2014.07.02
「ただ祈る、ということを肯定したい」――美術家・椛田ちひろが描く世界
海外でも活躍する美術家の椛田ちひろさんは、東日本大震災の直後、震災をテーマにした作品を制作せずにはいられなかったという。未曽有の大災害を前に美術に何ができるのか……自分の表現が誰かを傷つけるのではないか……迷いや葛藤を抱えながら、それでも椛田さんが描き出そうとした世界とは? 椛田さんの普段の制作風景から、芸術に何ができるのかという問題まで、震災後「アートや文学に何ができるのか」思い悩む障害者文化論の研究者・荒井裕樹さんと幅広く語り合っていただきました。(構成/金子昂)
「描線」が「絵」になる瞬間
荒井 椛田さんとは、展覧会で何度もお話しさせていただいてますけど、あらためて「対談」という形になると、ちょっと緊張しますね。
椛田 荒井さんとこういうかたちでお話しするのは初めてですね。今日は、何を話すんだろう、何を話せるんだろうと考えながら歩いてきました。この対談のシリーズは全部読ませていただいていますが、並々ではないテーマを扱われていますよね。この対談企画がどこに着地していくのか楽しみです(笑)。
荒井 着地しないかもしれません(笑)。でも、それでもいいんです(笑)。
今回、どうして椛田さんにお声掛けしたのかをご説明します。東日本大震災のあと、「アートや文学に何ができるのか」について、とても悩んでいました。椛田さんのことを知ったのは震災後ですけど、「震災」や「津波」をテーマにした作品を制作されていたという話をお聞きして、これはぜひ一度、詳しくお話しいただきたいと思っていました。
震災とアートについては後ほどお聞かせいただくとして、まずは椛田さんの普段の制作について聞かせてください。椛田さんの作品って普通のボールペンで描かれているんですよね?
椛田 今日も持ってきていますよ。よかったら差し上げます。(ボールペンを手渡す)
荒井 ありがとうございます(笑)。本当に普通のボールペンですね。椛田さんの絵って、ひとつひとつの線は決して複雑な動きをしているわけでもないし、何か特別な技術を駆使して引かれているわけでもない。でも、それらがいくつもいくつも積み重なって不思議な雰囲気を醸し出している。そこが面白いと思っています。
椛田 ありがとうございます。ひとつひとつはただの描線にすぎないのですが、わけがわからなくなってしまうくらい無数に集まるということが大切です。そうですね……、この「わけがわからない」っていうのが、私にとってとても重要なんです。
描いているときも、画面にくっついてしまうくらい顔を近づけているので、全体の構図は見えない状態、つまり「わからない」状態にしています。狭い机の上で紙を丸めながら、全体を見ることなく、「わからない」ままどんどんどんどん描いていきます。
荒井 写真だとわかりにくいんですけど、実物を見るとすごい筆圧なんですよね。紙が破れてしまいそうなくらい強く描かれている。「描く」というより、「叩く」「ひっかく」に近いかもしれませんね。
椛田 写真だと細かい描画部分がつぶれてしまうんですよねー。私の作品は写真うつりが悪いんです(笑)。仕事中は紙をひっかく音がうるさくて、「何の音? 怖い!」って言われてしまったこともありました。机を叩くようにして描くのでガリガリガリガリッドンドンドンッって音がします。
荒井 距離を置いて眺めるとすごく柔らかいんですけど、近づいてよく見ると力強くて、ところどころ荒々しささえ感じられる。そこが面白いなあと思います。ちなみに、お聞きしたいんですけど、こうした「線」の積み重ねが「絵」になる瞬間って、どんな時なんですか?
椛田 画面に近づけていた顔を、なにかのタイミングで離して全体を眺めたとき、絵が終わっていたり終わっていなかったりします。なんて言えばいいんだろう……荒井さんは文章の終わりをどうやって決めているのですか?
