2014.08.01

「自分の闇よりも深いものに祈る」――小説家・村田沙耶香の描く孤独

荒井裕樹×村田沙耶香

情報 #殺人出産#しろいろの街の、その骨の体温の

「自分よりも深い闇が、光よりも希望になるときがある」そう語るのは昨年「第26回三島由紀夫賞」を受賞し、いま最も注目をあつめる小説家のひとりである村田沙耶香さん。家族・学校を舞台に濃密で閉塞的な人間関係を描いてきた村田さんの小説から、底知れぬ「孤独」を感じ取ったという障害者文化論の研究者・荒井裕樹さん。これまでの村田作品に描かれてきた「かけがえのない存在」であることの孤独とは。話題の最新刊『殺人出産』(講談社)に描かれた正気と狂気の臨界点とは。果たして「小説だけが救える闇」というものがありえるのか、お二人に語り合ってもらいました。(構成/金子昂)

登場人物から言葉が生まれる

荒井 今日はお忙しいところ、お時間を作っていただいてありがとうございます。どうしても一度、村田さんにお話をお聞きしたいと思っていました。まずは、その事情から説明させてください。

ぼくは大学院の学生だった頃から、病気や障害を持つ人たちの住む医療施設や福祉施設に通っていました。文学部の国文学科に在籍していたので、もちろん文学の勉強をしていたのですが、そうした施設に足を運んでいるうちに、だんだんと文学作品が読めなくなってしまったんです。

例えばハンセン病療養所に行くと、昔の患者さんが書いた小説や詩がたくさん残っているのですが、ぼくにとってはどれもV・E・フランクルの『夜と霧』くらい重くて衝撃的なものでした。もちろんそれはフィクションなんですけど、完全なフィクションというわけでもない。ハンセン病患者に対する差別や偏見は壮絶なものでしたし、療養所のなかでも患者への悲惨な虐待などがあったようです。そういった圧倒的な現実に裏打ちされた文学作品に打ちのめされた、というのでしょうか。いわゆる「フィクションのためのフィクション」が読めなくなってしまったんです。フィクションを読むことの意義が見出せなくなってしまった、という感じでしょうか。特に教科書に載っていたり、図書館に置かれていたりする文豪たちの作品は、ほとんど読めなくなってしまいました。

もちろん、大学で日本文学を講義していましたから、仕事として小説は読んでいました。でも内発的な動機としてはほとんど読めない、という時間を5~6年くらい経験しました。

その後、東日本大震災の後くらいに、急に「小説を読もう!」と思ったんです。どうしてそんな気持ちになったのか、うまく説明できないのですが、とにかく同じ社会の中で、同じくらいの時間を生きている、同世代の人たちが何を考えているのかが気になったんです。それで手当たり次第小説を読んでいるうちに、村田さんに辿り着きました。なぜぼくが村田さんの小説に引き込まれたのかについては、また後でお話するとして、まずは村田さんの普段の創作についてお聞かせください。

小説家さんのなかには作品を書かれる際に、「ストーリーから入る」の方と「言葉から入る」の方と、いらっしゃるようですね。かっちりと全体のストーリーを構成してから執筆されるタイプと、ある言葉から物語が膨らんでいくタイプと。村田さんは、どちらでしょうか?

村田 ストーリーはかっちり決めないです。でも、先に言葉があることもあまりありません。というのは、まずは主人公やその周囲の設定を決めるんです。そして、登場人物が強い思いを持ったとき、登場人物から言葉が生まれてくる。そんなイメージです。

荒井 作品を書きはじめるときには、結末がどうなるのかは決まっていないんですね。

村田 全然決めていないです。いつもわからないで書いています。

荒井 大まかな設定のようなものは決められるのでしょうか?

村田 最初は主人公の似顔絵を描きます。

荒井 「似顔絵」というのは、「内面」のメタファーというわけではなくて、本当に「顔」を描いているんですか?

村田 はい、本当に顔を描いています。あと髪型とか、着ている服、身長体重、誕生日、住んでいる所の構造、間取り、そういったものを細かく決めるのが最初です。でも表に出すために細かい設定を決めているわけではなくて、そうした設定がないと、どういう人間が、どういう空間に住んでいるのかイメージが湧き上がってこないんですね。設定が決まって、シーンが生まれるんです。

荒井 『しろいろの街の、その骨の体温の』(朝日新聞出版社、2012年。第26回三島由紀夫賞受賞)はご自身が育った街がモデルになっているんですよね。いつも具体的なモデルを想定されるんですか?

