2016.01.18

テロリストの息子

ザック・エブラヒム(佐久間裕美子 訳)

国際 #テロリスト#TED Books

ジハードを唱えるようになった父親が殺人を犯したとき、その息子はまだ7歳だった。1993年、投獄中の父はNY世界貿易センターの爆破に手を染める。家族を襲う、迫害と差別と分裂の危機。しかし、狂気と憎悪が連鎖するテロリズムの道を、彼は選ばなかった。共感と平和と非暴力の道を自ら選択した息子(ザック)が語る実話『テロリストの息子』(TEDブックス、朝日出版社)から、第一章と第二章を転載する。

第1章 1990年11月5日、ニュージャージー州クリフサイドパーク

母に揺り動かされて目が覚めた。「事故が起きた」。母が言った。

僕は7歳で、ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズのパジャマに身を包んだ小太りな子どもだった。日の出前に起こされることに慣れてはいたが、起こすのはいつも父で、ミナレット(イスラム教の礼拝所の塔)の柄が入った小さな絨毯の上で祈るためだった。母に起こされることはなかった。

夜の11時。父は家にいなかった。最近、父がジャージーシティのモスクで過ごす時間帯がどんどん遅くなっていた。それでも父は、僕にとってはババ(父の意)だった。おどけていて、愛情深くて、温かくて。その朝だって、靴紐の結び方をまた教えてくれていたのだ。事故に遭った? どんな事故に? 怪我をした? 死んだ? 答えが怖すぎて、疑問を声にすることができなかった。

母がめくり上げたシーツが、少しのあいだ、雲のように膨らみ、それを床に広げようと母が屈んだ。「私の目を見て、Z(ズィー)」。母が言う。彼女の顔は心配で凝り固まっていて、誰だかわからないほどだった。「なるべく急いで着替えて。そして持ち物をシーツの上に出して、きつく縛って。いい? お姉ちゃんが手伝ってくれるから」。母はドアのほうに進んだ。「ほら、Z、早く。レッツゴー」

「待って」。僕は、ヒーマン(アメリカンコミックの主人公)のブランケットから転がり出て初めて言葉を発することができた。「シーツには何を入れるの? どんなものを?」

僕はいい子どもだった。シャイで従順で。いつも母の指示に従おうとする。母は止まって僕を見た。「入るものはすべて」、と言う。「戻ってくるか、わからないから」

そして踵を返し、出ていってしまった。

荷造りが終わって、姉と弟と一緒にリビングに降りる。母はブルックリンに住む父の従兄弟に電話をかけていた。イブラヒム叔父さん、または「アミュ」と呼ばれる叔父さんと、何やら激しく話している。顔は紅潮し、左手は電話を握りしめ、右手はヒジャーブ(イスラム教徒の女性がかぶるヴェール)がゆるくなった耳のあたりを神経質にいじっている。テレビがついている。「速報。番組を中断してお伝えします」。僕らがテレビを見ているのに母が気づいて、急いで電源を切る。

母はその後しばらく、叔父さんと話す。僕らに背を向けて。電話を切るのと同時に、また電話が鳴り始める。真夜中には神経に触る音だ。うるさすぎるし、何かを知っているかのようだ。

母が電話に出る。今度は、ババと同じモスクに通う友人の一人で、マフムードというタクシーの運転手だ。髪の毛の色から「レッド」と呼ばれている。レッドは、父を探して必死なようだ。「ここにはいないわ」。母が言う。一瞬、相手の声に耳を傾けた。「オーケイ」と言って、電話を切る。

再び電話が鳴る。あのひどい音。

今度は誰なのかわからない。「本当に?」 母が言う。「私たちについて聞いてる? 警察が?」

少し経って、居間の床のブランケットの上で目を覚ます。どうやらこの混乱のなか、うとうとしていたようだ。運び出せるものはすべて、いや、それ以上の量の物がドアのそばに積み上げられて、今にも崩れ落ちそうだ。母は動きまわり、ハンドバッグの中身を確認し、さらに確認を重ねる。僕ら全員の出生証明書。誰かに求められたとしても、彼女が僕らの母親だということが証明できる。僕の父はエル・サイード・ノサイルといって、エジプトに生まれた。けれど母はピッツバーグ生まれだった。近所のモスクでシャハーダ(信仰告白)を唱えイスラム教徒になるまでは、そしてハディージャ・ノサイルと改名するまでは、カレン・ミルズという名前だった。