荒井 何のひねりもないですけど、やっぱり「締切り」ですね(笑)。あとは、自分の文章を「見たくない!」って思った瞬間です。何度も何度も書き直して「もう読みたくない!」って瞬間がきたら、終わりかな。
文章を書き終えた時って「なんてつまらない文章を書いてしまったんだろう……」って落ち込むんですよ。でも1年くらい経って読み返してみると「あれ、なかなかいいもの書いてるじゃないか」って思ったりします(笑)。あと、ゲラのチェックはぼくにとって苦行です。何回見直してもミスが出てくるし、そのうち直さなくていい場所まで手をいれてしまう。
椛田 ああ、わかる気がします。油絵具を使っていたときがそうでした。油絵の場合は描いた上にもさらに絵の具をのせることができるので。でも、ボールペンって消せないんですよね。描いて、描いて、描いて……。最終的には真っ黒になります。だからどこで止めるか以外の終わりはありません。失敗したら捨てちゃう。
荒井 「失敗」と「成功」の違いはどこにあるんでしょうか? 「これは良い作品になる!」という手ごたえって、どんな時に感じられるんですか?
椛田 作品が静かになった場合に、良いかなって思うことが多いですね。大切なのは、作品に、観る人自身を映しだすような、反射板としての強度があるかどうか。作品が静かになったと感じるのは、たぶんそういう強度があると感じた時なんだと思います。
荒井 椛田さんって、作品の「作り溜め」はしないんですよね?
椛田 展覧会自体をひとつの作品と考えているので、会場が決まってからつくり始めることがほとんどです。そういうやり方をしていると、どうしても作り溜めがしづらいという事情もあって。いつでも取りかかれるように、アイデアノートや実験、練習と、それとなく準備しておくわけなんですが、締切りがないと終わらない作業になってしまいがちです。
荒井 制作の「終わり」って、やっぱり難しいんですね。逆に「始まり」はどうですか? どんな時に「よし、描こう」というスイッチが入るのでしょうか?
椛田 仕事をする時間を決めています。スイッチは無理矢理入れる(笑)。途中で悩んでひっくり返しちゃうこともありますけど、作り始めたらあとはもうずっと作っていく。
荒井 それは自動運動というか、言葉が適当かどうかわからないですけど、ロボットというか……?
椛田 そんなふうに見せるのがねらいの作品もあります。だから、そう言ってもらえると嬉しかったりもして(笑)。「わからない」という状態をどうやって観客に「わかる」ように伝えるかっていうところが、いちばん難しくて楽しいところですね。
何が描かれているか、どう見られるか
荒井 椛田さんは、いつ頃から絵を描こうと思うようになったんですか?
椛田 まったく覚えていないのですが、どうやら2歳の頃には「絵描きになる!」と言っていたみたいです。進路として決めたのは中学生のときですね。自分にできることはなにかって消去法で考えたんです。体育は駄目。数学も駄目。ああ……絵なら……って(笑)。それで美術のクラスがある高校に進学しました。あとはもう迷いなく。
荒井 素材にボールペンを使いだしたのはいつ頃ですか?
椛田 高校生の時に、紙の上でフル・マラソンの距離42.195キロをボールペンで引いたのが最初です。すぐ真っ黒になって、さらに描いていくと紙が破けて真っ白になったりして、最終的には鉛の板みたいに黒光りする作品になりました。その後、今から7年くらい前ですが、2007年に参加したグループ展でもう一度ボールペンを使ってみようと思ってからはずっとですね。いまは油絵具よりもボールペンのほうが合っている気がしています。
荒井 以前、椛田さんは「(自分の絵は)ボールペンがあれば誰でもできますよ」ってお話しされてましたけど、やっぱり練習も必要でしょうし、それなりの技術も必要ですよね?