村田 そうですね。主人公が住んでいるところが自然の多いところなのか、それとも都会なのか。それだけで、たとえ風景描写がなくても、主人公の言葉も流れてくる空気の密度も違ってくるので、必ず決めます。

荒井 住んでいる家の間取りまでと聞いて驚きました。村田さんの作品を読んでいると、疲れた母親が二階の部屋で寝ているシーンがあったりして、それがとても印象的でしたけれど、そういう見えない設定にまで力を入れていらっしゃるのですね。

村田 そうですね。会社勤めの友達とかを取材しているんですけど、行ったことがある部屋でないとイメージできないので、モデルにできる部屋は限られていて。もしかしたら、まったく違う物語の主人公が同じ間取りの部屋に住んでいるかもしれません。間取りも小説にはあまり書いてはいないんですけど、頭の中では間取りが決まっていないと、言葉は生まれてこないです。

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誰かがいることの孤独

荒井 村田さんのなかで、小説を書くための言葉が生まれる瞬間って、どんなときですか?

村田 すごく難しくて……。私は小学校のときから小説を書いていたので、大人になって小説の勉強をちゃんとして書かれている方と違って、主人公や小説の力のようなものに引きずられてしまうんだと思います。主人公や物語が、私の意思から離れて動き始めるようにして、その力に引きずられて言葉が生まれる書き方。引きずられる力によってじゃないと書けないんです。だからすごく素人っぽい書き方なんだと思います。

荒井 初めて読んだ村田さんの作品は『ギンイロノウタ』(『新潮』2008年7月号。2008年に新潮社より単行本化。第31回野間文芸新人賞)だったんですけど、正直「なんだ! この人は!」って思いました(笑)。

村田 あはは。

荒井 ものすごく怖かったです(笑)。ぼく、やらせだってわかっていてもテレビの「ドッキリ」が見られないくらいの小心者なんですけど、でも、この作品は最後まで読みました。というより、作品に「読ませられた」というんでしょうか、ページから離れられませんでした。

村田 ありがとうございます。

荒井 村田さんの小説を読んで驚いたのは、孤独の底の深さです。ぼくは小山田浩子さんもとても気になって読んでいるのですが、小山田さんは「嫁」と「派遣社員」を書くのが感動的なまでにお上手ですね。「嫁」と「派遣社員」って、「もしかしたら選ばれなかったかもしれない存在」ですよね。自分が「かけがえのない存在ではない」ことの生きにくさや孤独を書く名手だと思います。

一方で、村田さんは初期の作品「授乳」(『群像』2003年6月号。2005年2月より新潮社より単行本化。第46回群像新人文学賞)、「ひかりのあしおと」(『新潮』2007年2月号。単行本『ギンイロノウタ』に収録)、「ギンイロノウタ」のなかで、家族の関係性、特に母と娘といった「かけがえのない存在」の中に現れる「孤独」を描かれていらっしゃるように思います。

一般的な孤独のイメージって、「孤独死」と聞いたときに思い浮かぶような「他の人と関わりがない」「ひとりぼっち」っていうイメージですよね。でも村田さんの書く登場人物たちは周りに人がいて、家族もいて、貧乏でもないし、学校にも通っている……でも、なぜか言いようもなく、救いようもないくらい孤独なんですよね。一見、社会の歯車の一つとして周りの歯車と一緒に回っているように見えながら、実は全然噛み合ってなくて、独りでカラカラとまわり続けているような、そんな孤独だと思います。

ぼくは学生時代に福祉施設や医療施設を歩いていて、いろんな人の話を聞いていたんですけど、どうにも上手く言葉にできずにモヤモヤとしていた孤独というものがありました。例えば家族も身寄りも友人もいなくて、週に1~2回訪ねてくるヘルパーさんや福祉関係者くらい話し相手がいない、という人がいました。そういった人が置かれている孤独というのは、決して問題が軽いというわけではないのですが、イメージはしやすいんです。

