2015.10.15

「ドイツ見習え論」に警鐘を鳴らす

三好範英 読売新聞編集委員

国際 #ドイツリスク#難民問題

先月、『ドイツリスク 「夢見る政治」が引き起こす混乱』(光文社新書)を上梓した。ドイツにおける、エネルギー転換(脱原発と再生可能エネルギー導入)、ユーロ危機、ロシア・中国への接近、歴史認識問題などについての現状報告の本だが、これらの問題に通底するドイツの「危うさ」を「夢見る人」としてのドイツ人の特質に求め、日本に根強い「ドイツ見習え論」に警鐘を鳴らす、という趣旨の本である。

キーワードの「夢見る人」とは、拙著で次のように定義した。「自分の抱いている先入観や尺度を対象に読み込み、目的や夢を先行させ、さらには自然や非合理的なものに過度の憧憬を抱くドイツ的思惟の一つのあり方」(p.11)と。これはロマン主義的傾向としてドイツ文化論などではつとに指摘されてきた、ドイツ人の国民性である。

私はベルリン特派員時代に、福島第1原発事故をきっかけにしたドイツ脱原発方針の決定、ユーロ危機を通じたドイツや欧州の変容、そして、ロシアや中国に接近するドイツ外交の姿などに直面した。これらの問題でのドイツの振る舞いは、私にとって時に驚きに満ち、ドイツとは何かを深く考えさせるものだった。

遠い日本の原発事故から時を置かず脱原発を決定するプロセスは唐突に思えたし、どうやら欧州全体の経済的繁栄にはつながらないユーロシステムへの疑念もわいてきた。ドイツ人は正しいと信じる道を邁進しているのだが、やがて電気料金の高騰や、債権国ドイツと、重債務で苦しむ南欧諸国との間の亀裂が深刻化し始めるのを見たとき、果たして、ドイツの政策決定は、結果を十分計算した上で行われて来たのかどうか、疑念がふくらんできた。

理想が先行し、その結果、意図を裏切る結果を生む自縄自縛の状態に陥っているのではないか。そうしたドイツの傾向を一言で表すキーワードとして着想を得たのが、この「夢見る人」の概念だったのである。

夢見るドイツとそのリスク

ではこのドイツの「夢見る」性格のどこが日本にとっての「リスク」になるのか。私の考えではそれは二つの方向から来る。

一つは日本で根強いドイツを理想化する傾向から来る危険である。

日本人が外国を理想化する傾向は、ドイツばかりが対象ではない。この問題に踏み込むと日本文化論になってしまうが、外の世界に倫理や行動の基準を求めて止まない日本人の性向は、一神教世界のように絶対的かつ明示的な倫理基準を内包しない日本文化の、宿命とも言えるものなのだろう。

理想視する対象は時代により、近代欧州の社会制度や科学技術、米国の物質的豊かさ、ソ連、中国の共産主義、などと変遷してきたわけだが、その多くが色褪せる中でドイツに関しては、今なお、脱原発、再生可能エネルギー導入、欧州地域統合(国民国家の超克)、歴史認識問題(周辺国との和解、過去の克服)などで、無条件に理想視される傾向が強いのではないか。

しかし、そこでは多くの場合、日本とドイツがおかれた条件の違いを綿密、冷静に分析していくだけの知性が欠けている。脱原発では、ドイツの電力網は欧州全域の電力網とつながっており、電気が不足しても周辺国から輸入できる条件にあることや、ドイツでは石炭(褐炭)が自給可能であることなどの条件の違いがある。歴史認識問題でも、少なくとも近代日本とドイツが置かれた歴史的、地政的条件の異同に十分意を払うことが、意味ある比較の前提条件となる。

リスクのもう一つは、より直接的なものである。2014年のウクライナ危機では、プーチン大統領のクリミア併合に共感を覚えるドイツの有力政治家がいたことを捉えて、「ロシアロマン主義」という言葉がドイツメディアに登場した。ドイツはどこか、西方世界の合理主義や啓蒙主義に背を向けて、ロシア、中国と言った東方世界を「夢見る」性向があるらしい。日本にとって懸念されるのは、こうした東方世界への夢が、ロシアを超えて同じ大陸国家中国との関係緊密化に結びつくことである。

とりわけ、歴史認識問題において近年、ドイツメディアは安倍政権の「歴史修正主義」への批判と裏腹に、中国の主張と重なるように「先の戦争に関し謝罪も補償もしていない日本」という見方を何のためらいもなく打ち出すようになっている。こうした報道がさらにドイツのアカデミズム、政府の認識に影響を与え、尖閣問題などが先鋭化した場合、中国側を利するような立場に傾かないだろうか。

難民流入問題

さて、ユーロ危機が一段落した頃合いを見計らったかのように、また、拙著の出版とほぼ時を同じくして、バルカン半島を経由した難民流入問題が欧州を揺るがす大問題となっている。この現状は、拙著で言うドイツの「『夢見る政治』が引き起こす混乱」を如実に物語っていると言えないだろうか。

9月5日、メルケル首相はハンガリーで足止めを食らっていた難民を鉄道でドイツに移送、入国させることを決め、5、6日にはオーストリア経由で2万人の難民がミュンヘン駅に到着した。駅舎は「ドイツにようこそ」といったプラカードを掲げ、食料や衣類を配るドイツ人ボランティアで埋まった。

さらにメルケルはドイツ紙ラインラント・ポスト(9月11日付け電子版)のインタビューで、「難民の基本的権利には上限がない。そのことは内戦の苦しみから我々の所に来た難民にも当てはまる」と言明し、視察先の難民収容所では難民たちの求めに応じ、快く一緒に写真に納まった。確かにその時ドイツは、自分の「善行」へのユーフォリア(強い高揚感)に満ち満ちていた。