椛田 その発言は誤解があったかもしれませんね。手法として、とても単純な方法、身近な方法を用いているということで、そこらへんに転がっているボールペンで作品を作れるということです。乱暴に説明すると、描きつぶしているだけなんですけど、もちろん、練習も技術も、それから根気も必要(笑)。でも大切なのは根気があるとか、どの画材を使っているとかじゃない。誰だってペンを握って描くことはできますが、大切なのはその哲学の部分、そこに何が描かれているか、そして、どう見られるか、という部分ではないでしょうか。
目には見えないものを描きたい
荒井 この数年は海外でも製作されていますよね。1月から2月はじめまでシンガポールに行かれていましたが、椛田さんにとってシンガポールってどんな土地なんですか?
椛田 2011年ごろから毎年、何らかの形でシンガポールに関わっています。いまシンガポール政府は芸術活動に積極的にお金を使っていて、私みたいな外国人の作家を呼び込んでいるんです。シンガポールのお国事情の話ではあるけれど、私を必要としてくれる場所。そういったような意味で、シンガポールと私は繋がっているのだと思います。きっかけとしてはこんな感じですが、いまは現地の友だちに会うのも楽しみで、いちばん頻繁に行っている外国ですね。
荒井 以前うかがった話だと、海外に滞在されていても、アトリエからほとんど出ないそうですね?
椛田 滞在先の近くにマーライオンがあったのですが、3年通っているのに観たことがありません。完全に引きこもりですね(笑)。
いまいる場所、いま考えていることが大切なんです。それから、母国から離れているという実感は重要に思っています。母国って自分をかたちづくっている歴史や世界そのものです。母国の外にいるというのは、外から自分自身に触れられるということなのかもしれません。
荒井 「外の世界に出会う」というより、「自分の内に潜る」という感じですか?
椛田 そうですね。遠くに行けば行くほど、自分の内側に近づいていける気がします。せっかく呼んでくれた人には引きこもってばかりで申し訳ないような気がしますが(笑)。
荒井 ぼくは逆ですね。「明日もまた今日の如く」が座右の銘なくらいで(笑)。昨日と同じ場所で、昨日やっていたことの続きを繰り返すのが理想的な過ごし方です。
椛田 研究者向けですね! 私の理想は、やっぱり物理的に外に出て…そこで引きこもる(笑)ことですね。
荒井 4月にフォトジャーナリストの佐藤慧さんと安田菜津紀さんと鼎談させてもらいました(3.11後の「表現すること」の戸惑い 荒井裕樹×佐藤慧×安田菜津紀)。そしたら椛田さんが「写真家は描くべき世界が外にあるんですね」という感想を送ってくださって、ハッとしました。
椛田 ああ、いい言葉が言えたんですね(笑)。カメラという装置自体の話なのでしょうね。光を取り込んで画像をつくるのって、カメラって外の世界を扱うのに向いているんだなあって、鼎談を読んだ時に思ったんです。何をしたいかによって、選ぶべき道具は変わりますね。いえ、実際には、やりたいことが道具に選ばれる、っていうことのほうが多いのかもしれませんが。文学も、このテーマには何語で書くのが向いているかって、きっとあるんじゃないですか。
絵を自分の表現手段として選んだのは、小さい頃から絵が好きだったこともあるから、卵が先か鶏が先かのような話でもあるんですけれど。あえて言うなら、描いたものが自分の心象風景の証明になる、というところが魅力だったからです。実際にはあり得ないあんなこともこんなことも、見たこともないようなことだって、描くことができるから。目には見えないものを、目に見えるものとして描くことができるからです。私ね、見えないものを描きたいんです。
「表現する」ことと「伝える」ことの距離感
荒井 よく「現代アートってむずかしい」という言葉を耳にします。「どう見ればよいのかわからない」「何を伝えたいのかがわからない」と考える人は多いようですね。
椛田 それは残念です(泣)。現代アートのなかには、いわゆるアートのためのアートのような、鑑賞に思想史や美術史などの専門的な知識を必要とする作品もありますが、そういうものを知っていなくても楽しめる作品もまたたくさんたくさんたくさ〜んあるわけで、ぜひ構えずに実際に観に来ていただけたらと思います!