「イブラヒム叔父さんが来てくれる」。母が、起きて目をこする僕を見て言う。心配がにじみ出る声に、今はいらだちが混ざる。「来れたら、の話だけど」

どこに行くのかは聞かない。誰も僕には教えてくれない。待つだけだ。アミュがブルックリンからニュージャージーに運転して来るのにかかるはずの時間よりはるかに長いあいだ、待っている。待てば待つほど、母が動きまわる足並みが速くなって、胸の中にある何かが爆発するような気持ちになる。姉が片手で抱いてくれる。勇気を出そうとする。僕も弟の体に腕をまわす。

「ヤ・アッラー」。母が言う。「気が狂いそう」

わかるよ、と言うように僕はうなずく。

母が口にしないのはこういうことだ。過激派のラビ(ユダヤ教の指導者)で、ユダヤ防衛同盟(JDL)の創立者でもあるメイル・カハネが、ニューヨークのマリオットホテルの宴会場でスピーチを終えたあと、銃を持ったアラブ人の男に撃たれた。銃を持った男は現場から逃走し、途中で年配の男性の足を撃った。ホテルの前に待機していたタクシーに乗り込むも、再び車を乗り捨てて、銃を持ったまま逃走した。通りがかりの郵便局担当の警官と撃ち合いになって、男は倒れこんだ。ニュースキャスターたちは、ぞっとするような細部の一点に言及せざるをえないようだった。ラビのカハネも、暗殺者も、首を撃たれていた。2人とも、生き残らないと思われていた。

テレビはこの事件の経過を逐一伝えている。1時間前、姉、弟、そして僕が幼少期の思い出らしきものの最後の時間に睡眠を貪っているあいだに、母はテレビの音声にメイル・カハネの名前を聞いて、画面を見やった。最初に目に入ったのは、銃を持ったアラブ人の男の映像だった。母の心臓は止まりそうになった。それは僕の父の姿だった。

イブラヒム叔父さんがアパートの前に駐車する頃には、もう午前1時になっていた。それだけ時間がかかったのは、自分の妻と子どもたちが支度をするのを待っていたからだ。叔父さんは一家が同行することを主張した。敬虔なイスラム教徒として、妻以外の女性、つまり僕の母親と2人だけで車に乗る危険を犯すわけにはいかなかった。車の中にはすでに5人が乗っていた。そしてそこに僕ら4人がなんとか乗り込むわけだ。母の怒りがこみあげるのを、僕は感じとった。母だって、叔父さんと同じくらい敬虔だ。けれど自分の子どもたちだって一緒に車に乗るのだ。何のためにそんなに時間を無駄にしたのだ?

ほどなく僕らは、ぞっとするような蛍光灯の光の下、トンネルを走っていた。車は異常なまでに窮屈だ。みんなの手足が絡まって、巨大な固まりのようになっている。母が尿意を催している。イブラヒム叔父さんはどこかで止まりたいか、母に聞いた。母は頭を振って言った。「子どもたちをブルックリンに送り届け、それから病院に行きましょう。オーケイ? なるべく早く。さあ」

誰かが「病院」という言葉を使ったのはこのときが初めてだった。父は病院にいる。事故に遭ったから。怪我をしているという意味だ。でも同時に、死んではいないことも意味している。パズルのピースが頭の中でひとつになりつつあった。

イブラヒム叔父さんはプロスペクトパークのそばの巨大なレンガ建てのアパートに住んでいる。ブルックリンに到着して、9人がもつれ固まった状態のまま車から転がり出る。ロビーに入ったが、エレベーターが来るのに永遠とも思える時間がかかる。洗面所に行きたくて必死な母が、僕の手を取って階段に向かう。

母は一段飛ばしで階段を上がる。僕はついて行くのに必死だ。2階がぼんやり見え、3階が続いた。叔父さんのアパートは4階だ。入り口がある廊下に向かって角を曲がりながら、みんな息を切らしている。ついに到着したときには有頂天だ。エレベーターに勝ったのだ! そして玄関のドアの前に男が3人が立っているのが見える。2人はダークスーツを着て、バッジを高く掲げながらゆっくりこちらに歩いてくる。3人目は警察官で、ホルスターの銃を握っている。母が彼らのほうに足を進める。「洗面所に行かないと」。母が言う。「用を足したら話をします」

