ビデオ・ジャーナリズムの可能性

ビデオジャーナリストであり、インターネット放送「ビデオニュース・ドットコム」の代表でもある神保哲生さん(50)。フリーランスの立場から、長年ジャーナリズムに携わってきた神保さんは、日本のジャーナリズム状況をどのように見つめてきたのか。そしてインターネットの誕生以降、様変わりしつつあるメディア環境に何を期待し、どこに課題を見出しているのか。既存メディアと新しいメディアがそれぞれに持つ問題は山積み。その解決のために、私たちは何に注意をすればいいのか、シノドスジャーナル編集長・荻上チキと語った。(構成/金子昂)

 

 

ビデオ・ジャーナリズム

 

荻上 「ビデオニュース・ドットコム」が開局して10年以上が経ちましたね。学生の頃から、神保さんの活動からは多くを学ばさせて頂いています。その間にメディアの風景はだいぶ変わったとも思います。ネット環境が変わったことで、フリーの方でも自前のメディアを持ち、必要だと思う情報を発信するようになりました。

 

もちろん、そのことのメリットもあれば、副作用もあると感じます。特に3月11日以降、フリーのメディアがそれぞれどういった役割を果たしたのか、検討が必要とも思います。その上で、フリーのメディアはもちろん、トータルなメディア環境にどのような課題があるのか、探ることが重要だと思います。

 

今日は神保さんに、特にフリーの立場でメディアを持つことの課題についてお話をお伺いしたいと思っています。最初にお伺いしたいのは、「ビデオニュース・ドットコム」の約15年間での感触がどのように変わってきたかということです。

 

神保 感触は、最初の頃とあまり変わっていないんですね。長~い道のりを、淡々と歩き続けているという感じかなあ。そのことの意味を説明するために、簡単に「ビデオニュース・ドットコム」の歩みをお話させてください。

 

僕はビデオジャーナリストになる前に、10年ほど活字メディアの記者をやっていました。アメリカの報道機関に長く勤めていたのですが、貧困問題や紛争問題などを取材したいと思い、その時に勤めていたAP通信を辞めてフリーになりました。AP通信には、発展途上国の特派員のポストはとても限られていたし、本社にはそうした問題を担当する記者のポストがなかったんです。ちなみにアメリカのメディア界では、APのような大きな報道機関にいた記者がフリーになることは、それほど大したことではありません。ある程度の期間、報道機関に勤めたあと、一旦フリーになって自分のやりたいジャーナリスト活動をやって、また報道機関に戻るという道が、選択肢があるからです。

 

その頃、世界の紛争地域や極端な貧困地域など、あまり人が行かないところに単身で乗り込むと、価値のある映像が撮れるという助言をもらいました。1993年頃のことですが、当時、家庭用ビデオはぼちぼち普及していたものの、まだ放送できるような画質ではありませんでした。まだその段階ではビデオは不特定多数の人に映像作品を見せたり、何か重要なことを伝えるための表現ツールとしては、専門のトレーニングを受けた人にしか扱えないものでした。

 

荻上 今と違って、まだまだ一部の人しか使えない道具だったのですね。

 

神保 少なくとも、そう考えられていました。当時はまだ、放送クオリティの高画質の映像を得るためには肩担ぎの大きなENGカメラが必要でしたが、それは値段も数百万円から1千万を超えるものもあるほど高価なものだったし、操作も簡単ではなかった。また、それを国外に持ち出すためには、いろいろと特殊な手続きが必要で、それを個人でやるのは大変でした。とにかく当時はまだインターネットが登場する前だったので、何か意味のある映像を撮ってきても、それをテレビで流せなければ、他に映像を発表する場がなかったんです。

 

それでも僕はその段階で、ビデオにすごく大きな可能性を感じていました。ある程度しっかりとしたジャーナリスト・トレーニングを積んだ記者が、自分自身でビデオを操作できるようになると、新しい地平が開けます。それがわかってきたのが1994年ぐらい。記者がペンをカメラに持ち替えてジャーナリスト活動を行うという意味で、ビデオジャーナリズムとかビデオジャーナリストといった言葉を僕が使い出したのも、ちょうどその頃です。

 

荻上 ビデオジャーナリストとしての活動を開始した当時は、メディアはどういった状況にあったのでしょうか。

 