物語を超えたいですね。「私の物語」を超えて、「あなたの物語」になりたい。そういった見えない部分について、見えないからこそ、視覚的なところで思いっきり勝負したい。そして、「あなたの物語」になるためには、観客が必要です。つまり何が言いたいのかというと、「どうか観に来てください」と(笑)。
荒井 「私の物語を超えて、あなたの物語になりたい」というところ、すごく興味があります。というのは、3.11のあとから、「表現する」ことと「伝える」ことが、ぐっと距離を縮めているような気がしているんです。「表現する」というのは、文字通り作品をつくること。「伝える」というのは、その作品によって誰かを励ましたり、誰かに何を考えてもらうためのメッセージを発したり、という意味です。
この対談企画の第1回目の佐藤さんと安田さん、それから第2回目の齋藤陽道さん(その傷のブルースを見せてくれ――写真家・齋藤陽道のまなざし 荒井裕樹×齋藤陽道)、みなさん「表現する」ことと「伝える」ことに独自の距離感を模索されていました。いま、この社会の中で、同世代の表現者たちがその距離感をどのように捉えようとしているのかを知りたいというのも、この対談企画の一つのねらいです。
椛田さんは「表現する」ことと「伝える」ことの距離感をどのようにお考えでしょうか? もっと単純に言うと、「自分の内に潜る」ようなかたちで制作されていても、そこにはやはり「伝えたいこと」は含まれているのでしょうか?
椛田 作品をつくることと、観客にメッセージを伝えることは、同じ場所にあると思うんです。それが内に潜る行為であったとしても、外にテーマを求める行為であったとしても。
例えば、記録映像作品でしばしば行われている「〜という問題に関心を持ってもらいたい」といった活動のように、具体的ではっきりした実体を伝えようとするものではないけれど、いま生きているこの世界との関わり方を描きたいと思っています。
私たちの暮らす社会という共同体の中には、たくさんの「私」がいますよね。椛田ちひろもその中のひとりだし、荒井さんもそのひとりだし。個人は、その暮らす世界とは離れることはできません。私たちは皆、表現し、伝えることで、自分たちの住む世界をつくっていくのじゃないのかなって。
世界に参加するための理屈
荒井 椛田さんがおっしゃる「個」の感覚、それがないと、そもそもアートや文学って成り立たないですよね。『生きていく絵』(亜紀書房)という本を書いた動機も、実はそこにありました。とにかく「“そこにいる人”の自己表現」に向き合ってみたい、というのがテーマでした。椛田さんがこの本をとても好意的に読んでくださって、嬉しかったです。
椛田 ひとりの人間が絵を描くことについて、この根源的な問題に、ここまでまっすぐに、真摯に向き合った本を読んだのは、おそらくはじめてだったと思います。繊細な問題を、誤解なく丁寧に伝えようとされているのが、読んでいてよくわかりました。
荒井 実はそこを批判する人もいました。アートを職業にしている人とか、職業とまではいかなくても、大きな意味で「表現する側」の立場にある人は、すごく好意的に読んでくれました。でも「アート好き」というか、「受けとる側」の立場の人には「荒井の解釈がうるさい」と言われてしまいました。
ただ、ぼくは解釈しているつもりはないんです。伝えたいのはそこじゃない。ある事情を持った人が、表現をしながら自分を描き変えていった。その事実やプロセスを伝えたかったんです。