難しかったのは、例えば病気や障害を抱えながら自分の親を介護しているような人の場合でした。そういった人の話を聞いていると、親もいるし、住む家もある。病院や福祉施設にくればそれなりに知人もいる。でも辛いし、苦しい。介護している親にとって、自分が世界のすべてになっている。「かけがえのない存在であり過ぎることの孤独」というんでしょうか、「誰かにとっての私であり過ぎることの重さ」というんでしょうか。

そんな重さと息苦しさがパンパンに詰まった孤独感を、ぼくはずっと言葉にできずにいたんですけど、村田さんの小説のなかでは、それが鮮やかに言葉になっている。衝撃的な体験でした。

村田 そうですね。私が「人がいない孤独」じゃなくて、「誰かがいることの孤独」を書くのは、私の中の孤独というもののイメージが、人の中にいるときに感じるものと漠然と思っていたからなんだと思います。そちらの絶望の方が、身近な感じがするのかもしれません。

「かけがえのない存在」が重い

荒井 「ギンイロノウタ」も、はたからみると主人公の女の子はお母さんにすごく大切にされていますよね。母と娘が互いに「かけがえのない存在」であることは、一見微笑ましいことのように思える。でも、そんな「かけがえのない存在」であることが、村田さんの作品ではとても重い。

村田 私の中では密室殺人みたいなイメージです。外から見ると、明かりもついていて、とても温かな家に見えるけれど、その中で死ぬような思いをしている人がいるかもしれない。親子に限った話ではなくて、夫婦でもそうですし、学校でもそうかもしれません。孤独は、人がいる密室。その中に絶望がある。パッとイメージするとそういうものが浮かびます。

荒井 小説を書かれるとき、具体的な出来事や事件を参照されることはあるのでしょうか?

村田 あんまりないんですよね。ただ、書いた後に、似たような事件を見て、自分が書いた人と似ているな、と思うことはあるかもしれません。

小説と犯罪って少しだけ似ている部分があると思います。私たち人間の無意識の中にある闇の部分を、言葉で表すのが小説であり、行動に起こすのが犯罪なのかもしれないと思います。

例えば酒鬼薔薇の事件は、みんないつかこうなることがどこかでわかっていたような感じがあったと思うんです。事件が起きて、「まさか!」と思った人もたくさんいると思いますが、無意識の中で、いつかこういうことが起きることを知っていた気持ちになった人もいっぱいいた事件だったと私は思っています。

荒井 突然変異的にあらわれた、自分とはまったく異質で理解不可能な人間がやったこと、というだけではかたづけられない何かがあるような気がします。秋葉原連続通り魔事件も、そうかもしれませんね。彼がやったことは支持も共感もできないですけど、彼がおちいっていた孤独や生きにくさは、同じ時代を生きている者として、ぼくにも決して無関係なものではない。どこか地続きなものとしてあるはずです。もしかしたら、自分で考えるよりもずっと近くにあるかもしれない。

村田 そうですよね。言葉にしなくてもどこか予感のようなものを覚えている人は多いと思うんです。それが実際に事件という形で起きてしまうと残酷な悲劇ですけど、小説という形で起きたときは、救いになるんじゃないかなって思っていて。無意識が残酷な形で現実になる前に、言葉になったものに出会うことで救われるというか。だから私は、絶望的なものを書いていても、希望になり得るものがあると思って書いています。それは、絶望の中にいる人にしかわからない希望かもしれないですけれど。

小説の宛先は「読者の中の無意識の闇」

荒井 村田さんは小説を書かれるときに、具体的な宛先を想定されていますか?

村田 読者を想定したほうがいいとは思っているんですけど、具体的にこういう人に読んでもらいたい、というよりは、こういうことを普遍的な言葉にできたときに、誰かの無意識も言語化できるんじゃないかと思いながら書いています。誰かの中でまだ言葉になっていない言葉、感情、闇の中にあるなにかを言葉にする。そういう意味では、読者の中の無意識の闇に向けて書いているのかもしれません。

荒井 ぼくは天童荒太さんの作品も好きなんですけど、天童さんの書かれる苦しさって「原因」があるんですね。例えば『包帯クラブ』(筑摩書房、2006年)は、かなり意識的にそのように書かれているように思います。こういう原因があるから、このように苦しい。こういうことがあったから、こんな風に傷ついている。苦しさと原因が一対一で対応しています。でも村田さんの作品は、はたから見ると「何がそんなに大変なの?」って思ってしまうけど、それが深刻な破綻にまで落ちていく。とにかく、生きている状況それ自体が苦しい、という世界を書かれていらっしゃいます。

