。避難所の受付では2ヶ月間ずっと、感動の再会が繰り返されました。

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<支援物資>

物資を持ってきてくださった場合には会長に挨拶の対応をしてもらいながら物資を受け取る担当につなぎます。衣類やタオルなどの生活用品からポリタンクや燃料、食料品などさまざまなので受け取る担当もさまざまです。

担当が来るまでの間には、避難所が解体された時にあいさつ文を送らせてもらうためにご芳名と住所などを書いてもらいます。辞退された方が多く、ご挨拶を送れずにいることを心苦しく思います。

震災当初はご芳名をいただくことを失念していました。慌ただしかったのもありますが、自分たちが避難所を抜け出せるイメージが湧かなかったからです。体育館の隣に仮設住宅が建設され始まったのを見て初めて次の生活をイメージできました。

一ヶ月ほど経つと、不思議な現象がおきだします。

「毛布などを持って来たのですが、お邪魔でしょうか」と言葉にする支援者さんが多くなりました。わざわざ支援に来てくださった人が、なぜこんなに低姿勢なのか疑問で聞いてみると、いくつかの避難所で断られてきたとの事。一ヶ月も経つと、公民館などの小さな避難所では置き場所がなくなりお断りしているようでした。

米崎小では、支援物資をまずは受け取ります。有用な物を皆に分けてから、余った場合は他の避難所に運んで必要な物を受け取ってもらいました。衣類などは、サイズが合わずに着ることができない物も、他の避難所に行けば背の高い人や細い人がいれば役に立つからです。

<慰問活動>

歌やパフォーマンスの披露に来てくださった場合には、内容を確認することから始まります。テレビでよく見る著名な方も何度かお越しいただきました。

暗い避難所を明るくすることは良いことだと思いますが、空きスペースに限りがありますので全ての活動をしてもらうことはできませんでした。

「小学校の避難所」ということで、広いフロアを想像してきた人も一人や二人ではありません。実際には、被災者が寝る場所になっていて、まとまったスペースはほとんどありません。

また、シンセサイザーなどを持ち込んでの活動の申し出もありましたが、安定電源が使えるようになったのが4月10日ですので、それ以前はお断りせざるを得ませんでした。

<メディア>

様々なメディアが避難所の様子を取材しに来ました。私は「この報道はいつまで続くか分からない」と思っていました。阪神淡路大震災の時は、2ヵ月後に地下鉄サリン事件が発生し、震災のことが伝えられなくなったことを記憶していました。

自分たちも「いつ忘れ去られるかも分からない」という気持ちがあり、積極的に取材を受けていました。しかし、一ヶ月もしないうちに避難所の皆から「疲れた」といわれました。カメラが来ていたのでは寝ころがってもいられない。化粧もできない、髪も整えられない、カメラを向けられたらストレスになる……。

避難している人の生活が最優先なのにそれに気づけなかったことを反省しました。それ以降、取材は避難所の外で受けることにしました。

メディアについて

<毎日届けられた地元新聞>

米小避難所には電気も電波もありませんでしたが、地元地方紙の東海新報が毎日届きました。

毎日掲載される生存者と避難場所と名前、そして死亡が確認された多数のお名前、各地の被災状況や臨時医療施設の開設情報、そして福島の原発事故も東海新報の記事で知ることができました。

市役所の職員同様、東海新報の職員と関係者も同じ被災者なのに毎日広範囲の情報を届けていただくこと、今でも頭が下がる思いです。

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<シナリオありきのメディアも>

地方紙だけではなく、震災の3日後には多くのメディアが訪れました。テレビには、生存の知らせに取り組んでもらいました。

各自が言葉で伝えていては時間がかかり、伝えられる人数に限りがあるということで、画用紙に生存や行方不明の情報を書き込むように言われ、それを胸の前に掲げて階段に並んでカメラでゆっくりと写してもらいました。後から聞くと知人もそれを見て私と家族の生存を知ったとのことでした。

「自分たちは、いつ忘れ去られるんだろう」という不安をよそにその後も多くのメディアが訪れてくださいました。

しかし、中にはシナリオありきで取材をするメディアもいます。

4月初旬のこと、菅元総理が避難所を訪れてくださりました。その時、被災地取材をしている人とは違うリポーターが来ました。リポーターは「総理が今頃来て、遅いと思いませんか」と私達に聞きました。まさに、「遅い」という言葉以外いらないという問いかけです。

その誘いには乗らず「阪神淡路の震災の時には2ヶ月でニュースに乗らなくなった。来てもらえるだけでありがたい」と私は答えましたが、その言葉が使われることはありませんでした。

私は元総理と言葉を交わしていなかったにも関わらず、菅元総理に私が問題提起をしたような記事さえ書かれたことを後から知りました。

運営ボランティア

震災から1週間後には、陸前高田市社会福祉協議会とボランティアによる「陸前高田市社会福祉協議会災害ボランティアセンター」が立ち上がって、避難所運営を手伝うボランティアさんも派遣していただきました。