椛田 とくに第二章では、読みながら涙が出たほど、ひどく心が揺さぶられました。表現する人はきっと好きというか、共感する内容だろうなと思います。
荒井 ぼくが研究の世界に入って「文学」や「障害者文化論」というものに興味をもったのは、学生時代にハンセン病療養所で出会った一枚の紙切れがきっかけなんです。シワシワになった紙、たぶん薬包紙かなんかだと思うんですけど、それが丁寧に伸ばしてあって詩が綴られていたんです。どうやら戦前の患者が書いたものらしく、療養所に住むおじいさんが保管していました。
当時の療養所の生活はとても貧しかったので、紙さえ十分にはありませんでした。そんな中で詩を綴っていた患者がいた、というのが衝撃だったんです。詩を綴っても病気が治るわけでもなければ、療養所から出られるようになるわけでもないのに。そしてもっと驚いたのは、その紙を大切に残しているおじいさんがいたということ。そのおじいさんは、ある人間が生きていたという重みを、その紙と言葉から感じ取っていたわけです。
人間の存在の重みが、一見粗末な紙切れの上に刻み込まれている。表現されたものから、表現せずにはいられなかった人間のこと――どういった境遇にあって、どういった経緯でその詩を綴り、どういった思いを込めようとしていたのか――それらを想像してみる。学生時代は療養所の図書室で、そんな風に誰が書いたかもわからない詩や小説ばかり夢中になって読んでました……って、いま熱くしゃべりながら思ったんですけど、「表現者側」として、こういう風に作品をみられるのって、うっとうしいですか?
椛田 えっ……! いまパッと思い浮かんだことを正直にお話すると、「うっとうしい!」って思ってしまいました(笑)。
荒井 あはは。
椛田 伝えたいと言うより、共有したいという言い方のほうがしっくりくるのかもしれませんね。「薬包紙の物語」もそうなんだと思います。この人は共有したかったんじゃないかな。私の物語について、私ではない誰かと。
「私の物語」が「あなたの物語」、言い換えれば「観る人の物語」として共有されていくこと。これって、私たちの住む世界の成り立ちそのものと深く通じてるんじゃないかって気がします。ずっと昔に死んでしまった人たちの記憶が共有される物語、つまり歴史となって、いまの世界はつくられてる。この世界は死者の記憶で出来ている。いずれは私も死者です。
荒井 確かにそうかもしれません。その患者が残した「薬包紙の物語」に出会ったおかげで、ぼくの人生という「物語」は大きく変わってしまったわけですから。「ある人の物語」が時空を超えて、どこかの、誰かの、物語を変えてしまう。それが作品というものが持つ力なのかもしれないですね。
そうすると、椛田さんにとって、「どこかの、誰か」と出会うための展覧会は、やっぱり特別な重みがあるんでしょうね?
椛田 絵を描くこと、絵を見せることは、世界に参加するための私なりの理屈なんです。
見えているのに見ることができない
荒井 椛田さんは3.11の直後に、「震災」や「津波」をテーマにした作品を制作されていますね。しかも半年の間に4つのインスタレーションを作ったという話を聞いて驚きました。ものすごい密度ですよね。
椛田 その量はさすがに疲れました(笑)。
荒井 震災直後にオープンスタジオ、つまりアトリエを公開して、制作過程から観客の目にふれるような形で制作しようと考えてらっしゃったとお聞きしました。当時、周囲の人たちからの反応ってどうでしたか?