男たちは混乱したように見えたが、すぐに母を通した。けれど母が僕を一緒に洗面所に連れていこうとしたとき、ダークスーツの一人が、交通整理の警官のように手のひらを上げた。

「子どもは、我々と一緒に待機する」。彼は言う。

「息子です」。母が言う。「一緒に行くの」

「許可するわけにはいかない」。もう一人のダークスーツが言う。

母は困惑する。それも一瞬のことだ。「トイレで自傷行為に及ぶとでも思っているの? 自分の息子を傷つけるとでも?」

最初のダークスーツがぼんやりと母を見た。「子どもは我々と一緒だ」と彼が言う。笑顔を試みたがうまくいかない、そんな表情で僕を見る。「君は……」。手帳を見ながら言う。「アブドゥラジーズ?」

恐怖に慄きながら、うなずき始めると、止めることができない。

「Zです」

イブラヒムの家族がアパートのドアから入ってきて、気まずい沈黙が破られる。

イブラヒムの妻が、僕ら子ども全員を寝室のひとつに連れていき、寝るように命じる。子どもは6人。マクドナルドのプレイプレイス(遊び場)にありそうなカラフルな子ども用のベッドが壁に取り付けられている。母が居間で警察と話をしているあいだ、虫のように体をねじらせながら、ベッドの隅に体を横たえる。僕は壁の向こうに耳をすませようと努めた。聞こえるのは、低音のうなり声と、家具が床にこすれる音だけだ。

居間では、ダークスーツたちが嵐のようにたくさんの質問を母に浴びせている。母が後々覚えていたのは、特にこのうちのふたつの質問だった。「現住所はどこか?」そして「今夜、夫がラビ・カハネを撃つことを知っていたか?」

ひとつ目の質問への答えのほうが、ふたつ目の答えより複雑だ。

ババはニューヨーク市の職員で、マンハッタンの裁判所で冷暖房を修理する仕事をしている。市の職員は、市の五地区のどこかに居住することが義務づけられている。だから僕の家族は、叔父さんの家に住んでいるふりをしている。書類上の小さな噓のために、今夜、警察はここに現れたのだ。

母がこれを説明する。そして銃撃について、本当のことを言う。事件のことは何も知らなかった。事件について、一言も聞かなかった。何も。彼女は暴力の話を忌み嫌っている。モスクの人たちだって、彼女の前で扇動的な話をするべきでないことくらいは知っている。

母は、その後の一連の質問に答える。頭を高く掲げ、膝の上にのせた手は動かない。けれどそのあいだも、ひとつの考えがまるで偏頭痛のように頭の中で大きく鳴り響いている。父のところに行かなければ。父のそばに行かなければ。

ついに母が口走る。「テレビでサイードが死ぬと聞きました」

ダークスーツは、顔を見合わせたが答えない。

「彼のそばにいたい。ひとりで死んでほしくない」

 答えはない。

「彼のところに連れていってください。プリーズ。彼のところに連れていって。プリーズ」

母は何度も何度も繰り返す。ついにダークスーツはため息をついて、鉛筆をしまった。

病院の前はどこも警察でいっぱいだ。怒る者、恐怖に震える者、そして野次馬が、騒がしく集まっている。テレビ局のバンと衛星中継車がいる。ヘリコプターが頭上を飛んでいる。母とイブラヒムは、公然と敵意を露わにした制服の警官二人組に引き渡される。僕の家族はクズ同然だ。むしろクズ以下だ。暗殺者の家族。母は動揺してフラフラし、よりによってひどくお腹を空かせている。警官たちから発せられる怒りは彼女にとって、曇った窓ガラスの向こうに感じる程度でしかない。

母とイブラヒムは、病院の反対側の入り口を通って中に連れていかれる。エレベーターへと歩きながら、ワックスがかけられたばかりで、殺風景な照明に光る長い廊下に目をやる。セキュリティを通り抜けようと騒ぎ立てる群衆の姿が見える。記者たちが質問を叫ぶ。カメラのフラッシュが焚かれる。母は暗鬱な、弱い気持ちになる。頭が、腹が、すべてが抗おうとする。