それまで自分たちで受け入れ、運び込み、整理し配布していた作業を代わりにしてもらえる。とても助かりました。

しかし、それも一週間を過ぎる頃から徐々に問題が出てきました。

毎日入れ替わるボランティアさん。中には元気すぎるボランティアさんもいます。避難所の人の多くは疲れ切っています。「さあ、今日は何をしますか? 指示をください! 始めましょう!」とテンションの高い声を上げられると、「今日は結構ですから、休ませてください」と言いたくなる日もあります。

また、受付を担当してもらっても、衣類・食材・医療の話はそれぞれ誰につないだらよいか避難所の担当の顔と名前を覚えるまでに時間がかかり、覚えた頃にはボランティアさんが変わるということの繰り返しで、結局すべて私の所に話しが来てしまいました。

その後、災害ボランティアセンターに連絡して「一週間以上の長期ボランティアさんをお願いします」と連絡し一ヶ月以上滞在する予定のボランティアさんを派遣してもらい問題が解決しました。

そのボランティアさんのうちの一人は、仮設住宅の運営にも手伝ってもらい、その後に私が「桜ライン311」という団体を立ち上げる時にも事務局長として一緒に活動してもらいました。長期に活動していただけたことと同時に自分たちの気持ちとタイミングを第一に考えてくださったからこそ多くの活動にご一緒していただけました。

また、もう一人は、この記事に写真を提供してくださった人です。当時、避難所内はさまざまな出来事を受け入れることができない人がたくさんいました。自分もその中の一人です。自分には、そんな状態にカメラを向けることができませんでした。しかし、今になるとこの写真は貴重な記録です。写真を撮っていてくれたボランティアさんに感謝します。

あくまでも今回は長期間一緒に生活したからこそ被災者に理解され撮れたものです。今後の万が一の際に避難所に押しかけて「記録は大切」との言葉を盾にして避難している人の心情を省みずにカメラを向けることは避けてください。この点は強調して記させていただきます。

SNSでの発信

震災から一ヶ月目の4月11日、微弱ですがauの電波が届きました。なんとか情報を発信したいと思っていましたが、電話で発信できる情報量は限られています。
mixi、Facebook、Twitterと思い浮かびましたが、比較的パケット使用量が少なかったTwitterを選びました。この段階では、フォロワーがいなければ発信しても届かないことを知りませんでした。知識不足ながらも、つぶやき(@kajyuon)は始まりました。

ツイッターではこんなことも起きました。4月12日の昼に米崎町内で住宅火災が発生。消防団が出動しても、水道が復旧していなかったので消火栓が使えない。遠くの川から水を引くことにしたが、震災で屯所を失った消防団は予備のホースがなく鎮火に時間がかかった。そのことを「支援として消化ホースが欲しい」とつぶやいたのです。

被災地の情報を検索していた人が多数いたようで見つけてもらい、リツイートと非公式リツイートで拡散してもらいました。

まもなく神奈川からホースが届き、続いて各地からホースが送られてきました。結果的にその騒ぎの効果で、登録から半月でフォロワーが300人を超えたと記憶しています。

災害時のような電波が通じにくくなる状況では、文字数制限がありパケット使用量の少ないtwitterを選んで正解だったと思います。ただし、ツイッターアカウントはフォロワーがいないと役に立たない可能性が大ですから災害発生前に作っておく必要があるでしょう。

避難所内の不協和音――仮設住宅に移るまで

<仮設住宅の建設開始>

避難生活も一ヶ月近い4月初旬だったと思います。「グラウンドに停めてある車を別の場所に移動して欲しい」と連絡が来ました。米小体育館の目の前のグラウンドに仮設住宅を建設する工事が始まるとの事でした。

翌日には多数の工事車両が入ってきました。小学校のグラウンドを整地しなおす作業が始まりました。体育館から見ていると、みるみるうちに大量の杭が打ち込まれ、あっという間に建物の形が出来上がりました。この間一週間程度だったと思います。

体育館の中は落ち着きません。仮設住宅ができる。入居が始まる。みんな当選を祈ります。

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<米小仮設住宅当選者通知>

4月中旬、米小避難所内に設置してある電話が鳴りました。避難所に住む1人に仮設住宅の当選の連絡でした。

「4月○日までに入居の意思決定をしてください。4月27日に入居者説明会があるので、参加してください。」との内容でした。

陸前高田では、仮設住宅入居に当たり入居希望場所アンケートをとっていました。○○仮設住宅希望、○○町内の仮設住宅希望、どこでも良い、の選択肢でした。もちろん、入居希望が多ければ抽選です。

米小のグラウンドに建つ仮設住宅は市内で二番目に建設が始まりました。つまり、米小仮設住宅に入居できなければ、次はいつ入居できるか予想がつかないのです。当選通知の電話は、毎日何度もなりました。

当選通知が複数に届いたことで、全体がざわつき始めました。20日頃には、当選通知の電話も鳴らなくなりました。当選の電話が来なかった人の落胆と、当選通知の届いた人のいたたまれなさが避難所内の空気をかき乱します。

その段階で、私には当選通知の電話が鳴りませんでした。落胆した人の気持ちも分かります。自分には小学校低学年と保育園の子どもがいましたし、高齢の両親もいましたから早く仮設住宅に入居したいという気持ちもありました。