神保 84、85年頃からテレビ朝日の「ニュースステーション」やフジテレビの「スーパータイム」など、これまでのニュース番組とは趣を異にする新しいスタイルのニュース番組が始まり、演出に工夫をすればニュース番組でも高い視聴率が取れることにテレビ業界が気づきました。ニュース番組にもスポンサーがついて、稼げるようになったということです。その頃から放送局の中で、報道番組も、ドラマやバラエティ番組と同様に、高い視聴率を取ることが求められる対象になります。放送局には、局の玄関にその週の高い視聴率を取った番組を讃える意味で、番組名と視聴率を張り出すカルチャーがあるのですが、その頃まで報道番組がその貼り出しの対象になることはまず考えられなかったのですが、その頃から報道番組も貼り出しの対象になり、報道番組で高い視聴率を取れるプロデューサーやディレクターほど、局の廊下を肩で風を切って歩けるような風潮が、急激に強くなっていきました。

 

僕がビデオジャーナリストとしての仕事を本格的に始めたのは1995年くらいですが、その頃になると、テレビは一気に、月並みの言葉でいえば公共的なジャーナリズムとしての機能を放棄し、視聴率を優先し始めます。要するに数字をとるために、地味なネタや難しいネタ、デリケートなネタを避け、その一方で、「わかりやすさ」のために事実関係を過度に単純化したり、何が重要かよりも、視聴者の情緒に訴えるような薄っぺらい手法を優先するようになっていきました。

 

荻上 視聴率競争に晒されることで、ある種、ジャーナリズムの矜持が失われたと。

 

神保 ええ。僕は視聴率とジャーナリズムの両立は十分可能だと思っているのですが、そのためには、今荻上さんが言った「矜持」が不可欠だと思うんです。ジャーナリズムはその本来の役割を全うするためには、視聴率や売り上げに結びつかない部分でも大変な努力をしなければならないし、しかも視聴率、つまりより多くの人に見てもらうための努力も、ぎりぎりまで求められる。要するに両立するのは大変なんですね。それを、片方を捨てることができれば、ずっと楽になれる。

 

新聞などの活字メディアと比べてメディアとしての歴史が浅いテレビには、まだその段階では、それだけの矜持を保てるだけの公共的なジャーナリズムの伝統が十分に育っていなかったというのが、私の見立てです。そのため、ジャーナリズムの質と商業的な利益の両立という重い課題を課せられるようになったとき、それを満たすことができず、結果的に評価が難しいジャーナリズム本来の機能や責任を投げ捨てて、数量的な評価が容易な視聴率や売り上げという方向に走ってしまった。

 

その頃から次第に、視聴率が取れていれば、ジャーナリズムとしては評価できない報道でも評価される一方で、ジャーナリズムとしては十分に意味のある内容でも、数字が取れない企画は敬遠されるようになってしまった。まず視聴率をとること、そして大手スポンサーが嫌がるような報道は避けることが当たり前になると、原発報道のような、数字的にもスポンサー的にもデリケートなネタは、テレビでは非常に扱い難くなります。以前に、放送局のあるプロデューサーが私に吐露した言葉ですが、テレビで報道番組を作るということは地雷源の中を歩くようなものだと言うんです。テレビは地雷さえ踏まなければおいしい商売だけど、地雷を踏んだら終わりだよ、と。

 

確かに、地雷を踏まないことを最優先の価値にすることさえ厭わなければ、つまりテレビでやってはいけないとされることを避けることさえしていれば、テレビはおいしいメディアだし、おいしい産業です。どこに行ってもテレビ局だというだけでそれなりに歓迎されるし、給料も桁外れにいい。だけど公共的なジャーナリズムを意識した瞬間に、テレビというのはいつ地雷を踏むかと、常にビクビクしてやらなきゃいけなくなる。しかも、まじめな取材は相手からもあまり歓迎もされない場合が多かったりする。

 

だから、今のテレビ局が置かれた状態の下で、私のようなフリーのジャーナリストが歓迎されないのは、ある程度はやむを得ないことだと思います。テレビ局にとっては誰かを番組のゲストとして呼ぶことと、ジャーナリストに企画をやらせることは、まったく意味が違います。ジャーナリストが撮ってきたものを放送するということは、少なくとも映像部分の編集権を事実上局外の人間に委ねることになるわけです。それはテレビ側からすると、これまでの慣習からしても、また放送法の観点からも、なかなか受け入れ難いことなんです。