椛田 スタジオが被災して使えなくなってしまい、このオープンスタジオは結局のところ実現しませんでしたが、印象的だったことがあります。
震災翌日の12日にはやろうと決めて、14日に「大震災に死ぬ人々の前で美術は有効か」(注:ジャン・ポール=サルトル「飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か」からの引用)というオープンスタジオをやりますって、ツイッターで呟きました。不謹慎だっていう反応は、予想はしていましたけど、ありましたね。その一方で、こういう試みは大切だという励ましもたくさんありました。そうやって励ましてくれた人の中には、津波のために肉親を失ったかもしれない人もいて……(後日、無事が確認されました)。
とにかく様々な反応がありました。まだ作品を見せることすらしていない状態であれほどの反応があったのは、たぶんあの時だけだと思います。美術には追いつけないたぐいの、言葉の持つ速さを体験しましたね。それは純粋に面白いと思ったけど……当時のあの空気は……あんまり好きじゃなかったです。
荒井 確かに、社会全体の空気感が違いましたね。
荒井 震災の半年後に「夜の底を流れる水」という作品を制作されていますけど、これは物理的にも、視覚的に受ける印象的にも、重くずっしりとした作品ですね。
椛田 それまでのいくつかの作品って、「これは震災がテーマだ」とは、はっきり言っていないんです。でも、ここにきてやっとふっきれていますね、震災を描くことに。
先の実現しなかったオープンスタジオの時には、自分の表現が誰かを傷つけるんじゃないかって内心びくびくしながら告知をして、……作品を見せることも叶わないまま、告知をしただけで結局誰かを傷つけてしまって。もうそれで参ってしまって。
情けない話なんですが、オープンスタジオからしばらく、誰かを傷つけるかもしれないリスクを負いながら発表するだけの強さがなかったんですよ、つまりは。でも表現したいという葛藤。そして、つくるけどとりあえず言葉にはしないでおこうという半端な根性……。
翌年からは、ちゃんと「震災をテーマにしてます」って言えてるんですよねえ。ここにきて、やっと自分を肯定することができたんだと思います。
荒井 「やっと自分を肯定することができた」というのは?
椛田 表現したいっていう衝動は人間的な情動につき動かされているものであって、そこを否定してしまうと、成り立たなくなってしまう。そういう意味で、自分の表現を肯定することができた、ということです。
その後、震災をテーマにすると宣言した展覧会を開催したり、参加したりしています。「SIFT←311 3.11以後の9人の現代アート」(アートカフェGBOX / 広島、2011年)と、「明らかな白」(ギャラリーヴァルール / 名古屋、2012年)、「現に奇しく」(G-WINGS Gallery / 金沢、2012年)あたりですね。
荒井 展示会「現に奇しく」の声明文では、「尋常ならざる光景は、その光景が現実性を失うほどに見るものに確からしさを奪ってゆく」とありますね。ぼくたちが普段経験している「現実」を超えてしまったものを表現できるかどうかについて悩んでいらっしゃって、そこがとても興味深いです。
椛田 「焼夷弾はきれいだった」という証言があります。死ぬかもしれないという時に、その感覚は可能なのかと感心した覚えがあります。そしていま、それを震災にあてはめて問うことは可能なのか、と。そこに触れたいと思いました。
テレビ報道で津波の映像が流れた時、はじめは津波だとは分からなかったんです。広い空間に、黒い不思議な煙のように見えて。自分の理解を超えたものを見て感じたのは、「うつくしい」という感覚でした。……これは漢字で「美しい」ではなく、ひらがなで「うつくしい」と言わせてください。
「美しい」という言葉を、「現奇しい」に掛けて「うつくしい」。これは完全に私の造語です。「現」はこの世。「奇」はめずらしい。つまり、この世にはないもの、という意味で使っています。
私が津波を見て感じた「うつくしい」というのは、簡単に言うと、見ても、それがなんであるかがわからなかった、ということなんだろうと思います。見えているのに見ることができない、という体験です。
私はずっと見えないものの領域を描きたいと思っていました。でも、津波の映像を見て、見えているのに見ることができないという領域があることを知りました。これは衝撃的なできごとでした。それで、あの津波をみたときの太刀打ちできないような感覚を形にできないかと思い、2012年7月に「現に奇しく(うつつにくしく)」という展覧会を開いたんです。
ある意味では、津波を「うつくしい」と言ってしまうことに葛藤はありませんでした。それは決して津波を賞賛する言葉ではなかったからです。もちろん、誤解されてしまうことは怖いのですが。
ただ祈る、ということを肯定したかった
荒井 震災や津波をテーマに作品を作るというのは、すみません、ありきたりな言い回しですが、苦しくはなかったですか? しかもオープンスタジオですよね?