「倒れてしまう」。母がイブラヒムに言う。「摑まってもいいかしら?」

イブラヒムがためらう。敬虔なイスラム教徒として、女性である母に触ることは許されていないのだ。ベルトに摑まるのをよしとする。

エレベーターホールで、警官の一人が粗野な態度で指を差す。「乗れ」。敵意がにじみ出る沈黙の中、2人は集中治療室のある階に上る。エレベーターのドアが開くと、母は治療室のまぶしい照明に足を踏み入れる。SWAT(特殊火器戦術部隊)の一員が弾かれたように立ち上がり、彼女の胸に向けてライフルを水平に構える。

母が息を飲む。イブラヒムが息を飲む。警官の一人が呆れた表情で、SWATの隊員に手を振る。隊員は銃を降ろす。

母は、父のベッドに駆け寄る。イブラヒムは、母にスペースを与えようとゆっくりとあとに続いた。

ババは意識不明で、腰まで服を脱がされた体は悲惨に腫れている。6台もの機械にワイヤーやチューブでつながれて、首には郵便局担当の警官に撃たれた箇所に、縫われた長い傷があった。まるで首に巨大なキャタピラーが付いているようだ。看護婦たちがベッドのそばで忙しく働いている。邪魔されたことに不満げだ。

母が、ババの肩に触ろうと手を伸ばす。体は硬くて、皮膚は冷たく、彼女はひるむ。「死んでしまったの?」震える声で彼女が聞く。「ヤ・アッラー。もう死んでしまった!」

「ノー、死んではいません」。看護婦の一人が、いらだちを隠そうともせずに言う。暗殺者の家族。「手は出さないで。触ってはいけません」

「夫なんです。なぜ触ってはいけないの?」

「規則ですから」

母は、あまりのつらさに理解することができない。けれどあとになって、看護婦たちが恐れていたのは、母がチューブやワイヤーを引き剥がして、父を死なせることだったのだと考えた。母は父のそばに手を置く。耳元にささやきかけようと屈み込む。大丈夫、そばにいる、愛してる、もし私が来るのを待って頑張っていたのなら、大丈夫、そばにいるから、愛してる、楽にしてもいい。──母は看護婦たちが見ていない隙に、頬にキスをする。

しばらく経って、集中治療室のそばの小さな会議室で、医師が母に、父が一命を取り留めたことを伝える。医師は、この夜、彼女が初めて出会った思いやりのある人物だった。彼のまっすぐで人間味ある同情に触れて、母は初めて涙を流す。彼は母が気を取り直すのを待って、あとを続ける。ババは体内の血液の大半を失って、輸血を施された。首のどこかにまだ銃弾があるけれど、頸動脈がほぼ切断された状態だったから、銃弾を探す危険を犯したくなかった。銃弾が体から出なかったことが、父の命を救ったのだ。

母が伝えられたことすべてを消化するあいだ、というか、少なくとも消化しようとするあいだ、医師は母のそばに座っている。そして警官たちが戻ってくる。彼らは母とイブラヒムをエレベーターに先導し、降下のボタンを押す。エレベーターが到着してドアが開くと、一人が指を差して再び言った。「乗れ」

外は明るくなり始めていた。いつもなら空が美しく見えたはずだ。けれどラビ・カハネの死がちょうど確認されたばかりだった。銃弾はラビの体のほうは通過して外に出て、父を殺しかけたのと同じ傷で彼は死んだのだった。駐車場はなおもパトカーと衛星中継車で埋め尽くされていて、すべてが醜く、母もイブラヒムも、朝の礼拝はできていなかった。母はふたつのことを考えて自分を慰める。ひとつは、父が何かに取り憑かれてこんな酷い行為に及んだのだとしても、彼が誰かを傷つけることは二度とないということ。もうひとつは、彼が生き残ったことは天からの贈り物だということ。

その両方について、母は間違っていた。

第2章 現在

殺意に満ちた憎悪を教え込まなければならない理由がある──教え込むだけじゃない、力づくで植えつけなければならない。こんなことは自然に起きる現象じゃない。噓っぱちだ。何度も、何度も、繰り返される噓。それも財力がなくて、世界を別の仕方で見るという選択肢を奪われた人々に与えられる噓。僕の父が信じた噓。父が、僕に引き継がせようと望んだ噓。

