3.11後の「表現すること」の戸惑い

2011年3月11日に発生した東日本大震災。『ファインダー越しの3.11』(原書房)を出版し、その後も、シャッターを切りながら、写真を撮ることの意味を考えているフォトジャーナリストの佐藤慧さんと安田菜津紀さん。そして、精神科病院、平川病院でひらかれている〈造形教室〉で、アートを通じた自己表現で自らを<癒す>人びとについて取材し、「自己表現」の可能性を考えてきた文学研究者の荒井裕樹さん。3.11後に、「表現すること」にはどのような意味があるのか。その可能性と、戸惑いを語り合った。α-Synodos vol.144より転載。(構成/金子昂)

 

 

「私とあなた」が出会う窓

 

荒井 今日はお忙しいなか、お時間を作っていただいてありがとうございます。ずっとおふたりに話をお聞きしたいと思っていました。

 

はじめに簡単に自己紹介をさせていただくと、ぼくは学生時代から障害や病気を持っている人たちの自己表現活動について考えていて、文学やアートを通じた自己表現がどのように人間の「いのち」を支えたり、あるいは時代や社会に働きかけたりするのだろうか、といった問題を考えています。

 

「こんな時代」とはあえて言いたくはないけれど、でもぼくたちが生きている「いま」は決してハッピーな時代ではないことは確かですよね。そんななかで「文学」や「アート」といったものが、どのような役割を担えるのか。「表現」あるいは「表現者」に何ができるのか……ぼく自身がとても悩んでいます。とくに3.11の後から、この悩みは日に日に大きくなっています。

 

もしかしたら「文学」や「アート」に「役割」を求めること自体が間違いだという意見もあるかもしれませんが、だとしても、何らかの「存在意義」のようなものは言葉にしてみたい。

 

ということで、「いま」という時代を現在進行形で疾走している若手の「表現者」たちが、何を考え、何に迷い、どんなことに挑戦しようとしているのかについて、一人ひとり話を聞いてみようと思ったのです。そして『ファインダー越しの3.11』を拝読して以来、とにかく最初にお話をお聞きすべきは、佐藤さん、安田さんのおふたりだろうと考えてきました。

 

 

photo3

 

 

すみません、時間も限られているのですぐに本題に入ります。ぼくは、どちらかというと家にいて報道をみている立場の人間です。いつも思うのですが、ぼくがテレビや新聞を通じて接している映像や情報は、ある意味「翻訳」されたものですよね。

 

例えば難民の子どもが泣いている映像は、「内戦」「紛争」「貧困問題」として翻訳されて届くわけです。ぼくらはその子の涙を通じて、それらの世界情勢を理解しようとする。

 

佐藤 シンボルみたいなものですよね。

 

荒井 そう、シンボルみたいなもの。でも、あたり前のことですが、その子にはその子自身の苦しみがあり、悲しみがあって、その子自身の表現として涙を流しているわけです。家で報道番組を見ているぼくは、そこには決して触れることができません。

 

はじめておふたりの写真を拝見したとき、まずは「その人自身の痛み」を捉えようと努力されているように感じました。そこから考えを積み重ねていこうとするような、ある種の途方もなさを感じたのが、おふたりのことが気になったきっかけです。

 

そこで、まずお聞きしたいのですが、おふたりは「フォトジャーナリスト」と名乗っていらっしゃいます。「ジャーナリスト」として事実を伝えるだけなら、写真は写っていればいいのかもしれません。でもおふたりの写真は、簡単に言ってしまうとすごく「かっこいい」と思います。「事実を伝えること」と「写真自体が魅力的であること」のバランスをどのようにお考えになっているのか、お聞かせいただけますか?

 

安田 その質問はよく聞かれます。フォトグラファーっていかに対象を美しく見せるか、綺麗なものを撮ることが目的になってくると思います。でもわたしたちはやっぱり、その場に行って、誰かと出会って、それをどうしても伝えたくなったので、その手段として写真を選び取ったという順序なんですね。

 

佐藤 ぼくは大学時代は音楽を専攻していて、アート寄りの活動が好きだったんですね。そういうなかでたまたまアメリカのNGOと関わる機会があり、ザンビア共和国という途上国と呼ばれるような国で貧困層の人といろいろな活動をしたときに、どうすれば目の前の人間と出会った感覚そのものを伝えることができるのだろうと考えたら、いままで携わってきた音楽や文章ではいまいち伝わらないような気がしてしまって。そこで、ぼくが伝えたいと思ったことが一番ビビットにできるのは写真だったんですね。

 

日本で「ジャーナリズム」というと客観性を保つことや事実をとことん突き詰めていくものと言われていますけど、ぼくは感情が湧き上がるキーとなるものであればいいと思っているんですよね。どんなドキュメンタリーであっても完全なる客観は存在しないと思っているので、それが存在しない以上、ぼくが伝えることができるのは、ぼくのフィルターを通した現実という「価値観A」なんですよね。その「価値観A」に触れた人が、たまたま何かを感じることができたら、そこから「価値観B」「価値観C」が生まれて、その人なりの価値観を構築する手段にさえなってくれたら、ぼくの伝えたいことに合致するんじゃないかなって思いがあります。

 

安田 もちろん事実を分析したりする努力は必要です。いろいろな表現の仕方があって、新聞のような事実を伝える、説明的なものもあります。でも事実をポンって提示することと人の心に届く写真であることはまったく別なのではないかなって。

 

この仕事を始めたばかりのときに、「まずは状況ではなくて人をみなさい」ってよく言われました。それは私たちが出会った誰々の、その人の目を通して社会の様子を見ていくということなんだと思うんですね。だから社会の背景を伝えることと、人にフォーカスして力ある写真を撮ることは一致してくる部分がきっとあるのかなあって。

 

佐藤 ぼくらが被写体にしている人たちは、顔と名前が一致する人たちであって、まったく知らない人の写真を撮ることはないですね。

 

ぼくはときどき新聞に文章を書かせてもらうことがありますが、めちゃくちゃ赤をいれられるんですよね(笑)。とにかく言葉を削られて削られて。それはぼくが形容詞を追い込んでいくタイプだからなんですね。でもそれをやらないと、例えば「平和」って言葉があっても、それが何を意味しているのか、まったく人によって違うじゃないですか。なんとなく宙ぶらりんなままみんなが「平和」と思っているような概念を論じている気になっても、全然違うことを話しているかもしれない。ぼくが「平和」だと思っているものは、こういう感情とか感触とかがあるんだって提示することができるのは形容詞だと思っているんですよね。写真を撮るときに形容詞にあたるものは、顔と名前が一致しているというリアリティなんだと思うんです。

 

安田 報道では何もかもが数値化されちゃうんですね。顔の映っている写真でさえ、数字のシンボルとして扱われちゃう。でもこれが人の心の、すごく奥の奥まで届くかといったらそうではなくて。

 

写真の役割って、「私とあなた」という関係を結べる窓みたいな役割になって欲しいなって思っていて。「難民キャンプの少女」ではなくて、私たちが出会った此処で暮らしているなになにちゃん。こういうバックグランドを抱えていて、こういう思いを抱えていて、こんな風に笑っている時間もあって、涙を流すこともあって、そういう「私とあなた」という関係を、リアルタイムでは会えないかもしれないけれど、写真を通して出会う窓になって欲しいなって。

 

人と出会った場所って、それからも思いをはせるし、そこに足を運びたいと思ってくれるかもしれない。そういう「私とあなた」って関係が大事だなって思います。

 

 

 

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