椛田 苦しかったかどうかと聞かれると、ちょっとわからないです……。ただ、こういうふうに言うことはできます。有効かどうかを問うと謳ったオープンスタジオを開こうとしたあの3月、私は自分自身を有効ではない、無価値な人間なのだと世界に宣言したはずだ、ということです。なんにも出来ないことが辛かったし、私の存在はちっとも有効ではなかった。でも、それは否定的な意味だけでそう宣言するのではありません。
あの時、有効で価値がある様々なことより、自分が無価値であると思い知ることが、重要に思えたんです。自分自身を「無価値である」と宣言することが、「有効ではない」と宣言することが、生き延びるためのある種の有効さを証明できるのではないかと思ったんです。ただ祈る、ということを肯定したかった。それが、「大震災に死ぬ人々の前で美術は有効か」に対する私なりの回答でした。
荒井 以前、震災をテーマにした作品は、制作中に涙をながすことさえあったとお聞きしました。当時はどのような心境だったのでしょうか?
椛田 ただ祈りたかっただけなのだと思います。いまは何も出来ないかもしれない。でも、芸術の役割は、現在ではなく未来に向けてのメッセージというところにもあると思うんです。
荒井 「表現」について考える者として、「ただ祈る、ということを肯定したかった」という言葉は、深く心にしみますね。
震災後、多くのアーティストが「アートの社会的責任」を模索して、被災地に入ってワークショップなどの活動をしたり、人によってはボランティアに参加したり、また各地でチャリティーイベントを開催したりしましたよね。また一方で、椛田さんのように「アートの根源的意味」を模索して、ご自身の内側で「震災」や「死」と向き合って作品を作り続けた方もいる。
ぼくはどちらも等しく重要なことだと思っていますが、後者のような方の言葉というのは、今までなかなか表にでてこなかったような気がします。そのような方の言葉を聞きたいと思っていました。「聞きたかった言葉」を、いま、やっと聞けたような気がしています。
生きるために描く
荒井 冒頭でもお話ししましたけど、この対談企画も、3.11の後にアートや文学にどんな意味や役割があるのか、ぼく自身が悩んでいたことから始まりました。もっとざっくばらんに言うと、「アートや文学は何かの役に立つのか?」って、ずっと悩んでいたんです。
ただ、ぼくの中にも矛盾があって、アートや文学に意味や役割を求めすぎるのもよくないと思っているんです。というのは、人は生きているだけで何かしら自己表現していますよね。そこに意味や役割を求めてしまうと、「人が生きることに、意味や役割がなければならないのか」という話になりかねない。
自己表現って、人によって、状況によって、その重みはまったく異なります。場合によっては、「表現すること」がすなわち「生きること」になることさえある。先ほどお話ししたハンセン病患者の一枚の紙切れは、そういった重みがあったと思うんです。そこには「何かの役に立つ」とかいった発想はなかったと思うんですよね。意味や役割や、あるいは費用対効果とか啓発効果とか、そういったことを超えた次元での表現というものがあるんだと思うんですけど、でもそれを言葉にして説明するのはとても難しい。
椛田 人間が宇宙にロケットを飛ばすのって、どうしてだと思いますか? アポロとか、スプートニクとか、国の威信をかけて宇宙開発でもなんでもやらなきゃいけなかったっていうのもあるかもしれない。でも、きっとそれだけじゃないんです。乗り込むために訓練を積んだ飛行士達は、宇宙にきっと行きたかった。すごいお金と時間をかけて、死ぬかもしれないのに、それでもなお暗黒の、星の海に行きたいと願うんです。人間ってそういう生き物なんじゃないかなって。
アートもロケットも、この社会のいろんな出来事がそうやってできているんじゃないかなって思うんです。役に立たなければいけない、なんていうのは、社会を守るための方便なのかもしれません。方便も大切ですけど、方便だけでは生きられない。