小児科医の熊谷晋一郎さんという方が、薬物依存やアルコール依存の方たちと、「痛みの当事者研究」というのを継続的に営んでいらっしゃるんですね。熊谷さんのお話では、依存症に苦しむ人たちの話を聞いていると、身体のどこそこが痛いという次元を超えて、「自分の存在自体が痛い」という感覚を訴える方がいるんだそうです。なにか明確な原因があって痛かったり苦しかったりするのではなく、とにかく生きていること、生きている状況そのものが苦しい。村田さんの小説も、そういった類の底深い苦しみを書かれているように思いました。

村田 わたしにとって親しみ深い感覚なのかもしれません。私自身は主人公とはだいぶ違う人間ですが、はたからみてどんなに恵まれていても、命を脅かされるくらい辛い思いをしている人が周りにいっぱいいて。そういう苦しみに対して敏感だったし、話を聞く機会が多かったように思います。だから、頑張って書くというよりは、自然に、苦しんでいる人の典型例を書こうとした、それが「ギンイロノウタ」なんです。

恵まれた普通の家庭の中に、わかりやすいかたちの虐待はなくても、目には見えなくても、言葉にできない地獄がある。それはよくあることで、みんなそんなものだって思っていたんですよね。「ギンイロノウタ」を書いた後で、実は意外と、こういう状況を普通に笑ってやり過ごしている人も多いんだなって気づいたくらいで。

荒井 村田さんにとって、小説を書くことは苦しいことですか? それとも楽しいことでしょうか?

村田 楽しい方だと思います。もちろん書けなくて苦しいときはありますが、一週間もすればまた書けるようになります。

荒井 それはリカバリーが早いですね(笑)。

村田 そうですね。書くのが好きで楽しい方だと思います。それは恵まれていると思います。小さいころから小説を書くのが好きだったので。私は、小説家は作品の奴隷であると教わったので、そういう喜びがあるんだと思います。自分の意思というよりかは、物語というものの力の奴隷になっている。だから苦しい、闇に踏み入るようなものを書いても楽しいんだと思います。

荒井 去年まで精神科病院の中にあるアトリエに通っていて、居心地がよかったのでボランティアと称して入り浸っていたのですが、そのアトリエで知り合った方の中に、子どもの頃に受けた虐待をテーマした作品を制作した人がいました。さぞかし辛い作業だったろうと思っていたら、「思い出自体は辛いけれど、作品を作ること自体は楽しいですよ」とおっしゃっていて、とても驚きました。芸術的な創作って、奥が深いですね。

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物語の声に従っていたい

荒井 すみません、ちょっと話題を変えて、いくつかぼくの個人的な興味・関心から質問させてください。せっかく村田さんにお会いできたので(笑)。

同業のご友人っていらっしゃいますか?

村田 ずっといなかったんですけど、中村文則さんをリーダーに、西加奈子さんや山崎ナオコーラさん、青山七恵さん、綿矢りささん、羽田圭介さんといった同世代の作家さんと中国の若手作家が交流した日中青年作家会議をきっかけに、お話するようになりました。それはすごく嬉しいです。

荒井 ああ、気になる作家さんばかりです(笑)。ちなみに、同世代の作家さんの作品を気にされることはありますか?

村田 好きで読むということはあると思うんですけども、気にすると言うのは……?

荒井 触発されたり、ライバル意識をもったりとか……。

村田 ライバル意識はないですね。触発というのは難しいですが……無意識の中ではあるのかもしれないですが、面白い、と興奮したり尊敬したりしていても、意識的に影響を受けて次の作品を書き始める感覚はあまりないかなと思います。

荒井 この対談企画では、同世代の人たちの話を聞くというのが一つの軸になっているんですけど、対談の候補にあがっている人たちと個人的に話をしていると、ときどき「いま、自分が試されている気がする」という話を耳にします。

村田 試されている? 感じたことなかったです……。なにに試されているんだろう?