そんな中、一人の方の気持ちが爆発しました。その方には、介護の必要な親がいました。当然、優先して入ることができると思っていたようです。市役所の職員が米小避難所を訪ねてきた際にケンカ腰で詰め寄っていました。その職員は、仮設住宅の担当の人ではありませんでした。もちろん、答えようもなく帰っていきました。

残された私たちには重苦しい空気が流れました。この中にいる当選者が辞退すれば、この家族が入居できるのではないか。なぜ、あの人は優先して入れないのだろう。その答えが、4月24日に分かりました。

<我が家への当選の連絡>

「入居当選の辞退者が出ました。繰り上げ当選です」

4月24日、私にも入居当選の電話が来ました。ある程度の説明を聞いた後に担当者に質問しました。

「なぜ今のタイミングなのか。私より優先して入るべき保護世帯があるのではないか」

担当の方は、

「優先して入居してもらいたい世帯はたくさん登録されています。しかし、保護世帯のみで仮設住宅を構成したら自治会はどうなりますか。私たちは、その先も考えなくてはいけないのです」

と答えました。

納得です。担当者さんに謝罪し、入居の返事をしました。しかし、避難所に戻るといろいろな想いがこみ上げてきて、役員にも仮設住宅に当選したと伝えられません。しかし、通知が24日、説明会が27日。いつまでも内緒にしていられません。

意を決して役員会の席で当選の通知が来たことを話しました。「おめでとう」と言ってくれる人、「え~」と困った顔をする人。さまざまでした。私だけではなく、早い段階で会長も仮設住宅への当選が決まって報告されていたからです。しかし、いつかは全員が避難所から出なくてはいけないのです。早いか遅いかの問題だけです。

現会長の後任を含め、役員の補充を決めました。その次の日から保管してある物資の分配作業が始まりました。避難所に残る人の事も考えて、残す分を決めて、仮設住宅に移る世帯も残る人にも均等にタオルや歯ブラシなどの生活用品、カップラーメンや米や缶詰などの保存食品などを各世帯に配分しました。

<入居が遅れた仮設住宅>

4月27日に入居者説明会がありました。

入居予定者はもちろん、避難所に残される人も、すぐに仮設住宅に移れるものだと思っていました。

しかし「建設は完了していない。完了の目処が立ったので説明会を開催しています。また、家電製品も届いていない」とのことでした。そのことを避難所の皆に伝え、もう少し同居させてもらうように話しました。

5月3日、市役所から連絡が入り「建設が完了したので鍵を渡します」とのこと。さっそく、鍵を受け取り仮設住宅の部屋を空けました。自分に割り当てられたのは、4畳半二室と6畳間1室です。ここで家族7人の生活が始まるはずでした。

しかし、家電が入っていません。これでは、寝泊りはできても生活はできません。担当者に聞いてもいつになるか分からないとのこと。

被災のために全国の工場が止まっていること。計画停電の影響で工場の稼動が上手くいっていないこと。何より、被災で家電製品を流された人数が多すぎて生産が追いつかないとのことでした。結局、鍵を受け取った人全員が避難所に戻ります。

あてが外れたのは、仮設住宅に入居する人だけではありません。体育館にいる人たちも「人数が減って負担は増えるが、寝る場所は広くなる」と考えていました。それなのに、何日経っても引越ししない。広くならない。仮設住宅に入る予定の人は肩身が狭く感じていました。

一週間目の5月10日、大型トラックが何台も来て、次々と家電を運び込みました。

結局、テレビだけは後日になりましたが、洗濯機・炊飯器・冷蔵庫が運び込まれ、本格的に仮設住宅に入居しました。

<あと片付け>

5月末には、近くの中学校のグラウンドにも仮設住宅が建ちました。その中学校の仮設住宅に体育館避難所のほとんどの人の入居が決まりました。やはり、中学校の仮設住宅もしばらくの間、同じ理由で家電製品が届かず入居できませんでした。

それでも6月20日過ぎには全員が体育館を後にしました。6月29日に当時住んでいた全員が集まり体育館の大掃除をして、6月末日に米崎小学校学校に体育館を帰して、米崎小学校体育館避難所は幕をおろしました。

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書き終えて

前回の投稿後、多くの意見をいただきました。賛同の意見、否定の意見、改善の提案、私の知識不足についてなど。SNSに書かれているものもできる限り目を通させていただきました。

私に書けることは米崎小学校体育館避難所で起きた、または活動した事実だけです。また、最善のことをしたつもりもありません。

他の避難所や行政の動きについて書くことはできません。きっと私たちには手に余っていたことを上手に解決していた避難所もあるでしょう。

それはやはり、その避難所を運営した人間にしか話せない(書けない)事だと思います。

そういう話が今後も増えてきて、次の万が一に向けたマニュアルに反映されることを願っています。そして、そのマニュアルがいつまでも使われないことを切に願います。

プロフィール

佐藤一男防災士

米崎小学校体育館避難所元運営役員。米崎小学校仮設住宅自治会長桜。ライン311 元副代表http://satokazuo.com/index.html

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