1990年11月5日に父が行なったことは、僕の家族をめちゃめちゃにした。おかげで僕らの家族は、殺害の脅迫とメディアからの嫌がらせ、遊牧民のような生活と恒常的な貧困にさらされることになった。何度も「新しい出発」を繰り返したけれど、その先にはたいていの場合、以前より悪い生活が待っていた。父がやったことは、まったく新しいタイプの不名誉で、僕らはその巻き添えだった。父は、知られているかぎり、アメリカ本土で初めて人の命を奪った最初のジハーディスト(イスラム教の聖戦主義者)だったのだ。父は、最終的にアルカイダを名乗ることになる海外のテロ組織の支援を受けて活動していた。

そして、父のテロリストとしてのキャリアはまだ終わっていなかった。

1993年の初頭、父はニューヨーク州のアッティカ刑務所の監房から、ジャージーシティのモスクの関係者とともに、世界貿易センターの一度目の爆破事件の計画を立てるのを手伝った。その中の一人に、フェズ(トルコ帽)とウェイファーラーのサングラスを身につけたオマル・アブドッラフマーンがいた。メディアは彼を「盲目のシャイフ」と呼んでいた。その年の2月26日、クウェート生まれのラムジー・ユーセフとヨルダン人のイヤード・イスマイールが計画を実行に移した。爆薬をいっぱいに積み込んだ黄色いライダーのバンに乗って、世界貿易センターの地下の駐車場に突っ込んだのだ。彼らが、そして父が抱いた恐ろしい期待は、タワーの片方がもう片方を倒して、この世のものとは思えないレベルの犠牲者を出すことだった。けれど結局、4階分のコンクリートに、30メートルほどの幅の穴を開ける爆発を起こし、1000人強の無実の負傷者、そして6人の死者(うち1人は妊娠7カ月の女性だった)を出すという結果でよしとせざるをえなかったわけだ。

父の行為について悲しくも自分が知っていたことから、子どもたちを守ろうとした母の努力と、知ることを必死に避けた子ども心のおかげで、僕が暗殺と爆破事件の恐怖を全面的に消化するのは、何年もあとになってからのことだった。また、父が家族にしたことに対して、自分がどれだけの怒りを抱えているのかを認めるのにも同じくらいの時間がかかった。その当時の自分には、とうてい飲み込めないことだったのだ。恐怖、怒り、自己嫌悪といった感情を腹の中に抱えていたけれど、消化する作業を始めることすらできなかった。93年の世界貿易センター爆破事件のあと、僕は10歳になった。感情レベルでは、すでにパワーを落としつつあるコンピュータのような状態だった。12歳になる頃には、学校でのいじめに遭いすぎて、自殺を考えた。シャロンという女性に出会って、自分という人間に、また自分のストーリーに価値があると思えるようになったのは、20代の中盤になってからだ。それは、憎むことを教え込まれた少年と、違う道を進むことを選んだ男性の物語だ。

僕はこれまでの人生を、何が父をテロリズムに惹きつけたのかを理解しようとすることに費やしてきた。そして、自分の体の中に父と同じ血が流れているという事実と格闘してきた。僕が自分のストーリーを語るのは、希望を与えるような、誰かのためになるようなことをしたいからだ。それは狂信の炎の中で育てられながらも、代わりに非暴力を受け入れた若者の姿を見せること。自分を崇高な人物として描くことはできないけれど、僕ら一人ひとりの人生にはテーマがあって、僕の場合はこれまでのところ、たとえば、こういったものだ。誰にだって選択する権利がある。憎むことを教え込まれても、寛容な生き方を選択することはできる。共感の道を選ぶことはできるのだ。

7歳のときに、自分の父親が、理解できない犯罪のために収監されたという事実は、僕の人生をほとんど台無しにした。けれどそれは同時に、僕の人生を可能にもした。父が刑務所にいながらにして、僕を憎悪で埋めることは不可能だったから。それ以上に、自分が悪魔として描いたタイプの人々と僕が知り合い、彼らもまた、僕が心にかけたり、僕のことを気にかけたりする人間になりうるという事実を発見することを阻止できなかった。偏見は経験に打ち勝つことはできない。僕の体が偏見を拒否したのだ。