善意にあふれるドイツ人の映像や、メルケルの発言をドイツテレビで見て、私は「これでは難民流入に歯止めがかからなくなってしまう。『夢見るドイツ人』の悪いクセが出た」と直感的に思ったが、実際、6割が現状ないしそれ以上の難民受け入れに賛成、という世論調査とは裏腹に、ドイツ国内でもメルケルの受け入れ決定直後に、有力政治家から強い懸念が表明された。

とりわけ、政権与党キリスト教社会同盟(CSU)党首でバイエルン州首相のゼーホーファーは、「難民受け入れ決定は間違い。今後、我々はこの間違いに長く取り組まねばならなくなる。ドイツはもはや制御不可能な苦境に陥るだろう。一度はずした栓をもう一度瓶に戻すわけにはいかない」と強く批判した。難民受け入れという、広い意味で「政治的な正しさ」に関わるような問題で、こうした強い異論が出ることはドイツでは異例のことである。

道徳的帝国主義

また、東欧諸国の指導者たちの反応も厳しかった。オルバン・ハンガリー首相は、9月3日、ブリュッセルの欧州連合(EU)本部で「難民問題は(受け入れに寛容な姿勢を見せる)ドイツの問題」と発言し、23日には、難民受け入れ数を各国に割り当てるドイツの案に対して、「ドイツが決定することは、自国にのみ適用すべきだ。他国にその意思を強制してはならない。ドイツは道徳的帝国主義だ」と語った。

ポーランドのロストフスキ元副首相も英フィナンシャルタイムズへの寄稿で「西欧の独善性」と述べて、ドイツの姿勢が難民の流入に拍車を掛けている、と批判した。ポーランド国内では保守派から、ドイツの姿勢は「多文化主義を強制する新たな無理強い」という見方が出ている、と独フランクフルター・アルゲマイネ紙も書いている。同紙は英国でも、保守的な評論家やジャーナリストなどから、ドイツの「美徳をひけらかす」ような姿勢に批判が高まっている、と伝える。

拙著で歴史認識問題において、「過去の克服と近隣諸国との和解を達成した」と誇るドイツの日本に対する「上から目線」の姿勢を指摘したが、難民受け入れでも同じような、「人道上我々は正しいことをしている。なぜ我々に倣わない」というがごとき姿勢に、欧州の中にも強い不快感が生まれていることを物語っている。

難民が多量にドイツに流入し始めてから1か月が経過し、ドイツでも自己陶酔の時期は過ぎ去り、メルケルの対応に批判的な雰囲気が広がっている。特筆すべきは、社会民主党(SPD)だけでなく、自党のキリスト教民主同盟(CDU)の政治家からも「難民受け入れ施設担当者の仕事は限界に達している」などとして、「無制限に難民受け入れはできない」と、メルケル自身がはっきりと内外に向かって言明すべき、との声が高まっていることだろう。

しかし、メルケル自身は、難民認定手続きの迅速化やEU境界の管理強化などを進めることは訴えるものの、「難民の基本的権利を変えることはできない」という立場を譲らない。メルケルの最近の発言で頻繁に引用されるのが、8月31日の記者会見で述べた「(難民受け入れを)我々はやり遂げる」という、オバマ米大統領の「Yes, we can」を想起させるフレーズで、メルケルはドイツ国民の寛容や人道の精神に依拠して、難民問題を打開できると考えているようだ。シュピーゲル誌によると、「メルケルはドイツを欧州の道徳的な主導国家にしようと試みている」という。

しかし、同誌の世論調査によると、メルケルは長く保ってきたドイツの政治家の人気ナンバーワンの座から第4位に転落した。今後、難民流入に歯止めがかかず、社会問題の深刻化が予想される中で、「(難民の大量流入は)メルケルの終わりの始まり」(シュピーゲル誌)になる可能性すらある。

さらに、もう一件、ドイツの屋台骨を揺るがす大事件が起きた。9月18日のフォルクスヴァーゲン(VW)の排ガス不正発覚である。これは、今のドイツの、経済のみならず国家存立を支えると言っても過言ではない「自動車」「技術」「環境」全てに関わる問題である。これらの分野で優位が失われることになれば、難民問題同様、深刻かつ長期的な影響をドイツ経済、社会、政治に与えるのではないか。

私は自動車産業や自動車技術の門外漢で、軽々な発言はできないが、ドイツの技術開発能力は実は日本にかなり後れを取っているのではないだろうか。一方で、ガソリン自動車を生んだのはドイツ、というプライドは高いから、この実力とプライドのギャップを遂に埋めることができず、不正に走ったのではないだろうか。

VW不正まで「夢見る人」の概念で説明するのはこじつけになろう。ただ、拙著のねらいの一つである「ドイツ見習え論」に警鐘を鳴らす、という視点から見れば、VW不正は日本で根強いドイツ信仰に対する偶像破壊の意味はあるかもしれない。

プロフィール

三好範英読売新聞編集委員

1959年東京都生まれ。東京大学教養学部相関社会科学分科卒。82年、読売新聞入社。90~93年、バンコク、プノンペン特派員。97~2001年、06~08年、09~13年、ベルリン特派員。現在、編集委員。著書に『特派員報告カンボジアPKO 地域紛争解決と国連』『戦後の「タブー」を清算するドイツ』(以上、亜紀書房)、『蘇る「国家」と「歴史」 ポスト冷戦20年の欧州』(芙蓉書房出版)。

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