荒井 みなさん30代の前半から半ば頃で、それぞれの業界のなかで少しずつ結果を出されている頃ですから、そのように思う方もいらっしゃるのだと思います。

村田 へえ~。私は、小説は100歳になっても書けるイメージを持っているのでのんびりしているのかもしれないです。アスリートだったら試されていると思うのかもしれないけれど、言葉はずっと豊かになっていくだけだから。

荒井 村田さんは100歳までお書きになりたいですか?

村田 寿命までは、と思っています。

荒井 村田さんはいまだにコンビニでアルバイトされていますよね。それが興味深いです。

村田 精神的に救われていますね。よく「お客さんを観察しているんでしょ」とか「ネタ探ししているの?」って言われるんですけど、ただ好きなんですよね。小さい頃から不器用な子どもで、勉強もできないし、運動神経も鈍い、自分で自分をできそこないだって思いながら育ってきたので、何かが人並みにできているって感覚が嬉しいのかもしれないです。

荒井 村田さんの小説読んでいると、コンビニのバイトって世界で一番恐ろしい仕事のように思えます(笑)。

村田 実際にやると誰にでもできると思いますよ(笑)。

世界の歯車になるみたいなことを、小説の中に求めると、たぶん心が壊れると思っていて。小説の中では、ただ物語の声に従う奴隷になりきっていたい。アルバイトは、たぶん人間としての大事な部分を補っているんだと思います(笑)。

狂気と正常の境界を柔らかくしたい

荒井 興味本位の質問が続いて申し訳ないんですけど、村田さんは筆は早い方ですか?

村田 どうだろう。遅いと思います。最初はノートに手書きで書くんです。似顔絵からですし(笑)。それにすごく改稿するんですよね。ノートに書いて、それをパソコンで打ち出して、それをまた手で書き変えて、またまた打ち直して……そういう作業を繰りかえしていくうちに、小説はどんどん変わっていきます。極端な話、主人公の性別が途中で変わるなんてこともあります。

荒井 途中で性別が変わるってすごいですね。

村田 設定はすごく変わります。小説がなりたがっている形にさせてあげるために、どんどん変えます。

荒井 最新作の「殺人出産」(『群像』2014年5月号。講談社より単行本化)はどのくらい改稿されたんですか?

「産み人」となり、10人産めば、1人殺してもいい──。そんな「殺人出産制度」が認められた世界では、「産み人」は命を作る尊い存在として崇められていた。育子の職場でも、またひとり「産み人」となり、人々の賞賛を浴びていた。素晴らしい行為をたたえながらも、どこか複雑な思いを抱く育子。それは、彼女が抱える、人には言えないある秘密のせいなのかもしれない……。3人での交際が流行する奇妙な世界を描いた「トリプル」など、短篇3作も併録。いずれも「生」と「性」の倫理観に疑問を突きつける衝撃の問題作!

村田 今までで一番多いかもしれません。一年間、殺人をテーマにした、300枚くらいの小説をずっと改稿していたんですが、うまくいかなくて。そしたら編集者さんが全部捨てて書きなおしたほうが楽なんじゃないかって提案してくださったんです。そこからは早かったですね。改稿というより書き直しですね。

荒井 「殺人出産」や、「生命式」(『群像』2013年1月号)を読んでドキッとしたのは、「狂う」という言葉がでてくるところです。「タダイマトビラ」(『新潮』2011年8月号。2012年に新潮社より単行本化)あたりから「狂う」や「狂気」という言葉を使われていますよね。

村田 そうですね。はい。

荒井 「タダイマトビラ」の主人公も、はたからみたらそんなに不幸じゃない。「もっとしっかりしなさいよ」「考えすぎだって」の一言で済ませようと思えば済んでしまう、というか、現実の世界ではそれで済まされていると思うんです。それがあそこまで破綻し、落ちていってしまうのが衝撃的でした。

さきほど、村田さんは「かけがえのない存在」であることの孤独を書かれてきたんじゃないかとお話しましたけど、最近の作品では、正常と異常、正気と狂気の境界線のようなものを書かれていますね。

村田 そうですね。「生命式」を書いたあたりから、正常と発狂がわからない……というか、正常は発狂の一種だって。

荒井 「この世で唯一の、許される発狂を正常と呼ぶんだって、僕は思います」という一節がありますね。

村田 ええ。自分でもなんとなくそう感じています。自分のことを、「こんな人間だ」と思い込んでいること自体が「発狂」と言えば「発狂」だと思うんです。でもそれを「狂っている」とは言われない。だからそこを逆転させたりして、境界線がわからなくなるような小説をいまは書きたいんだと思います。

