和解だけが救いの形ではない――『聲の形』作者・大今良時氏の目指すもの

大人が助けてくれるようには描きたくない

 

荻上 逆に、学校生活で明るい話ってありましたか?

 

大今 小学校は、無関心か嫌いな先生がほとんどでした。教室でなにかあっても、私みたいな無口な人は黙っているか、見ているだけか、逃げるか……。発言力のある人が善悪を決めていて、なにもできない感じでした。

 

でも、小6で初めて好きな先生ができたんですよ。こぶとりでもっちゃりした感じの男の先生で。話を聞いてくれたんです。とにかく勉強が嫌いで宿題をやらない時期もあったんですけど、その代わりにやっていたことをちゃんと見てくれる人でした。大人からみたら漫画なんて道楽だって片づけられるのはわかっていたんですけど、それしか熱中できることがなかったので……。「こんな絵を描いています」「こういう話を考えています」とか、そういう話を聞いてくれて、感想も書いてくれる。楽しかったですね。

 

荻上 『聲の形』に思ったのは、教師に対する期待値が低いなあということですね。親は子を守るものとして描いているけれど、先生は、無関心であったり、善意はあるんだけどちぐはぐだったりで、関係性を改善してくれる存在ではなく、悪化させるきっかけを与える「敵」として描いている。教室内の秩序に対してポジティブな影響を与える存在ではない。

 

 

先生をチラ見する子どもたち

先生をチラ見する子どもたち

 

 

よく「子どもは善悪の区別がついていないからいじめをするんだ」と言われますが、それは正確ではありません。それが一般社会では悪だと分かっているからこそ、大人に隠れて遂行するわけです。で、要所要所で、大人をチラ見する。どの程度までがセーフで、どこからがアウトかを確かめるわけですね。

 

先生が無関心だったり、余計なひと言をいったりすることで、いじめがエスカレーションしてしまう。あるいは、先生が特定の生徒をからかうなどして、ラベリングを積極的に行うこともある。そこまでいかなくても、いじめの発生確率をあげるストレッサーに対応できなかったり、通報手段を啓蒙しておかなかったりすれば、結果として放任してしまうことにもなる。大今さん自身は子供のころ、教師の役割に期待していなかったんですね。

 

大今 していないですねえ。生徒の人数が多いのもわかっているし、いろいろたいへんなのも伝わってくるからこそ、無関心も伝わってくる。無関心には無関心で返すしかないですし。子どもだったので、先生を思いやる余裕はありませんでした。

 

今回は、先生が救ってくれるようなものを描くのはやめておこうと思っています。大人がなにもしてくれないときこそ救いが欲しいものなので、大人が助けてくれるようには描きたくないんです。誰にも相談できないし、下手したらこのまま死ぬかもしれないって苦しい状況で、救世主のように助けてくれる人を露骨に描くのは違うかな、と。

 

 

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学校が押し付けるキレイごと

 

荻上 同じ年齢、同じ地域に生まれただけで、全然違う者同士がいっしょくたにされるのが、教室空間ですよね。

 

大今 面白いですよね。嫌いじゃないですよ。

 

荻上 大人になるというのは、誰とでも仲良くするということじゃなくて、仲良くできる相手を選びつつ、無理だと思ったら自然に離れていくスキルを身に着けることですよね。でも、教師は子どもに「みんな仲良くしなさい」と言う。そのほうが管理しやすいからですけど。『聲の形』の一巻には、学校の閉鎖した空間が押し付ける妙なファンタジーが凝縮されていて、胸がえぐられつつ、ああいいなあって思います。

 

大今 私はああいうキレイごとは好きですよ。キレイごとを言ってくれる人がいなくなると寂しくなりますね。【次ページにつづく】

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.222 特集:沖縄

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