そういえば、ある時、妹に「もう絵を描くのやめようかな」って言ったことがありました。そしたら「あなたから絵をとったら何も残らなくない? ただのろくでなしじゃない?」って言われてしまって(笑)。
荒井 いやあ、それは愛ですね(笑)。
椛田 愛ですねえ、可愛いです(笑)。
荒井 先日、DPI(障害者インターナショナル)日本会議の尾上浩二さんと対談させてもらって、とても興味深いお話を聞かせていただきました(現代書館発行、季刊『福祉労働』144号に掲載予定)。尾上さんがおっしゃるには、日本の障害者運動の特徴や強みというのは、一部のリーダーだけではなく、人としてごく当たり前で自然な欲求をもった普通の人たちが担ってきたところにあるんだそうです。高邁な理念や崇高な決意に身を固めた人たちだけがやる運動というのは面白くないし、長続きしないのだと。これはとても勉強になりました。
例えば、いまは車椅子のまま電車やバスに乗れますよね。駅にもだいたいエレベーターがついてます。これって70~80年代の障害者運動にあずかるところが大きいんです。でも、その運動も「万人に交通アクセスの権利を保証する」という崇高な理念が先にあったのではなくて、「行きたいところがある→車椅子だと電車に乗れない→車椅子でも乗りたいからバリアを取り除こう」という流れが、結果的に多くの人のアクセス権を守る運動になっていったんです。
アートというのも、それに似ているのかもしれないと思いました。ぼくらはアートというと、「特別な才能や感性を持っていて、高度な訓練を積んだ人だけができる、とても高尚で凡人には手が届かないこと」というイメージを抱きがちです。でも椛田さんや、前回対談に出てくれた齋藤陽道さんを見ていると、どうもそのイメージはしっくりこない。むしろ「絵を描いたり、写真を撮ったりしないと生きていけない」という、ものすごく素朴な必要性が先にあるように思います。「描いたり、撮ったり」しないと生きていけない人が、結果的に歩いている道のり自体が「アート」なのかもしれませんね。
椛田 そうですね。歴史に名を残すあの巨匠も、あの名匠も、生きるために必死の思いで描いた筈なんです。そのすごい必死さが、すごい才能や感性や技術でかたちになっている。でも、だからこそ高尚にもなり得るのだと思います。
「私の物語」が「あなたの物語」に
荒井 最後に、一つ質問させてください。「椛田ちひろ」だからこそ描けるもの、「椛田ちひろ」にしか描けないものって何ですか?
椛田 「私」の絵。「私」の物語。そこに意味を見いだしているからです。
無意味であることに、人間は耐えられないんじゃないかって思いますね。それは、椛田ちひろにしか描けないものって何ですか?っていう質問自体もそうですし、作品をつくっている私自身もです。
私はいま、ここに生きていますが、いずれは死んでしまいます。作品はたぶん、私にとって一番身近な他者です。私は作品に、自分自身の人生を物語ります。私の作品は、私が死んだ後もかたちとして残るでしょう? 運良く観てくれる人がいれば、「私の物語」は「あなたの物語」となって続いていくわけです。うまくいけばね。それって素敵じゃないですか?
荒井 はい。間違いなく、素敵なことだと思います(笑)
プロフィール
椛田ちひろ
1978年生まれ。2004年武蔵野美術大学大学院造形研究科修了。主な展覧会に「VOCA展2012」(上野の森美術館)、「あざみ野コンテンポラリーvol.2-Viewpoints」(横浜市民ギャラリーあざみ野)、「成層圏」(ギャラリーαM)、「 MOTアニュアル2011-世界の深さのはかり方」(東京都現代美術館)など。公式ホームページ http://chihiro.kabata.info/top_j.html
荒井裕樹
2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。