家族としての試練を経験するあいだ、母のイスラム教に対する信条が揺らぐことはなかった。けれど彼女も、大半のイスラム教徒と同様に、決して狂信主義者ではなかった。18歳になって、ようやく世界の端っこを見始めたとき、僕は、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、ゲイ、ストレート、誰であろうと、もはや人が何者かということを基にその人を評価することはできないこと、そして、その話をした次の瞬間から、僕は人を人間性で判断すると、母に告げた。母は僕の言葉にうなずきながら耳を傾けた。母には、それまで僕が聞いた中でいちばん力強い言葉を発するだけの知恵があった。「人を憎むのはもううんざり」

母にはうんざりするだけの理由があったのだ。僕らの長い旅は、彼女にいちばんの負担をかけた。しばらくのあいだ彼女は、髪を隠すヒジャーブだけではなくて、目以外をすべて覆い隠すニカーブというヴェールを身につけていた。敬虔なイスラム教徒だったうえに、自分が誰だか他人に知られてしまうことを恐れていたのだ。

最近になって、僕は母に、1990年11月6日の朝、イブラヒム叔父さんとベルビュー病院を出たとき、その先に何が待ち受けているのか知っていたかどうかを尋ねた。母は躊躇せずに「ノー」と答えた。「普通に暮らす母親の生活から、メディアを避けながら政府やFBI、警察、弁護士、そしてイスラム教のアクティビストとやりとりする狂気の日々、プライバシーのない生活に変わってしまった。まるでひとつの線を越えたように。その線を越えたら、ある人生から別の人生に移行した。そのあとどれだけ大変になるか、想像もつかなかった」

父は今、イリノイ州マリオンの連邦刑務所に収監されている。扇動的陰謀、恐喝幇助の殺人、郵便局担当の警官の殺人未遂、殺人遂行における銃火器使用、殺人未遂における銃火器使用、銃火器所持ほかの罪状で、仮釈放の可能性のない終身刑プラス15年の判決を受けて。正直に言うと、僕の中にはまだ彼に対する感情が残っている。蜘蛛の巣ほどの薄さになっていたとしても、絶やすことのできない一縷の哀れみと罪悪感のようなものが。自分がかつてババと呼んだ男が、恐怖心と不名誉から家族がみな名前を変えて暮らしているのを知りながら、監房の中で生活している。そのことに思いを馳せるのは難しい。

父のことは、もう20年も訪ねていない。これは、その理由をめぐる物語だ。

【著者来日!】ザック・エブラヒム『テロリストの息子』 刊行記念トーク

日時

2016年1月29日(金)19:00開場/19:30開演/21:30終演予定
@スマートニュース イベントスペース
(東京都渋谷区神宮前6-25-16 神宮前第23ビル2F )

出演
ザック・エブラヒム(『テロリストの息子』著者)
津田大介(ジャーナリスト)
佐久間裕美子(『テロリストの息子』訳者。ライター)
篠田真貴子(東京糸井重里事務所CFO)

お申し込みはこちらから! 

http://peatix.com/event/142513

プロフィール

ザック・エブラヒム

1983年3月24日アメリカ・ペンシルべニア州ピッツバーグ生まれ。工業エンジニアのエジプト人を父に、学校教師のアメリカ人を母に持つ。7歳のとき、父親がユダヤ防衛同盟の創設者であるラビ・メイル・カハネを銃撃し殺害した。彼の父、エル・サイード・ノサイルは服役中に1993年の世界貿易センターの爆破を仲間とともに共同で計画する。エブラヒムはその後の少年時代を街から街へと移動して過ごし、彼の父を知る人々からは自分が何者かを隠して暮らした。彼は現在、テロリズムに反対する立場をとり、平和と非暴力のメッセージを拡散させることに自分の人生を捧げている。

この執筆者の記事

佐久間裕美子ライター

1973年生まれのライター。慶應義塾大学を卒業後、イェール大学大学院で修士号を取得。1998年からニューヨーク在住。 新聞社のニューヨーク支局、出版社、通信社勤務を経て2003年に独立。これまで、アル・ゴア元アメリカ副大統領から ウディ・アレン、ショーン・ペンまで、多数の有名人や知識人にインタビューした。 翻訳書に『日本はこうしてオリンピックを勝ち取った! 世界を動かすプレゼン力』(NHK出版)、著書に『ヒップな生活革命』(朝日出版社)。

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