 

ましてやビデオジャーナリストとなると、撮影から取材、編集までひとりで全部やってしまうわけだから、局としては全部おまかせするか、使わないかのいずれかになってしまいます。

 

そんな状況でしたから、僕自身も96、97年ぐらいからは、ジャーナリストとして本当にやらなければならないテーマはこれだけど、それはテレビでは出してもらえないから、とりあえずテレビ向けには安全な企画をやる、というようなスタンスに変わっていました。

 

当初は、テレビに出せない企画は雑誌に寄稿したり、著書として出版したりしていました。どうしても映像で出したい場合は、VHSのビデオパッケージにして、2000本くらいをダビングして売ったりとかもしていました。

 

荻上 同人誌みたいですね。

 

神保 それに近いよね、2000部っていったら。そういうことをやりながら、独自の放送局を持つ必要性を次第に痛感するようになって、ある時期、アメリカの「CNBC」というチャンネルと組んで1997年から1999年まで2年ほど、CS放送のスカイパーフェクTVでチャンネルを運営したりもしていました。また、全国のケーブルテレビと組んで、新しい報道番組は作れないかなどといった試みもやってきました。

 

地上波の後にやってきた衛星放送やケーブルテレビには、それまでの地上波とは異なる報道チャンネルが実現できる可能性はあったと思います。衛星やCATVは視聴者に直接課金をすることが可能なため、広告に依存するしかない既存のテレビとは異なるビジネスモデルを構築できる可能性があったからです。

 

それが実現していれば、かなり今とは状況が違っていたかもしれませんが、日本独特の記者クラブの壁などもあって、報道に参入することは容易なことではありませんでした。何せ、情報が既存のメディアから成る記者クラブに独占されていて、新しいメディアは記者会見の一つも出られないのですから、そんなメディアに投資する人もいるはずがありません。そのためCSやCATVなどの新しい放送プラットフォームができても、報道の分野では既存の報道局がもう一つ二つチャンネルを取得するだけに終わってしまいました。まだその段階では、日本では多チャンネル化をしても、新しい報道の担い手が生まれるための前提条件が成り立っていなかったと思います。2000年代に入って、インターネットでブロードバンドが普及し始めて、動画配信が可能になった時、迷うことなく「ビデオニュース・ドットコム」を立ち上げたのは、その時の経験が元になっています。

 

ただ、2000年代の初頭は、NTTのISDNの後処理の問題などがあり、思ったほどブロードバンドが普及しませんでした。だからビデオジャーナリストの真価が発揮されるタイプのコンテンツ、つまり映像の迫真性を前面に出して、活字に対するビデオの優位性をアピールするようなタイプのコンテンツを次々と配信するようなビジネスモデルは、すぐには実現することはできませんでした。

 

ただ、とにかくインターネットを使って外部資本にも広告にも依存しない報道メディアを事業として成り立たせるためのインフラ作りは、かなり時間がかかる作業になることがわかっていたので、少しでも早く始める必要があると感じていました。そこで、まずはそのようなコンテンツの受け皿作りから始めようと考え、宮台真司さんと「マル激トーク・オン・ディマンド」というニュース番組を2001年に立ち上げました。これは映像の力を前面に打ち出したビデオジャーナリスト本来の強みを活かしたモデルではありませんでしたが、既存のメディアが逃げている「重要だけどデリケートで複雑な問題」を真っ向から扱う番組という意味では、これも十分にインターネットだから可能になった新しいタイプの番組と言うことができると思います。

 

だから、少し話が長くなりましたが、最初のチキさんの質問に答えると、結局いろいろなことをやってきているように見えて、僕自身がやろうとしていることは、いかにして映像でしっかりとしたジャーナリズムを実践するのか、そしてその場をいかに確保していくかのみに集中しています。そして、最初にそうしたことを志してから早くも20年近くが経ちますが、まだ僕が目指していたものはほとんど実現できていません。ここ数年、ネットの動画配信のハードルが下がってきて、やっと本格的な作業が始まったというのが、僕の今の偽らざる認識です。

 

 

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