荒井 「ギンイロノウタ」や「タダイマトビラ」の主人公は、自分自身が狂ってるのかどうかもわからなくなってしまいますね。

村田 狂ってはいないつもりで書いています。

荒井 「狂気」って、渦中にいる人は自覚がないわけですよね。でも「生命式」と「殺人出産」の中に出てくる人たちは、自分が正常なのか異常なのか、とても冷静に分析している。

村田 「ギンイロノウタ」は、まだ正常な倫理観というか、「狂気」という形で狂気を書いていますが、「殺人出産」のときは逆転させています。いまはそういうことをしてみたいんだと思います。攻撃的な作品を書きたいわけじゃないけれど、境界線をぼかしたい。こういう作品を書くことによって、「ぼやけるかもしれないよ?」「ぼやけ得ることなんだよ」って。

荒井 読者に、「あなたの生きている世界はどっちですか?」と強く働きかけるわけではなく?

村田 そうですね。そういう、突きつけるようなイメージではなく、柔らかくしてみたい、という感じです。

荒井 村田さんの中で、狂気のイメージ自体が変化されたのでしょうか?

村田 変化したというよりかは、「ギンイロノウタ」を書いているときも、違和感があったんだと思います。発狂って、周りから「狂っている」と思われるようなものではなくて、最初から、そもそも世界がしめしあわせて狂うことから始まっている。そこから弾かれると、「発狂」と呼ばれてしまう。「ギンイロノウタ」のときは、主人公の内面へ、内面へと爆発する感じで終わってしまったけれど、それ以降の作品では、世界の構造自体が主人公のような、そういう作品を書くことで、自分が潜在的に書きたいと思っていたことに辿り着こうとしているんだと思います。

闇にしか救えないものだってある

荒井 「生命式」や「殺人出産」は、人類という大きなスケールで、永遠の生命の流れの一コマになるという話ですよね。いままで書かれてきたような「かけがえのない存在」ではなくて、究極に「取り換えのきく存在」としての人間を書かれていて興味深いです。

これらの作品のなかには、「かけがえのない存在」から「究極に取り換えのきく存在」へと飛躍するときの「引き裂かれ感」みたいなものを意識せずいられる人と、一度引き裂かれて「自分は狂っているんじゃないか」と悩まずにはいられない人がいる。その「引き裂かれ感」を「狂気」として書いていらっしゃるように思います。

村田 そうかもしれないです。

荒井 「殺人出産」は、殺意が動機になって新しい生命を生み出していくという設定が斬新ですよね。でも、生命が合理的に生産される社会なのに、生命に対する神秘性は失われていないのが不思議です。

村田 神秘性が失われていないのを書きたかったのかもしれません。

荒井 「誰かを殺したい」と「生命を慈しみたい」という気持ちが同居している状態を自然に書かれている。難しかっただろうなって思いました。

村田 どうしてかはわからないんですけど、殺意を自然なものとして書きたかったんです。そうすることで、いままでの倫理観を、無理やりぶち壊すのではなくて、ふわっと溶けてなくなるような柔らかい感覚でなくしてしまえそうな気がして。

荒井 先ほどお話になっていた「殺人は、実際に起きたら悲劇だけれど、小説の中で起きた救いになるかもしれない」というのは、そこに繋がるんですね。

村田 はい。本当にぎりぎりの人にとっては、光が救いにならないときがあると思うんです。むしろ、自分よりも深い闇が、光よりも希望になるときがある。

荒井 それは、自分よりも不幸な人間がいてよかった、というような表層的な意味ではないですよね。

村田 そうではなくて、自分の闇よりも深いものに祈るという感覚です。私自身が、精神的にぎりぎりだったとき、そういう状態だったんだと思います。あのとき光に当てられていたら壊れていた。だから「救いとしての闇」を書きたかったんだと思うんです。

荒井 「救いとしての闇」って、良い言葉ですね。世間の人がよかれと思って光を当てても、その光がつらくて仕方ない人がいるということですね。「かけがえのない存在」であることが、苦しくてたまらない人だっているように。

村田 笑顔で差し出してくる光に殺されるような感覚。そういう光の残酷さは、闇にとらわれている人じゃなくても、どこかで感じていることかもしれないって思っています。

荒井 家族とか、友だちとか、世間で肯定的に捉えられるものの中に潜む残酷さをえぐり出す筆力がすごいです。

村田 母性神話とか、そういうことからやってくる光って、それが最後の一押しになって死んでしまう人っていると思っているんだと思います。闇にしか救えないものだってあると思うんです。

荒井 「ギンイロノウタ」「ひかりのあしおと」「タダイマトビラ」に出てくる女の子たちって、もし現実の社会の中にいたと想定してみたら、きっと誰も助けてくれませんよね。福祉事務所に駆け込んでも、せいぜい「お母さんと仲良くね」「ご家族を大事に」と微笑まれて帰されるでしょう。もちろん、警察の管轄なんかではない。そう考えると、小説だけが救える闇というのがあるのかもしれない、と本気が考えさせられます。「フィクション」というものが持つ力を、もう一度信じるきっかけを村田さんに与えてもらった気がします。

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小説を書くときは、村田沙耶香であることを捨てられる

荒井 そういえば、村田さんの小説って人が死なないなって思っていたのですが、「生命式」や「殺人出産」を読んで驚きました。死者をコトコトと煮込んだり……。

村田 カシューナッツ炒めにして美味しく食べたり……。

荒井 そうそう、すごい急展開だなって(笑)。村田さんの小説が、いま急速に変化していますよね。

村田 ついていけないって思う人もいると思いますが、面白がってくれる人もいて。

荒井 ぼくは「超面白い」と思って読んでいます(笑)。そんな変化の途上にある村田さんに、最後に一つ聞かせてください。「村田沙耶香」にしか書けないものって何でしょうか?

村田 私は、自分が村田沙耶香であることを捨てることで、小説を書き始めています。村田沙耶香にしか書けないものがあるとしたら、それを書こうとしたら、壊れてしまう。たとえあったとしても、ないと言い聞かせていないと、自分を支えているものが壊れてしまう気がする。だからそれは、危険な質問かもしれません(笑)。

荒井 危険な質問ですか(笑)。

村田 私が変なのかもしれません。でも、小説を書くときは、村田沙耶香であることを捨てられる。物語や言葉の大きな力、うねりに従うことに、小学校の頃から救われてきたんだと思います。もし、「あなたは村田沙耶香という人間ですよ」と突きつけられたら、小説を書けるかどうか……自信がありません。だから村田沙耶香にしか書けないものはないと思います。もちろん、村田沙耶香を捨てることで書くものが、私にしか書けないものだと嬉しいですけれど。

荒井 「殺人出産」が雑誌に掲載された際の広告には、「村田沙耶香にしか書けない」とありましたよね。

村田 変な小説を書くことが多いので、よく言われます(笑)。作品を書き終えた後でそう仰って頂けることはとてもうれしいのですが、これから書く作品に立ち戻ってみると、実際に「書く」場所では村田沙耶香であることを捨てることですべてが始まっているので、きっと始まりの場所が壊れてしまうような感じがするのだと思います。

荒井 お答えが衝撃的すぎて、いま、動揺を隠せません(笑)。でも、こんな衝撃なら何度でも打ちのめされたいです。今日は面白いお話がたくさん聴けてとても嬉しかったです。次回作も楽しみにしています。ありがとうございました。

(6月3日 千駄ヶ谷にて)

プロフィール

村田沙耶香小説家

1979年、千葉県出身。2003年、「授乳」で第46回群像新人文学賞優秀作、09年、『ギンイロノウタ』で第31回野間文芸新人賞、13年、『しろいろの街の、その骨の体温の』で第26回三島由紀夫賞受賞。ほかの作品に『星が吸う水』『タダイマトビラ』『殺人出産』などがある。

この執筆者の記事

荒井裕樹日本近現代文学 / 障害者文化論

2009年、東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員、東京大学大学院人文社会系研究科特任研究員を経て、現在は二松学舎大学文学部専任講師。東京精神科病院協会「心のアート展」実行委員会特別委員。専門は障害者文化論。著書『障害と文学』(現代書館)、『隔離の文学』(書肆アルス)、『生きていく絵』(亜紀書房)。

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